2001/5/18 9:30:00 PM

 「きょうはそういう気分なのでいかにもそういう文章っぽく。しかし本当はあんまりこういう読みやすい文章は書きたくない。しかしそれは我儘だろうか」

 人間は誰しもふとしたことで自分の正体を知って愕然とする瞬間がある。生まれたときから付き合っている自分といえども、少し角度を違えて見れば意外な死角が見つかるものだからだ。あのナポレオンでさえ、フランス革命に出会わなければ自分を知らずに終わったかもしれない、と想像してみるのはまったく無駄とも思えない。読者のみなさんのなかにも、まだ見ぬ何者かがその日を待って着々と力を蓄えているのかもしれない。

 わたしの場合、それは意外に最近まで訪れなかった。ナポレオンと比べるまでもない些細なことなのだが、それはたしかにひとつの発見だったのである。実はわたしは自分のことを人間嫌いだとは思っていなかった。むしろ大好きだと考えていたのである。ところが、先日、電車の中で、他人と身体が触れるということが本気でいやな自分というものに気が付いて、わたしは愕然としたのだ。

 心理学の用語に、パーソナルスペース、というものがある。人間はその領域にひとが踏み込むと不快を感じる空間的なひろがりを誰しも持っているというのである。このため、それが広い人と狭い人がとなりあわせると面白いことがおきる。狭い人は、あまりひとが遠くにいると、なんとなく落ち着かないので近づく、広い人はいやなので逃げる。世間ではこういう無意識のおっかけっこが意外と頻発しているものらしい。

 そうして、わたしはそれがかなり広くて、不快な他人ではなくても接触が不快なので、ちょっと人間大好きな自分という建前に、深刻な懐疑を起こした、というわけなのだ。

 みなさんは、そんな奇妙な自分、に出会ったことはないだろうか。

 「……自分でやっといて、……なんか凄い具合悪い。普段つかわない筋肉を無理に使ったような。……よくこんな文、普段から書いてる人は……ストレスがたまる……しかし、なぜこういう文が……違う感じなのか、それもよくわからない……というかあえてこんなものを書く自分の動機が……それこそわからないな……」

 と、いうわけで鬱憤を晴らす意味でここからは好き勝手に書く。とりあえずきびきびと書かせてもらう。第一この世の中に、書くべきことなんてほとんど何一つないのだ。それにしたってどうもいまひとついいものが書けずにいるのは書いたものにスピードをこめられずにいるからだ、という気がしてきている。もっと快速調で! 快活さこそ命じゃありませんか。というわけで、だ、たとえば、少なくともひとつのリアリズムのリズムがべつに駄洒落じやないんだけどー、要請されるわけ、である。了解? では、とりあえず、とりあえずですよ、劇をはじめようじゃないか、どうせこの世は、たちどころに失われる華によって飾られた舞台なのだから!

 空は晴れている! いや、雨上がりだから晴れているといっても死ぬほど空が青いというだけだ。雲だって負けず劣らず輝いているよ! そして、木々に雨の名残が、そう、ちょっとつやっぽいたとえをつかえば後朝のようにきらめいている。あたりは? いや、それはもう証明書つきの静けさだ。姉さんときてはこの静けさを疑うもののように意味もなく背伸びしてまわりをたしかめて、そうしてぼくにいったものさ。ねえ、タカシ、去年もこんなふうだったけねえ。知らないよ! というかどういう様子を指しているのかわからないって。だけどぼくはお墓参りが楽しくて仕方がないので、快活にご返事した。なんと言ったと思う? そう。それは本当は秘密にしておきたいんだけれど、特別に教えてあげるよ。つまり、ぼくはこういったのさ。何かもひとつ残らず去年と同じだよ、姉さん。だからなにひとつ問題もなく楽しく今年も進むはずさ! 

 お墓の中で鏡子おばさんもあのやわらかくてまるで風景みたいな感じのするうつくしい含み笑いをしているに違いないと、姉さんがお線香に火をつける間ぼくは思っていた。このごろの姉さんときてはあたらしくできたおともだちのことで少し調子を崩していて、ときどき何の脈絡もなく、あきらかに姉さんの趣味ではない映画のことを話したり、なにやってるんだか、という気がするんだけれど、そういう生き生きとした日々のことを鏡子おばさんほど愛していた人もいないから、これはやっぱり素敵なことなんだよ。

 何をお祈りするの、と姉さんが聞いてくれなかったから、ぼくは自分で背伸びをしてお坊さんのはげ頭を見つけてから云ったんだ。お祈りなんかしないよ! おばさんに死んでるってどういう気分って聞いたんだ。そしたら、おばさん、くすりとして答えてくれた。目の前のケーキが食べられないような気分よ、だけど、死ぬと気が長くなるみたいだから、気にしないで、またあいましょうね。すると……姉さんは急に顔を背けてしまった。

 だからぼくはちょっと静かになってしまって、そうして、そう、雲の白さを見上げてから、「日が落ちる前に、お参りを終わらせないと、また雨が降るよ」と、云った。

 すると、云うそばから俄か雨がまた降り出した。

 姉さんは、帰りましょう、と云った。

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 ところで。

 或る町に古本屋の老人がおりました。老人は疑い深いひとでした。或るとき怪我をして入院したのですが、そこで隣のベッドの偏屈なおばさんと知り合い、喧嘩ばかりしました。おばさんはいかにもおばさんなひとで、がさつさが老人とはあわなかったのです。しばらくして老人は退院しました。ところで老人には息子がいました。この息子は本がこころから嫌いでした。とうとうこの息子は老人の店に火をつけました。老人は幸い無事でしたが、本はすべて焼けてしまいました。一気に老け込んでしまった老人は、話相手がほしくなって病院に同室だった人々の見舞いに行きました。すると、おばさんが手術の失敗でなくなったという話を聞きました。それを聞いた老人は一瞬、顔を伏せましたが、二三日するとなぜか前よりもっと元気になっていました。近所の人はあんまりだとうわさをしました。さて、数年して老人もなくなってしまいました。疎遠だった家族があつまってみると、老人の遺産はみんななくなっていました。息子は大泣きに泣いて、古本屋を継ぎました。そしていったい何に財産を使ってしまったのかみながしらべてみると、それはすべて、おばさんの遺した娘に贈られていたのでした。

