《幻想のマテリアリスト》

 

 「資本論」を岩波で三巻あたりまで読んだので感想がてら。ちなみに別にぼかあ運動とかモラルとか苦手だから、いきなりビラ配る人になったりしません。だいたい徒党が生理的にすきではないし、そんな甲斐性はない。

 ひとつめ。
 モラトリアムがなぜあるのか。工業化と技術発展によって人力に依存する割合が減るスピードはつねに、経済発展によってあたらしく雇用がつくられる割合よりもはやい。この減った雇用をどうするか。就業年齢の幅をせまくすればいい。これがモラトリアムだ。大学は、家族の働き手のお金を、文化や知識と交換する。こうして、学生は、学費と仕送りを、親である労働者から、資本の側へひきわたす。さらに仕送りを受けているかれらは、やすい賃金ではたらかせることができるので、雇う側はその分、仕送りを遠回しに取り戻す。つまりモラトリアムは、計算に入らない失業者なのであり、成人年齢は、おおまかにいって、ひとつの社会が吸収しうる労働者の総数と人口によって、規定される。学歴は実質的には量的に新卒者を規定する。足切りの基準だからである。

 ふたつめ。
 どんなものでも旅をしてきたのだ、そしてそれゆえに物語を持っているのだ、ということを考えるとわくわくする。みのまわりのあらゆるものが、誰かによってつくられ、いろいろなところを通って、ここに来た。しかもいまやそのほとんどが国境を越えている。そのひとの名は何というのだろうか。それは何時だったのだろうか。それは何処だったのだろうか。どういう経路をたどってきたのだろうか。これがあそこにあったとき、そのとなりにあったあれは、いま何処にあるのだろうか。バイトをするとそういうことにとくに想像力が刺激される。倉庫内の軽作業はたいてい、そういう日常の細々としたものの組み立てとか流通とかにかかわっているからだ。たとえば、箱詰めの時、みしらぬだれかにむけて、メッセージを忍び込ませる、などと夢想する。ひとはおおく、自分の業種については、他人のイメージと実体が違うことを知っている。つまり、ものを見たとき、消費者としてはそれを出来合いのものとして見て、それが与える経験との関係でイメージする。そしてそれに関係のない細部は見えない。しかし生産者としては、その形態が必然ではなかったことをあなたは知っている。そしてその形態をとっている理由を知っている。そしてそれがどういう作業を必要とするかを知っている。これはとても重要なことだ。これはどうやったらつくれるんだろう、と、考え出すと夜もねむれない。ぼくはそういう疑問が湧かないのはヘンだとおもう。だってさ、同じ人間がやったことだよ! そして、それらは沈黙しているがわたしのしらない様々な物事を見てきたのだ。
 

 《偶には日記を書きたいのだけれど》

 偶には日記を、と思い立って然しもうそれだけで可也、気分として絶望的になる。

 どういうことかというと、書くことがないからだ。考えることのほうがやっていることよりもヴァラエティがあるという生活は絶対、間違っている。仕方がないから嘘日記を書こう。

 丸山健二の本を読んで、やっぱり、何よりも技術と地味な練習が大事だと思ったからでもある。しかし、このひと、一貫して女子供といいつづけてるのはある意味すごい。確かに日本文学のレベルは高くないし、アマチュアリズムと文弱に災いされているとは思うけど、頭から男の書き手にしか呼びかけていないということに、ちょっと毒気に当てられた気分ではある。

 ついでに、よく見かける旧漢字旧仮名(保守派のいわゆる正字正仮名)で書くのは有効な異化だと思うし、平明に内面を模写すれば足りるという甘さへのつよい批判になるとは思うけれど、荷風と同じで、さて、では積極的に対抗価値として出しているものがそれほど中身があるか、というと別だと思う。つまり、反時代的であるのはいいとして、懐古や不当な高さからの生活現実の侮蔑にそれが根拠をおいているとしたら、結局のところ何の意味もないではないか、ということだ。とくに、スタイル、というものは警戒すべき両義性を持っていると思う。スタイルを制御しきれると理性は信じるかもしれないが、その理性がスタイルによって形成されていないという保障はない。

