廃墟の平面(エヴァ試論)

 ひとつ、面白い現象があります。奥行きの消滅です。
 友達という関係はかつては、内面の友情というものによって、定義されていました。そして、友達の日常のふるまいは、その友情の表現としてあれこれ多義的にゆらいでいたわけです。記号と意味は必ずしも一対一では結ばれていませんでした。この場合、友情というのが、遠近法の消失点で、友達関係というのが、画面の表面に当たる訳です。
 ところが、今では、友達関係というのは純粋に形式的に定義されているように見えます。つまり、プリクラを一緒にとり、携帯やベルに定期的に連絡を入れるひとが友達であり、友達とはそうするひとのことです。ここで面白いのは、友情の定義が純粋に循環的に行われていることです。しかし、早まって、いまやロマンチシズムは消滅してすっかり散文的になった、などといってはなりません。変化は次の点にあります。すなわち、かつては内容が形式を決定すると考えられていたのに対し、今や、形式が内容を生み出すだろうと考えられているのです。
 友達的に行動する人は、多分、友情をもっているだろう、という、それ自身としては根拠のない推論が、しかし唯一確実な仮説として受け入れられているのです。これを、奥行きの消滅とわたしがいうのは、ここでは、遠近法の起点となるべき無限遠点が問われず、逆に、表面の具体的な形式のみが問題だからです。
 この事実は、プリクラやヒロミックスのセルフ・ポートレート、それにたまごっちなどに共通する、「平面化」のプロセスと類似的なように見えます。見えない次元というのは、もはやないのです。あるとしても、それは、表面によって規定されたものとしてのみです。抽象的にいえば、ものとものとの関係が、仮想された奥行き=精神によってではなくて、表面同士の具体的な個別の関係だけに支配されているということです。
 しかし一方では、過剰に見えない次元を捜し求める、新興宗教などの動きも確かにあります。
 このことは、実は盾の両面なのです。それは、人やものが交換可能になってしまった、と、思い込まれている、ということです。
 表面のみを考えている限り、物事はたいてい交換可能です。それは結局、相対的な位置の問題に過ぎないからです。
 それゆえにこそ、かれらは過剰に相互承認の儀式を不断に行うことで位置を確保しようとするのです。自己のかけがえのなさを、他人の承認なしに信じることができない以上、つまり、三人称の保証人がいなくなって、すべてが二人称で保証されねばならなくなったということなのですが、ひとは、具体的な形式しか、頼ることはできないはずです。
 しかし本当はこの自分の位置が恣意的なものであるという感覚、わたしの自己とは他人たちによって形成されているという感覚は、嘘なのです。かつて、現代思想の輸入者たちはまさにそこにおいて錯誤を行いました。物事は断じて相対的ではありません。すくなくとも、相対的であることが自然だった日本社会において、相対性を説くことは逆効果でした。
 物事の位置は恣意的で、「見えない次元」によってその位置のかけがえなさが保証されているわけではない、と人々が考えるようになってしまったため、わたしたちは過剰に、自分の、そして自分の人間関係における位置の確保に意識的たらざるをえなくなっています。かつては、わたしには他人に関係ないうちなる本当のわたしというものがあって、その本質は、他人がどう思おうが、結局は他人は認めざるをえないはずだ、という、これはこれで間違っている考え方によって人々は救われていました。
 さて、見えない次元を求める人々ももちろん、この病気に感染しています。ただ彼らは、この絶え間無い相互承認の馴れ合い儀式に耐えられないのです。それは端的に友達がいないとか、きまじめすぎて本当のそれはと問うてしまうとか、いろいろな理由があります。そこで彼らは本当の意味、あるいは位置のかけがえなさを確保するために、一つの見えない次元の物語、つまり新興宗教を求めます。しかし、この場合も、かれらがかけがえなさを手に入れたと思うのは早計です。