 「たまには、感傷的だったりもする」

 閉じ込められて育ったお姫様がいました。塔の外を見たことがありません。或るとき、三人の若者が三つの方角から塔によじのぼり、こんこん、助けにきたよ、と、云いました。お姫様は、顔もわからない三人の若者に、どんな返事をしよう、となやみました。すると、返事をしないうちに、若者たちは切りあいをはじめて、みんな死んでしまいました。お姫様はなんだかばからしくなって、彼女を閉じ込めていた悪魔に云いました。わたしは、もうずっとここにいるから、まわりを茨でおおってちょうだい。すると、ちょうどお姫様の我儘なことに飽き飽きしていた悪魔は、めんどうくさくなってお姫様を塔から追い出してしまいました。そこへ、うわさを聞いてまた彼女を救い出しにきた若者がやってきたので、お姫様はこういいました。

 とりあえず、わたしを町まで連れて行ってほしいの。

 そのあと若者がなんと答えたかは伝わっていません。

 いずれにせよ、お姫様はなんとかしたことでしょうけどね。

 ではでは。


2001/5/16 0:02:34 AM
ジークフリートなんて、俗な名だ

 他人を信用する、ということにどうも反感があって、いけない。しかし、信用できる関係を求めて、信用できるといったんきめたらとことん信用し、そうでない他人にはよそよそしい。そういうのは勝手だと思われて成らない。それは他人に対する狂信ではないか。ぼくにとって美徳だと思うのは、そのひとになら裏切られても仕方がない、そのことを受け入れようと、そういう建前にこころを決することだ。

 人間に絶対はない。絶対に裏切らない人間や絶対に味方をしてくれる相手しか愛さないような傲慢にだけはぼくは陥りたくはない。予期できないものだから、親切や余分な信頼は感動的なので、裏切らないことがそのひとの性格に組み込まれている相手が裏切らないのは、ただの、運命でしかない。勇気が恐れぬ事ではなく恐れに勝つことであるように、他者を信用するような無垢には、どこかに、無恥があるとぼくは思う。信用する、ということばの意味は、確信することではなく、確信すると、絶対はないことを深く知っていながら、それでも「云う」、ことだと思う。

 よく、確信犯だと誤解される。ぼくはあまり、反省を言葉にしないで、むしろ居直っていく方向で文章を書くことにしているから、そうなのだと思う。しかし全然そんなことはない。ただ、訂正ならともかく反省を他人に聴かせても意味なんかないと思っているだけで、それはたいして立派なことではない。また、よく、どうもぼくが主張してもいない、よくある通俗的な建前論をいっているようにも受け取られる。それはつまりぼくが「逆に」とか「敢えて」とかいう論法が嫌いで、ええかっこしいになることを避けないことにしているからだと思うのだが、しかしぼくとしては微妙な違いをそれなりにきちんと書いているつもりなんだけど。

 「しらたまの なにぞとひとのとひしとき つゆとこたへて けなましものを」

 フジ系の「はねるのトびら」がつまらない。他方で、「笑う子犬の生活 live」はライヴ番組になってから途端に善くなった。この違いは重要だと思う。千秋の仕切りのよさもある。「はねる」の失敗はひとえに時代の変化を無視して「とぶくすり」の再現をねらったことにある。また、人選も変だ。線の弱いコント芸人が中心なのだが、面白いムーブメント的なことをしたいのなら、むしろ、あくの強い、或る程度は全般的にこなす多様な人選をすべきだった。その意味では「子犬」の品川やフットボールアワー、中川家はじつにおもしろいし、こういうくみあわせると予期できない効果をうむようなものを想定すべきなのに、「はねる」ははやくもすでにおきまりの喜劇に芸風が偏向しつつある。異物がなくて、奇妙になめらかなのである。なんか、なかよしすぎる。作家先行すぎるのかもしれないし、企画が「くすり」とそっくりすぎるのもある。

 ところで、「オトせ!」もあまり成功してなくてテンション芸人の巣窟みたいになっているけど、それはともかく、あれでやっていた女の芸人がカップルと相撲して云々という「おっぱい相撲」というのは、むかしロンブーの番組でモリマンがやっていた「尻相撲」とまったく同じ企画で、ちょっとは知っててやってるなら恥じて欲しい。作家が番組の企画で遣るならともかく、芸人が持ち込みでやってるとしたらちょっと情けない。

 昼間遣っていた「ハウス・シッター 結婚願望」という映画はとてもよかった。ようするにうそからまことが出るはなしなのだが、それは「追想」という映画とともに、どうもぼくは偽りこそ真実というロマンチック・コメディに弱いらしい。

 ではでは。


2001/5/07 9:46:00 PM

 やあ、シトワイヤン、シトワイエンヌ諸君! 幻想鉱石採掘所 とりあえず掲示板を私物化してみたので、たまに思いついたように更新するので見てみてください。というか書き込みももちろん歓迎。鉱石だけに、勿論玉石混交なのは勘弁してください。ひろいあげて、精製してお話を書いてもパテントを請求したりしませんよ。鉱石ですから。