 では、ここから虚構日記。

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 予報どおり、雪が降っていたのでちょうど休みなのをいいことに同棲相手に雪掻きを云い付けられた。南国の出身なので雪掻きはおろか、ストーブのつけ方さえ分からないというのに、彼女は男女の役割だの、雇用機会均等法だのを盾にとって一歩も譲ろうとしない。女性の社会参加の為には男性の家内労働参加が大切だとかそういう理屈で、しかもそういうことを全然信じていない口調で云う。実際、公平に見てぼくがやる順番ではあったのだが癪に障ったので「この怠けフェミニスト」というと即座に「うるさい貧乏レイシスト」ちょうど二人とも暇だったのでひとしきり遣り合ってから、息を荒げながらジャンケンで決めることにした。ジャンケンをやることにしてぼくが「最初はグウ」というと、彼女がふっと、あらぬ方を見つめて「何で、最初はグウってやるのかしら?」「知らないよ、リズムとかじゃ」「ふーん」これは、剣呑な沈黙だ。不利を悟ってぼくは「じゃあ、無しで」というと、彼女はニッコリして、「へー、そうしたいんなら、それでもいいわよ」と云った。

 外に出てみると、一面の雪景色で、対岸までまったくスケートリンクのようになっていた。ぼくらの家は太平洋岸に建っていて、対岸は亜米利加ということになる。寒さのあまり凍りついた太平洋に雪がしんしんと降り積もって、水平線というより平線をつくっていて壮麗だった。この一軒家は何もそんなにお金持ちなはずはないので、買ったものではなく、友人が旅に出るとき、帰るまで留守番をしてくれ、といって置いていった家だった。彼がいま何処にいるのか分からないが、彼宛の郵便物はまだ偶にやってくる。中には変な置物だとか、本物かどうだか判らない指輪だとかを含みつつ。

 へっぴり腰にスコップを持って屋根に上がると、急に寒さがこたえた。このあたりは人家が殆どない。見渡す限りではうちだけが人間の気配だ。内陸のほうをずっと見透かすと、薄暗いなかに灰色に山脈が見えて、その山脈にかかっている雲を見ていると、なんとなく宮沢賢治ふうの気分になってくるのは否めない。気を取り直して白い息を確かめるように出してみて、それからスコップを雪にざっくりと差し込で持ち上げようとすると、重くて暫く動作がとまってしまう。うーだとかあーだとか云いながらそうしていると、目の前に誰かいるのに気がついた。人間ではなく、少し透けているので輪郭はぼんやりしているのだが、それほど怖い外見ではない。「あの、幽霊なんですが、坂埼さんちにはどういったら……」肩で息をしてから「えーと、NTTに勤めてる坂崎さんですよね、こっちの」と指差して「ほうに二時間くらい行くと、赤い屋根の家があるんで、そっちに行けばいいと思います」すると幽霊は「あ、本当ありがとうございます、何か急に雪降っちゃって迷っちゃって」「いえ、いいんです」そのまま、幽霊は心細そうに、指差して方角に漂っていく。見送っていると、下の方角から同棲相手が「進んでる?」

 くたくたになるまでやって漸く一段落つくと、降りて珈琲を飲むことにした。テレビでは何処かの国の選挙の話をしていた。と、外でバイクの音がしたので出て行ってみると、ちょうど郵便屋の赤いバイクが去っていくのが見えた。ポストをのぞくと、彼女にぼくの知らない友人からの手紙と、二人に家の持ち主の友人から、ウサギ年の年賀状が届いていた。何処をどう回っていたのか、今ごろついたらしい。友人はぼくらに、来年の冬には十日ほど還れそうだと、書いてきていた。少しハイになったぼくと彼女はいそいそと、友人を迎える準備をはじめた。

 夜になって雪は吹雪に変わった。

 《図書館で借りた本》

 「浮雲」二葉亭四迷 再読。
 「ツァラ詩集」トリスタン・ツァラ
 「言葉の箱 小説を書くということ」辻邦生
 辻さんの明晰と無限への意志は日本人的でなくて、憬れるしよく分かる。素敵。
 「まだ見ぬ書き手へ」丸山健二
 熱いし煽られる。確かに日本の作家は書きすぎだし短編が無駄に多い。書き下ろしが理想は同感。
 「時ノアゲアシ取リ」笙野頼子
 「物語と非知」宇野邦一
 面白かった。言葉がきちんとしてる。理解して言葉を使ってる感じがする。物語批判だけでは駄目ということ。
 「若い小説家に宛てた手紙」バルガス=リョサ
 すごい。このレベルで書かないと、と思う。分かりやすい。視点の飛躍が大事ということだけ記憶。
 「貴種と転生・中上健次」四方田犬彦
 あまり興味が湧かず、途中でパスした。批評家はどうして三島の影響を過大評価するのだろうか。
 「原民喜戦後全小説 上下」原民喜
 「レストレス・ドリーム」笙野頼子 再読。
 「資本論 1,2,3」マルクス
 「エピクロス」エピクロス
 「情動の思考」ファニー&ジル・ドゥルーズ
 「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト」アントナン・アルトー
 「裏ヴァージョン」松浦理英子
 「フライデーあるいは太平洋の冥界」ミシェル・トゥルニエ
 「花のノートルダム」ジャン・ジュネ
 

