2000/07/14 寛容と放置と どこか日本的な相対主義

 人の数だけものの見方があり、考え方がある。正義は相対的なもので、それに絶対的な価値観を押しつけるべきじゃない。

 という考え方には実は非常にどこか独裁的で、抑圧的な側面があるのです
 対立する見方、考え方が無数にある。それらを統一すべき権威も、絶対的な基準もなくなった、それにそんな絶対はうっとうしい、という感情と虚無が背景にあって、こうした放置する相対主義が生み出されます。たしかに正義も真実も相対的なものだが、しかしわたしはその都度、現実に生きていくなかでは、取り返しがたく、どれかひとつを、選ばざるを得ないのです。選択とは、持続する絶対であるドグマやアイデンティティに対比して、つまりは一瞬の、とりかえしがたい絶対ではないでしょうか。なにかを半分だけ選ぶことも、複数のものを同時に選ぶことも、それがどれだけ望まれようと、できはしないのです。できるのはただ、変容し、あとから訂正し、上塗りし、自らを裏切ったりすることであって、ともかくも遡ってやり直すことはできないのです。
 リベラルなように見えるこうした寛容の相対主義の言明がなぜ抑圧的だとわたしは言うのでしょうか? それはきわめて単純なことです。意見や考え、存在や立場の「差異」というのは、それら同志が相互に対立し、差異し、ずれあい、コミュニケートし、対話し、闘争し、ということによってはじめて、現実的に生きられ「存在し/生成する」からです。差異を尊重するかに見えながら、差異同志を、静的に妥協しあわせ、区画整理し、引き離し、放置することで、現実的な対立やコミュニケートをすることをこのリベラルな相対主義は、抑圧的に禁止しているのです。世界はしずまりかえり区画されピンでとめられた多様性の辞書であるべきではないのです。
 本来、多元主義や相対主義的なものが時流のなかで説得力をもったのは、絶対的な単一の権威が、多様な差異同志のそうした対立、生成、対話、コミュニケートを廃棄し、禁止し、ただ単一のものだけをおしつけたからでした。権威的な父親などいらないというわけです。しかし、家族や家族の枠のなかでの個性というものが存続しているのなら、リベラルな父親というのは同じように抑圧的です。それはあたかも、みずからは口を出さず放置しながら、家族の相互関係や牽制が結果として自己への反乱を抑圧するのを見越して、自分はゆるしているのに反乱できない咎は自分にあると家族のものたちに思いこませる巧妙な父親に似ているのです。そのとき、この父親は、権威的な父親と違って、愛されさえするでしょう。そのことにこそ、胡散臭さが見いだされるべきなのです。
 絶対というものを、そうした通俗的な、違うものはただ容認すればいいというような、観念的な相対主義によって否定するとき、その相対主義はひらめくような雷鳴の一瞬とともに、ひとつのイロニーのなかで、偽装した絶対主義へと変貌します。差異が、多様な立場が容認される。それはたしかに、絶対的なドグマによってそれが禁止され廃棄されるよりはすばらしいことには違いない。しかし、複数の矛盾する存在を容認する、というとき、実際に起きているのは、それら同志が直接相互作用し、対話し、ということではなくて、なにかうさんくさいそして多くの場合見えない「仲介者」が両者に抑圧的に妥協を迫り、ひとつうえの抽象レベルでの画一性を保存するといったことなのです。
 たしかに、わたしの考えが正しいという保証はない。他者の考えは尊重されなければならない。しかしこの尊重と言うとき、そこには理解したいという渇望も、その他者との現実の関係のなかでのわたしの現実の意志と欲望とモラルとを、その尊重とどう結びつけるか、ということも考えられていない。他者をあるがままに認め、尊重すると言うことは、それにひとつのレッテルを貼って、それから適切な場所に起き、あとはすきほうだいにやらせておく、ということでは絶対にない。敬意とは、関わり、耳を傾け、時には抗うということなのだから。
 相対主義と言うことが、ドグマや他者への無理解や抑圧を批判する姿勢として、決定的に重要であるとするならば、それは、他者との対立を廃棄するための思想としてではなくて、他者との対立、対話、闘争、コミュニケート、ずれ、乖離、葛藤の、ありかたのモラルとしてあるべきでしょう。しかしわたしには、世論的な意味でのヘゲモニーをにぎってしまった寛容と相対主義とは、にこやかにリベラルをよそおい、或る程度の自由をみとめながら、本質的な意味では違いを囲い込み、同化しようとする抑圧のように思えてならないのです。
 他者との矛盾も葛藤も対立も廃棄することなどできないし、廃棄したふりをするのは抑圧以外のなにものでもないのです。できることはただ、対等であろうとしながら、いかなる権威も背負うことなく、そして耳を澄まし、理解への渇望にとりつかれながら、他者へ、わたしの声を、ひとつの仮説的な、暫定的な、一時的な「絶対」としてぶつけ、そのリアクション、他者の声、いらだたしい矛盾する声、もうひとつの絶対を、真剣にうけとり、向かい合う二人のあいだに、妥協としてではなく、なにかそれまでなかったものとしての、両者のより傷つけあうことの少ない「関係」を模索する他はないのであり、そしてそれでもなお、原理的に差異はなくならないのだから、この対立がけっして相手の殺戮や同化におわることがないようにとつとめる、ということだけでしょう。それはつまりたとえば、意志的に言葉をさしむけながら、同時に、相手が自分に全面的に同意するような事態をなによりも嫌悪するということです。しかしそれは、はなから対話しなかったり妥協を予期したり、結論を用意していたり対話を意味もなくいきなり中断して誉めあったりといったこととは、まるで違うことなのです。同じものになるために関係はあるのではないのです。「饗宴」のディオティマのいうように、生むために関係はあるのです。
 おそらく決定的に重要なのは他者からのリアクションに於いて、まさにその差異からの反射によって、よりよく変貌しようとしつづけることなのです。つねに抑圧とは他者からのリアクションを排除し変貌を拒否するものの属性なのですから。「わたし」とは、つねに予期できない他者のリアクションとの、危機的であやふやで切実で、しかしどこか愛に似た関係において、そのただなかで絶えず別のものとして生まれるもののことだ。 ぼくにとって、相対主義という言葉はそのようなものであってほしいのです。
 関係を拒否したり、なんらの切実さもなかったり、遠い場所のことにたいしてなら、ひとはいくらでも抽象的に寛容になることができるのです。しかし、そうした寛容は、他者への無理解で独裁的な抑圧と、どれだけ隔たっているといえるのでしょうか。
 こうした俗流の相対主義は、容易に、自己が抑圧的な同化主義であるということに無意識的なまま、折衷主義へと移行しえます。しかし、本来的に異質なものたちにとって可能なのは足し算や引き算などではけっしてなく、ただ、恋しあうものたちのように、たがいに誤った期待と要求と、そしてたえざる敬意とずれのなかで、なにか「かつてなかったもの」をうみだすことだけなのです。そこに、妥協や折衷に似たものなど微塵もない、とわたしは思います。そこでのモラルはたとえば、自己の言葉を、仮説的な、暫定的な、しかしともかくもいまの自己の選び取られたベストとして、ひきうけられた絶対としてぶつけながら、しかも、自己の言葉にしりうまにのって賛成するような第三者を、真剣に嫌悪し、そうした第三者にはいかりをもって敵対することです。それこそが、矜持とかつてよばれたもののはずではないでしょうか。