 それはともかく。あいかわらず「Love Story」はいいよな、と思っている。「アルハンブラの想い出」むかし、何かの映画できいたなあ、と思っているのですが、どうか。クラッシックギターはいいです。断言します。ちゃんと創作してる。脚本の北川さんは。キャストに無駄な役ないし。ドラマって無駄な役が多いことがよくあって、それでストーリーがごたごたするのです。しかも結局二時間にまとめられるようなストーリーだったりするし。でもこのドラマはちょっと緊密すぎて舞台っぽい趣が少ししないではない。緊密というより、限られた人間関係の内部で話が基本的に進展する、ということか。まだわからないけど。そういう点では、つねに外部からのイレギュラーがはいることで話が構成される「ヒーロー」なんかや、ゴールが明示された対を基本としている喜劇の「お見合い結婚」とも物語形式として違う。しかし緊密と書いたけどそれは形式というか人間関係の範囲ということでいってるだけで、実際にはこれはむしろあるゆるやかな距離を介した優雅さの物語だと思っている。いいかえればじつに悠長で切実な。ゆるやかさという名の愛。間がすごくあいていて、(ただしそれは映画にあらわれるような亀裂としての間ではなくて。ドラマではそういう気まずい亀裂としての、「現実的なもの」が出現する間はゆるされない)だらしなさではないルーズさ、やはりゆるやかさとでもいうしかないようなものがあると思う。なんと言うか、あらすじとしてのストーリーの裏をかいて遊んでいる優雅な愛の破片たちが見えるような。

 理性的にものを考えるというのは何がいちばんありそうなことかを考えるということでは実はないのだと思います。ありそうなこと、というのは経験から良識を経て判断するしかないものですが、それは実は未知の事を既知のことで裁く、ということにしかなりません。ありそうなことを見出す思考というのはだから日常の用には立つし、それで普段はやるしかないものですが、いざ、そういう限定からはなれたものを客観的にみつめようというときには、これは害になるのだと思います。ありえることとありえないことを画定して、ありえることはどれほどありそうになくても理からしてありえるということは実際にあってもおかしくないということだ、というのが知性の態度だと思うのです。だから同じことですが、どれほどありそうなことでも、存在しないことがありえない、のでないかぎり、ニュートラルであるべきです。わたしは子供のころそういう基本的なことを名探偵に習ったのです。「いいかい、ワトスン、それがとれほどありそうにないことでも、ほかのすべて可能性を消して残ったものが、答えだ」蓋然性と良識からものを考えるひとは、世界を自分の身の丈にあわせて断ち切ってしまうのではないでしょうか。勿論、ありうるということはあるということではありません。ですから何より問題なのはそれがありそうにないかどうか、ということではなくて、実際に証拠を求めるということなのだと思うのです。観念だけで結論を出していいのは可能性の議論までで、蓋然性の議論はすべきではない。そういうことを歴史についてのごたごたを聞きながら思わずにはいられません。

 もうひとつ、これはぼくにとってかなり大切な基準なのですが、どれほど説得力があるように自分にとって思えても、その文章に他人の視点をあらわす別の固有名詞を入れても同様に成り立つ論法は、ぜんぜん、信頼するに足りない。ということです。わかりにくいかもしれませんが、実際はとても簡単です。

 たとえばぼくがあるひとをぼくの味方でないから悪い、というとします。しかしそのひともまたぼくに対して、同じことをいえます。ぼくはかれの味方ではないから悪い、と。これが文の入れ替えです。しかし、真実はひとつですから、どちらも悪い、ということをこれが含意していない限り、この論法は間違いです。悪い、が嫌いだ、なら、勿論意味をなしますが、悪い、というのは客観に関することですから、両方ただしいということはありえません。つまり、自分の意見をぼくが支持しているのは、それが正しいと思うからではなくて、自分の意見だから、自分贔屓で支持しているのではないか、という強いうたがいをもつ、ということです。

 ところで、そんなことはこの際どうでもいいのですが、

 そのひとを愛しているのかと問われればむしろ、それはもはやイメージに過ぎない、と答えたいというのが本当なのかもしれない、と言いたくなる。しかしどうにも、切迫は、あるいはこれは、幻の、いかにも歌謡曲めいて、しかし、いっそ、これは執心というべきか。何ら交渉のない日が続き、しかもそれが自分の勝手でそうしたのであってみれば、もはやことはなんら彼女にはかかわりがなく、わたしの内的な問題であるのだろうとひとりごちるたびに、しかし、彼女の図像が呼び起こすなにものかの危機。素通りすべきこの感傷的な指先のワルツ、それははたしてなにを求めているのか、安らぎならばわたしはおろかのきわみ、憧れならばなお愚劣で、とはいえ、こうして文に用いる臆面のなさを肯定しもする。危機は歌うが如く恍惚して、唇には散弾銃、花束はつきより落ちて、

 もしもそれが世界の終わるうららかな秋の日なら、やっぱり愛する人と公園に行こう。そうして枯葉の向こうのしずかな日差しをこころにしながら、なにかやさしいことを話し合おう。そのときには、やっぱりひとりで小説なんか読んでいるひまはないし、あんまりそれでは悲しすぎる。だからぼくはこう云うんだ。ぜひとも世界の終わるそのうららかな秋の日の一日前に、愛する人にやがて語る言葉のために、ぼくらの小説を読んでほしいと。