 《海の深い底で眠っているとても大きな魚の歌》
 
 何と無く凹んでいる。仕方がないから、書く。世界内部空間(リルケ)に思いを馳せる。ちなみに、ポーやナルニアに親しんだひとには、このイメージは親しいものであるはずです。

 静かに、島という島から離れた処に、まだ、蒼褪めて記憶を喪った旅人たちしか、そこへ辿り着いた事はないという、海の水がもはや青くはなく、異様な透明さのために、海底が硝子を通してのぞけるように小さく見透かせる海があるのです。そこには、風という風はいつもにおいのない寂しい微風で、けれど冷たいのではなく、ただ、澄んでいるあたたかな微風なのです。

 そして、その静かな海には、何処から流れてきて何処へ流れ去っていくのか、白い蓮にも似て、薔薇にも似て、桜にも似て、そのどれでもない、花が無数に浮かんでいるのでした。そうして時折、この静かな海には微風に流されて、すっかりきよめられた白骨や、何処かで嘆きのあまり死んでしまった姫様の羊皮紙の手紙などが、さらさらと、さらさらと、流されてくるのでした。

 この静かな海の、深い、深い底で、ひとりの、世界と同じくらい古くて大きな魚が、ゆらゆらとはるかに上のほうから、燦燦と差してくる日に照らされて、眠っているのです。魚の眠りはあまりに深く、おだやかなので、いのちの気配がないのかとも思われるのですが、ただ、すやすやと、眠りこけているだけなのでした。

 その場所を目指して、どれだけのひとが、旅立ったことか知れませんが、誰一人、音信を伝えたものたちはいなかったのです。そうしてその果ての静かな、静かな海では、いまも魚が、眠っているのです。

 古道具屋の年齢のわからない美しい娘はそれだけ話すと、ふっと、自分の目を見るようにと私にいいました。黒目がちなその瞳には、私の瞳が映っていました。その瞳のなかには、何か白い、ノイズのようなものが見えたのです。目をこすって、いったい何だろうとひたすら見つめていると、だんだんと、その白さは大きくなっていって、何処からか、静かなさざなみが聞こえてきたと思っていると、私にはああ、これがその海の白い花なのだとわかり、そうして、気が付いてみると、もうそこには古道具屋も娘もいませんでした。

 私はただぼんやりと、果てのない蒼穹と穏やかな波に揺られて、いつまでも漂っているだけだったのです。


 《Hic Rhodus, hic salta!/ ここがロードスだ、さあ飛べ! 》

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 今、読んでいる本。「原民喜戦後全小説 上下」
 リンク、増やしてます。タロウ星櫻の森の満開の下。好きです。
 けっこう前からくもぎりさんはファン。ページがあるとは知らなかった。

 ヘイ・ブルドッグでだいぶ前におすすめになっているのは有難いのだけれど、狂気にあこがれている、と書かれていることが結構気になっている。憬れていない、ということは間違いがない。しかし、正気というのがアンマリ通俗的だという感じに捉えられることが多いのもうそではない。ただ、疾患としての狂気はやはり単に不幸であって、そこに何かを勝手に託すのは悪趣味のきわみだと思う。非−「正気」であってまっとうな精神のあり方というのはある筈で、それは非−「大人」で立派な社会人ということが考えられるべきだということと似ていると思う。

 日々、あまりに寒いので駄目人間路線を転落しつつ炬燵から離れられない。そういうなかでインデペンデンス・デイを見て、酔っ払いの宇宙船への特攻シーンで感動しかかる自分を疑う。それにしてもこんな国内向けの映画を全世界配信してよいのだろうか。特撮は立派だと思った。でっかさだけでも十分意味がある映画だったと思う。にしても、このまえ見たコンタクトと比べると、はなからお互い戦争と決めてかかっているのはひでえよな、と少し思う。コンタクトはあからさまに宗教的で勘弁してほしかったけど。人類の九割が何らかの形で神を信じているなんて馬鹿なことを言わないでほしい。