 というのは、確かにいったんその神話を受け入れてしまえば、その時点では、物事はすべて掛け替えない意味をもちます。そして、事物は表面的でない、「深い」関係を取り結びます。しかし、まさにこの、大枠の物語じたいが、交換可能なのです。かれらは、信条じたいは何でもよいのですから。つまり内在的な、必然的理由でかれらはある宗教を受け入れる訳ではなく、新興宗教であるから、受け入れる訳です。実際、カルトの信者はいろんなところを遍歴します。結局、具体的な集団による表面的な意味付けを、まわりくどいやりかたで保証しようとしているのです。だから、この、新興宗教においても、内面的な精神や本質ではなく、目に見える儀式や戒律といった具体的な形式的次元の問題が、中心になります。
 しかし事物は実際には、べつにそんなに苦労しなくても、もともとかけがえのないものです。たとえ、三人称の物語や意味の次元での保証がなくなったとしても、わたしがわたしであることは、取り替え不可能です。それは意味以後のかけがえのなさではありませんが、意味以前の掛け替えのなさというのはたしかにあるのです。問題なのは多分、あまりにも位置と自己が同一視されていることでしょう。わたしたちは八十年代以後、あまりに、制度や意味が恣意的でただ約束だけで決まっているなどと早計に決めつけ過ぎたのではないでしょうか。もちろん、多くの制度が必然的なものでないというのは事実なのですが、その場合、社会それじたいは偶然でも、ひとつの社会の中では必然的なことが多くあるのだということを忘れてはならないのだと思います。そしてまた、原理的に偶然であるということは、なにも、事実として交換可能だということでは全くないのです。
 これは外部の忘却=喪失という事態と相即しています。真理や本質、内面、精神といった見えない次元があるという神話はたしかに間違いです。しかし、まさにその見えないものを信じるという構えによって、わたしたちは、いわばケガの功名で外部へ到達するすべをもっていました。本当の自分というフィクションによってわたしたちは実際にはそんなもの存在しない本当の自分、になどなるわけもないのですが、しかし、そのように思い込んで生きることで、わたしたちは、自分の外部に到達し、変容することが可能なのです。少なくとも、かつてはそういう機制が機能していました。ただその場合、その《本当の》ものとはつねに不可能なものとして逃れ去る永遠の理想形でなくてはならないのですが。私の友人の武田くんはそれを完成という云い方で表現したことがあります。

 ところで、こうした事態に照らすと、「新世紀エヴァンゲリオン」はいくつかの面白い点を含んでいます。
 第一に、この物語もまた位置の承認に関する物語です。「ぼくはここにいていいのですか?」 しかし、問題なのは、いてもいいといわれなくても、いることができること、しかもその場合に、けっして自分で自分にいてもいいといわないこと、なのではないでしょうか。これは別のいいかたもできます。間違っていると自分が思っていることをえらぶこと。この場合。多くの人は「一見間違っているように見えることをあえてする」というイロニーの戦略と間違えてしまいます。しかし、イロニーは結局のところ、自分が正しいことをしていると云いたいのですから、全く逆です。心の底から、間違ったことをえらぶこと。つまり、自分自身にたいして、いかなる意味でも正当化しないということなのです。これは、シモーヌ・ヴェイユ流にいえば、真空をつくること、です。
 第二に、まさに碇ゲンドウの世代とはその真理や見えない次元の神話を信じることで「確信に満ちていた」世代であり、そのことに対する、たとえば宮崎アニメにおける、救済の可能性や善の実在への信念といったものへの《違和感》がつよく表現されています。使徒は悪であるということさえ分からない。ナウシカでは、少なくとも悪が、生態学的観点から実在しています。(ただ、宮崎アニメにおいても、たとえばマンガ版ナウシカで、それまで意味の保証人であった《人類》が生態学的に悪なのではないか、そして、そもそも、悪こそが人類の存続の意味だったのではないか、という疑いによってほとんど善悪の区別や救済可能性は破壊しかけるのですが)ところが、ゲンドウは碇ユイという彼の意味の源泉を失い、そして、失ったことをそのままにしておけばまさにこれは三人称の意味の保証人として彼を意味付けてくれただろうに、こともあろうに、複製として綾波レイをつくりだしてしまいます。