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 知性には自己矛盾的理性と分類整合的理性があると試しに分類してみる。理知的というひとが誇っているのはたいてい分類整合的理性である。つまり、分類し、命名し、体系付け、整合させ、一貫させる能力としての理性。普通はこれだけが理性であると考えられているが、しかしこういう種類の勉強できる学生的な「理知」はそれほど評価できるものではない。知性というのは自己矛盾的理性により多く依存するものだ。ではいわゆるところの自己矛盾的理性とは何か。

 自己矛盾的理性とは物事を多角的に見て、そのそれぞれの視点のあいだの矛盾をこそ、その対象のリアリティとして捉える能力である。いってみればそれは、自己の一貫性をみずから破壊することでよりリアルへと接近しようとする意志であり、柔軟性のちからだ。発見や創造は矛盾に直面することではじめておこなわれる。概念が現実を全面的に把握することはけっしてできない以上、たがいに矛盾するがしかし同等にただしい概念というのがつねに存在する。だから、知性とは、概念のレベルで自己矛盾することのできるちからなのだ。

 自己矛盾的理性は分類整合的理性からは感性的に見える。そこからは理性の不在しかみえない。しかし自己矛盾的理性はけっして感性ではないし、ましてや情緒的なものでも無秩序でもない。そこにはリアルへの「必要性」にうらうちされた唯物論的な意志があるからだ。ここで唯物論的というのは概念の外部へ向かう意志のことだ。そしてまたその意志は衝動として発生するのではなく、やはり或る種の合理性によって組織立てられている。

 ところで、ひとは矛盾の中でぎりぎりまで苦しむときどうするのだろうか。そのとき、もはや矛盾を解消すべき方策も概念も言葉も見いだせず、しかしそのままでいることは決してできないと言うとき、そのときひとはけっして理性的にふるまいはしないだろう。そのとき、じつに矛盾した行為をそのひとはすることがありうる。それは滑稽であるし、また行きすぎてもいる。それはいうところのマッド・ハイテンション、とでも呼ぼう。

 矛盾というのは抽象的な、受肉していない形態ではたんなる論理学でしかない。それは平然と並列されうるものだろう。しかし現実において存在する矛盾というのは、力と力を孕んだ長続きし得ない事実であって、複数の他者のあいだでおきる。はやいはなし、わたしが相反する衝動を抱いたり、相反する要求を受けたりするときにおきるのが、事実としての矛盾の例だ。現実の矛盾はなんとかして解決策をつくりだそうとする。つまり、矛盾というのは現実においてはつねに葛藤、争いである。

 MHにひとが陥るのはもちろん、このような葛藤におちいったときだ。MH以外にも葛藤の解決策はあるだろう。それはたとえば、さまざまな意味での死でもありうる。涅槃的状況にあって、葛藤そのものを相打ちにして、無にしてしまい、平安を手に入れる。あるいは、なかったことにする。どちらもできないときには、ひとは同時に双方を肯定するという無理をしようとする。しかし現実的には同時に矛盾するものを肯定することは出来ないので、無秩序に行き当たりばったりに一方から他方へとでたらめかつ高速にうつりゆくほかない。これが赤面逆上、MH、の実体だ。

 これはあたかもアイロニーであるかのように見える。MHのものいいは、矛盾しているので、この矛盾を、分類整合的な理性が、整合して読もうとすると、皮肉としてよむしかないからだ。しかし、このような読み方はじつは錯乱と苦痛を読み得ていないという意味で鈍感な読みだ。アイロニーはただ、見かけ上矛盾しているに過ぎず、実際には適切に読めば矛盾ではないのだから、MHの本質的な決定不可能性と「運動性」を見過ごしている。

 ここまで述べてきたことをなぜ今回主題にしたかというと、この逆切れ的な、MH、自己への裏切りであるような(その意味でややマゾヒズム的な)テンションのたかい文体がテキスト系に多く観られると思ったからだ。(ちなみに作家坂口安吾はMHをファルスと呼ぶ)ところが他方で、事実は存在しているのに、それを解釈するとき、アイロニーとして解釈されがちなのではないか、と思われた。もちろん、事実はそうではないかも知れない。ここで重要なのは、ここからさきだ。

 MH文体がアイロニーの批判とあざけりの文体と異なっていて、そして読むものに与える或る種の「詩」とは何かと言うことだ。結局、MHは書き手の誠実さからうまれるのだが、しかしその誠実さを越えている。自足したいわゆる誠実さというのは、自己批判してわたしは悪いと言って終わりだろうが、このとき、悪いと言われるわたしは断罪されているが、悪いという私は安全で、正しいままだ。つまり、本当の意味では自分を結局ただしいものであるかのように語ってしまって満足しているのだ。「私」を不当に言われる私と言う私に分裂させて、それで追及をかわすトリックなのだ。

 しかし、MHへといたる誠実さはふたつの私があくまでも同一で、ここには矛盾があるということから逃れることが出来ない。そこからひとつの必死さと矛盾をはらむことでうまれるリアリティがたちあらわれる。このリアリティは「私」の内面についてのものとは限らない。そのような内的真実だとか本当らしさではなくて、事柄そのものの本質も、この矛盾の「運動」のなかであらわになってくる。それがなぜはじめに理性についてのべたことにつながるのだが、自己矛盾的理性が把握するような世界のリアリティであり、美的にはそれを「詩」と呼ぶ。

 このとき、重要なのは、おそらく、矛盾がのぞかせる亀裂というだけでなく、むしろ、この「運動」の強度なのである。風の強さ、運動の激しさのなかにこそ、真実は、多義的な詩を孕むだろうと思われる。もちろん、MHだけがリアリティの接近の道ではない。しかし、すくなくともそれをただ感性的なむちゃくちゃであるとして軽視したり、表層的な「芸」としてのみ捉えるのではもったいないのではないだろうか。