 と、ふとウルトラマンを見たくなる。日本の特撮は仮面ライダーもそうだけど、SFというより怪奇ものの血を濃く受けているので、怖くていい。ウルトラマンなんて、実に異様な存在だし。

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 事の次第をモラルで説明しようというのは大概が誤魔化しだと考えていい。現代は恐るべきお説教生真面目さの時代であり、黙示録と使命感は安手の新製品よりもその切迫感あふれる広告には事欠かない。他方で生真面目さに対するものはといえば度し難い嘲りや皮肉、混ぜっ返しでしかない。生真面目さに対するのが生真面目な皮肉自意識でしかないということが道徳的な流行を強化していることは否定しようがない。道徳を真に受けるものだけが嘲笑を好むのである。モラルとインモラルが対峙するこの場から排除されているのは、アモラルで実際的ないわば「真情あふるる軽薄さ」、快楽とは区別されるdriveとしての欲望である。

 倫理的とか、どうとくてきとか、そーいうことと関係なく、
 生真面目さではない真剣さというものがあると思うのです。
 つまり、十分きちんと現実を生きているというか、リアルさというか。

 道徳的な時代とは、欲望が誹謗され、あるいは見当違いな賞賛を受け取る時代と云うことでもある。一方では道徳は欲望を、安逸と放埒というステレオタイプ、すなわち「快楽」と同一視する。このように理解され、矮小化された欲望を否定しようと、逆説的に肯定しようと、誹謗であることには変わりがない。アイロニーと快楽という、道徳が敵として公認する対立者の特徴は、その消費的で一過性の性格である。それはあたかも道徳が自己の側を継続的で建設的、他の側を一過性で消費的として位置づけようとしているかのようだ。この視座に囚われている限り、何一つ道徳への有効な対抗を思惟することはできない。この二項対立は出来レースであり、偽りの対立なのだ。真の対立はこれらと、生産的で継続的で実際的、徹底的で真摯な、そして不道徳なものとしての欲望との間にある。

 木立ちを抜けると枯葉で埋まった池があって、ふっと気が付くとそこにいくつか波紋がひろがっている。何だろう、と思って近づいてみると、水面下でさかなが跳ねているのだった。ぼくは何だかこの波紋が美しいのは何故だろう、と妙な考えにとらわれてしまうのを感じていた。そして、さかなたちがもしも機械仕掛けだったとしたら、むしろそれはもっとこの情景は美しいのではないだろうかと、馬鹿な思い付きをしばらく味わってしまう。

 人間の正義は、克己や規範、禁欲や隷属とのかかわりで考える限り陰鬱で愚劣なものに過ぎない。だが人間の正義に対してきちんと考えるならば、私はなぜそれをしたいのか、ということに対して明晰でいなければ意味はない。ひとは悪を欲するのと同じように善を欲する。正義は欲望に反するものとして意味があるのではない。欲望のひとつとして意味があるのだ。ひとが正義を欲望しないのだとすれば、この世にかつて正義は行われなかった。そのかぎりで性善説はアプリオリに定義上、ただしい。「微笑をもって正義を為せ」ひとが正義をそれが正義であるから為すのだとしたらもはやそこには奇妙な退廃があることになるだろう。その行為が、まさにその具体性に於いて特定のその行為だから、それをしたいのだ。正義が欲望されるからといってそれを恥じるのは奇怪な倒錯である。

 われ、いまだ徳を好むこと色を好むがごときを見ず。

 アア、デモ、キットソウデナケレバナラナイノダ。

 近来、欲望といえば通俗科学の教えるところの「本能」や「生理」やより通俗的な概念としての「本音」としてしか理解されていない。このような名に於いて、欲望は矮小化され続けているがために、人々は禁欲的であるか消費的であるかという不毛な選択に落ち込む。そして正義が欲望されるとすればそれは正義への欲望からではなく、倒錯した別のより卑小な欲求の偽装としてなのだ、と、人間通が深刻ぶって分析することになる。しかしこのような道徳の系譜学はまさにルサンチマン的な道徳についてあてはまるにすぎない。

 ニンゲン、という、この繊細で強靭な楽器の、でたらめな旋律。

 歌っているのは誰?