(しかし、そもそもコピーとは、いったい何なのでしょう。これは、極めて現在、重大な問題です)そのことによって、ゲンドウの世界の意味づけは果てしなく動揺していくでしょう。したがって、ゲンドウは厳密には、かつての「自信に満ちた」世代の人間ではなく、そのフェイクなのです。だからこそ、「見えない次元」がいくつもいくつもほのめかされながら、結局それは重要でもなんでもなく、ただ、表面に支配されるフェイクにすぎないのです。このことはとくに、「ゼーレ」について考えるとき重要でしょう。
 第三に、綾波レイと交換可能性の問題です。つまり、レイの魂の問題です。彼女自身において、ゲンドウへの愛は、コピーとしての愛なのか、彼女自身のかけがえのない固有物なのか。答えは、表面にとどまるかぎり存在し得ないでしょう。
 第四に、最終話の問題点です。ここでは、解決として、強制的に、相互承認を義務づけてしまおうというのが、《補完計画》という解決法であるように、見えます。はたして、本当にそれが推奨されているかどうかはまた別として。この場合、強制相互承認を安定的に保証するのは、やはり何らかの信念体系であるほかありません。つまり、ここでの補完計画は、結局、個人の問題を、《全体》にげたを預けることで解決しようという案なわけです。
 しかし、これは崩壊せざるをえない!
 端的に言って、《全体》などないからです。
 それに、《傷》は分け持たれることなどありえない。
 最終話が、メタ・フィクションとして、表現のお約束を露呈にかかり、位置だけが問題で、ストーリーのうえでの役割は交換可能だ、と凡庸な学園物への《変換》を通じて示そうとするのは、ひたすら、前述の、恣意性を露呈したうえで肯定したいからです。つまり、恣意的なのだから、肯定しうるようなものとして自己を考えればいい、というのです。いわば、自分だけの宗教を持てというようなものでしょう。しかしながら、わたしはまず問わねばなりません。そもそも、本当に、すべてはお約束なのか? 約束によってのみ決まっているということを自堕落にうけいれることが、自己肯定の唯一の手段なのか? そうしてしまえば、はてしなく、《お仲間》が増えその狭い《閉鎖空間》で相互承認がおこなわれるだけではないか。
 こからの脱出のみちはこの話の内部にすでに含まれています。学園物に変換されても、それでも碇シンジはシンジです。固有名詞が属性と関係なく、同一人物だとわたしたちが見なすこと、ここにこそ、わたしの掛け替えなさはあるはずです。属性では、つまり位置ではないものとしての、掛け替えなさ。しかしそれを《表面》のなかで自覚することは可能でしょうか。ともあれ、問題なのは、決してかつての三人称の《正義》や《真理》を回復することでも、逆に、相対主義的な享楽主義や刹那主義におちいることでもないのです。
 第五に、フェイクとイロニーの問題。
 ほかにもたくさん、廃墟や少年と少女、とくに《少年》が《聖母》に甘え、観念のテロリズムに暴走することの問題などもありますが、ともかく、大枠についてのみ、述べて見ましょう。

 問題なのは、まさに一般に通俗的に思われているように、現実がすでにフイクションであるということなどではなくて、まさに逆に、フィクションが現実だということです。
 いつか、わたしはテーマパーク論を書こうと思っていますが、現実がフイクションであるというときわたしが念頭においているもののみかたというのは、現実は恣意的なつくりもので、お約束とみんなの同意で決まっている危ういものにすぎない、というものです。そして現実的なものは形式である、という考え方から、可知的なもののみを信用するものです。もちろんこれは、一面ではただしくないこともないし、オリジナルをやみくもに信じるよりは、ある点ではましなのかもしれません。しかし、やはりこれは間違っているし、何よりも、危険です。この考え方こそが、なにかに追われるように群れつつ、形式や意匠によって相互承認に駆り立てられる心性を生んでいるのですから。
