浮草の海 柏屋勇

 


 いつものように、一人配給のパンを片手に隠れる場所を探した。
 見捨てられた古い教室の、崩れた壁の陰から仰ぎ見る空は目を灼くような眩い青色だった。強
い陽射しを遮る雲はなく、伸ばした手は濃い色の影をユウナの頬に落とした。
 地面に転がるコンクリ塊は下草に半ば隠れ、壁には旺盛に葉をしげらせた蔦が這っていた。
 建物とともに、その壁の昔受けた砲撃の傷跡も風化し隠されていくが、ユウナの耳には今もあ
の頃の砲撃の音が聞こえる。耳を澄ますと、それは遠くどこか懐かしい音楽のように響くのだっ
た。
 パンをちぎって口に入れる。固く乾燥したパンは舌にざらざらとあたるばかりで、しばらくは
何の味もしなかった。噛みしめると同時に左の眼から涙がこぼれ、頬に走るひきつれた傷跡を伝
って落ちた。その時とうに瘢痕化した古い傷を熱く感じる。稲妻に似た傷の形がはっきりと意識
される。涙の滴が、ワンピースの裾に薄汚い丸い染みをつくった。
 その染みはユウナをひどく苛立たせる。
 涙くらい無意味だと、ユウナが嫌っているものはないのに、一噛みごとにあふれる涙は止まら
ない。始終こうしてユウナは泣いている。パンを噛りながら、リンゴを齧りながら、塩辛いスー
プをすすりながら。
 ……傷が治る途中で、神経が混ざっちゃったんだね。涙を分泌する神経と、唾液を分泌する神
経と、信号が混乱して送られているみたいだ。治してあげたいけど……
 ドクターにも治すことは出来なかった。
 食事時になるとユウナの意志とは無関係に、左の眼からは涙があふれて止まろうとしない。親
のないユウナを育ててくれた優しいドクター、彼が死んだ時にもユウナは泣かなかったのに。
 ワンピースについた染みはだんだん大きくなっていく。拭っても拭っても左の頬は乾かず、滲
む汗と涙が混じりあった。
 暑い日だった。
 ユウナは水筒に入ったぬるい水を唇に運ぶ。
 鉄の味が舌に残った。
 そしてまた逃げ出したいと思う。ここから、自分から、全てから。

 ……鳥みたいだな。
 ユウナを見た少年はそう言った。その時ユウナが着ていたのは、白いワンピースだった。白と
いっても、古びて黄ばみ、洗っても落ちない汚れがあちこちについていた。
 ユウナは裾についたかき裂きと染みを隠すように後ろへ押しやって、痩せて骨張った自分の手
足も隠したいと思った。鳥みたい、と言われたことは以前にもあったが、それはいつも誉め言葉
ではなかった。
 ……飛べなくなって、羽を汚した鳥。
 少年の言葉には、何の侮りも揶揄も込められてはいなかった。ただ思ったことを口にしただけ、
といった風に呟く。
 ユウナは少年の名を思い出した。タキ。ただひとり外の世界で生まれた少年。
 そのために彼もいつも一人だったが、それを気にするそぶりも見せずに、海や空ばかり眺めて
暮らしていた。

 ユウナが一人でいる時に、タキはときどき現れては他のだれもしないような話をする。
 ……小さい頃手術をしたんだ。島に来る前だよ。僕の目には青い硝子が入っている。だから空
も海も良く見えるんだ。なんでも。いろんなものが良く見えるよ。
 本当に、彼の目は不思議な色をたたえていた。また髪の色も顔立ちも、すべてが島の人間とは
どこか違っていた。
 タキは、円筒形をした小さな容器を紐に下げて大切に持ち歩いている。プラスチックの容器は
透明な液体で満たされ、日にかざすと半ば透き通って琥珀色をした丸いものが二つ、クラゲのよ
うに浮いているのが見えた。
 ……これは僕の水晶体だ。硝子と取り替える前のレンズなんだ。だっていつか僕の本当の眼が
必要になるかもしれないだろう。それにこれを持っていれば、僕が僕だってことがママにもすぐ
分かるだろう。
 タキのプラスチック容器の中身は、海につながっている。
 まだ知らない世界があることをユウナに教えた。海の向こうの国、タキの故郷、そこには皺ひ
とつない白衣をはおり、信じがたい精巧さで作られた鉗子を手にした医者たちがいる。彼らは子
供の目の中のレンズを取り替え、絡み合った細かな神経もときほぐすだろう。