 こんな夢を見た。いや、夢を見たと思ったのが、幻だったのかもしれない。

 誰だか思い出せない人に、手紙を託されて、べつのとてもなつかしいひとに渡しに往った。そのひとはこみいった路地のおくに住んでいて、ぼくはそのひとの顔を見てはいけないのだった。それはなにかむかしぼくがわるいことをした罰で、そのひともそのことをとてもかなしんでいた。ぼくはそのひとの声だけを聞きながらその手紙を渡した。そのひとはあいかわらず玄関の向こうで顔を見せてはくれないまま、もうすみました、とつたえてください、と三度、やさしい声で云った。ぼくは花に変わってしまった手紙を花瓶にいけているそのひとのすがたを思いながら、さようなら、さようなら! と云って、込み入った路地を抜けて帰った。部屋には電報が届いていて、なにひとつ、取り返しのつくことはなかった。

adieu.


2001/5/01 3:47:00 PM

 いつのまにか、五月に入ってしまいました。なんだか、ベッキーが気になって仕方がありません。しかし、野村佑香とそこはかとなくかぶっているような気もするのですが、そのあたりはどうなっているのでしょうか。実は華原朋美のことも気になっていて、できたら売れてほしいのですが、テレビに踊らされているのかもしれません、といっても操られていると妄想してばかりいるとディックのようになってしまうので、むしろ内館牧子の脚本の陰惨さがやりきれない、ということに考えが走ったりもします。因習的な気がします。それと比べてみれば北川悦吏子の脚本ははるかによくできている、とあらためて感心しているのです。トヨエツのファンなだけかもしれませんが。そして、野島伸治のひとりよがりの観念的な芝居はやはり見る人を舐めているのです。言葉だけが先行していて気味の悪いくらい実体がない。

 そういえば江角マキ子のやっているラブ・レボリューションというドラマは誰が書いているのか分かりませんが、気丈だけれど実は古風でこころやさしいというパターンは陳腐なのではないでしょうか。だいいち、キスしすぎです。美人が甘えるところを絵として見たいだけのように見えます。志が低すぎです。「明日があるさ」はもう駄作というしかなくて、キャストだけで見られるものができると考えるのは驕りだと思われます。というより見ていて、実力主義より人間味のほうが最後に奇跡を、とか、落ちこぼれが団結してエリートを、とか、まったく共感できない類型はやめてほしいです。浪花節人間が悪役で出てくるドラマというのはないのでしょうか。家族と人情はかならず勝つのだからやりきれない。

 ……テレビばっかり、見てるんじゃありません。

 「燦々と赤い枯れ葉がふわふわした綿毛のようなゆるやかさで旗沼に落ちていく。梓はここに来るのが幼い頃から好きだった。あたかも開墾の過程で取り残された原始林がそのまま隔離された場所で世代を重ねたということを誇示するように、この小高い町中の丘の上の神社の境内には、奇妙に静謐な沼があって、生家が近かった梓はよくその果てしもなく沼の中に降り続ける枯れ葉を時間の寓意のように漠然と感じていた。いつ訪れても、どの季節でも、この沼のなかへと頭上の木々からは木の葉が尽きることなく降り続けていて、しかも奇妙なことにその降り積もった枯れ葉によって沼が埋もれてしまうということもない。どこかに地下水流や腐葉土を持ち運ぶシステムがあるのだろうと梓の脳髄は考えるが、彼女の身体はただこの無限の直接の表象をそのままに受け取って生い育っていった。一体に、常緑樹というものはあっても常紅葉樹というのが、もしかしたらこの広大な世界のことだから分からないが、やはりあろうとは思われない。恐らく複数の紅葉の季節の異なる木々が重なり合って存在しているのだろうと思われるのだが、何故かその切れ目がはっきりとしていたことは一度だってないのだった。」

 とはいえ、副産物で、「追想」という皇女アナスタシアを主題にした映画が途中からですが見られて、うれしかったということもありました。かっこよかった。と、いま検索したら、有名な映画らしい。なるほど、そりゃいい筈だよ。「市民ケーン」が好きだということからも大時代なものが好きだ、というのが分かるのですが、しかしそれだけではなく、虚構と現実、芝居と生ということを考えていたからなのだろうか、とも思います。「追想」は虚偽と真実のあやうい混交が背景にある話です。

 関係ないのですが……

 田村隆一さんの詩に、「四千の日と夜」というものがあって、はじめて読んだときひどく感動したことをおぼえています。こんな詩です。

一篇の詩が生れるためには
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、溶鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐れみを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一遍の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなくてはならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり
われわれはその道を行かなければならない

 今は、この抽象性と殺伐とした雰囲気に馴染めない部分も持ってはいるのですが、同時にやはり美しい詩だというこころもはっきりとあります。言葉にする、それも文脈から切り離して、ゴーストのようなあいまいで遠い相手に向けて組み合わせるということは確かにひとつの殺戮なのです。ですがそれは、

 「おぎゃあ!」

 再生の秘儀でもあるのでしょう。もっともひとは多くその仕組みを知っているわけではないのですが。まあ、そういったってそのことそのものがどうということでもなく。ただこの瞬間には断絶があって、この不連続点は経験の外にある、ということが不思議であったりはするのです。「反転」の瞬間は絶対に見えない。

