固有名とフィクション
Kさん(Vexation)の固有名詞と記入例「山田花子」の関係についてのコメントを契機として。
導入。
税務署なんかの記入例「山田花子」は固有名詞だろうか、という問いについて考える前に、セオリーとして固有名詞というのはいったい何か考えてみようとおもう。固有名詞というのは固有の名のことだと考えて分かってしまう、ということもままあるかもしれない。しかし、或るものの特定の名称が固有名で一般的な意味のある名詞が普通名詞だ、というふうに考えてしまうと、無数のボーダーラインができてしまって非常に曖昧になってしまう。一般的である、とか、意味を持つ、という言葉そのものがここではきちんと考え直しておかなくてはいけない。
バートランド・ラッセルは、普通名詞や固有名詞は偽装した記述であって、本当の固有名詞は「これ」「あれ」だけだという理論を出したことがある。つまり、書き換えによって固有名詞「城野拓郎」は「城野拓郎という名前を持ちこれこれの場所に住み……云々の人物」という記述の縮約として見なせるというのである。しかしこの考え方は、クリプキのいう可能世界論によって反駁にさらされる。(余談ではあるが、可能性(必然偶然)についての議論と、固有名詞についての議論はひとつながりのものだ。)
なぜラッセルの議論が問題を孕んでいるかというと、柄谷行人のせいで一般的になった「単独性」と「特殊性」の区別の問題がからんでくるからなのである。記述し、限定に限定を重ねることで指定していくということは、クラスとメンバーという考え方を使えば分かるとおり、あてはまる集合を狭めていく、ということである。そして、理想的には、要素がひとつしかないところまで集合をせばめていく。しかし、ちょっと考えればわかるとおり、このときこの要素がひとつしかない集合(限定条件)に、そのほかならぬ要素がひとつしかなく存在しているのは、根源的には偶然に過ぎない。
ここは永井均なんかもしつこく述べているところなのだけど、この特定条件、集合が「一般性」に対応するものとしての「特殊性」なのであって、これはいわば一般性の度が低い「一般性」である。それに対して、「単独性」「固有性」というものがある。つまり、よりふるい用語をつかうと、限定によって私が指定されるのは結局、わたしの属性を指定していく、ということだ。しかし、わたしはわたしの属性の集合として完全に定義できるだろうか。たしかに、有限では不可能だが、無限にわたしの属性すべてを指定すれば、可能だということになるかもしれない。(このへんはライプニッツの議論)しかし、はたしてそうか。
もっとわかりやすく例示すると、ある学級に男がひとりしかいないとする。そのとき、男という言葉は固有名詞だろうか。勿論そんなことはない。男という属性がそのかれにしか当てはまらないと言うのは、その学級がそのようであるという偶然の事情に依るものでしかない。さきに、根源的に偶然と言った意味はそういうことである。しかし、いま問題にしている実際では、この世界全体が対象である。
そこで、反論が予想される。男という言葉は、そこに男が一人しかいない世界の内部では、勿論、固有名詞である、われわれがいま男という言葉が固有名詞ではないと断定するのは、男がたくさんいる世界の言葉で考えているからだ。というものである。しかし、これも違う。ここでクリプキの可能世界論を使うことにする。そこで、たしかにわれわれの世界でもひとりしかいない存在を例に挙げよう。彼女は、さきの学級の例における男という言葉に対応するはずである。
「イギリスの現在の女王」は、ひとりしかいない。ひとりしかいないものを十分に指定しているのだから、これは固有名詞か。そこで、彼女がイギリスの現在の女王ではない、可能世界を考えよう。このとき、彼女がこの世界でイギリスの現在の女王であるのは根源的には偶然と言うことになるだろう。それでは、エリザベスという固有名詞と、イギリスの現在の女王という名詞のあいだの根源的差異は何か、というと、可能世界をつらぬく同一性をそれがもっているかということになる。
