2000/07/21 嘘リンク。個人的には文字についてとシャア専用とか好き。才能あるよなあ。
そういえば、今日、人が乗っていない電車が煌煌とあかりをつけて走っているのを見て、なぜか吐き気がした。こういう皮膚感覚めいたものは気持ち悪いのでどうにかしたい、というかなってほしい。それから丹生谷貴志というひとの「天皇と倒錯 現代文学と共同体」という本を読んでいて、やっぱり妙に絶対とか客観とかにこだわることのほうが普通ではないのかと思ってちょっとヤだった。
こういうこと。幸せだと感じているということをあなたは幸せだということだとみなすのか?
実はいまのとこ百パーセント、誰にもこの問いの意味が伝わらない。
もし見なす、とあなたはいうのなら、どうしてぼくらは夢よりも現つを選ぶのだろうか。
ということをぼくは考えているのです。ぼくは事態が主観によって定義されるのには耐えられない。どういうことかというと、もしも主観によって事態の意味がきまるなら、結局ひとびとは別の隔絶した世界(独我論的世界)に住んでいて、見解は統一されないし、伝達はないし、云々ということになるか、あるいは、主観と主観のあいだになにか不気味な「媒体」みたいなものがあって人々を融合させて、深層だか上層だか知らないが、共同性をつくることになってしまう。どちらにしても、ものすごく閉鎖的な「内側」に塗りこめられる触覚が明確にある。
そういうヴィジョンって、もうおそろしく気色悪いのですね。主観と主観が直接つながるということは比喩的な意味であれ、「テレパシー」です。これは妄想的だとおもう。つまり、主観が外界に影響を与えることがかんがえられているなら、その世界は例外なく、妄想的なのです。外界は独立していてほしい、そうでないと、現実的ではなくなってしまう。
現実的なものとは客観的なもの、あるいは唯物論的なもののはずだ。
そしてなにより、現実的なものとは間にあり、風を通し、対話を可能にする隔たりだとおもう。
ちょっとまえに書いた彼女のブルーとブルーの彼女という話も連続したことで、じつはこういう対句的表現は不当なのです。事柄はまるで対照的ではないのに、対照的なように見せてしまうから。文脈によってはこれは抽象的な区分のように見えますがまったくそうではないのです。なぜなら、生きられた現実として、わたしはブルーの彼女を彼女のブルーを憎むという形式で愛するのだから。ここには文面以外にはどこにも逆説的なところはありません。文章表現が、不要な逆説をここではつくりだしているのです。
つまりここでは彼女をわたしの主観のスクリーンに映る映像としてではなく、何か呼びかけられるその外側にあるものとしてみなす態度が意味されているのであって、それはたしかにぼくが奇妙に客観性にこだわることとひとつなのかもしれません。
幸せという言葉の意味が同じであると決め付けた上でしか、幸せな感じのことが幸せだとはいえないのです。幸せとはその個の個別の欠如とのかかわりで決まるものでしょう。たしかに、幸せを感じていないのに(知らずにというのは別問題ですが)幸せだというのは不条理です。しかし、幸せだと感じていながら幸せではないということはありえます。逆は真ではないというパターンです。問題なのは、幸せが、意志にかかわるか感受にかかわるかです。
ひとは幸福感を不快にあるいは悲しく感じることさえできるではありませんか。それはつまり、精神とは多様なもので統一されたり単一の情緒によって占められたりするものではないからです。
百点を取ることとクラスで一位になることの間に決定的などうしようもない違いを見てしまう、ということをぼくはほとんど価値的にかたりたい。トーナメント戦では一位以外は同じだといいたい。そういう衝動にかられて、非常に実際的であいまいな他者の寛容な笑みにいらだつことがあります。
ともかくぼくは言葉以外で言葉よりも伝達がうまくいったことは一度もないので、言葉への不信を語る人々にどうしても同調できないのです。ぼくにとってつねに、無数の伝達手段の中で、言葉が一番ましだったのだから。