2000/07/16 さて、そこで彼女は月への透き通った憎悪に憑かれ……

 彼女が信じていたことのなかでもっとも核にあった観念はなによりも、月を破壊しなければ彼女の悪はすべて空に反射によって映し出されてしまい、そのことによって世界のすべての植物が彼女に敵対してどんな食べ物も彼女から逃れ去る毒に変貌してしまうだろうと言うことだった。その奇妙に壮大なイメージを彼女は何度もくりかえし身の回りの彼女を愛しあるいはうとんじていた人々に告げ知らせ、ときには覚えさせさえしたので、真夜中に苛立ちとともに爆音が彼女の研究室からするたびに、人々はまたひとつの無限へのむなしい渇望が悲鳴を上げているなと察することができたのだった。

 ところがしばらくして町の駅にひとりのうらぶれたバイオリンをにぎりしめた音楽家が降り立ったのだった。

 問い。さあ、どうなるでしょう。ぼくはやっぱり、小説、好きなんですよね。こういうものを書くくらいには。

 彼女は何度も生まれ変わるうちに自分の魂がなにを忘れたのかを知りたいという渇望にとりつかれ、自分の過去の欺瞞や愛を知ろうとして彼女は何度目かにそれまでの生を思い出したときにもうひとりの過去を記憶するものを探す旅に出たのだった。ところが彼女が訪れる度にそれまで彼女がかつていきた土地の人々は彼女のことをいまわしい記憶として語り、彼女の記憶の中にあるいつくしみや親しみの痕跡は風に吹かれたように吹き飛ばされてなくなっていた。だんだんと当初の目的からそれて憂愁にとらわれはじめた彼女はいちばんはじめの記憶の土地、すでに埋もれた島の遺跡をおとずれたが、そこにはだれもいなかった。落胆して立ち去ろうとした彼女をしかしひきとめたのはそこに茂っていた森の木々への奇妙な共感だった。彼女はしばらくその森をながめていたが、それが何だったか思い出すことはできなかった。

 やがて彼女はそこを去り、さまざまな場所を遍歴し、前世の記憶を忘れてはいるが他者の記憶を読むことのできる男にめぐりあって、運命であるかのようなさけがたい愛にとらわれた。何年もの幸福と不幸にいろどられた生活の果てにあるとき、彼女が男にその森のことをたずねた。自ら思い出せぬことでも、記憶を読むすべを知るものならば読み解くことができるはずであった。男はこともなげに彼女を抱き寄せると、その森は彼女の墓の上に植えられたとねりこからできた森なのだと告げた。そのとたん彼女は忘れ果てたものは愛したもののすべてであり、また忘れ果てたことによって失われず、いまなお散らばった無数のかけらのようにいきづいているのもそれら痛切な記憶だったのだと知った。

 さて、いや、カルヴィーノ、まじでいいですよ。ぜひ読むように。命令。