等置について

 ぼくはまえから、漢文脈の文章の或る種のものをなぜ自分が読めないのかと考えてきた。ぼくにかれらの思想が了解できない、というのではかならずしもない。そうではなくて、その説明の文章の、論理の進み方が分からないのだ。思うに、これは漢文の「対句」と「即是」の論理への違和のなすところなのだ。

 坂口安吾はどこかで「都に人はいるが人はない」というような文章を攻撃して、なぜ、「都の人口はたくさんいるが、優れたひとはない」といわないのか、このような気の利いたものいいは、言葉遊びのようなものでまったくつまらない、といっている。また別のところで、小林秀雄の「花の美しさというようなものはない、美しい花がある」という文章に対して、これはこれで意味に即した表現であるが、やはり無意味に晦渋でもっと明快に、「花の美しさというような概念がまずあるのではなく、美しさという概念が抽象される美しい花という実体あるいは経験がまずあるのだ」(このパラフレーズがただしいかどうかはともかく)というようにいうべきだ、という。この言い方に、ぼくは感覚的にまったく同感なのだ。漢文脈の文章は、論理的必然性のない対句的表現に淫していて、そのせいで、無意味に表現を曖昧にし、それだけでなく、考えそのものも混濁している、とわたしには思われる。

 思うに、これらの違和の根元にあるのは、「即是」の論法なのだ。ユングの議論を読んでいるときも感じることだが、とりわけ、これは漢文脈の文章を読むときに感じることは、言葉をつぎからつぎにイコールでつないで、それで何かを証明したかのように構成されているということだ。「である」ということは実はまるで単純なことではない。哲学がまず考えるべき事は「である」ということの複雑な内実であって、それをはっきりと分析することだ。

 これは仮説だが、関係のカテゴリーが、まるで「である」しかないような気がする文章さえときには見受ける。ふたつの概念をつなぐ動詞が、圧倒的に「である」優位なのだ。しかし、これではものを考えることなどできはしない。

 たとえば、「私はそのままで世界である」というような宗教的言明があったとする。こういう信念をもつことはべつにかまわない。しかし、「である」ということは何にも説明していないのである。いったい、どういう意味を言明しようとしているのか、この文章は異様に曖昧で、わたしはこの曖昧さが理解できない。「私が世界である」というかたちで、内的経験が存在すると言うことはかまわない。しかしそのことは、この言明が、なにかを明晰にいっているということではない。にもかかわらず、この異様なまでの曖昧さに漢文脈の文章は、まったく鈍感なのだ。これは、言語道断なまでに鈍感である。

 けっしてわたしは難解であったり特異な違和を表明しているわけではない。

 まず「私が世界である」というとき、どのような意味でイコールかと言うことこそが、問題なのであって、それが言われない限り、この文章はいまだ何も言っていないのである。「である」というのはつねに、何らかの観点から、ということなのである。

 なぜなら、これもすぐに分かることだが、違うもの同志しか等置はできないからだ。

 逆説的に聞こえるとしたらそれはおかしい。

 「私」という言葉と「世界」という言葉は違う言葉であり、違う概念を持つ。

 ゆえに、この二つの違うものが同じであると言うとき、その意味は、二つの言葉の持つ概念に共通する属性、概念が含まれる、ということか、二つの言葉が、同一の対象を外延として指示しているということかである。

 「パンがパンである」というような絶対的に同一である言明、それゆえに無意味な言明をのぞいては、つねに「である」ということは、二つの言葉の間に、同一性と、そして差異とを同時に含意して述べているのである。

 例に戻ってこうしたことを具体的に述べよう。
 「私が世界である」というとき、どのようなことがいわれているのか。
 私の概念、定義、意味内容と世界の概念、定義、意味内容とは、論理的に一致する、ということか。たとえば、「水はH2Oである」という言明のように。
 あるいは経験的に、私という自意識現象は世界総体の自意識としてある、ということなのか。つまりこの場合、世界総体の現象が、現実にしかも自己の意識として意識されているということが必要だ。(だがこのようなものいいは、言葉の定義の問題でしかなくなってしまう気がする。私の範囲確定というのは恣意的なものではないか)

 その他にもいろいろと解釈のしかたがありうるだろう。

 問題なのはこうした曖昧さを生み出しているのが、「等しい」といいながら、どう等しくどう等しくないのかをいわないというところからきていると言うことだ。
 わたしのフラストレーションの多くはまったくここに存している。多くの場合、漢文脈の文章は、同一性をいって、それでそのままで、どう同じなのかまったく言わないのだ。

