1;自殺と掟−法−意味の根拠
 ウェルテルとレンツの自殺の意味は異なっている。一方は成功し、他方は失敗する。しかしその結末はその性質の中にすでに内包されている。まず、ウェルテルがなぜ自殺するのかというと、婚約という掟によって保証された関係と自分自身の欲求が両立しえないので、この矛盾を解決するために、婚約という掟が無化される世界へ行こうとするからだ。ここで注目すべきなのは、この脱出自体が、掟に記されたものであること、つまり、彼れは掟を一つも破っていないし、破る気もない、ということである。彼れにとっての課題は、掟と制度の中で、どんな解決を図るか、ということだった。というのは、現世で不可能なことが、来世では可能になる、というのは、キリスト教の教義という掟に明示的に記されていることだからだ。彼れは、用意されていた結末を実行した、とすら云うことができる。ここで、しかし自殺はキリスト教の教義に反する、という反論が予想される。たしかにそうである。そこで、実は根本的な疑問、もし自分が天国に行くことができないとウェルテルが信じていたなら、あの世でロッテと再会できるとは信じなかっただろう、ということが導かれる。しかし、彼れはそう信じているのである。つまり、ウェルテルは自殺を行うために、故意にかもしれないが、一つだけ、掟を忘れているのである。この「忘却」のために、自殺はウェルテルにとって肯定さるべき行為、神聖ですらあるものになる。むしろ彼れは、殉教にそのモデルを求めているように思われる。当然、ではそこまでして死ななければならなかった真の動機が存在するのだろうか、ということが問われなければならない。彼れ自身のしている、掟−教義の中での意味付けでは不十分なのである。
 一方で、レンツの自殺の試みはまったく様相が違う。ここでは、掟自体が確固たるものではない。彼れが死のうとするのは、別の掟の支配する世界へ移動するためではない。掟を求める苦悩、無意味の苦痛を断ち切るため、ただ単なる停止のためである。そしてこのように積極的な意味をレンツにとって持たない以上、彼れの自殺は失敗せざるをえないのである。なぜなら、生きてもいいし、死んでもいいという状況では、それほど深刻ではない、つまりともかくも耐えることができる苦痛を除去するためという弱い理由は、恐らく肉体の無意識的な生存欲にまさりえないだろうからである。このため、彼れの自殺の試みは徹底的に孤独なもので、誰に対しても差し向けられていない。他方、ウェルテルの自殺は、極めて社会的な行為である。潜在的な容認という意味では、彼れの自殺は、ロッテやアルベルトにとって意外なものでもなく、彼れら全員にとっての行為でもある。そのことは、彼れが遺書を残しており、彼れの死じたいが一つのメッセージであるということからも云える。しかしレンツは、彼れの自殺が知られることを別に望んでいない。むしろ、彼れにとって自殺、或いは自殺の演技(アクト)、というのは、肉体的苦痛と並んで、彼れに最後に残された意味のある行為だったのである。つまり、肉体的苦痛は、その直接的な実在性により、そして、自殺は、その生命と精神の存在にかかわるがゆえに、ともに、その存在と、自分にとって何か意味のある行為である、ということの否定できない行為である。あらゆる意味の根拠である、神や思想が信じられなくなり、世界の存在すら確信できない独我論的な悪夢の中にあるレンツにとっては、身体的な危険や苦痛だけが、リアルな存在であり、その唯一のリアルな行為をなすことによって、彼れは逆にその自己を再把握しようとしたのではないだろうか。確かに、自己を守るために唯一残されたリアルが、自己破壊的なものであるというのは逆説的だが、もはや自己防衛本能以外の意味の根拠がないという状況がもっともよく表されていると云うことができる。
 ウェルテルの自殺がすぐれてエディプス的な挫折に対する補償−復讐行為であるとするなら、レンツの自殺行為は、エディプス的な三角形の不成立に由来するとも云える。互いに役割分担し、その意味では共謀する三角形の一角として、ウェルテル、アルベルト、ロッテのうち、「レンツ」にはロッテ=母が欠けていて、代わりに不安定な、フリーデリケ=牧師夫人という代替物がある。つまり、不在のフリーデリケが、牧師夫人を母−恋人という対象にするのを妨げているので、レンツは母性的な安らぎを牧師夫人ではなくフリーデリケに、過去のものとして求めてしまい、牧師オーベルリーンとのエディプス的な緊張関係は発生しない。