 そういえばこれは「ゴジロ」という小説のテーマのひとつでもあった。これは傑作です。いますぐにでも読むべきです。この小説では「再原始化」という言葉を使っていたっけ。

 そうだ。メーデーですね。

 岡本かの子の随筆が検索でひっかかったので。リンク


2001/4/22 6:18:13 PM
 とくに根拠はありませんが、今回のBGMはVelvet Undergroundのサーンデモニンーという曲です。

 それにしても、赤頭巾ちゃんのお祖母さんはどうして危険な森のなかに住んでいたのだろう。病気で動けないのなら、どうやって暮らしていたのだろう。となると下世話な想像力はすぐさま猟師をあやしいとにらむ。といってもぼくはいまから俗な分かり易い整理をしようとしているのではなく、むしろもっと混乱させたいつもりで書いているのである。ババー・ヤーガというロシア民話の森のなかに住む鬼婆の話があり、ヨーロッパでも森のなかには人を食う魔女が住む。日本なら山姥だ。ということは赤頭巾ちゃんのお祖母さんには森の魔女、異教の女神の影が差しているに違いない。だが狼の役回りがここで分からない。もっとも、中世の悪魔はどちらかというとなまはげのようなもので、半獣半人のよく分からない動き叫ぶおそろしいものというイメージだったらしいから、悪魔とみてもいい。といってもそれはそれとして、猟師と狼は所詮、同類、という感触があるのは誰にも明らかで、だいたいが狩人というのは、農耕民の民俗では他界に属する不気味なものとして扱われるのがつねの、移動民である。森は禁制の地で、そういう定住民から見て禁忌や神聖、汚れをおった存在でなければ入れない筈のものだ。

 赤頭巾の親はいったい何をしていてどういうつもりなのか。もしかするとこれは通過儀礼なのかも知れない。肝試しというのは明らかにそういう古い成人儀礼の名残で、そういうものとして、赤頭巾は試練を与えられたという見方もできる。ところでもとのはなしには猟師は出てこないのであるから、やはりかれは狼のキャラとのだぶりなのであろう。狼は魔術師で、トリックスター的な存在だと想像できるだろうか。だからお祖母さんに化けた狼が赤頭巾を食うという論理は、人食いの女神が食うということの夢の歪曲だとも思われてくる。しかし性差の理論の方面から云うとこれを女性の文化の継承と連帯と男性の暴力という目で見たいというのはとても分かる。しかしそれでは物語のダークサイドがやや勧善懲悪に流れるだろう。赤頭巾の父親という人物が又はっきりしない。ヘンゼルとグレーテルの両親は比較的はっきりしている。どうも疑いとしてはなせないのは赤頭巾ちゃんは生け贄に騙されて行かされたのではないかということで、そうなるとこの両親、見るからに悪人である。

 もっとも近代的な目で見るともっとも疑惑を招くのはこの物語の報告者は誰かと云うことである。もとの話だと狼が食べちゃって終わりなのだから、狼が報告するわけはないので、この物語全体が、両親や村人による憶測ということになる。これは仮定するほかないが、たとえばお祖母さんの家に血痕や毛、肉片、遺留品があったとする。しかしそうなると犯人がなにものなのか本当には分からない話である。もしかすると人間がしたことかもしれないし、赤頭巾がお祖母さんを殺害した、あるいはその逆と云うこともありうるだろう。さらに両親を悪人と仮定すると、赤頭巾は人さらいに売り飛ばされたのではないか、という推測も成り立つ。その後、両親がこの話を吹聴したという流れである。

 公平を期すためオオカミの身にもなってみよう。オオカミというのはよほど飢えない限り人間や家畜を襲ったりしないし、基本的には群れる動物であるから、これは群を追い出されたはぐれオオカミである。しかしこのオオカミはしゃべる。いくら赤頭巾が無垢でも動物がしゃべったら驚くだろう。これをひとと見る。即ち近代的な語り直しが何パターンかできる所以である。となるとこれは漂泊者、亡命者、旅人、逃亡者、逸脱者のたぐいであり、外国人と見てもいい。しかしこういう語り直しは面白いがやや凡庸に傾く。ボルヘスや吸血鬼物語のような物語の一構成分子として、赤頭巾は語られうるけれども、それではいまひとつ、という気がしないではない。じつは、この物語を日本で翻案するとむしろ都の話になるだろう。ときは平安末期、さびれはてた左京に住む落魄の叔母の元に向かう姫、鬼に食われてしまう、という筋立てだが、この筋立て、今昔に入れるにはやや物語に屈曲が足りない。それだけかよ、ということで、何かしら神仏関係の縁起がほしいところ。なにより日本の鬼はそれほど複雑なことを話してはいけない。まして仮装してだますような手間はかけないだろう。

 むしろそういう手間をかけるのは天狗ではないか、という気もしては来る。狐はまどわしてもそう残酷なことはしない。取り殺すと行ってもじわじわと病気にするようなことで食べたり首を落としたりはすまい。あるいは蛇神、たたりがみの類か。しかしやはり矛盾は見えてくるので、かなり本朝の物語とは違うと云うことがはっきりしてきたわけである。そこで語り直しと云うことでまあ定番だが現代、とこれをおいてみる。偏見も有りつつ上野のイラン人の犯罪みたいにしてそのまま工夫もなく翻案することは簡単である。新宿歌舞伎町なんかだとあぶなさ満点だし、じつに単に救いがない話に出来る。救いがない、ということを強調して、お祖母さんを、その子がやっと出会うと期待に胸をはずませる母親ということにすれば、悲しさ数倍。すると台詞も生きてくる。「どうしてそんなに爪が長いの」「どうしてそんなに唇が赤いの」「どうして髪の毛がそんなに金色なの」