 雀が鳥であるというとき、雀という概念と鳥という概念が等しくないからこそ、こういえるのである。だからより厳密にいおうとすれば、雀は生物学的分類という観点からは鳥である。というふうに説明できる。なぜなら、別の観点から言えば、雀は鳥ではなく小鳥だからだ。しかしいま鳥ではなく小鳥であるといったにもかかわらず、小鳥は鳥である。詭弁のようであるかもしれないが、「である」という言葉は、どういうふうに等しいのか、いわないかぎり、まったく意味をなさないのである。

 いままで散々漢文脈といういいかたで反論してきたが、その漢文にそういえばこういう論点をはやくにのべたものがあったことを思い出した。「白馬非馬の論」である。

 白い馬と馬という概念は違う概念である。したがって、白馬は馬ではない。これは戦国時代の諸子百家の一、名家の論理である。

 経験的言明としていうのならいいのである。その場合にはそうした同一性言明はたんに一体感という経験を表明しているに過ぎない。しかし、状態の記述や、哲学的言明としては、同じであるといっただけは、何も言ったことにはならない。同じであるということはつねに何らかの意味で同じだと言うことで、ただ同じだとか、全面的に同じと言うことはないのである。

 こういう反論をされたとき、では「本質的に」同じだとか「より高いレベルで」同じだとかいう言い方をする人がいる。しかしこれも何も言っていないに等しい。乱暴ないいかたをすれば、そんな言いかたしていいなら、何だっていえるからだ。
 もうちょっと精緻ないいかたをすれば、「本質的に」といった表現は、話している人の価値評価をあらわしているのであって、対象の意味内容を規定しているわけではない。気合いのようなもので、プラトンや朱子のような或る程度きちんとした定義が「本質」「本性」という言葉に与えられているのでなければ、何の意味もない。

 「である」ですませられたときにぼくが苦痛になってくるのは曖昧さだけではない、それだけではなく、それまでまがりなりにも明快な意味をもっていた二つの言葉が同一だとされることで、何か混合融合して、意味内容の曖昧で不明確な異常な概念がうみだされてしまうからだ。このような概念はまったく無益なものだとおもう。或るレベルで違うものが、別のより高いレベルでは同一のものであった、という事態、あるいは或るレベルでの区別とはまったく異質な区別が、より高度なれべるからなされて、その場合にはそれまでの区別は意味を失う、ということはよくある。

 しかしそのことは、けっして「である」の論理のような曖昧さを生み出すものではない。たとえば、上と下という区別は地表面でしか意味をなさない。宇宙船の上で或る方角は、或る観点から言えば上であり、別の観点から言えば下である。そのとき、上は下であり下は上である、などという言い方をするのは、まったく無意味であほらしいし、そのうえこういう言い方には妙な後光がつきまとうだけに害悪でさえある。このとき正しいこたえは、宇宙船には上や下という概念は意味をなさない、ということか、あるいは、上下の概念を再定義しなければならない(そしてその場合、どう定義するかは、自由である。どれでもいい)ということだ。

 べつの例をあげれば、月は男か女か、といって議論するのは意味がない。ということだし、またもっと別のわかりやすい例を挙げれば、人類の祖先はドイツ人かアメリカ人か日本人かといって議論するのが無意味だということだ。人類の祖先は何人でもあるか何人でもないかであって、それは本来適用できない対象に概念を拡張して、適用するときどう言葉を再定義するか次第であり、そしてどう定義するかはどうでもいいからだ。

 別のいいかたをしよう。最初の生物は猿か馬か猫か? 

 ブランデンブルグ選帝侯は西側社会の一員か東側社会の一員か。

 地球のへそはどこか。

 「である」というのはどういう意味で等しいのかいわなければ無意味なのだ。真でも偽でもなく、意味をなさない言明というのがある、というのが、ぼくが論理学から学んだことである。

 等置されるふたつの概念の関係は対称的ではない。このことが重要である。「である」の論理はこの非対称性を無視する傾向があるように思われる。さきに違うものでなければ等置できないし、等置はかならず何らかの意味での等置である、といったが、これは等置されるものの関係は非対称的である、ということにも等しい。

 ぼくはどうにも、哲学的な議論なのにただ「である」ですませているものを見ると、いらいらして仕方がないのである。けっきょく、ヘーゲルの闇の中の黒い牛ではないけれど、そんなふうにしていたら、何もかもが同じ事になって、のっぺりとしたベタヌリ、この世には差異がないことになってしまうじゃないか。