2000/07/08 何を書くというでもなく/七夕も遠く過ぎて
ええっとね、軌道上には雨など降らないんだから、彼らは逢瀬を全うしたんだよ!
Yes,Virginia,There is Santa Clause. と、或る有名な社説は書き始められているのですが、子供にとってサンタ・クロースの意味とは何だったのだろう、と考えてしまう。子供のころの子供にしかわからないファンタジーなんて月並みな言い方はしたくない。問題は、真剣に受け取る、ということなのだから。多分、こういうことだ。もちろん、これはぼくの断定だし、はなから普遍を狙ってなどいやしない。(誤解を招くかも知れませんが、わたしにとって、わたしの考えが事実であるかどうか、というのは、もっとも重要なことでは必ずしもないのです。それだからわたしは、つねに、私を信じるな、というサインを編みこもうとつとめるでしょう)贈り物をもたらす彼は、この世界が結局のところかれらに善意を持っているというはかない証拠なのだ。贈り物の意義とはそれがもたらす快楽だけではなくて、この世界には利益を動機にしない存在があるという決してなくすことができないファンタジーの源泉なのだと思う。
サンタ・クロースは遠くにいる。父や母は、いい子にしていないと、というかもしれないが、彼はきっと、こっそり両親に隠れてかれらに贈り物を贈るだろう。その密約は貴重で神聖な最初の約束として、かれらの心に刻まれるだろう。「いいかい、わたしはきみに贈り物をあげるよ、それはきみがいい子にしていたごほうびなのさ」(そうかれはかれらが自分がいい子にしていなかったときでもいうだろう、そのとき、はじめてかれらはいい子にするという言葉の意味を真剣に考えはじめるだろう。かれらはサンタ・クロースに悪いことをした、と思いはじめる。だがこの罪悪感は、かならずしも被害妄想的な過度の自責の念へと赴くわけではないだろう、かれはただ贈ることがその本性だからこそ贈るのであり、わたしたちは、かれを傷つけたのではなく、ただ、かってに罪悪感を感じているのだから。そこにはある種の矜持の始まりさえある。傷つけることのできない相手への贖いの願いは奇妙なものだ。それは翼をもちたい願いのようなものではないだろうか)サンタ・クロースは、恐らく理由のわからない敵意でかれらをさいなむ世界を許すことを可能にする。贈り物は、サンタ・クロースの、そして世界の善意の豊穣さと無尽蔵さをあらわすからだ。かれは笑う。じつをいえば、なによりも重要なのは、かれが笑うということではないだろうか。
織姫と彦星もまた、恐らくは笑っている。まるでラジオ番組に寄せられたはがきのような、短冊を読みながら、かれらは気まぐれな愛の中で、たまさかの偶然のように願いをかなえ、また、からかう。かれらの愛はどたばたであるとともに、ただ瞬間しか真実でないために神聖ですらあるかもしれない。重要なのは、かれらの愛の中の戸惑いと驚きなのだ。不安定なかかわりと、過剰な願いの真実さは、孤独そのものであるような星という形式によってなお貴重なものとされる。七夕はあまりにも通俗化されているので、そこにむきだしの情感を見出すことはむずかしいけれど、原理的にかなうはずもない地上の愛との対比においてこそ、かれらの逢瀬には意味があるのではないだろうか。そしてそれだからこそなおさら、かれらの一見能天気な相も変らぬ毎年のどたばたが、願いというものと現実的なかかわりをもつのだとおもう。
たとえば、八百屋お七の情念において、七夕のことを考えること。
あるいは、お岩のことを考えながら、彼らの反復を見つめること。
まとまらないけど、今日は、これまで。