「チキンラーメンはとっても胃に悪い」

 恨みがましく何を言い出すかと思えば、これは即ち根に持っているのである。勿論、営業妨害を意図してのことではない。いわゆる個人的事情という奴である。一体に近代西欧に個人という領域の発生してよりこのかた、個人の内懐にはよほどたいそうな建前が無ければ立ち入らないという約定であるから、こうして二十世紀をまたいですでに新来の世紀に生息する太平の逸民が言い訳に用いるに、これほど幸便の言葉はない。これは個人的見解、個人的事情であるからよろしく読む人了解していたずらに騒ぎ立てること請うなからん。さて、そろそろ読者諸兄姉はこの面妖な文体にあっれえどっかで見たぞ的の感触をいだいておられるかと拝察するけれど、とくに子細はない、即ちわたしは石川淳にいま倣っているというか文体的に取りつかれているという訳なのである。そもそも無駄話がすきなうえに饒舌で内容よりも調子を重んじ、簡潔の美からすっかり見放された作者にとってこれほど似合いの語り口はない、いっても手前うそをついたとは云われない。さてすっかり本題からいい具合に離れた仕儀であるが、そもチキンラーメンに予の結びし遺恨とはこれ何であるか、最近反省してみるに、どうも下した食事がみなチキンラーメンであったというとくに立ち入った子細もない顛末。まったく尾籠な話で恐縮であるが、思うにチキンラーメンはあんまりかみ砕かないでのみこんでしまうのでたいへん消化に悪いということであるらしい。

 ト、役に立ちそうもねえ知識を提供されてみなさんもお困りだろうがわたしも困る。種もしかけもない話はそれだけ、このまま機嫌良くじゃあねと分かれてスタスタとお互い歩き去り、アア清々した、というふうにいけばお互いいい感じでその後の人生も首尾上々というわけになるのだがなにせ苦しみばかりのこの世の中、いかんせんすんなりそういうふうには進まない。いかないわけはすなわち世間の決まりという奴である。なんぼなんでもこのまま放り出しては世間に顔向けというものが立たないことは明らかで、関わり合いになったあなたもよろしく犬にでもかまれたと諦めてこのあとしばらくつき合っていただきたい。まったく因果な次第でわたしもすっかり悲観してしまう。末代濁世の文筆には往々こうしただらしない成り行きが伴うものらしい。

 閑話休題、さて、と気合いを入れ直したところで別に本題の便利な用意があるわけでもなく、まずは手探りで社会を切ってみようかと無駄な心算を凝らしたところでさて総理をけなす合唱にもはいりがたく、マスコミの軽薄を鳴らす賢者の役回りもくすぐったい、もともと自分は一個の教養のねえ貧乏人に過ぎない、やけになったところで考えるのはやはり、ああ、チキンラーメン、これは相当、根に持っているらしい仕儀。

 そもそも何がうらめしいといって嘆いても嘆きの消えないのはこの赤貧である。とはいえこれは殆ど自ら選んだ境涯であって、望みの半ばにも満たないとはいえ他人に尻を持っていく筋合いのものではない。世の中、あげて不況不況というが自分よりははるかに暮らしぶりはたくましい。このまま彼岸の人となるやあるいはそのまえにまず尋常な手続きとして路上の人となるかは天のみぞ知る、ひとりチキンラーメンの非ではないのである。だいたいチキンラーメンをあげつらう根性がいけないので悪くなったたまごと一緒にたいして噛みもせずに意地汚く食べるからこういう次第となるのであって、まったく自業自得もよいところ、因果は巡るおぐるまの、親の因果が子に報い、べんべんてなもんである。

 そうはいってもこれが他人のことなら行儀良く眉をひそめて機嫌良く忘れればそれで住むところ、ほかならぬ天地に一人の自分のことだから始末が悪い。世間はこれを悲劇とは見てくれない。せいぜい癡愚の一例として統計を飾るくらいが似合いである。いっそ統計を飾るならば無名氏と名を変えて、世間の代表面して語ってみもしたいものなのだが、さて、それほどこれが図々しいつらか。

