2000/07/06 夢の記載、遠い困惑
【その後考えた結果、やはりここの記述はラカン本人に向けるのは不当だと思います。たいして読んで語っているわけではなし。ただ、構造主義批判としては一定の意味があると思うので残します。そういうふうに読み替えて下さい】 精神分析学者ラカンを読んでいて腹が立ってくるのは、かれの思想が出口がなく、そして根本的に保守的だからだ。構造主義者のつねとして、かれは共時態と通時態の対で時間を把握できると考えているが、これは事実に反している。時間は空間の比喩で捉えることなど絶対にできないし、共時的体系は一挙に与えられるというのではなく、実際には、システムは、具体的な相互作用によって、具体的な時間の中で、つねに均衡に達することはできない安定した不均衡な系としてあるからだ。時差を抹消することの不当はつとにデリダの論証していることだった。それは貨幣と市場を考察すれば分かる。そのうえ、ラカンの思考に常につきまとうのは、自然と文化、形式と素材の二分法とそのヴァリエーションである。象徴体系を疎外として捉えることも、外部をその内実を問わず、あたかも一様なのっぺりとした連続体であるかのように描き出すのも同じ観点に原因がある。この点では丸山圭三郎のソシュール紹介にも同様の限界があった。ところてんを分節的差異がきりわけるという世界観は根元的に間違っている。なぜなら分節とは差異を与えることではなくて、無限に繊細で複雑で複数的で多様な「襞」としてある世界を、一様な平面の網の目になるように、「ならす」ことだからだ。(そのうえ、主体もまた世界と、自我=主体の成立以前にも相互作用していると言うこと、つまり身体というものがつねにすでにあるということが忘れられて、和解できない二つの次元があるかのようにいわれる)不可知な「もの自体」としての現実界と、その疎外として不可避な象徴界の称揚というなりゆきは抑圧以外のなにものでもない。
ラカンは言葉の導入によって、それをそれとして語ることはできず、つねにそれをあれとの関わりでしか語れない、つまり、赤という言葉はすでにあの赤をそれとして経験することを犠牲にしてはじめて可能だ、ということを疎外として語るが、これはロマンチックな思想だ。言葉以前であろうと、存在そのものが、根元的に、他との関わりによってはじめて存在しているのだから、或る意味で無限のレファランスにすでにとらわれており、それはむしろ豊穣で生産的なことであって、疎外などではないのである。本当の意味で疎外的なのは、その関わりの系列を、生成的、対話的なものではなく、形式的で体系的、規定的なものとして捉えるラカン的理解なのである。
ラカンは関係によって形成されるということをスタティックで独我論的な閉鎖系として形式的にしかとらえていない。しかし記号も言語も、他者、他の体系との「間に」存在するものであって、体系にあいた「穴」が現実なのではない。対話、語用論的視点が欠けているのだ。治療的観点からも、ラカンは治療とは患者の無意識の真の言葉を表現させることで、象徴体系に組み込ませ、それに位置と意味を与えることが治療であるという。しかし、言明させること、意識化させることが治療になるというのは、無意識的内容に意味を与えたり位置づけたりできるようになるからではない。そうではなくて、言葉の無秩序な系列の中に投げ込むことで、(表現を与えるとは、何よりも記号内容ではなく、記号表現を与えると言うことなのだ)事柄の意味が不安定化し、多様化し、変形し、そして記号表現が記号内容に照り返し、またその逆も起こることで、固定化して硬直することで不毛な反復におちいっていた記号を解き放つからである。それは関係に開くと言うことだ。
父の権威は、かならずしも必要ではない。あるいは、象徴秩序とは、父の専有物ではない。オイディプス的葛藤は、必ずしも父権的物語として展開される必要があるわけではない。クラインがいうように、もっとも重要なことが起きるのは、母親との二者関係でなのである。このとき、母親は女性であるという必要すらない。根元的な、具体的他者との体系を媒介にしない遭遇が問題なのであり、そこでは鏡像段階がいうような、閉ざされたナルシスティックな相互反照の関係が成立しているとは、実はいえない。父親はつねに事後的に、すでにおこなわれたドラマを簒奪にやってくるにすぎないのだ。子供は母親との一体感を父親に奪われることで「現実」にめざめるのだろうか。いや、そうではなく、母親がかならずしも自分と常に一体感をもった存在としてあるわけではない、ということに気がつくときに、ことがはじまるのだ。