もちろん、ここでも反論は予想されて、彼女がエリザベスという名前ではない世界を考えることが出来る、というものだ。しかし、ここでは議論のレベルが混同されている。ここでわたしが「彼女」という言葉を導入したが、しかしこの「彼女」という言葉は「エリザベス」によって定義されていて、この論理的順序を逆にしてはならない。つまり、エリザベスがエリザベスという名前ではない世界を考える、ということがじつはまえの言明ではいわれているのであり、である以上、じつはかれはいったんは別の世界でもエリザベスがエリザベスであることを認めているのである。
すこし、議論がとっちらかってきたが、眼目はこういうことだ。たとえ、この世界にあてはまるひとがひとりしかいないというところまで限定し、属性記述しても、それは固有名詞の固有性、単独性に到達することは出来ず、一般性の一種としての特殊性に到達できるに過ぎない。クラスはメンバーが、事実的に(この世界内的に)ひとつしかなくても、権利的に(貫世界的に)はメンバーを複数取りうるものだからである。
(ちなみにこれは恋する主体のパラドックス:ほかならぬわたしを愛して、わたしの属性ではなく、というと、他人とわたしの区別がつかなくなって愛されることが偶然になり、わたしをその属性故に愛して、というと、ならば同じ属性をもつ他人でもいいことになる、ということにつながっていく)
ラッセルはこうした事態に対して、真の固有名詞は「これ」や「あれ」という指示だけだ、といったが、しかしこれは非常にうたがわしい。ウィトゲンシュタインのいうように、これという身振りがそれを指すと言うことは一般的な名詞がすでになりたっている世界の内部でしか可能ではないからだ。これという指示がほかならぬそれを指示できる根拠は明確ではない。
と、いうわけで、固有名詞とは、この世界がこのような世界であるがゆえにたまたまこの世界にひとつしかないものを指すのではなく、どのような世界であっても、原理的に同一であるものを指すものであるということが明らかになった。
(ところでより細かい議論をすると、その原理的にというのは論理的になのか、それとも無前提のものなのかということがあがってくる。つまり、論理的にひとつしかありえないという限定をこうむって、ひとつしかないもの、たとえば、「すべて」は固有名詞かということがあるからで、しかし、考えてみればわかるとおり、何らかの限定によってひとつになるものは固有性ではない。それゆえ、単独的なものが単独なのは、なんらかの限定の結果ではなく、無前提の事態だといえる)
で、あるかぎり、固有名詞は「意味」を持たない。と、いちおうは、いえる。意味というのは、さきの属性記述のことである、といえるからだ。別の言い方をすれば、意味とはその語のこの世界内部の事態との間での関係である。ところが、固有名詞の固有性はそのような関係から独立だからである。
しかし、勿論、コノテーション、共示はもちうるのであり、また必然的にもつ。名詞マドンナは意味を持つし、名詞椎名林檎も意味を持つ。これらの意味はしかし、固有名詞の意味ではなく、そのいわば、像の意味である。椎名林檎が椎名林檎である条件や定義というものはない。椎名林檎はそれゆえ、椎名林檎の「共示的意味」を守らなくても椎名林檎である。したがって、このような意味での「意味」は固有名詞「の」意味とはいいがたいだろう。
しかし、無論、固有名詞と呼び名の問題がここで分岐してくる。とりわけ、同名他者のことを考えよう。また、異名同一者というものもある。わたしが、友人エリスにとってはエミールであり、友人亜里砂にとっては城野拓郎であり、両者は他の呼び名のことをまるでしらないものとする。このとき、エミールと城野拓郎は同一であるとはどういう意味か。また、わたしではない城野拓郎とわたしである城野拓郎のあいだの関係はどういうものか。このふたつの固有名詞は同一か。
ちょっと、この問題(呼び名と指示について)はむつかしいので、先送りにする。挫折。
とりあえず、固有名詞についての暫定的な規定として、固有名詞は数えることが出来ない、同一のものがない、複数ありえないものをさすものだとしておく。(またそれは属性によって規定されるものではない)それゆえ、二人の同名異人の同じ二つの名は、それぞれ、別の固有名詞である。両者は、同一の呼び名を持つ、別の固有名詞である。また、エミールと城野拓郎は別の呼び名をもつ同一の固有名詞である、といえるだろう。もっとも、すでに述べたように、呼び名という概念はむずかしいものを孕んでいるので、さきおくりにしておく。