 さても世の中は無常迅速、またたくまに時間が過ぎてかわらぬものなどありはしない。胃薬でも常備してれば問題ないところだが、もともと内臓は自慢ではないが弱い方だ。肩は痛いし寝起きは悪い。血行全般よろしく滞り、考えることは朦朧漠然、この文のように中身なんて何もない饒舌へとなり果てる。チキンラーメン、ああチキン、繰り言しつこく反復し、ああ、さては卵とチキンで親子ラーメン、すわこれは鶏のばちがあたったか、あたまを抱えて考えるのはむしろ来世の蓮の上で、感涙ながして抱き合う鶏の親子……いけねえ、ナムアミダブツナムアミダブツ……

 お退屈様。


 
 「道士は即ち天機を盗むの賊なれば、君子これを厭う」

 文芸の徒は世人を侮蔑する能わず。世に寄食し、世を描き、世に求むをもってなればなり。しかれど、文は天地に流通するところ、世にあるもの、見るところ聴くところ文にあらざるということなし。愛恋もまた文、借金も文、また政治経済、床屋の値上げ、卑賤高雅、内外貧富、華美質実、至るところみな文によって行い、文において立つ。文芸の徒、苟も文質の間にあって文を作るをわざとせば、そのこころ幽玄にしてただに一時の花となすべからず。こころに花なきはその身鳥獣に劣らん。文をもってこころは為され、こころをもって文あらわる。文をもって花をなし、花をもって文を求む。畢竟するところ文芸の徒の欲するところ、未だあらわれざるの天地の文をあらわすことか。なればこれ天機の賊と赴くところ相近し。

  五十歩と百歩 の違い、ということを坂口安吾が書いています。五十歩と百歩は五十歩違う。それ以上でもそれ以下でもないが、ともかく五十歩だけ違う。そのことを正確にはかることが必要なので、五十歩は零歩に等しいか、百歩に等しいか、という類の議論はなべて的をはずしている、というようなことを書いているのです。

 しかし、世に聴く議論の多くは所詮、五十歩の違いを零歩か百歩かに変換したいというやり方ばかりだとわたしには思われます。たとえば二度、五十歩逃げることは、百歩一度逃げることとはまるで違う。人間は分類する動物だと云われます。しかし分類は何の意味もないとは云いませんが、思考の行為ではない。

 かといって、五十歩を零歩でも百歩でもない何か、と曖昧なまま放置することが文化的だとなどというのは大間違いで、ともかく五十歩は五十歩なのであり、零歩でも百歩でもないもの、といった不思議な存在ではありません。日本文化の悪しき伝統の中にこうした判断保留をもってより文化的とするが如き風があるようですが、実際にはそれは五十歩と六十歩を同一視してしまうような怠惰に陥る他はなく、しかもそれは場合によって都合良く、ときに五十歩と解釈し、時に六十五歩と解釈するがごとき誤魔化しに帰結するほかありません。考えるということは、切り上げや切り捨てをしないということです。

 ゴジラ のアメリカ版のアニメ版が深夜にシリーズでやっていたのでしばらく見ていた。思うのは、西欧的な思考、もっと限定してキリスト教的な観点では、人間というのはものすごく偉いのだ、ということです。ゴジラは、本来、人間よりも絶対的に強い、神的な存在として、神祇でいえば山つみに比定されるべきものとして形成されたキャラクターです。従って、論理的にゴジラは「オキシゲン・デストロイヤー」という核にも比せられるべき、神的なものによってしか殺害されえない。初代ゴジラの映画は傑作としかいいようがないものだと思いますが、そこで描かれていたのは明らかに黙示録的な出来事の時空でした。新ガメラ三部作がむしろゴジラ映画の本質を繼承したとみなされるのは、そうした設定空間をとったからです。

 しかし、聖書的教養を背景にした文化では、動物は神によって人間に隷属することがさだめられている。したがって、人間に匹敵する、あるいは優越する性格を与えられるものは、人間であるか、擬人化されねばならない。動物は、ゴジラで云えば、「トカゲ」はやはり、力はあっても本質的に人間の、あるいは人間の集団的な力のまえには、劣位におかれるのです。ですから、恐竜、あるいは怪獣映画としてアメリカ版ゴジラがどれほどよくできていても、非人格的な絶大な力として、神的な存在としてではなく、あくまでも人間に対して劣位にある存在としてのあの生き物に、ゴジラの名を与えることがよかったのかどうか、ぼくには納得ができかねるものがあります。

