平成七年六月七日個人読書会レジュメ

 テキスト「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
 作:フィリップ・K・ディック 訳:浅倉久志 早川文庫 560円
 原書“DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?”Philip.K.Dick, 1968
 (1977,早川書房日本語版翻訳権独占)

 1:まず大きなテーマから。第一に明らかに読めるのはアンドロイドと人間の相克です。人間とアンドロイドの差異はあるのか。それはどういったことなのか。フィル・レッシュとルーバ・ラフトという対称的な存在、アンドロイド的人間と人間的アンドロイドに出会い、最初のリックの「割り切った職業人的態度」(p.9)は動揺します。マックス・ポロコフを「廃棄処理」しルーバを処理しようと意気揚々と劇場へ向かうリックは、明らかに後段のフィル・レッシュと異質な存在ではありません。「捕食者」としての彼は、彼自身の定義に従えば(p.41)アンドロイド的な存在です。しかし、ラフトの歌声を聞いて以来、彼はアンドロイドを命あるものとして、すなわち共感の対象としてみなしはじめます。このリックのアンドロイド観の変遷は、イジドアのそもそもなにもかもに共感してしまう態度とどのように関連づけられるでしょうか。
 たしかに、イジドアはリックよりは肯定的な人物に見えます。しかし、彼は結局幻影の世界に住んでいるのであって、アンドロイドの冷酷さに触れてなお肯定しているのではなく、それを認めまいとしているようにも思えます。たしかに彼は「悪性の抽象観念」(p.201)などとアンドロイドの冷たさを見いだしてはいるのですが、その際でもプリスだけは違う、と救いを求めようとします。結局彼は何物であれ仲間を欲していたのであって、アンドロイドというものの性質ときちんと対峙したうえで彼らを共感の対象とみなしていたわけではなかったのではないでしょうか。

 2:マーサー教は共感箱を通じて、教祖ウィルバー・マーサーの「登板」体験を共感、する宗教で、感情移入の体験の基礎となっています。ここでまずもって云っておきたいのは、共感、といい融合といいますが、ここで描かれている限りでは、どう考えても、個性の消滅した融合体験などというものではなく、むしろメディアのごときものに思える、ということです。つまり、たしかに全員がマーサーに融合する訳ですから、マーサーにみな溶けてしまう、すぐれてファシズム的な宗教になりかねないのは、バスター・フレンドリーの警告(p.269)の云うとおりなのですが、しかし実際には、マーサーは空虚な場所でしかないので、誰もマーサーの権力に従えられてもいない、そう考えられます。(この空虚で無力な−卑小な老人としての絶対者というテーマはまた論じます)
 しかし感情移入の体験を、マーサー教として神秘化せざるを得ないということ、また、このマーサーというクッションをおいた接触で、互いに傷つけ合うことのない関係はそれ自体不健康だとも言えます(たとえばイーランの態度)。それではこのマーサーにおれは永久に融合してしまった、とリックは最後に云い、その少し前には共感箱ぬきでマーサーを見ています。これは、どういうことなのでしょうか。循環がひとつの教義の柱となっていますが、これは感情移入の問題とどうからむのでしょうか。作者自身、このマーサー教をいかなるものとして描いているのでしょうか。果たして、ここに救いを見ているのでしょうか。むしろ、感情移入とは、「完全な共感の不可能さ」を悟った所から個人個人がしかたなく、嘘だと知りながら作らざるを得ない物語なのかもしれません。それは、出ずっぱりのバスター・フレンドリーがアンドロイドだと気づかないはずがないのに、気づかない振りをするハンニバル・スロートらの態度と関係があるかもしれません。

 3:リストについて。二つのリストがあります。どちらもリックを決定的に規制しています。シドニー社のリストとデイヴのリストです。どちらが欠けても彼は行動出来なくなります。さて、とくにデイヴ・ホールデンのリストについては、まるで聖書のような構造がみてとれます。マウント・ザイオン(シオンの山)病院に入院しているデイヴが、ところでこのデイヴは完全に不在であってブライアント警視を通じてのみ顕現します、自分の犠牲と引き換えにリックに渡したリスト。このみかたをすれば、これはリックの一種の聖書巡礼だとも見なせます。それは、たしかにこれが起きて寝るまでの一日の物語であるということとも関係するのかも知れません。

