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 ニーチェのいわゆる権力意志と訳されてきた議論ほどはなはだしい誤解にさらされてきたものはない。ニーチェのいう「力=への=意志」の議論は権力志向とは何の関わりもない。アドラー的な解釈とはまったくことなり、ニーチェは権力というものを原則的ににくんでいるといっていいだろう。従属と支配は表裏一体である。隷属なしに支配はないし、支配なしに隷属はない。ニーチェは徹底的に隷属を否定する思想を告げたのであり、隷属を否定するということは権力的支配をも否定するということである。ニーチェは、隷属する側に立つことを否定したのではなく、隷属の存在にたいして抗議しているのである。

 しかしニーチェは力への意志といい、強者の徳というではないか、という。ニーチェ的な意味では「力」と「権力」は区別される。この区別はきわめて重要であるにもかかわらず、まったく理解されていないし、この差異への知覚をもたないひとも多々存在する。ニーチェが肯定する「力」とは自己肯定であり、自己の拡充(大杉栄を考えてもいいかも知れない)、煎じ詰めれば、肯定への意志である。そしてニーチェが敵対する「権力」とは他者の支配、他者の否定、他者の制限、自己への同化、屈従への意志、つまり否定の意志だ。このふたつはまったく異なる。(抽象的にいえば、前者は差異を肯定し、後者は差異を否定する)「力」は強者のものであるという言い方にならえば(この言い方も社会ダーウィン主義的に理解されては成らない。何が強者であるかは基準に依るのだから。ここではだから自己を肯定するもの、といおう)、「権力」はなによりも弱者のものだ。

 「権力」は自己の属性ではない。彼/彼女の他との関係でうみだされる特権的位置であり、他を否定することで弱者が仮に握る不当な支配こそが「権力」の本質である。たとえば、他人の秘密を握ることで得られるような他者の支配が権力であり、権力には根本的に卑劣さと弱者の刻印がおされている。権力の「権」の語は元来「仮の」という意味と「秤」という意味をもっていた。問題なのはここではつねに力学的位置であり、外的属性なのである。

 「力」はそれゆえ他がそれにどう影響されるか、評価するかを問わないし、気にもとめない。だが、とひとはいうかもしれない。自己を拡大すれば他を屈従させることに論理的につながるではないか、と。このような感覚、このような「力」と「権力」の差異への無感覚こそがニーチェ的な思想への誤解をつくりだしてきたのだが、まったく事実はそのようなことはありえない。なぜなら、世界は有限ではないからである。

 わたしが拡大することで、他者の場所が狭められるということはない。全体が一定量で、事態がゼロサムゲームであるときだけ、わたしの拡大は他の減少とイコールだろうが、そのようなことはきわめて限られた場合に、しかもある共同体の内部にとどまることに固執したときにしかおこらない。事態を相対評価で捉える限り他の被害は自己の利益とイコールかも知れないが、そのような相対評価は特定の共同性の内部でしか意味を持たないイリュージョンであることはあきらかだ。他人の足を引っ張ってクラスで一位になったところで、自分がそれ以前より頭が良くなったわけではない。(ましてや意志が問題である限り、力を意志する人はあたうかぎりそれが権力として機能することを嫌うだろう。他の否定、支配は力の観点からは無意味であるだけでなく、無様だからである)

 したがって力の肯定というのは厳密にいえば欲望の放恣な肯定ですらない。欲望はイリュージョンによって、他者の否定を自己の欲求と誤解していることがあるからだ。しかしひとはほんらいはいい生活をしたいなどなどと思うものであって、あいつらにいい生活をさせたくない、負けたくない、というふうに思うものではない。そのようなルサンチマンは、ほんらいの欲求がゆがめられた不正なものなのだ。それが証拠にけっしてその種の他者否定の欲望は、けっして本質的な満足を与えない。たしかに怨恨やルサンチマンは普遍的で人間的なものだが、しかし、けっして人間がそうであらなければならないような必然的なものでは全くないし、精神の構造において基礎的なものでもまるでない。

 ニーチェ的な矜持とは、他の否定ではなく、あくまでも自己と世界への肯定に根ざすものだ。そしてこの肯定によってささえられ、肯定として、柔軟で快活な矜持をこそ、ニーチェは力と呼んだ筈である。自己に矜持を持つものは、まさにそれゆえにこそ、他者に賛嘆の念をいだくことができるはずだ。それはまったく、奇妙な身内的感情や関係妄想とは隔絶した、「他者」への賛嘆の念なのである。

08.5 追記。

 いくつか補足。

 まず、たしかにニーチェ(こちらでテキストが読めます)は権力、支配という言葉を肯定的に多くの場合使用している。だからわたしの記述は、ニーチェにさからって、ニーチェの思想の一貫性を再構成しようとしている。

 実際のニーチェのテキストからいえるのは、ニーチェは、自己の肯定が他者の否定につながっても顧慮しないと主張しているということ、および、そのかわりに、けっして他者の否定がそれ自身で目的とされる事は肯定していないということの二点だけだ。

 また同時にニーチェはルサンチマンと呼んで、自己の肯定がはたされないとき、他者を観念的に否定することで自己を観念的に肯定することを糾弾している。(たとえば負け惜しみをいったり絶対評価のすごさのかわりに相対評価の偉さをえらんだりすることなど)

 このふたつの事実から、わたしは、ニーチェの主張が、自己の充溢を肯定することから他者の否定を意味することにつながるとすればおかしいとかんがえた。

 つぎのことはいえる。ニーチェは自己の肯定を称揚したのであって、他者の支配、否定は結果としてそれにつながるとすれば容認するしかないと考えていたが、勝ち誇る傲慢さは想定しても、けっして悪意や怨恨をはらんだ支配欲は想定も肯定もしていない。

 かれの文脈では、みずからのびる力を画一的な道徳によって抑圧する良識が仮想敵なのであって、怨恨を孕んだ同化、支配したい欲望は想定に入っていなかった。

 一言でいうと、他者を隷属させることの悦びと、自己を肯定することの楽しみが、ひとつのものであるはずはない。他者を隷属させることがそれじたい目的となっているとき、そこではもはや自己の矜持や自信の根拠になる能力が問題ではなくなって、わたしをあがめる相手の内面を想像するという、きわめて観念的な操作が、欲望の核心になっている。他者の評価に固執し囚われているのであって、自律した自己を肯定する個というニーチェ的理想からは程遠い。