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どうしてこうたいていの男というヤツは理屈だとか知識だとか有能さだとかをああも自慢にしていて、そしてしかもそれですこし物わかりのいいとこを見せようとしている男と来たら、そういういわゆる「男の長所」だとかいうやつが備わっている女性もいるだとか救いがたいかたちで上から「評価」したりする。最低で、そういうばかげたことをいうやつこそフェミニズムの問題なのに、まさにそういう男が、フェミニズムのいうような偏見や力関係などないと言い張る。アンタがいまやってるのがそうだって! どうやら彼らには見えないらしいのだ。
また世の中にはフェミニズムを目の敵にしている男というものがいて、すぐ感情的だ、行き過ぎだ、あるいは自分がもてないからだろうといって非難する。個々の項目に関して具体的に反論すべき事ではあるけれど、やはり、男性/女性、理性/感情という迷信的な二分法の呪縛の内部でそうしたたわごとが吐かれていることに注目すべきだ。だいたい理念的な反論をすべきところで俗流フロイトや俗流ニーチェのようなメタな反論を憶測に基づいて為すのは品性下劣である。
そうはいってもぼくがフェミニストだということは厳密にはいえない。ぼくのジェンダーは女性ではないからだ。ジェンダーは観念的な性差というだけでなくむしろよりつよく社会的政治的関係だ。わたしにはわたしの当事者性があり、他者の当事者性を奪って、代弁するなどという傲慢な仕草はけっきょく男性ジェンダー特有の愚劣へと帰結するにすぎない。わたしはだからこういうことがいえるにすぎない。わたしはアンチフェミニストやフェミニスト的問題の存在を否認するやからと敵対する。
だいたいぼくが性差についてまともなことがかろうじていえるのはこの程度の一般論で、おそらく具体論になれば、トンチンカンなことをいったりしたりするに決まっているのだ。この文章の文体でさえ、演説=講演的な、父権的な特徴をあますことなくしめしているだろう。自分がただしいと思いこんで大勢の人間に向かってしゃべるとヒトはたいてい鼻持ち成らないほどいばりくさった口調になる。ヒロイックであるか説教臭いかはヴァリエーションの問題でしかない。
だが、わたしが男性ジェンダーの傲慢を憎むのは疚しさであってはならない。疚しさは傲慢さと表裏一体の関係にある。わたしはわたしの、男性ジェンダーであることによって規定され尽くせない個としての当事者性から男性ジェンダーを批判すべきだ。そうでなければ、それは結局、疚しさを解消したいという慈善事業的なうさんくささを発酵するに至るはずだ。
見えないものこそがつねに問題なのであり、自然に見えるということこそ作為のあかしなのだ。うまく浸透したイデオロギーはもはやそれがひとつのものの見方に過ぎないことを隠蔽し、気づかせない。だからそれは別扱いにされ、魚にとっての水のように存在することすらだれも気づかなくなる。自分にとって自然であり当然であるように感じられるということは、それがひとつのものの見方に過ぎないということの反論にはまったくならない。性差に依る役割分担の観念がそうであるし、日本人という観念もそうだ。どちらも歴史の特定の時期以後に、特定の立場と利害からつくりだされた概念であって、自然であると見なされることによって規範として機能することで権力となってきた。(生物学的人種、民族性、国民意識、政治的国籍の間の差異をなし崩しにしつつ、それらが一致し国家の領域が一様な同一の国民によって占められるという「神話」を語るのだ。ナショナルな共同性などというのは多数派の傲慢のあかし以外の何者だというのか。日本国家は単一民族国家でもなければかつてそうであったこともない。まして歴史を越えた日本というアイデンティティが存在するなどというのはフィクションもいいとこだ)
男性ジェンダー批判というのが特殊な意味を持っているのは、ジェンダーのふたつの項、男性と女性が論理の構造的に非対称だからだ。ジェンダーはふたつの独立した項に依ってではなく、男性/非男性という論理によって特徴づけられている。ただし、もちろん適用されることによって、指示対象としての女性というのは独立項として存在しているので、ことは単純ではない。ともかく、そういう構造になっているので、単純に女性ジェンダーを賞賛したり非難したりする行為はどちらもこのジェンダー構造を強化することになってしまう。(たとえば母性信仰イデオロギーは明らかに男性ジェンダーの支配を補完するものとしてある)女性は女性ジェンダーが規定するようなものではないという言い方をすればいいかというと、かならずしもそうではない。女性というものが無前提に「ある」とした時点で罠にかかるからだ。当事者性が重要なのはこういう問題がかかわってくるからでもある。具体性抜きにいくら語ってもどうしようもない部分だからだ。
少なくともわたしは知をふりかざし教育的願望をおしつける人々に反感をおぼえるし、なんら根拠もない妥協案や折衷案をしめすことで事態を隠微に支配しようとする穏健さの身振りをかぎりなく卑怯だとおもう。なぜなら穏健さはいつもかれらが穏健だと考える解決策に従わねばならない理由も、また提案するものの当事者性も明らかにしないからだ。