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 この世には出来ないことは存在するが、始められないことは存在しないとおもう。思ったほど、ぼくらがいまできないと思っていることをしているひとと、ぼくらのあいだには違いはないのだとおもう。かれ、彼女は始めたが、ぼくらはまだ始めていない。できないと思っていることや、関わりがないと思っていること、想像もできないことはたくさんある。けれど、実際にやってみると、ともかく人間のやることなのだから、少なくともどうすればできるようになるかは分かるはずだ。想像できないこと、知らないことは不可能に見えるが、困難と不可能は違う。

 ぼくらがこれまでそれを知らなかった、遠いことだと考えていたのはそれの世界とただ単に別にいきてきた、接触がなかったからにすぎない。想像力とはだから生きるための能力なのだ。柔軟さとは生きる意味だ。ひとは無限に柔軟で、いまぼくらがこのようであるのは、このようにいきてきたからであるに過ぎない。そのときから振り返れば、なんという時代であっただろうとぼくらは思うだろう。わたしがあんなふうであったなど信じられないとなつかしく思い出すだろう。誰も自分がどのようであるかは知っているが、どのようでありうるかは知らない。最低の存在でもありうるし、もっとはるかに強靱でもありうるだろう。ひとは、すべての別の誰かのようになりうる。街にあふれるすべてのひと、海の外の、空の下のすべての街の人々は、わたしがなりうる無数の範例だ。

 変化と偶然を肯定して、死ぬまでの時をただひとりで生きていくのだと考えるなら、始めることは難しいことではない。この世には二種類の困難がある。相手やモノに依ってくる困難と、逡巡からくる困難だ。しかし逡巡の必要性などどこにもない。誰かがいった。考えているのと悩んでいるのとは違う、と。誰もが悩んでいる。だが悩んでいるとき、二つの選択肢の間でいったりきたりしているだけで、実質的なできることはなにもしていないのだ。考えるということはまず他者とのかかわりなのだ。なやんでいるときひとは考えてはいない。結論はいつもでている。選ぶというのはだから最後のぎりぎり、考えるべき事を考え抜いたあとには、無根拠な、ただ意志の問題なのだ。選ぶということは、どのような成功を欲するかだけでなく、どのような失敗を欲するかもふくめて、ひとつのいまだしられざる未来の全体をひきうけるということだ。

 だれでも、そう、ひとりのこらず、選ぶときは目をつぶって飛び込んでいるのだ。はじまりはいつでもゆっくりでなにひとつ変わらないようにみえるだろう。あるいは、あまりの変化の中で、しかも自分自身はなにひとつかわっていないと思うだろう。けれど、変化とは神的なドミノ倒しなのだから、いつでもヘルメス的な加速度がついていく。どこにいくか、だれが知っているだろう。ぼくらがあの世にいったとき、誇れるのはただ何かを始めたということだけだ。それがどんな結果をうみだそうと、ただそれをひきうけて生きるほかにはなにもない。

 出会うべき何者かがいったいこの世の何処に待っていて、そこになにがあるか誰も知らない。どうせせいいっぱいのことをしてもできないことはあるんだ。けれど、何ができないか知るためにはせいいっぱいのことをしなければいけないんだ。どうせ絶望するのなら、ほんとうのぎりぎりに絶望しなければ甲斐がない。ぼくらはいまだ世界のほんの1パーセントさえ探索しおえてはいない。