 ここは撃つよりも首を絞めてころしたいところ。しかし動機の設定がむずかしい。母にもっていくものは勿論ワインなんかではなく、覚醒剤とか、通帳とか、そういうたぐいのものか。しかしころす必要はないな。奪えばいい。ころす必要を仮構する必要がある。犯人を女にして、あとで後悔させる。近代的な物語だとどっちかというと後日談が主になるよね。(馴れ馴れしい)なんというか、これ、小説と云うより映画向きのアイディアだな、なんとなく。あとから結局、やっぱり本当の母親だったみたいなはなしにするとあまりに因果ものめくが。

 「不夜城」の記憶が妙にあたらしいせいである。

 娘は娘で、母を母と知らず殺しに行くのかも知れないな。

*

 つぎはBGM、ナンバーガール。ZEGEN VS UNDERCOVER。あとハイカラ狂い。何故っていま流れてるから。

 内省的になぞなってやるものか、という気分になることはたまにある。誠実さと同じ事だが、乱暴であることが必要になる。必要になるという言い方もかなり行儀がいい。すらっとやりすぎる、ということをわたしは意味したいのである。つまり、すきまをつくる。ついていけない飛躍を孕ませる。上品さがかならずしも非難に値せず、野卑だからいいというのでもない。飛躍、断絶、やりすぎ、徹底、無制限、留め金の外れた、抑制のない、異質な。いきなりでなめらかで強烈な。準備をさせない。

 そしてそれとしての法則を持つ。だからこそ恐ろしい。法を持つということは力を集約させ、結晶させるためだ。

 法のない逸脱は遊びに過ぎない。それも卑しい奴だ。こどもは、自分が禁忌を侵していると云うことに酔う。わざと乱暴なことをしたりして「はは、こんなことしてるよ、おれ」などと思う。そういう楽しさ、これは愚劣のかぎりである。逸脱するなら、なにを目的とし、何処へ力を集中し、どのようなものとして自己を構成するか、そのような結晶として切り裂くべきだ。合理とはそのようなひとつの力の出来事にかかわる法のことである。コトワリは構成され、発見されるもので、従われるべきものではない。法は他者によってあとから見出されるもので、意識される対象としてあるのではない。だから法はユニークで、伝達不可能なのだ。それは出来事だからである。だから矛盾するようだが、法とはひとつの偶然の戯れなのである。

 内省は多くの場合、自己抑制のゲームだ。最良の像へ自己を削っていく。「消去法」は愚劣なものだとわたしは信じている。内省ではなく観察が必要なのだ。法を持つということは法に従うことではない。法をつくることだ。あるいはひとつの反復と焦点をあらたにつくりだす。法に従うという言葉が意味を為すのは内省で自己を二つに分けることによってはじめてである。ひとは自分に従うことなどほんとうは出来ない。ひとはただ行うのだ。意識は自己のモニターでしかないのだから。意識が身体を動かすのではない。身体の思考を意識が言語の形でモニターしているだけなのである。しかし内省に意味がないわけではない。身体が内省したり、しなかったりするのである。

 JGB「この世界の悪徳は来るべき世界での美徳の粗雑な隠喩なのかもしれない」


2001/4/15 10:25:43 PM
 コウモリというどうぶつが好きだ。夜を好み、属すべき処を知らず、けものにして飛ぶことを欲して、その声はかすれてキイキイと哀れっぽくひびき、まともな意味を為しはしない。

 旗幟不鮮明なのは二つの理由があるに違いない。ひとつは迷いから、ひとつは区分けを横切って選んでいるから。迷い、選ばないものが嫌悪を誘うのは仕方がない。区分けを無視して自分にとって意味のある選び方をするものが拒まれるのは故のないことだ。だが、やむを得ない! 世界は実用的な人々の実際的な理屈で動いている。たとえ隠遁者たちが実用とは出来事の繰り返されるところだけを取り出した抽象だと伝えたところで、その言葉さえも抽象されてしまうのだから。

 しかし侮蔑は要らぬことだ。生き延びるためには実際的に振る舞わなければならない。

*

 恋愛小説。ナボコフは小説の進歩は世界の進歩と関わりなく、あるいは逆らって進むしかない、と云う。小説形式の進展は現実をたしかに反映しないわけではないが、どう反映するかは小説形式のそれまでの進展にしか依存しないので、結局、関係ないも同じ事だ、ということ。そのうえで、一般的傾向として、世界は合理化され通俗化していくのに対して、小説形式の進展はより繊細な経験の形式を必要とするので、矛盾する。ということだと私は解する。なるほど、たしかにそうだ。悲観的だけど。

 もっともぼくは文明の進歩一般を批判するなんて無責任もいいとこだと思うけどね。医学がなければたすかるひとも死ぬし、科学がなければ出来ることもできない。尊厳のない生よりも納得したうえでの尊厳のある死がいいなどというのは、たわごとだと思う。どんなかたちであれ、生きている方がいい。そのうえで或る生き方が批判されるべきなのであって、或る生き方が駄目だからといって、それよりも死の方がいいなどというのは最悪の短絡だと思う。死を選ぶことを批判する気はない。死ななければならなかった、そういう巡り合わせだってあるだろうし、それを高いところから裁くなどと云うのはすべきではない。死を肯定する言説を構成することを批判しているのだ。死ぬのは勝手だ。権利ですらある。だが死を正当化するのは勝手ではない。死ぬのならば、いかなる正当性も背負わずに、無意味に勝手に死ぬべきだ。ひとの悪癖はいいことをしたがるだけではなく、していることをいいことだと云いたがることだ。