そのため、レンツは不在の存在を求めるために、安らぎを獲得できず、また、父殺しの欲望を覚えないので、父−オーベルリーンにたいしてほぼ全面的な依存関係に至る。ウェルテルが潜在的にせよ、敵=父としてのアルベルトを持つことができ、そのことで、死によって話しかける対象までも得るのに対して、レンツは、敵を持つことさえできない。最後まで彼れは、オーベルリーンに対抗しようとはしない。最終的に彼れは、オーベルリーンさえ否定するようになるのだが、それは単に不信であって、敵視ではない。なぜならオーベルリーンは障害物ではないから。彼れの依存からの離脱は、だから消極的無視という形を取るようになる。
 この、母の不在は、二つのエピソード−厳密には一つのエピソード−に反映している。教会での説教の前に、自然の中から母が現れるように思った、という挿話と、後に、母が墓地から現れる夢を見たが、それは死んだお告げに違いない、という挿話である。注目すべきは、この母に関する挿話の部分で、レンツがもっとも安定した精神状態と幸福感を得ていることである。

 2;真実と虚構の関係
 書簡体と三人称という対照だけでなく、虚構として事実性とどう係わるかについても、二つの小説は対称的な関係にある。「ウェルテル」の場合、書簡体であり、物語の中に虚構の二つのレベル、語るものと語られるもののレベルの差を持ち込むことにより、事実の振りをした虚構、記録となっている。一方で「レンツ」は、実在のエピソードと人物とその名を用いることで、事実と接近しているのだが、語り方のレベルでは、事実の振りをことさらしていない。むしろ、三人称で、心理描写までしている以上、これが客観的な記録の擬装ではあり得ないのは確かである。
 問題なのは固有名詞なのかもしれない。「レンツ」は固有名詞を通して、テクストの外部と交わろうとしているのに対し、「ウェルテル」はすべてを虚構世界の中で完結させようとしている。それは、「ウェルテル」の中で禁欲的なまでに実在の固有名詞が覆い隠されているのに、「レンツ」では何のこだわりもなく頻出することにみてとれる。それは構成にも反映されている。文字通り、「レンツ」はテクストの外部に結末で逃れ去るのに、「ウェルテル」ではテクストの中ですべてが完結してしまう。
 つまり、「ウェルテル」は事実らしさを与えるために、虚構内部での二重構造を作ることで、報告と事実という構造の疑似物を構築するという戦略をとったのに対し、「レンツ」はテクスト外部と固有名詞を通して交わることで事実性を獲得する戦略を取った、とも云うことができる。
 このことは、「テクストという掟」という観点から見て、主人公の掟に対する態度とパラレルであるとみなせないだろうか。
 始めがあって終わりがあり、一つの完結した独自の意味体系を構築する、静的なシステムとしてのテクスト、という概念から見ると、固有名詞を通じてテクスト外部の変化や、テクスト外部の参照物からテクストへの逆流といったものを予定している、或いは許容している「レンツ」は逸脱していると云わねばならない。これは、テクストは独自の完結したものでなくてはならないという掟への違反であるし、作者の意図した意味を読むべきであるというあの古典的な掟からの逸脱でもある。
 一方で、レンツは、神や、父として機能するオーベルリーンといった、最終的な意味付けを可能にする存在を信じていない。ここでも問題は、掟からの逸脱、いやそれよりもむしろ、掟の強制力の消失である。この消失は、テクストの掟においても、レンツにおいても、対決や殺害といった緊張関係の破綻といったカタストロフィから生まれるのではない。掟の消失は、掟自身の正当性に対する反証によって、つまり、唯一であることによって特権的であった掟が複数化することによって、特権性を失うという過程をたどる。それはテクストの掟において、意味のテクスト外部からの逆流によって、作者の意図の特権性が崩れるという過程と軌を一にしていると云えるのである。