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 Loveth 痩せたらしい。

 ガンバ!

 ……なにを言っているんだか。

 《三日幻境》

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 色んなところで自分を表現するために書くなんて気色悪いとツイ言いたくなって口を挟んでしまう。

 書いたものが自分から出てきたものであっても自分の一部とは到底思えないというよりも、はなからそんなふうに思ったことがない、というひとしか本当はぼくは信用していない。書くということは、《手作業》で、しかもひとに見せるものをつくるのだから、素直とか本当であればいいなんて驕りもはなはだしいというよりも、書いたものがかわいそうだ。書いたものとのあいだに礼儀正しいかかわりを持っていないというのは悲惨なことで、小難しい理屈ではなく、というよりも、やっぱりぼくは分からない人にいくら説明してもこういうことは分からないのだし、創作方法なんて、言われて気がつくなんて間抜けな話でやっぱりこれは無意識に習得してナンボの世界だと思う。

 視点の移動だとか言葉としてそれをそれで受けたら変とか、でもどんなルールも段取りさえ踏めば目的次第ではすべてオッケーだからルールなんてあるもんかとか、悲しいから泣く人間を書くということはあんまり通俗的だとか、でもそれは事柄が通俗だというより目が通俗なんだとか、もっと詳しく言ってコトバが通俗なんで悲しいという言葉がいけないんじゃないとか、というより例えば、悲しいという言葉が経験として感覚できるように書かないと意味ないとか、それから、言葉が具体的にどれを指していて、机と書いたらまずその役割とか名前よりも色とか形とか置いてある場所が気になる、いや気になるというよりもそういうのでないと「気色悪い」というのはやはり説明できない生理だし、比喩を比喩のつもりで書くのは上滑りで比喩なんかで書きたくないのだけど、言葉というものが不十分だからこう書かないといけない、というところがなければ信用できない。

 向いてない人や、そもそもそういう努力するための前提として何が欠けているのかということへの感覚がないひとが、タクサン書くことに紛れ込んできていてヘンなものを書いて主張ばかりしているのを見ると、やはり一言いいたくなる、ということが続いていた。でも辞めようと思う、そういう真似は。そんなことより仕事をしたほうがいい。取り敢えずここでは、考えることをしよう。考えるということを書くことをしよう。考えることを書く、というスタンスが必要なのは、読者の顔を意識しない為の方法としてだ。読む人がいるということを意識するということがなくては恥ずかしい。けれど、読む人の顔を想像するということは、いいことではない。縛られるからだ。ネットで書くということにはましてそういう用心がいると思う。

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 《三日幻境》というのは北村透谷の小説ともつかない散文のタイトルだ。透谷という人は日本語で書かざるを得ないひとにとっては貴重なはじまりの幾人かの一人だと思う。ヨーロッパの形式と観念と出会ったとき、どんなふうにしてそれと付き合うかということにまともにぶつかった人はそんなに多くはない。だから明治のそのころ、二十年くらいの文章はどれもスリリングだ。樋口一葉や斎藤緑雨や二葉亭四迷がかっこいいのは手探りで書いているからなのだろう。できることなら自分もそうでありたい。とくに最近、論説みたいなものを書いていたせいで、語尾に対していい加減になっている気がしている。学問や主張の文章のスタイルでずっと気に入らなかったことがやっと最近になって分かった。語尾が気味悪いくらいいい加減なのだ。仕方ないことかもしれない。けれど、自戒する必要を感じている。例えば、「ねばならない」「せざるをえない」「とはいいきれない」「かもしれない」「ということになるだろう」幾らでも挙げられる。途端に行文が荒れだすのが手にとるように分かる。

 脱線した。手探りで書くということは、テニヲハに神経質になるということと、どちらでもいい書き方をしないということだと思う。どちらでもいいというのは、考えを詰めてない証拠で、それでいい場合もなくはないと思うのだけれど、見苦しい書き方に流れがちだ。書く前にすべて決めるなんてことは無茶だしできる筈もない。考えを詰めるというのは理由を決めるということとは違って、強いていえば決心するというような、ちゃんと言葉とつきあうというようなことだ。理由を考えるということはうそになりがちだし、理由というのもひとつの言葉を考えるということでしかないから。