 どうもいけない。物事をこの時代の風潮に染まっているせいか、すぐ恋愛小説的に構成してしまう。ひとを恋すると云うことは関係の形式としてかなり基本的だ。それは疑いない。水原紫苑が授業で云っていたけれど、彼女にとって、コップが水と恋するように、枯れ葉が大地にこがれるように、世界は経験されるのだという。比喩は観念のもんだいだが、文学は経験の形式のもんだいなのだ。それが比喩という形式をつかわなければならないのは言語と人間のおたがいの巡り合わせの不幸というもので、なんとも情けないけれど避けられない。

 恋愛小説的な構成というのの欠点はペアが過大に重点が置かれてしまうことだ。ペアというのは喜劇の最重要なカテゴリーだが、たとえばそれはマンガによく見られる。かならずペアがなければならない。ペアは恋しなければならない。これくらい専制的な掟はない。それで一時期、男しかでない小説を意識して書いた。しかし今度は、悪夢的なことに、彼等はすべてぼくだった。気持ち悪いよう。ならば今度は、ということで無名の典型たちを登場させる。八百屋、教師、牧師、父、従兄弟、そうすれば彼等がぼくになる気遣いはない。八百屋は八百屋であってぼくではないから。そうしたら、何ということだろう、ぼくは「通俗小説」を書いている自分を見出したではないか。悪いけど、これは、マンガだよ。類型と会話で構成された少し機知のきいた物語、悪いことにぼくはそういう才能は少しだけあって、田中芳樹の低級な亜流ならかなり楽に書ける。

 思うにそれは元気で率直な少女と鈍重で才能があって皮肉で不遇な青年という古来の類型が染みついているからだ。唾棄すべき通俗。じつに下らない。現実を見よ? それは違う。現実とは形式だ。そこで思う。この見通しの悪さは観察の問題ではなく構成力の問題なのだ。それも物語の構成のもんだいではなく、小説的構成のもんだいで、小説の構成はプロットやストーリーの構成ではなく、そういうものも含めて、意味の関連、言葉の共鳴、神話のひびき、読みの順番、想像の衝突の仕方、そういうものも含めた全体的行為のことなのだが、要は、事態の配列、アレンジ、組み合わせの効果をいかに組み立てていくかと云うこと。

*

 それは恐らくわたしが一般的に不可視になっているものに対してわたしも不可視になっているから、物事の関連が見えなくなっており、物事の関連が見えないが故に、物事の可能を想像できないと云うことなのだ。物事の組み立てが見えなければ物事を再構成したり組み立て直したり、別のものとしてつくりなおすことは出来ない。

 さて、まず主人公を構想すべきだろうか。これはしかし失敗しやすい。このやり方は向こうから語りかけてくる場合のみに限定しよう。経験則。むしろ状況を、それも構造と云うよりもシーンを想定しよう。ただしこのシーンは無論、構造をも含有しなければならない。しかもこの構造は水平だとつまらないので、なんともやりきれないことだが、ある種、上下関係をも含まずにはいられない。とはいえそればかりだと、どうにもいろけというか潤いが足りないので、ここに幸福のイメージの種子を。幸福のイメージであってもちろん幸福の、ではない。

 雨が降る。屋上には死骸がある。死骸には娘がいる。娘には債権者がいる。債権者は公園を歩く。公園には新聞が舞っている。雨が降り続けている。ひとつのビル、雑居ビル。ビルには会社とアパートとが入っている。トイレは共有。訪れる。郵便。ビラ配り。ビラ配りはバイト。バイトはパラサイト・シングル。テレビには女優。女優は中学生。友達は死骸の娘。

 ではでは。


2001/4/8 1:03:48 AM

 あらためて書きはじめると何を書いていいか迷う。いつも迷ってるんだけど、他人の書くものを読んでもなおさら不思議なのはひとは何を書くかについて迷わないのだろうかということなのだ。言い換えると、ひとが何に興味を持つかということについて確信が何処から湧いてきているのだろうか。ぼくはあなたのことなど一切知らない。正直云うとあんまり興味もない。ついでにいうとだから口調もどうしていいか分からない。すべてがあやふやだ。書きたいことをひとは書いているのだろうか。しかし書きたいことなど何もない。それは言い過ぎかも知れない。あなたの希望に逆らってまで書きたいことなどない、というべきだ。云いたいことだっていくつかあるし、考えていることだっていくつか有るし、うつくしいと思う風景も知ってる。けれどそれが求められていないとしたら、そこまでして云いたいわけじゃない。ひとは何故書くのだろうか。書かねばならないのだろうか。

 動機ははっきりしている。あなたが満足すればそれでいい。ぼくはもう一切媚びを売っているといってもいい。だが媚びを売るというのは自分の為にするところがあってのことだ。ぼくは得が何かあるわけではないのだから、これはひとつの狂気にすぎないかもしれない。満足? もしかしたらそれは挑戦かも知れない。なにせリルケのいうところでは美は致命的なものでひとを滅ぼすものなのだから。あなたはもう退屈しているだろうか。あなたは二人称で呼びかけられることに不快だろうか。あなたは目の前で逡巡を演じられることを求めていないだろうか。わたしは自ら求めるところを知らない。自分自身すら知らない。そのせいで一人称の混乱をのぞんで放置しているくらいだ。わたしとぼくと自分との間には何があるのか、何もないのか。それは、そうした言葉の使い分けで事柄が綺麗に整理できるなどと信じているわけではない。ただ、整理するのが耐え難いだけだ。