 一度こころに根を張った望みは、時とともに大きく成長する、止めようもなく。

 海をのぞむ丘の上には、丈の低い雑草が地面にしがみつくように生えている。まだ若い草の葉
先も、照り付ける太陽と潮風に痛めつけられ黄色く変わっていた。
 その葉をむしっては捨てながらタキがつぶやく。
「船を手にいれなくちゃ」
 ユウナはゆっくりと瞬きをして隣りに座ったタキの横顔を見つめた。
「船を持つのは、禁止されてるよ」
 そんなことは、タキだって当然知っているはずだった。
「浜の世捨て人が、船をつくる」
「……だって、あの人は狂ってる」
 そう言うユウナの声が、少しかすれた。海からの風に乾いた唇のひびわれをなめると、塩の味
がした。もし本当に、船が。本当に手に入ったとしたら?
「僕たちには、船が必要なんだ」
 あたしたちには。ユウナは、今度は肯いた。

 浜に流木と瓦礫を寄せ集めてつくった小屋は今にも崩れそうに見えたが、世捨て人はもう何年
もそこで、木切れを削ったり組み合わせたりする作業に熱中している。小屋は灰色の砂浜のうえ
に吹き溜まった塵芥のようで、嵐の夜に押し流されてもいつの間にかまた、その場所にはみすぼ
らしい小屋と世捨て人とがあらわれるのだった。
 世捨て人の日に焼け深い皺に埋もれた顔は、ひどく年老いて見え、砂色に色褪せたぼろ布に覆
われた体は痩せて骨が浮き出ていたが、その手足には意外なほどの力が有り海水をたっぷり含ん
だ重い流木をも造作なく動かした。
 世捨て人が何であれ言葉を発するのを聞いたものはいなかった。
 世捨て人は誰とも関わりを持とうとはせず、ただ自分の工作物にだけ関心をしめした。小屋に
こもって果てしなく完成しない何かを作っている。新たな木切れが小屋に運びこまれ、ばらばら
に解体された残骸が吐き出される、その繰り返しだった。
 彼がつくっているのは船だという者もいたが何の確証もなく、つまるところ人々は彼を害のな
い狂人とみなして放置しているのだった。
「あれは、船だ。僕は見たんだ」
 タキがそう言ったので、ユウナも信じた。そこに船があると、ユウナも信じたかった。
 
 月のある夜だった。
 薄く空を覆う雲の層が月の姿をかすませ、下界には海からの霧が漂いはじめていた。ユウナと
タキは、連れ立って砂浜に足跡をきざんだ。
 霧は次第に濃くなっていく。前をゆくタキの姿を見失いそうになる不安にかられ、ユウナが手
を伸ばしかけたとき、タキは立ち止まった。世捨て人の小屋がその前にあった。
 入り口から中を覗き込むと、天井や壁の隙間から、細いかすかな光の糸がさしている。やがて
目が慣れるてくると、水が溜まったような暗がりの底に黒い影が横たわっているのが見えた。
「あれだ」
 タキはささやいた。
 世捨て人は、戸口の陰にうずくまって眠っていた。二人は小屋に忍び入る。世捨て人の息遣い
が、ぞっとするほど間近に感じられる。
「船だよ……」
 タキは確かめるように船の舳先に両手で触れた。ユウナも船のへりに手をかける。
 二人で力を合わせて船を押すと、みしり、と木のきしむ嫌な音がして船は底を引きずりながら
少しだけ動いた。
 重い木の構造物は、少年と少女の手に容易くは動かされそうになかった。
 ユウナは船のきしむ音に世捨て人が目を覚ましはしないかとぎくりとして手を離したが、タキ
は諦めずに再び力を込める。
 船底の擦れる音がいっそう大きく響いた。
 世捨て人のうずくまっていた場所に目をやると、そこには何もない。
 ユウナは突然ものすごい力で締め付けてくる骨張った固い手指を足首に感じて悲鳴をあげた。
振りほどこうとしてかなわず、そのまま引き倒される。同時に狂人の抑制を欠いた叫び声が夜気
を切り裂いて響き渡った。
 不意にその叫び声が途絶えると、足首をとらえていた手がゆるむ。
 ユウナには何が起こったのか分からなかった。
 目をあげると、太い木切れを手にしたタキが、息を弾ませながら立っていた。少年は、ぐにゃ
りとなった世捨て人の体を小屋のすみへと押しやった。
「行こう」