 《小説》というフォーマットに安住しすぎている、ということもあるのだと思う。内的必要もなく狭い読書の範囲で書き出すと小説に対して無意識のねばならないがたくさん出来てしまう。それをしたら小説や文学ではないからやらない、というくらい意識していればまだよくて、ひとのやったことの範囲でしかやっていいことを考えられないということにもなる。打ち明けて言えば、《小説》というのはもともとエクスキューズだったので、それ以外という意味だと思えば当たっている。何のジャンルをやっているか聞かれたとき答えられない人のためにつくられたのが小説なんて中身のない名前だった。だから、お互いに別のことをしているのが常態なのだ。堅苦しいことはよそでやればいい。

 決まりなどないというふうに考えるかどうかは、そのひとの出来上がりというか作りぜんたいの問題なのかもしれなくて、何をしていいかということは自分で決めた目的や必要との係わりでしか意味がない。そういえば、ぼくは文学など本気でどうでもよくて、でも本というのは権威だからいちおうの尊敬というか敬遠はしてる、そして、でもエンターテイメントは読むから、純文学というつまらないジャンルが威張っているらしいからなんとなく反感を持ってる、という人が、実在するとは数年前まで実感はしていなかった。多分、そういう感情が背景にあるから、純文学なんてものはおかしい、ただ小説があるだけだというような議論がはやるのだと思う。一応の理屈としてはそのとおりで文句のつけようもない。ジャンルでひとは書くわけではないのだから。でも本当は逆なのだ。ひとが純文学ではないものとしてただの文学として想像するものはたいていひとつのジャンルでしかなくて、純文学と呼ばれているものは、それ以外を名づけようもないから一括している名前だということを忘れている。もっとも、やはり純文学という言葉を使うと、途端に文章が奇妙になってしまうのは避けられないことらしいけれど。

 Dance×2コーポファームサイド 「幸福を考える会」、かなりキてます。

 馬的思考03 復活なさいました。読んでみるさ、いいから。

 それはただの気分さ 書き考える姿勢がきちんとしているのだと思います。

 泡沫なる日常 テキスト庵でも人気。ただこういう端正さにはぼくは無縁な気がする。アンビバレント。

 段々、我ながら、「な、長いな」と思いつつ、まだ書く。

 文学はゲットーに似ている。それは囲い込まれたことにしてある言葉の外なのだ。何を書いてもいいということには自覚的な努力がいるということを考えているひとは少ない。放っておいたら人間なんて自然と通俗的なことをしてしまうものだ。通俗的なことというのは無意識にやってしまうもののことだからだ。自動的にできることなんて、何もしていないのと同じ。

 あだしごとはさて措きつ。

 ぼくは挙動不審なひとが好きなのだ、と仲間由紀恵をテレビで見て思った。佐伯日菜子や仲間さんや杉田かおる(このひとの喋り方はぼくの知っている女性に似ていて好感を勝手に持たずにはいられない)や小林聡美、あと、深津絵里が好きなのは何と無く挙動不審で、何処で何をしていても違和感が残るからで、そしてそういう挙動不審さがどうも真摯さに由来しているらしい、となれば、魅惑の由来は知れたことになる。打ち明けていって、何をしても不審な人というのはいるものだ。不審でないということはけれど、そこにいないも同然なような気もする。

 そういえば、いま片戀しているひともかなり不審なひとだった。キリスト教徒のともだちに、信じていないことをばれないようにおびえながら教会に言ってあとで愚痴ったり怒ったりして、そうかと思えば何の脈絡もなくギターをはじめたり、つねに何かに熱中していてそして揉め事を起こして辞めてしまってそのサークルのひとに出会わないように小心に道を避けたりと、茶番のような美しい日常を送っている。

 ぼくは神様が天にいらっしゃってぼくらを見守ってくださっているなんて信じないよ。

 と、いうような矛盾する発言をときどきしたくなるのは存在しない神に親近感があるからだと思う。ぼくは矜持を持って唯物論者たろうとしているのだけれど(唯物論者という言葉はとても迫害されていると思う。科学万能主義者や物質主義者と混同されているからだけど、物質や物理というのは多く観念的な抽象なんだけどなあ)ともあれ、古風な感情の問題としてぼくは神とは言いにくくて、神様と言ってしまう。神というと、ロートレアモン風の対決意識を感じたりする。他方ではあまり神々や仏にはリアリティを感じないらしい。