 問題なのは、フイクションが現実だということです。書き割りの町はたしかに町としてはフィクションにすぎない。しかし、書き割りとしては現実そのものです。コピーは、オリジナルとの関係でみればにせものにすぎないが、コピーとしては、本物です。引用された言葉(イロニー)は、引用としてみれば、わたしの言葉ではないフェイクにすぎないが、それ自身としては、まぎれもなくわたしの言葉です。
 たとえ交換可能であるように見えたとしても、まさにそのことによって、交換されたもの双方の意味が変わってしまうのだから、厳密には交換はつねに不可能なのです。私はつねに、私の位置しか占めない。
 最後に《母》の問題については、エヴァンゲリオンでは母親が軒並み喪失されているという事実を指摘しておきます。そして不在となることによって彼女たちは、意味ではなく、起源と連続性の名において、具体的な権威となるのです。義理と人情の対決は、父と母の対決なのでした。義理がいまや否定されてしまった以上、人情としての母の支配はさけがたくのしかかってきます。このことは、ナウシカの母としての性格について考えて見れば明らかです。つまり、この母性の愛情とはまさに、恣意的な私を全肯定することによって掛け替えなさを付与するものとしての愛情なのです。
 しかしこれもまた、間違った解決であることは論を待たない。なぜなら、結局、母の愛とは変形したナルシシズム以外のなにものでもなく、相手が自己の子であるという事実に依存しているからです。子であることを認めない子に対してだけは母の愛は絶対の憎悪に転ずる。つまりここでも、相互にもたれあう馴れ合い構図は健在なのです。だいいち、私を無原則に肯定してくれる対象とは、そもそも他者ではありえない!
 だから、エヴァによる使徒の殺戮とは文字通り、メッセンジャーとしての他者を殺戮してしまう行為なのです。使徒は使徒であって、目的もなければ理解もできないものです。しかし、自己防衛の心理的ゾーンとしての絶対恐怖領域、ATフィールドを、互いに持つエヴァと使徒の戦闘とは、まさに見知らぬ他者同士の出会いの寓意的表現のように見えます。だからネルフとはある意味で自閉症集団なのです。
 だから、こう仮定すべきでしょう。果たして、なぜ、そもそも使徒を《沈黙》させねばならないのか。このことは渚カヲルの回でテーマとして大きく浮上してきます。
 具体的な個々のストーリーには触れられませんでしたが、このへんで筆をおくことにします。結局、わたしは問題なのは、イロニー=フェイクと、聖母子と、遠近法の消滅なのだと思います。
 そしてこのアニメ作品の面白いところは、そうした、個々の問題の背後に共通する、ひとつの《閉鎖》《隠蔽》という事態について、ある洞察があるように思える、ということではないでしょうか。

 と云って終わらせてしまえば、社会学者の読解としては正しくても、それではまるで、洞察の表現がアートの機能だといっているかのように見えてしまいます。実際、作品は寓話にとどまることに耐えられるものではありません。
 そこで、もう一度、考え直してみましょう。このアニメーションの何処がいけていて、どこがいけてないのか、という点に関して。
 恐らく、中心にあるのは、誰もが、葛城ミサトも含めて、何かすでに行われた決定的な出来事をあがなうために生きているということです。自分に左右できないところで、すでに決定的に行われてしまったことを自分の身に引き受けることができるかどうか、それがここでの物語の問いなのです。
 だからここでは、必然的に、二十世紀の芸術の大きなテーマのひとつである、反復/記憶/時間というプルースト的なテーマ群が浮上してくるでしょう。かつてあったことをふたたびいきなおすということ、かつてあったことのかけがえなさを引き受けるということ、かけがえのないことを繰り返すということの意味、たとえば加持と葛城の関係の反復の意味、かけがえのないことは反復できるのか? 
 だからどうだということは、やはり私にはよく分かりません。しかし、二つのかけがえのない出来事が、時間のなかで、不意に、繰り返しとして体験され、その差異と同一が韻を踏むとき、確実になにか感動的なものが生じるのは確かなように思えます。
 多分、そこでは、必然と偶然が一瞬だけ和解するのです。
                           オワリ