 この過程に対して、「ウェルテル」では、「逆流」は阻止されている。読者は作者=編者を通じてしかこの物語りに接近できないからである。確かに、作者=主人公の一人称ではなく、記録の擬制をとっている以上、この物語はありうる解釈の一つとして提示されている訳だから、「レンツ」とは別の意味で、つまり表現/内容という二重構造に由来する理由によって、「ウェルテル」は作者の専制が完璧に達成されているとは云えない。しかし、ここで意味を解放しているのは、「レンツ」のように掟を無化する構造ではなく、掟自体の構造である。だから、読者は、真実を探る、という擬制で以て、自己固有の解釈を追求する権利を与えられる訳だが、こうした形での意味の多様性は、本質的にテクストの中で自閉した世界の中で、始まりと終わりの間でしか行えないものであるから、論理的なもっともらしさなどの制約をもたざるを得ない。従って、このテクストにおいては、自己の固有性を追求するには、掟の中で、掟を再解釈することでずらすという戦略が必要とされる。
 これは、実際、ウェルテルが行ったことである。彼れの自殺は、キリスト教の教義に沿いながらその論理を再解釈し、自殺の再定義を行うことで、自殺の禁止という掟を裏切ることで達成されたものだからである。また、彼れの自殺は、婚約という掟に対しても、それに違背する事なく、別の掟の秩序を持ち出すことで解決しようという試みでもあったことは、まえに見たとおりである。


 3;結論:レンツ/ウェルテル
 「レンツ」と「ウェルテル」を一組みの隣接するテクストとして読むとき、レンツのテクストを横切り虚構の外部へ飛び去る運動と、ウェルテルのテクスト上で螺旋を描いて虚構のさらに見えない内部へと消え去る運動とは、どのような関係にあると云うことができるだろうか。つまり、虚構の外部である事実から虚構を横断して事実へとまた戻ってくるレンツと、虚構の内部へと侵入し、その内部を一周してまた元の位置へ戻り、超−虚構とも云うべき、語られない虚構のレベルである天国へ去って行くウェルテルとを同一線上で関係付けることは可能だろうか。ここでまず考えられるのは、現実的な社会というものの位置を用いることである。「レンツ」では、社会は起点と終点に存在する外部である。「ウェルテル」では、次のような分節が見て取れる。
       ↑→公使館(社会)   →↓  
 ロッテの住む土地           故郷の町    
       ↑←侯爵家/軍隊(社会)←↓    
 ベクトルを考慮して、レンツの直線と比較してみると、「レンツ」には左側の半円が欠けているのだ、と云うことができる。それは、ロッテという意味付けの中心にして母でも有る存在の欠如をもこの図では意味している。また、レンツがもしヴァルトバッハにまた帰ってくるとすれば、それは「ウェルテル」的な物語にならざるを得ないし、或いは逆に、ウェルテルが実際に軍隊に志願してテクストから消えるところで「ウェルテル」が終わっていたとしたら、それはすぐれて「レンツ」的な物語の特徴を持っただろう、ということでもある。また、重要な差異は、両者の起点がずれていることである。外部としての社会を起点にするか、通過点にするかという点からも、二つの小説の相違は発生している。
 この物語の発生機構じたいのずれは、両者のエディプス的な構造上の差異をも説明してくれる。「ウェルテル」においてロッテが母であり恋人でもあるのは、円が閉じていて、起点と終点が一つの点だからである。しかし、「レンツ」においては、過去の領域のフリーデリケと現在の領域の牧師夫人は同一人物ではない。それはそれぞれ異なるものとしての起点と終点を表しているからである。そしてこの二極の引力は相殺しあい、無化されてしまっている。このことを父の側から説明すると、本来、母と父という一組で、離脱と反撃という円の動きを誘発するはずの構造が、「ウェルテル」では機能しているのに、「レンツ」では、二つの母が相殺した結果、母への引力が無化され、ただ父からの消極的な離脱という、直線的な動きのみが発生しているのである。
 このように考えてくると、「レンツ」のなかほどの教会での説教の前後に、母についてのエピソードや幸福な調和が描かれているのは、偶然ではないことが分かる。これは、構造的には「ウェルテル」のロッテとの最初の幸福な時期に対応しているのである。
 結論としては、「レンツ」と「ウェルテル」の本質的な差異を発生させているのは、母(恋人)/円環/超越の有無であり、その有無を導く起点の相違であって、それ以外の部分はきわめて同質的なものであると云うことができ、「レンツ」に於けるフリーデリケとゲーテ、「ウェルテル」に於ける公使館−故郷−軍隊の系列を考えるなら、互いのうちにこの二つの小説は嵌め込まれているとも考えられる。そのことは、ウィルヘルムとカウフマン夫妻の役割の対応や、日時に関する拘泥わり、泉の沈静的機能といった共通点からも確かめられるのである。