 同じ、核時代の想像力として、ゴジラとオキシゲンデストロイヤーの関係は「指輪物語」の力の指輪と魔王との関係に似ているはずです。そして、アメリカ映画でむしろ似た状況を描いた映画はキングコングであるよりはむしろ、「宇宙戦争」や「インディペンデンス・デイ」だったと思います。もっとも、「ID4」はポスト核時代の作品だけ有って、そこには何か、曖昧で宗教的な統合へのメッセージはあっても、「ゴジラ」や「宇宙戦争」や「博士の異常な愛情」にあったような、黙示録的な問いかけがない。緊張した、観客に思考を迫るような係争や亀裂を欠いていて、それがだらしない映画にしているのだと思うのです。

 狂うのはいつも女。 と、いうことに気がつく。この台詞そのものはあるひとが石川淳の小説について書いていたことなのですが、はたして、これはかなりの部分、さまざまな作者についていえることではないかと思う。男が狂うことは少ないし、狂う男は語り手で決して描写の対象にはならない。確かに考えてみれば、狂う男に「花を与える」のは文学の伝統にはむずかしい。能でも狂女ものはあっても狂人ものはない。勿論ここには差別の観念があるには違いないけれど、それを非難して何かいいことがあるというわけでもなく、そうではない作法形式をつくりだすことが必要なのだろう。

 狂う女にはいろいろ投影がしやすい。実のところ、狂っていくおとこを、無惨な科学的視線のうちにとどまることなく、きちんと小説の範疇の内で芸術化して書くというのは、そしてなによりその文学的必然を見出すことは困難だ。たとえば、フォークナーの登場人物のおとこたちは或る意味でそのとらわれている意味不明な固定観念によって狂っている。これはいわば偏執狂的な狂い方だろう。他方で、分裂的な狂気はつねに内側から、わたしの狂いとして書かれてきた。これはどういう必然があるのだろうか。しかし、いまここの現在において、ネットワーク的な、しかもオフラインにおける、そしてかならずしも引きこもり的ではない狂気の形式というものがあるような気がする。


 「おまえは、おまえの分身の見ている醒めた夢だ、花と共に散って流れてしまう」

 駅まで行って、電車に乗って、電車を降りて、駅を出て、道を歩いて、道を曲がり、道を横切り、そして、舗道を少し行くと、ぼくのうつくしいおんなともだちが住まう家がある。ぼくのうつくしいおんなともだちのことをいま口の端にのせただけで、慚愧の念に侵略される。きみはぼくを知らないからともだちでいてくれるのだという考えに、止むことなくさいなまれる。

 世の中はますます冷えていく。せかせかと余裕はなくなって、奇妙なリズムが支配する。ぼくはうつくしいおんなともだちのことを考えて、彼女のすまう竹藪でふかく外界と遮られた庭のことを絵空事のように感じ出す。まったく、きみに何がぼくはできるというのかまるで見当がつかないまま、くちごもる舌は場違いな親愛の念を表明しかける。

 ……みなさん。こんなことばかりえんえんと書き付けても仕方ない。まともな随筆をはじめましょう。ぼくはいっそ狂気をと願うよりも、いっそ……無神経で愚劣な有能さをと願うのですが。それにしても、何と傲った申しようでしょうか。

 四月馬鹿です。いくつか、思いついた嘘を書き並べてみましょう。つまらなくても、それは仕方有りません。わたしたちは、実用的ではないうそをつくスキルをどれだけ失ってきたことでしょうか。とりわけわたしは、誤魔化しばかりで、うそは多分、エゴイズムの為に使えば使っただけ、消耗するのです。

 たとえば、「衝撃、夏目漱石は実は相対性理論を発見していた!」

 ……だからどうした。てか量子論、三四郎に出てくるしな。

 「森総理に『中の人』疑惑浮上。中の人は実は有能? ジッパーを見たとの証言が!!」

 したのひとなどいなーい。ってどれだけのひとが分かるのかしら。

 「第二次大戦はなかった!! いまあばかれる歴史の真実、イスラエル公文書館所蔵資料発見」

 流れで、

 「やはり天動説は正しかった! 当社特派員が持ち帰った野球ボール大の星」

 いい感じで退屈してきましたね。つぎ。

 「インターネットの基礎技術、tcp/ipに2001年問題発覚。3wc発表に依ると、これはパケットと呼ばれる情報の単位を運ぶこびとさんとの契約が二十世紀までだったため。当局はいままで交渉を継続してきたが、決裂のおそれが大きい」