ようやく、本題。
記入例、「山田花子」の固有性の問題は、じつのところ、さきまわりしていえば、フィクションの登場人物の名前は固有名詞かという問いに還元されるとおもう。しかし、まず、そのことを証明しようとこころみてみよう。
たしかに、「山田花子」はコノテーションとして、固有名詞、人名という意味を持つ。それは教科書の数式のなかには、その数式の意味とは独立に、数式という意味をもたされているものがあるのと同じである。(ここで「引用」と「使用」の差異を想起していいだろう)では、この「山田花子」そのものは、何を意味し、あるいは指示しているのか。となると、それは架空の人物、山田花子を指示しているのだ、とひとまずはいえるだろう。しかし、ここで重要な問題が生じてくる。
架空の人物「山田花子」は存在しているのか、存在しているとすればどのような意味で存在しているのか、そしてその架空存在を固有な形で指示する名詞は固有名詞か、という問いである。虚構の存在は、事実的な意味で存在しているわけではない。フィクションについての言明は、事実についての言明とは違う。もちろん、ここで事実かどうか分からない事態についての言明や、本人の意図がそこで基準になるのか云々という問題も絡んでくるのだが、ここで中心にあるのは、虚構存在に、いままでのべてきたような意味での「単独性」「固有性」と「一般性」「特殊性」とのあいだの区別をおくことができるかということだ。
と、いうのも、虚構存在は、それについての属性記述の束でしかなく、それを解釈する枠組みに過ぎないのであって、存在ではないという立場があり得るし、やはり、虚構存在は概念としてしか存在しないからだ。(ここでふたたび可能世界論が絡んでくることはみのがせない)固有名詞とはべつのいいかたをすると、言葉と現実との間の紐帯である、といえる。固有名詞をつうじてしか、わたしたちは、現実に言及することはできないからだ。そのような思考の脈絡では、虚構存在の固有名というのは、非常に奇妙なものだ。
解決策として、わたしたちが虚構存在の固有名詞と呼ぶものは虚構内の存在たちにとって固有名詞であるもののことだ、という考え方がありうる。つまり、この現実世界と、その可能世界のあいだの関係と、それらをあわせた(現実)と、虚構世界およびその可能世界とのあいだの関係は、意味が違うという考えである。
しかし、このレベルの区別は正当なものだろうか。この考えに従えば、記入例「山田花子」は固有名詞ではなく、固有名詞の虚構である。ところが、固有名詞の虚構は、虚構存在の固有名でもある。と、おもわれる。そして、虚構存在の固有名としては、現実に、固有名詞として、機能しているように、見える。このとき、ではそれを固有名詞として認めるとすれば、その指示対象である虚構存在は、たしかに虚構世界のなかではわたしたちが普通いう意味で(概念的にではなく、現実的に)存在しているが、すくなくとも、その(概念的にではなく、現実的に)という意味では現実世界には存在していない。で、ある、以上、虚構存在は、現実世界に、(概念的にではなく、現実的に)という意味では、どのように存在しているのか。つまり、虚構世界での存在に対応する、それを構成する、現実世界の存在は、何か。この問いは当然、虚構というものの存在論的な位置づけへの問いでもある。
さらにさっきの区別をあいまいにするのは、虚構と虚偽とはどのように区別されるのか。存在すると誤認されたものをさす固有名詞は、固有名詞なのか、フィクションの存在への固有名詞と同等にあつかっていいのか、という問いである。
うーん。
ここまでの議論はどうも、エレガントではないので、もういちど、やり直してみる。
固有名とは二つあるということがないという意味でのそのものを指す言葉である。
そのため、固有名は属性を指さない。属性は他と共有されうるからである。
そのため、固有名について、属性が違うものだったらという仮定をしても、その同一性は変わらない。
従って、固有名であるためには、その名詞でもってつねに同じ対象が指されているのでなければならない。
またそのさされる対象はどのような属性をもっていてもつねにその固有名で呼ばれなければならない。
しかし、虚構存在について、わたしが思念する同名の対象とかれが思念する同名の対象は、同一の対象だといえるか。
