2000/07/24 ピクニック・イン・サハラから繁殖ヴァイオリンにかけて

 山道を一人で枯葉を踏みしめながら木々の隙間を横目に歩いていると、たしかに何かがいるというよりもむしろ森という森の圧迫が闇の迫力とあいまってたしかに物凄さを孕んだ沈黙のように静寂が見えてくる。後ろを振り返るとまたまえに向き直ったときにそこに何かが出現しているのではないかという恐怖のあまりに、この数キロ四方の孤独を塗りこめられた夜のなかでなんとか救い出そうと歌でも歌いだすのだが、歌いだしたとたんその声に答える声を予想してなおも凍りつく。しかしそうである一方でこの闇と孤独を自分の本当の故郷のように思いながらなつかしくまた安堵して泳いでいる魂の部分が存在しているのも間違いはない。
 そのときにはいっそこの完全な闇の中で衣服を脱ぎ去り、すっかりこの一様な濃密さにどうかしてしまいたいというルナティックな心境に誘われてふと、お、いまねじが緩んでいるのだなとわかるのだが、いっかな闇は同様にはれようとしない。これがまさかあのかつて呼び習わされてきた「永遠」という概念の正体だったかと間抜けな発想に衝かれ、しかも足元だけはまるで幽霊のようにやむことはない。すこしも怖がることなく歩きつづけるこの自分の一部がだんだんと他者であるかのように映り、なによりも気になって仕方なくなってくるのはその瞬間ドッペルゲンガーの想起しているであろう出来事だ。山道はあらゆるものをその闇の中に母のように孕んでおり、そのうえそこにはおぞましい経血さえ欠いてはいない。足音は相乗してうしなわれた神祇をよびさまそうとするかのようでもあったが、しかし流れていく小川の音には怪異の予感とともにいっそあっさりとこの状況のなんでもなさの感触さえどういうわけか含まれている。
 孤独のなかに繰り返し忍び寄る性的な幻想はしかし奇妙に水場の幻想に酷似しており、着衣への幻想的な離脱の思いが宿るのだが、その幻想のさなかでは自分は追跡する変質者であるのか追跡される被害者であるのか区別は付きそうもない。目的地は一本道であるにもかかわらずますます遠くなり、霧もないのに、その城について自分がなにをもとめようというのかわかりはしない。決定的に錯乱したさざめきや予感を吸い込みながらしかしどういうわけかひどくはっきりとした決意というか確信が救っている。これはほとんど彼岸への道を提灯ひとつで歩いていっているのか、そうであれば三途の川はどこで通り過ぎたのか、あるいは姥捨てに今わたしはこの慈悲の地蔵とともにあゆみゆくさなかなのか、すべてははかりがたく混交しながらしかもわたしのどこかの部分はどんな迷いもなく迷宮に決然と踏み迷おうとしている。
 あたかもそれは暗い森の木々という木々が沈黙によってすべてを認可しているようでもあり、あるいは流れ去る闇の流動が幻想と彼岸とを城へのあゆみの不可能へと煮つめたかのようでもあって、導きの胡蝶もなくただしんとした雪の中のようにしんとした真っ黒の山道を歩いている。ただ追いかけるように枯葉を踏みしめる音が闇に反響してさざなみをたてているのだった。