一文文芸演習 A発表レジュメ 平成七年六月十日
テキスト 梶井基次郎「愛撫」(「日本の短編」所収)
始めに:方針/私は「感想」「伝記」「他のテキスト」「登場人物の心理」などについて触れるつもりはありません。云い換えると、本文=テキストにのみ基づいて話をするつもりです。それは以下に述べる理由からです。
a;当然のことですが、「印象」や「感想」は個人的かつ情緒的な反応に過ぎません。それは、本文に客観的な論拠を持たない限り、何の意味もない行為だと考えます。議論のテーブルが成り立たないからです。
b;また、「伝記」ですが、これまた当然のことながら、作品と作家は一応、分離して理解すべきものです。現実に存在するのはテキストであって、作家では、ありません。ですから「影響関係」も論じません。それはあくまで「補足」でしかない、と考えます。それに、図書館で調べれば分かることです。
c;つぎに、「登場人物の心理」についてですが、私は、作中人物を、恰も現実の人間のごとく扱うことには、留保が必要だと考えます。本文の中に、そのような読みを示唆するような部分のない限り、無根拠な、あるいは薄弱な根拠や、個人的な体験をもとに空想を逞しくすることは謹むべきです。
「受験の国語」とは違うものであるはずの、「読み解き」とは、その作品の魅力や読み手が見いだす意味=面白さ=(感動)を、なんとか言葉にして理解しようとすることであって、決して、「作者の意図や思想」を明らかにすることだけを求めるような「文献学」ではないはずだ、と私は考えます。よって、以下、このような方針で、梶井基次郎「愛撫」について話すことにします。
1:構造について/或いは「起承転結」らしい表面の裏。大ざっぱに、話題を軸として分類してみますと、この作品は、四つに分けられそうです。猫の耳について−p.222,1-p223,10 猫の爪について−p223,11-p224,8 化粧道具/夢について−p224,9−p225,13 (結末)−p.225,14-p.225,20 むろんこれは最終的な分類ではありません。特に、一段と二段の真ん中の行の所属には異同がありえます。この構成は典型的すぎるほどの起承転結だとみえますが、私はむしろ、一直線にイメージが連鎖して行き、うねるように、結末へと流れて行くのではないか、と考えています。
2:死のイメージ/化粧と夢。梶井について予備知識が皆無であっても、この作品が死のイメージに満ちていることは感ぜられるはずです。二つの「猫の死」、「医科の小使いと死体」、ここではそれらが「化粧−白粉」「夢」と絡んで、最終段落の、疲労と休息=救済への祈りへと繋がる道筋を明らかにしたいと思います。「香料の匂い」も含め、とくにこの「夢」の挿話は色濃く死と腐敗の隠喩に満ちています。そもそも「夢」であることじたい、死者の世界を暗示していますが、ここで精神分析的に作者の現実に即して解することには私は反対です。
3:結論に代えて/「愛撫」する嗜虐心。語り手は−安易に梶井と同一視したくはありませんが−なぜこんなにも執拗に猫への嗜虐的であると同時に、疲れ切った空想を語らねばならなかったのでしょうか。この作品が私たちにとって魅力的でありうるのは、それがただ病的であったり、「感性」(この言葉はあまりにも無自覚に使われ過ぎますが)的に美しいからではないはずです。私はそれは、この語り手の嗜虐心が自分が孤独で無価値になものになることへの不安(「絶望!」「絶え間のない恐怖の夢」ともにp.223,20)の表現にほかならないからだ考えます。しかし、それでは汲み切れないものがあまりにも多いことに気づかざるをえません。彼は、自分自身の残酷さを「夢」の中で他人のものとして客観化し、それを「今更のように憎み出した。」(p.225,11)といって否定しています。ここで決定的に重要なのは「しかし私にはそれが何の役に立とう?」(p.225,16)の解釈なのではないでしょうか。ここには自分自身をも突き放す姿勢があります。しかしまた一方では「私」は、視覚的な、一体化し切れない疎外感/嗜虐性から、「夢」を経過することで「愛撫」の触覚へと転位し、一時的な「休息」に救いを手に入れてしまいます。この二つの態度の矛盾はどう整合されているのでしょうか。この無理な願いに、この作品の特異さが潜んでいるようです。
問題なのは、この結末が妥当かどうかではなく、そこに至らざるを得ない過程がリアリティを持って迫るか、ということではないでしょうか。それは、第二段で示されたまっとうな不安が、三段で夢の形で屈折し、四段目ではついに偽りの解決=休息を見いだしてしまう、という過程だと考えられます。ですが、語り手の時間を考えて見ますと二段目の空想と四段目の空想は並列されています。ですからこれは、実は結論ではなく一挿話とみなすべきだとも考えられます。つまりここでは、なにものも解決されず、ただ、語り手の絶望的な身振りだけが提示されているのではないでしょうか。