 市に出されるのはいつも感性と斬新な切り口、そして奇妙なユーモア。好きになれないのはその明滅する速度だ。誰も書くことの内実を育てるすべは知らない。ただ、世に起きることにあてはめて、ハイ、出来上がり。考察はいつもしんっじられないくらい生真面目で、つき合いのいいことおびただしい。ぼくは美にあこがれている。それだけがほしい。倫理などゴミ箱に投げ捨てたいし、裏切りも軽薄も望むところだ。誠実さがまわりには溢れていて、ぼくは息が詰まりかけている。もしかすると、誠実さと美とは深いところで折り合いが悪いのかも知れない。宗教的人格の禁欲好きには近寄りたくもないし、それにしても一過性の才気と誠実さのあまり色っぽく滅びかけているような言葉も好きになれない。いい加減でぬけぬけと語る言葉にこそ美は宿るとぼくは信じた。脱出の願いは言葉の貧困から遠ざかる。

 だからぼくはぬけぬけと書き付ける。あなたがたとえぼくの嫌いなストーカーめいたタイプの男だとしても、ぼくはいま書いていて、あなたがいま読んでいるというかぎりにおいて、誰よりも愛していると。一瞬後のことも一瞬前のことも知るものか。責任は美に切迫において譲るべきだ。いつ死ぬか分からないのに、惨めな瞬間を増やす権利が誰にあるというんだ。祭りは、宴は、婚礼はいつもひらかれていて、その庭園では誰もが歓迎されていて、はなやかにさざめきが流れる。言葉が読まれるとき、世界はその都度終わっているのだ。

 ……ところで今月からのぼくの課題。一日最低三枚。目標五枚。以上。


 「道元とヴイトゲンシュタイン」といういかれた題名の本を読んでいる。「道元とデリダ」という本もあったのだがこちらにした。もう一冊、もう読み終えた本は打ち明けるとかなりこっぱずかしいものがある。「ライターになれる人/なれない人」。こういうやばい題名の本を借りてくるあたりかなり精神のふらつきが可視化される趣があって恥ずかしいが、意外と面白い本だった。原題は「"the meditation book for writers"」雰囲気は宗教っぽいのだが、実質はもう少し実践的。基本的には、書く、という行為を起こすまでのことで、すでに書きつつあるときのアドバイスではない。が、書くということが実はどのように書くかより重要な場面があったりするので、意外とこれは大切なことなのである。一日書かなければ書き手は、確実に一日分だけ退歩する。そういう意味では、どんな書き手も坂の上を歩いているのだ。唯一の救いは、横から段階を飛ばして落ちることはないと云うことだけだろう。それだってそれほど定かなことではない。実際、書くことから逃げている間、妙に体調崩したりやる気なくなったりひととして断然マイナスなんだよな。書いていますぐものになるわけではないのだから、これはいっそ迷惑な禁断症状といっていいのではないか。うっとり作家体質うーなどと浮かれている場合ではない。依存症だろう、これは。

 「道元とヴイトゲンシュタイン」の最初の方に独我論について面白いことが書いてあった。独我論がどういうものかはここでは説明を省くが、まあ常識的な考えがそうなっているとしておいて構わない。ものをみるというとき、ものの像が心に映ると考える。すると、ものの本当の姿を知りたいと考えると、この心に映る像の歪みが気になってくる。この歪みはこざかしい「我」というやつのせいで、こいつがこしゃくな個人差を生み出している。ものの本当の姿はこの心に映る像を通してしか知ることが出来ないので、より本当に近づくにはこの「我」による歪みをどんどん消していけばいい。すると最後にやってくるのは、完全に中立的な個人性もない、ほとんど「ゼロ」に近い、いわば死者の目に映る像が本物に一致するわけだろう。そのときひとつのユートピアがあらわれる。これが独我論で、勿論間違っているのだが、読者の大半は何処がいけないのかとっさには分からないのではないか。

 種明かしはウィトゲンシュタインに依れば簡単だ。詳しくは「哲学探究」を読んで欲しいが、ものの性質なんてものはわたしがそのものと関わるという行為と本質的に分離できないのだから、行為や具体的働きかけを脱色してしまったらものの方だって蒸発してしまう、ということだ。たとえば目の構造と無関係な赤そのものなんてものはない。わたしが見ている赤はわたしの目の構造によって偏った赤で、だから目の構造による偏りを補正して脱色していけばだんだん客観的な赤に近づくに違いない、という独我論の想定がへんなことはすぐに分かる。別の角度から云うと、ものが赤いかどうかということを決める基準は赤という言葉の文法であり会話の中でそれを赤と呼ぶことの働きという観点からであって、わたしとそのものとの間の内密で親しい関わり合いではない。言葉とは他人と何かをするためにあるのだから。親切な人の親切さを純粋にそれだけ取り出して知るためには特定の誰かへの親切では駄目で、その誰かへの親切から、誰かへの部分を殺いでしまえばいい……ありえないよなあ。あるいは、親切な人が親切かどうかを決めるのは、その人を親切という言葉で呼ぶという行為が社会の中でもつ意味や働きに依る。といってもいい。

 独我論ということを死者の零度の存在、零度の視線への欲求とつなげて考えたことがなかったので、この指摘は新鮮だった。しかしこれかなり無茶をいってるので自分が世界を知るためには自分が邪魔だから消しちまえ、という話で、しかし自分を消しちまったら誰が世界を知るというのか、そこでかなり理屈の無理がやってくるが、これはやはり誤魔化しである。それは自分の観点からの「私の」世界に幽閉されていて、「本当の」世界から隔離されていると感じるひとはそこからの脱出としてこの自分がいけねえんだ、と思うのは無理がない。1が駄目なら零にしろという話で、しかし穏当に考えれば2とか3にすればいいのではないか。そうかあ、或る種の真面目な人がいやに自殺にこだわるのはそういう訳だったのか。