 無我夢中で船を押していった。
 霧はさらに濃くあたりを押し包み、行く先がみえない。波のたえまなく寄せて引く音をたより
に進んだ。
 波の音が次第に近づき、やがて足元の砂にひんやりとした湿り気を感じた。ユウナは靴をぬい
で船の中に放りこむ。寄せてきた冷たい水が、足の指の間から砂をさらっていく。
 ひときわ大きな波が船と二人に塩辛いしぶきをあびせかける。
 船体が軽くなった。
 沖へと船を導きながら、全身ずぶぬれになって、いつかユウナは笑っていた。タキも声をあげ
て笑っている。
 船につかまるユウナの足は、もう砂から離れていた。
「さあ、乗って!」
 船の上からタキが手をさしのべる。

 だけど船が浮かんでいたのはほんの少しの間だけだった。
 船は壊れてしまった。

 2
 次の朝、浜に打ち上げられた船の残骸を、額に血をこびりつかせた世捨て人が運んでいった。
 世捨て人はユウナたちの姿を目にしてもいつものように無反応で、船の残骸がすべて片づけら
れてしまうと、すべてが夢のように思われた。ただずぶ濡れになった体の、あちこちに出来た打
ち身や切り傷の痛みだけが残った。

 それから何年も浜の風景はかわらずに過ぎた。
 タキの背はほとんど大人と同じくらいに伸びて、それでも相変わらず海と空ばかりを眺めてい
た。ユウナは年かさの娘たちのグループに入って仕事をしなければならなくなり、タキと会うこ
とも減った。
 ユウナの胸のうちにまだ希望はあったが、それは心にひりつくような痛みをもたらすような種
類のものとなっていた。
 ある日仕事を抜け出して行った丘の上でタキと会った。
 タキは海に面した斜面にうずくまっていた。
「ねえ」
 声をかけると、タキはゆっくりと顔をあげて振り向いた。その目はユウナを見ているはずなの
に、どこか違和感があった。
「……タキ?」
 はじめて会ったときユウナを惹きつけた目の光が今は見えない。視線が、うまくかみあわなか
った。
「よく、見えないんだ。移植した硝子が、曇ってしまった」
 タキは、手をのばしてユウナの顔をゆがませる傷をそっとなぞった。タキの両の目は、白い膜
がはったように濁っていた。
 あまりにも眩しい空と海とを見続けたせいかもしれなかった。強すぎる光と潮風が、タキの視
力を徐々に奪っていた。

 そして世捨て人が死んだ。
 熱い砂の上に倒れた死体は既に腐敗がはじまっており、いつ、どうして死んだのかも分からな
かった。
 人々は浜に穴を掘って砂の下に死体を埋め、死んだ男の残したなけなしの財産……持ち手の取
れた鍋や、ふちの欠けたコップ、ひどく使い減りした鑿やら鉋やらを持ち去っていった。
 ユウナは小屋を訪れたが、小屋の中には古い魚の骨がいくつか落ちているだけで、「船」らし
きものの姿はどこにも見えなかった。
 天井や壁に使われていた流木はあらかた抜き取られ、小屋はもはや小屋の風体を呈していなか
った。船も、誰かが燃料にしてしまったのだろうか。
 引き返そうとしたユウナの足に、地面からわずかに飛び出した木片が引っかかった。
 周りの砂を掘り崩すと、それはもっと大きな木材の一部だということが分かった。人の手が加
わったと明らかに分かるその形には、見覚えがあった。
 あの霧の夜にタキが握り締めた、船の舳先。

「あの時あたし達が船を持っていってしまったから、こんな風に隠したのかな」
「そうかもね」
 ユウナとタキは人目をしのんで夜の浜で落ちあい、一晩かかって世捨て人の船を掘り出した。 
 そっと波間に浮かべたそれは、ゆらゆらと漂いながらびくともしなかった。
「浮いてるかい」
 タキは、自分の手で触って分かっているはずなのに何度もユウナに確認した。
「浮いてる」
「前の時、あれはたぶん完成していなかったんだと思う」
「今度は大丈夫かな」
「きっと成功するよ」
 自分に言い聞かせるような言葉をかわしあった。耐え難いほど大きく膨らんだ望みに胸苦しさ
さえ覚える。久しぶりにタキの笑う顔を見て、ユウナは思う。
 この望みがかなわなかったら、あたし達どうなってしまうんだろう。

