2000/06/30 冬の狩り場、不意の鳥
静かな、行き場のない、表現のすべのないいきどおりが、不意の鳥のように漂っているのを見いだすときがあります。それは、エゴの硬い怒りとは違うものなので、気がつかないことが多いのですが、急に自分がひどく憂鬱だと思いこんでいるまさにそのときに、姿を現すのです。それはいつも第一に、それだけのことしかできない自分に向けられたもののようなのですが、(わたしは時折、自分に過大な期待を負わせてしかもそれが過大だと気がつかずにのほほんとしていることがあるのです)なんだか、降る花のように、そのいきどおりはわたしに、沈痛なムードで何かを作ることを強いるのです。攻撃へとどうしても向かせることができない、この奇妙ないきどおりは、どこか成分として、慰めがたい失望の残響が含まれているように思えます。そんなときに書いたものは、不思議に、わたしのいつもの勇み足が欠けるのです。
表現というような、ただ表現していればいいのに、表現とは何かということにこだわるのは、それをいうことが心地いいからで、けっしてほめられた話ではない、という側面は間違いなくあるのです。そうした考察が、同時に、自分についてばかり語るということと共犯しているとすれば、その自己分析がたとえ自分語りを批判したところで、なれ合いにしかならないでしょう。ならば、というとき、絶句するわたしがいるのも事実ですが、はたして、語るべきことを持たないものは沈黙すべきでしょうか。
おそらくそれでもわたしが願っているのはわたしの正体以上のものが、なぜかわたしの手によって書かれることですが、この祈願には見るからに確かに難点がたくさんあります。しかしこれについてはわたしの判断すべきことではないでしょう。まだ、迷い続けているから、文芸学みたいなものにこだわっているのだということが、それは、あるのでした。根拠というのは要らない、ということは、まだわたしには頭でしか分かっていないのですが、いさぎよさを混乱しながら祈願する、というのは、書く一つの動機にはならないでしょうか。
けれど、ひとつだけ、わたしは客観的にみてそう評価できるヤツではないが、信じてほしいことがあるのです。それは、わたしは、あなたに贈るべきそれのことを確かに、まるで分かってはいないが、たしかに知ってはいるし、絶対にどこかで、それに近づきたいということを忘れてただ書いたことはないということです。わたしの、そのフィクションの善意だけは信じてほしいのです。
もちろん、こんなことをいうのはずるいことです。どうせ河原乞食の末裔ならば、理解など求めるな。秘してこその花ではありませんか。ああ、たしかにわたしは文学好きにとって、書き手の連帯表明のようにして、書くことを神聖化するこうしたものいいが受け入れられるであろうことをどこかでいやらしく計算に入れているに違いありません。ですが……ずるかろうが、それもいっそひとつのひとさしの舞でしょう。いつまでもそれでは続かないと、わたしが自ら知っていればいいことです。
どうせこれだってあとで悔やむに決まっています。わたしはある程度以上のテンションで書いたものはかならず悔やむのですから。けれど、まっとうであるべきなのは、いま、書かせようとするものとわたしとの、このいまの瞬間なのです。ひろくて、ものがひそみ、そして、危うく、白けている、そういう場があるのです。いったい、わたしはなにを言いたいのか、だがいま、読んでいるあなたに、わたしは感謝を表明できているのでしょうか? ともかく、うそではないことをひとつでも、わたしは、この静かな降る雪のようなねがいは届いているのでしょうか。ここにたしかにひとつの言葉を介して関わりがあるということを、わたしはいまこのときも持て余しています。