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 広末涼子からニーチェが好きなんです、とくに永劫回帰とか、などといわれるとかなり対処に困るものがあったりするのですが。「ソフィーの世界」の著者ヨースタイン・ゴルデルとの対話を見ていて思ったのは、ひたすら怖いよう、ということでした。形而上学が此処にある、という感触です。大衆とか、本質存在、事実存在とかの語を広末涼子が語り、そしてゴルデルが引き受けるべき存在だのイデアについて語るのを見ると、伝統的哲学がいかに保守的なエリートの責任の論理とか教養主義につながっていくかが見えてかなり怖かった。やはり、ゴルデルはいかなる意味でも哲学者ではない、とも思ったし。つまりかれが対話でやっていたのはひたすら疑問を伝統的な問いと答えの構造に回収していくことだけでしかもそこから道徳的当為をさえ引き出していたのです。怖いって、あんた。一方で、広末涼子のほうは自己紹介ということがわからない、とか、演技においてわたしの感情とにせの感情を区別できない、とか、けっこう哲学そのものであるような疑問を提出していて、あなどれないよな、とも思ったのですが、ゴルデルの答えはどうしようもなかった。しかし他方で彼女は大衆という言葉を大まじめにつかっていて、なんというか微妙な戦慄が走ってしまう。もともと彼女には狂気のかけらを感じるのですが、それが大衆という語の傲慢さと響きあうと、怖くて仕方がない。

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 自分の意見をそれが自分の意見であるという理由で支持するようなひとは間違っている。それが自分の意見であるのはただそれ以外のよりただしい意見であるものを自分が思いつかなかったという偶然の事情に依るものでしかない。ぼくはまえからそういう、自分に属するもの、自分が属するものをまさに帰属と言うことを理由に支持する人たちに対して違和感をおぼえずにはいられないのだ。勿論あからさまにそういうことを認める人はすくないが、自分の意見への固執のさまをみれば明らかだ。

 自己へ固執することは自己を肯定することではない。自己を肯定するときの自己は瞬間にしかないからだ。自己はつねに自己ではないものに変容しつつある。というよりも、その変容の過程こそが自己という運動の実体だろう。自己を肯定するというのはだから、この運動への肯定、つまり旅立ちへの肯定である。そしてまたそれは同時に、わたしの変容にかかわる他者との出会いの肯定なのだから、歓待の肯定である。他者との出会いのなかでこそ、旅立ちは意味を持つ。

 自己像への固執はつねに自己という運動の否定としてあらわれるほかないだろう。それはまた接触拒否として、つまり拒絶のみぶりとしてあらわれるほかないし、汚染嫌悪としての潔癖性としてあらわれる。だが、自己の本質が他なる自己への変容である限り、自己であり続けようとして自己像に固執することはまったき不毛と悪へとつながるほかはない。他者の絶対的影響から抜け出して自己でありたいと願う人はではどうかといえば、そのひとが願うものは自己という運動であって、嫌悪するものは、他者がおしつけている、自己像への固執なのだ。普遍の理想的自己になってもう変わらないことが望みではないはずだ。

 したがって自己の本質というものはない。自己に属するものはすべて自己にただ単に滞留しているものでしかない。そしてまさに自己はそのようにただ自己のもとに滞在している他者によって本質的に構成されている。だからこそ自己の肯定は、歓待の肯定でもあるのである。そしてもちろん、他者もまた、自己のうちに滞在している間に変容し続ける。ひとは肯定によって同一にとどまることはできない。同一にとどまろうとするには逸脱の否定によるほかない。

 だが忘却のみが称賛に値すると言うことなのだろうか? いや、記憶のただなかで、くりかえし、くりかえし、他者との歓待と別離の記憶へとひとはたちかえる。その都度別のものとして、記憶もまたその都度、変容を繰り返すだろう。記憶もまた、そう、こういおう、記憶もまた、歓待されるべきわたしのなかの他なる滞在者なのだと。かれらもまた忘却によっていつか旅立つかも知れない。いつかまたふたたび出会うかも知れない。だから忘却を、せめてうつくしい別離へと構成したいとわたしはねがう。

 わたしが生きてきた過程やその痕跡は固有のものだといえるかも知れないが、それはまたどこまでわたしに属し、どこまで他者に属しているかはつねに錯綜している。そのことをもつれあう無数の糸として肯定し、その複数のかけがえのなさをもって、イリュージョンでしかないわたしのなかに堆積している所有物としての経験という概念に代えよう。わたしの痕跡はわたしのなかにない。そしてそれはわたしのかけがえのなさだ。そしてそのかけがえのなさは無数のもつれ合いを通して共有されてもいる。わたしはけっしてわたしの歴史を所有物として占有しているのではないことを、祝福として考えたいと思う。  (Thanks for Mr.J.Derrida)

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 さて、「絶頂集」であります。もう、なんというか「メロウ」がいいなんていうと、見透かされているみたいでいやなんだけど、仕方がないよ、そうなんだから。ちなみに九州弁ネイティヴとしては「膨らんできちゃった」はうれしい。

 そういや、ようやく「ケイゾク」がレンタルになったのだけれど、「トリック」をいったんみてしまうと、けっこうどうでもよくなっている自分に気がつく。困ったものだ。移り気なわたしたち、というのは宇多田ヒカルですが。多分、「ケイゾク」はときどき妙にエヴァンゲリオン的に内省的になるところがあって、そこがくすぐったいのだとおもう。コメディのほうが上等なものではないだろうか、そういう意味では。ちなみに、アリーMyLoveの第一シリーズの再放送は今日の深夜一時からです。見ましょう。といいつつ、たまに予期せず見るダーマ&グレッグも好きだったりする。

 「オマエラノヤッテルコトハゼンブオミトオシダ!」(「トリック」より)