 あの頃は二人とも子供で、何も知らなかった。
 ユウナとタキは、船をプラントのある人気のない海岸の近くまで運び、薮に隠した。水と食糧
を、少しずつたくわえた。それから日除けにする布とか、雨を集める容器とか、その他必要と思
われるものは何でも。
 プラントに面した遠浅の海は、滑らかな丸い葉をもった浮き草で一面覆われている。
 プラントは海へ流れ込む排水口を持っていた。その排水口から、浮き草の海を分けるように色
の違う一本の道ができている。深い濃紺色に見える排水は、ゆるやかに拡散して浮き草の養分と
なるのだが、あまりに濃いままの排水が流れるその道には浮き草は育たないのだ。
 浮き草の覆う海には潮の流れもなく浮き草にからんで船もすすまない。だが排水の流れにたど
りつけば、ゆっくりと外海へ向かうことができるはずだった。

 これ以上は待てないという時間が過ぎ、準備はととのった。
 日が昇りプラントが動き出す頃、絡み付く浮き草を押しのけながら、ゆっくりと船は漕ぎ出そ
うとしていた。
 朝もやが急速に晴れていく。陽光に照り輝く浮き草の緑の中に、いつまでも消えない朝つゆが
きらめいている。
 ちがった。
 花が咲いているのだった。小さな、白玉のような花弁を持った花だった。
 独特の香気が放たれ、沖から吹いてくる海風とまじりあった。
 タキは、沖の方、日の昇る方向にじっと顔を向け、目を見開いていた。今ではタキに残された
視力は、ようやく強い光の方向を知ることができる程度のものだった。
「すごいよ。一面、花が咲いてる」
ユウナがつぶやいた言葉はひとりごとになった。
 これほど沢山生えている浮き草の名を、ユウナは知らない。島の誰に聞いてもきっと知らない
だろう。ここはもう島の民の住む世界ではないのだ。
 タキは胸元から水晶体の容器をとりだし、祈るように握った。
 あまり大事に長いあいだ持ち続けたプラスチックは、すっかり傷だらけになって薄汚れていた。
 なぜ、この時でなければならなかったのか。
 長い間にゆるみ、弱くなったプラスチックの蓋がはずれてタキの手の中から飛び出す。同時に、
容器の中身も。
 生温かい透明な液体と、二つのレンズが空中に飛び散った。空に舞う飛沫は、浮き草の花のよ
うにきらめいた。
 とっさに手を伸ばしたのはユウナだった。 
 指先に触れてとらえようとしたものが、もろく崩れたような気がした。不確かな感触は、揺れ
た船の動きで生まれた波に呑み込まれて消えてしまった。
「僕の水晶体が……」
 タキは空の容器を片手にあたりをやみくもに捜したが、見つかるはずもなかった。
「波にまぎれて、みえなくなっちゃったよ……花のなかに、海に消えてしまった」
 ユウナの言葉にも、やみくもに振り回す手を止めようとしない。
「タキ、もうだめだよ。見つからない」
「ああ、だって僕の水晶体が。さがさなくちゃ」
 止める間もなく、タキは船べりを乗り越えて海に飛び込んだ。
もがくように浮き草の花を散らし、飛沫を跳ね上げてむなしく捜し続けるタキは、しだいに船
から離れて行った。
 手を伸ばしても、届かない。
 水面に浮き沈みするタキの頭が、ひとうねりの波に呑み込まれた。一瞬のできごとだった。
 ユウナは呆然と平らかになった水面に掻き乱された浮き草を見つめながら、水晶体と一緒にタ
キは沈んで、もう二度とあらわれないのではないかと思った。
 が、ふたたびタキは姿をあらわした。
 さらに船からはなれた、陸近い浅瀬だった。うつむき膝をおり、手は顔を覆っている。
「きて」
 船の上からユウナが呼びかける声にも、背を見せたままこたえない。
「あれがないとどこへも行けないんだ……僕は…僕の水晶体……」
 そのままタキがよろよろと向かったのは、陸の方向だった。
 ユウナは、遠ざかる後ろ姿を追いかけなかった。

 ユウナは一人で船に乗り、一人で船を漕いだ。
 いま、船の後ろにも細い道が出来ていた。船はゆるやかな弧の軌跡を描きながら、排水の道へ
合流しようとしていた。
 長い間ずっと、ユウナはこの時を想像していた。島を後にし、沖風を受けながら、外の世界へ
旅立つ時を。
 この先のことは、考えもつかなかった。
 波の飛沫がユウナの顔を濡らし、涙のように水滴が集まって流れたあとが熱い。
 顔の傷も、涙も今はどうでも良くなっていた。
 世捨て人は、船をつくりながら海へ出ることを望みはしなかったのだろうか。タキの生まれた
世界へ、辿り着けるだろうか。
 空と海の溶け合う先は、眩しい光のなかにあった。

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