同名異者のそれぞれの名は、それぞれ別の固有名詞であって、名の同一性は同一性を証明しない。
また、共有されうる程度の一般的記述によって同定される対象はしかし、一般的なもので、固有名とはいえないのではないか。
もしも虚構存在が、固有名の対象であるならば、それはどのような属性をもっていても同一であるはずである。
すなわち、まったく探偵ではないシャーロック・ホームズを不条理ではなく想定しうるかどうか。
そのとき、かれは名前が同じであるという以外に、どんな理由でシャーロック・ホームズなのか。
もちろん、物語を持たない例「山田花子」についていえば、属性は可能な限り空虚である。
しかし、それではすべての偶然やさまざまなシチュエーションで、とくに限定なく発想されたすべての名詞「山田花子」は、同一の架空の対象、「山田花子」をさしているといえるか。
いえない。もちろん、「山田花子」についての物語やイメージが共有されていれば、共有されている限りにおいては、その虚構世界について、その虚構世界の内部では、それは固有名詞である。その場合には、シャーロック・ホームズにまつわる議論に準じて考えられなければならない。
うーん。とりあえず、よけいこんがらがってきてはいる。
この世の水はすべてひとつの水であり不可分だとしたら、水は固有名詞か?
固有名詞とは、ひとが人格的存在としてかかわる他者に関わるような気がする。
固有名は個物の名であって、類の名ではない。つまり固有名の対象は同類を持たない。固有名の内包に、複数のものが外延としてあてはまることはない。それゆえ、数えることやふたつあるということがない。
しかし、個体であるということは対象の属性ではない。現実世界の対象そのものは分割可能であるし、境界はつねに曖昧だ。そのため、或る固有名詞によって指示されるものが、別の言葉で呼ばれたときは個体ではないということがありうる。
固有名は個物の属性の名ではない。普通名は属性の名であって、その属性に当てはまる集合を意味する。ところが、これは或る固有名がどんな属性をもっても、或る固有名のもとに同一性を保つ、といっているかに見える。
しかし、これは現実に想定してみれば分かるとおり、不条理である。城野拓郎が吉井一哉にあてはまるすべての属性を持ち、記憶をもち、などなどであるとき、かれはなぜ城野拓郎であるのか。あるいはアメリカはたしかにどのようであってもアメリカであるだろうが、国家でなくなってもアメリカか、などなど、空虚な名詞だけの同一性が、はたして固有名の同一性だといっていいのか。それでなくなる限界というのはあるだろう、というのが常識的な了解だろう。
このような不条理は、固有名の同一性と属性の関係の問題を、事実のレベルであると誤解していることから生じる。城野拓郎の死骸はやはり城野拓郎とはいいがたいだろう。このような属性の事実的変化が、ここで問題になっていることではない。城野拓郎が城野拓郎でなくなったら、という文が意味を持つ、という以上、この城野拓郎という語がすべて同一の対象に言及しているとみなされるかぎり、これは固有名詞なのである。つまり、固有名詞が属性から独立であるということ、固有名詞はどんな属性を持っても同一であるというのは、このような仮想の可能性の文においてのことなのであって、事実として属性が変化したときに、同一性を考えるべきであるということではない。つまり、これは主語と述語との間の関係なのである。
暫定的な結論として。
記入例、「山田花子」はその虚構世界(山田花子が存在する世界)での固有名詞である。
また、その虚構世界に命名して山田花子世界とすると、これも固有名詞である。
(まだいまひとつ決着がついてないのはこのあたりで、概念的存在は固有存在をもつかということである)
従って、その「山田花子」も固有名詞である。
ただし、このとき固有名詞である「山田花子」はひとつひとつの記入例について、
別の山田花子に言及しているとみなした場合である。
明らかに同一の虚構世界の山田花子に言及していると見なせる場合は、
それらは同一の固有名詞である。
いっぽう、別の山田花子について言及していると見なせる場合は、それらの名詞「山田花子」は、
それぞれ、同一の呼び名を持つ、別の、固有名詞であると考えられる。
以上。