 4:世界について。ことあるごとに繰り返される、見捨てられた、放射能にうずもれ、やがて死に行く世界としての地球の描写。特殊。イジドアの部屋やその他至る所で増殖して行くキップル。なぜこんな世界が選ばれたのでしょうか。それは登場人物のほとんどが、なんらかの形で不幸せで、手に入れられないものがあり、傷ついている、世界ともいえます。地球にいること自体が、「特殊」への疎外、のけ者への転落の危険を意味し、また、健康な植民世界からすでにしてのけ者にされていることを意味するからです。この、廃墟のような世界に、外からやってくるアンドロイドたちもまた「脱走者」です。この不幸な世界で、人間たちは共感箱とペンフィールド式情緒オルガンを使ってごまかしながら生きています。(これはおなじくディックの「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に一直線につながります。ご一読を)しかし、アンドロイドは共感からしめだされています。それはムンクの「叫び」(P.167)のような生です。ロイ・ベイティの、薬を使ってマーサー教に類似した体験をしようという営為(p.237)は、彼ら自身の冷酷さや合理性と表裏一体の苦悩なのです。一方で、世界は死の灰に沈みつつあり、キップル(p.84−取り敢えずこれはエントロピー増大、と云い換えられます)にあふれつつあります。世界は徹底的に無意味であり、壊れつつあります。それでも、この小説の最後はジュディス・メリル(後書きp.317参照)によればハッピー・エンドなのです。しかし、それはどういった意味ででしょう。

 5:ふたたび、レイチェル。16章と17章でのレイチェル・ローゼンの態度は背反します。もし、17のレイチェルの言葉を信じるなら、16での彼女のきわめて人間的な苦悩や叫び、そして、リックへの愛情すら偽りと解さざるを得なくなります。しかし、ではなぜ彼女はリックの山羊を殺したのでしょう。もし、倒錯した、というか屈折した愛情のなすところだとするなら、これは矛盾です。むしろ、17のレイチェルの言葉の方を虚偽だとみなすことができないでしょうか。そう考えると、ローゼン協会がアンドロイドを保護しなくてはならない義理はない、という矛盾もすんなり理解可能になります。しかし、はたしてその解釈は可能でしょうか。もしそうなら、なぜ彼女はそんな嘘を云ったのでしょうか。

 6:マーサー/偶然という神、あるいは暴露の無効さ。ウィルバー・マーサーはアル中の老いぼれ、誰を救うこともできない無力な人物です。そして、融合体験は完全にいかさまでした。(とはいえ、バスター・フレンドリーの暴露を疑いなく正しいと信ずべき証拠があるわけでもありません)それでも、リック・デッカードも、そしてまたイーランもマーサーに意味を見いだし続けます。これにはまず、もとから誰もがマーサーはいかさまだとうすうす分かっていながら、信じようとしていた、という可能性が考えられます。それは、バスター・フレンドリーに対する、ハンニバル・スロートの言葉(p.98)からも示唆されます。なぜならそれを否定してしまったら、生きて行けないからです。
 そしてまた、マーサー自身の性質に由来することもあるはずです。倫理体系、疑似宗教としてのマーサー教はともかく、ウィルバー・マーサーとその融合体験には、ある特徴があります。それはマーサーの無力さです。かれの啓示はつねに悲観的で分かり切ったことです。「救済はどこにもない」「どこへ行こうと、人間はまちがったことをする巡り合わせになる」(p.229-230)そしてまた、かれはレイチェルと同じ型のプリスを殺せないというときに、リックに(p.283)プリスを三人のうちの最大の難物と呼び、警告を発することで殺させます。無力な、誰でもあり、誰でもない存在として、つまりメディアとして機能するマーサーのメッセージは、無意味な生を肯定せよ、ということのようです。「間違ったことだがやるしかない」
 つまり、無意味な生というのは、偶然に決定的に支配されている世界ということであり、偶然を受け入れるということではないでしょうか。だからこそ、リックはレイチェルと「同じ」プリスを殺せるようになります。この二人の同一性が偶然、だからです。もしここに「意味」や「必然性」を見ていたら、彼はプリスを殺せなかったでしょう。それはレイチェルの「わたしたちはおなじじゃないわ。わたしはプリス・ストラットンなんか、どうなったっていい」(p.250)という叫びと呼応します。
 それでは結末でのリックが「おれがウィルバー・マーサーなんだよ」(p.298)と云うのは、どういうことなのでしょうか。かれはどのような意味でマーサーなのでしょうか。

 7:さて、その他の疑問を並べてみます。ヒキガエルが模造動物だったのは、どのような意味を持つできごとなのでしょうか。循環や墓穴世界はどんな意味があるのでしょうか。生命は循環する、というのはすべては繰り返される、ということなのでしょうか。坂を登る、ということは単純に人生の比喩のように捉えていいのでしょうか。ガーランドの発言は本当なのでしょうか。(p.157-158)ポロコフは「違うタイプ」なのでしょうか。しかし彼の発言の多くはロイ・ベイティの発言とは矛盾するように思われます。とくに、ガーランドが来たのは三年前でしょうか、最近でしょうか。また、フィル・レッシュは本当にアンドロイドではないのでしょうか。プリスの前植民期小説(古典的な「SF」のことですね)趣味は(p.193)何を示しているのでしょうか。ルーバ・ラフトへのフォークト・カンプフ検査が失敗するのは、(p.129-134)、そしてそれが意味論的な混乱によるものであることは、何かを意味してはいないでしょうか。