 ありがちだなあ。

 「人類、ついに地面と虹の接点に到達。冒険家のジャン・ベルナール氏は昨日、虹と地面の接点に通達することに成功した。氏に依れば、虹の根本には深さ五メートルほどの穴があいていて、なかをのぞき込んだ所、ひかりを発する七色の石が転がっていたという」

 落ちが無くてびっくりさ。

 「アメリカは実は王国だった! 外電によるとカリフォルニア州でアメリカ最後の国王ジョージ八世の子孫が声明を発表。歴代大統領がすべて同家の出身であったことを暴露した。なお、同氏に依れば、各州にもそれぞれの領主の家系があり、ニューヨーク州をのぞいてはいまもそれが続いているという」

 あー、諷刺みたいになっていて、ちょっと、かっこわるいなあ。

 「日本のデフレの原因は紙幣に宿るマナの減少が原因。米国の投機筋に依れば、金銭の価値はそのくにの貨幣に宿るマナという霊的な物質の量に比例するのだという。全米魔術師教会のジョン・デュパン師の著書に依るとこのマナの減少の直接の原因は先日のトムクルーズ夫妻の離婚の慰謝料が自然界のバランスをみだしたせいだという。同師はただちに慰謝料を減額を行うよう夫妻に求めている」

 大塚ねねがあんなやつと結婚しているのが納得行かない。飯島直子はべつにいいんだけど。


 「本当の知識とは、時は限られていて、誰もが死ぬということだ」

 脳天気なことばかり書いていると気が差すことがたまに有る。そういう積もりで探せば、ネットワークには深刻なことを書いた文はいくらでも見つかるだろうし、そういうひとのリアルな言葉と苦悩に触れることも難しくはない。そして、ぼくはそういう言葉の前で、揺れる。

 しかし、不断のぼくはそう考えるべきではないのだ、と信じているのだ。信じようとしている、というべきかもしれない。リアルな苦悩や現実に対峙して緊張している言葉のつよさを疑うわけではない。そして、そういう言葉がひとに与えるものも知っている。しかしぼくはそういう言葉を信じない、ということに決めたのだ。ぼくは脳天気なことを書くということの意味を知っていると信じなければならない。

 本当のこと(そういえば「本当のことを云おうか」と云って自死した登場人物がいた)はひとを追いつめるし、苦しめるだけじゃないか。ぼくはきっとそう何処かで思ったのだと思う。ぼくは自分の文を読む人をむしろ愉しませたいし、しかもそれは楽土をつくることであってほしいと思う。ただでさえこの現実を生きている人間たちに、どうしてその現実と同じ種類の苦悩を与えなければならないだろう。それで喜ぶ人がいたところで、それは何だか、不健康な、傷口の痛みに耐えかねてわざわざ塩を刷り込むような自虐に思えてならないのだ。

 そしてだからこそぼくはこの世の宝石をと願い、まるで婚期を逃して焦った男と女が出来レースで無理矢理に盛り上がって自分は楽しいのだと思いこもうとするような、そんなルールに則った商業的な娯楽はどうしたって好きになれない。切り捨てて諦めることで成り立つ娯楽はあんまり哀しいからだ。

 いつだってものうくて無気力なのだ、と書き付けることはあさましいことだろうか。しかし恐らく、ものういことそのものは嘘ではなくて、ただぼくは簡単にハッピーになる脳天気なやつなので、恐らくものういというのは勿論ことばのあやというよりは、書くことにかかわっていえばぼくはいつだって何処かでものうさを意識しているということなのだと思う。

 それでも針のように刺さる言葉というのはある。そして、ぼくがいま把握できる現実のゾーンの外側では、ぼくの言葉が有効ではない人がいる。ものうさとは意識の貧しさへの苛立ちだろうか。

 観念のいかめしい檻のなかに閉じ込められてそのスクリーンに映る影ばかりを相手にして意味もないたわごとを堆積させていく。その部屋にはしずしずと水が流れ込み、わたしはむしろそれを吉兆として感じる。なぜなら、水が流れ込むそのさきには、きっとはてしない風の吹く海があるはずだから。

