09

 蚊取り線香のにおいがきつく香っている。まだ夏は去っていなかったらしい。

 暑かったり、寒かったり、わたしの家にはエアコンがないのでひじょうに困る。が、どこにも責任をもっていきようもない。しいていえば、自分の甲斐性のなさをうらむしかない。はやく涼しくなって欲しい。

 家から、たまには近況を報告しなさいと催促のはがきがついた。不意に贈られた言葉というのは、いつも予期せぬ事を思わせる。いま、わたしは日記を書いているらしいのだが、どうしてそんなことをしているのだろう。それはたぶん、わたしが、古風なことにいまだに文学ということを信じているからだ。

 わたしはわたしの言葉が誰かを、予期したような感動に誘うことを欲しない。きっと、よほどあざとい商業作家でもないかぎり、みんなそうだとおもう。書き手は祈るようにして、子供を送り出しているのだ。人々と、幸福な出会いをするようにとねがいながら。そして、ねがわくはよい恋をするようにと。どうして他者を型にはめるような真似をするだろう。

 贈ることは売ることと違って、無償なのであって、だから、ぼくは、書く人はみんなよほどバカだとおもっている。手に入るものと言えばただ、不意の感動だけなのに、しかも保証もなく、見知らぬものに贈るのだから。

 書き手がいちばん自分のテキストに驚かされ、突き放され、そして感動しもするのだ。それは、自分のテキストに感動するひとたちは滑稽だろうけれど、それはナルシシズムではないとおもう。書き手はみんな知っている。書いたものの中に自分が現れてしまっていればいるほど、それは失敗なのだと。

 日記だってそうだ。他者を愛することは、他者に同化することではないなんて、いうまでもない。

 言葉はただこころからの思いを込めて、いつもいくばくかの未知とともに無償でおくられる。ぼくは教える言葉、命令する言葉、権力としての言葉に対する抵抗として、文学を理解していて、そして、信じている。そうでなければ、すぐれた文学がもたらしてくれるあの、ほっとするような優しさと開放感をどう考えればいいのだろうか。文学はいつだってユートピア的なコミュニケーションの創設の試みだったし、そしてそれをなしとげてきた。他人を感化したいなんて思った作家なんて、ひとりもいない。そのことは、誇っていいことだ。文学とはそういうことなのだから。

 灰が、ゆっくりと落ちていく。扇風機がぬるい風をおくって、日が昇っていく。

 ぼくは、文庫本をまた一冊、ひもといた。