 とかね。


 「そしてぼくは、自ら慰めることの惨めさを知った」

 これからは書評を書いていこうかと思った瞬間に、あれれ、では最近何を読んだだろうか、と考えてろくに思いつかないというありさまにがっくりし、とはいえ読んでいないわけではなくて、文章読本の類を少しだけ読んでいたのですが、なかなか、その読後感は暗澹とするようなものであり、ちょっと、どう書き出そうかと、実を言えば、迷ってる。

 結論のようにして抱かされた感想から書いてしまえば、いったい、なんでまたエンターテイメントの文章読本は、また、これだけ執拗に、視点の統一と文法への忠実をくどいくらい言うのだろうか、ということです。いいじゃん、視点なんていいかげんで。と、思うぼくがアマチュアだからか、あるいは、単に偏屈なだけなのか。

 つまり、カメラを意識すること、日本語の「正しい」表現を使うこと、事実関係は調査して正確に書くこと、たいていの文章読本はこれしか言っていない。いやわかるんだけど、よっく趣旨はわかるんだけど、短編中心の傾向と並んで、息苦しいことだなあ、と。

 さて、ネット上の小説。場所が変わるかもしれないので書いておくと、三月二十一日づけのところです。

上山達郎 「無題」

 ちなみに無題というタイトルではなくて無題みたいなのでそこのところ、宜しく。

 地上ゼロメートル、それは何よりも生存の零度のことなのだと思う。そこで死者と孤独者が語り合う。この構想がいい。実際、すべてはこの抽象的な明晰さから発しているかのようにさえ思えてくる。この冷えびえとした場所のリアリティはひとえに、ディスコミニュケーションの或る形態を冷静に肯定する意志にあるかのように私は感じはじめる。

 ひとは伝達に無数の夢を見る。そしてその伝達の理想から現実の伝達を裁き、これは伝達ではないとさえ言い切る。けれどそれは倒錯だ。これが伝達なのだ。だからこそ、この伝達の意味も可能性も測る冒険をしたことがないのに非難するのは幼さの証でしかないだろう。地上ゼロメートル。そこに落ちてくるもの、そしていなくなるもの、それを簡単に他者の寓意などと馴れた手さばきで書き付けるべきではないだろう。

 だからきっと、わたしは口篭もらなければならないのだ。この異様な明晰を前にして、この抽象を、理屈の抽象の明晰と見誤らないために。死者になお与えられるこの冷えびえとした対話のとき、広げられる膜のイメージ、その言葉の形式が向けられているのはおそらく、孤独の共振の可能性なのではないか、とも思われてくる。孤独を解消することなく、孤独が孤独と共振すること、それは路上の言葉によってのみ可能だろうけれど、ひときわ困難なことのようにも思える。

 カルロス・カスタネダの「未知の次元」で「戦士は自分がすでに死んでいることを知っている。だから何者もかれを驚かせることはできない」という言葉が出てくる。ひとはその内奥に死者を、それもおろかな自殺者を持っているのではないか。こう書くことは物語を内面のドラマに貶めることかもしれない。だが、内的なものこそが、孤独なものたちの間の伝達ともいえない対話のなかで、はじけるように現れてくるものでもあるのだ、とぼくは感じている。内的なものは伝達によってではなく、ひとつの「シーン」によってたち現れるのだ、といって見ようか。

やがて朝が訪れるだろう。彼女はこのまま眠り続け、そして日が照り始めれば最早彼女はそこにはいない。おそらく彼女はこのまま「成仏」と呼ばれる事態を迎え、消滅する。彼女がそこにいたという名残が、例えばベンチに坐っている時にささやかに生まれた温もりが誰もいなくなると消えてしまうように、消えてしまうのだろうと思う。朝日が昇ってくるのを見て、そろそろ私も眠りに就かなくてはならないことに気がつき、私も横になる。誰にも見られることのないサルベージの試みはここで幕を閉じる。

 この言葉が、予想よりも不意に感動的に響くとしたら、それはこのさりげなさの軽みのしている仕事だとわたしには思える。通俗的かもしれないが、朝はやがてくる。しかしまだ夜はなお続き、眠りはまだ訪れない。その滞留の時間の明晰な意識に宿るこの、奇妙なやさしさはやはり特筆に価するとぼくは思う。

 ではでは、今日はこんな感じで。