部会レジュメ:一九九六年四月二十日(土)
 「孤独の発明」ポール・オースター/柴田元幸 訳

 以下には、テーマについて話してみたいことを書きます。実際には個別のシーンにあたってみることになると思います。実際の進行も変更の余地があります。というより、あまり詳しくは考えていません。あと、訳者の解説は読んでおいてください。

 1.記憶。父子。孤独。偶然。

 まず私は、この小説の読み返すに当たって、この四つの、小説を初めから終わりまで貫いている単語同士の繋がりを考えることから始めたいと思います。おそらく、この四つの言葉は、「ここにいない」ということに関係していることによって共通していると云うことができます。
 「記憶」は実際にはここにいない何かが、いま、ここにある、という不思議な二重の体験です。父子関係についても、語り手としてのオースターは「ここにいない父」を理解することが主題になっています。語り手としてのオースターが父を完全に理解していたならば彼は探求を始めなかったでしょうし、全く、父にたいして理解も思い入れもない、他人としての関係だったならば、やはり彼はなにもしなかったでしょう。この微妙な、語り手としてのオースターが、いまは意識していないが見いだしたいと思っている父子の関係という意味において、父親は死んだ後もここにいるのです。
 これは、記憶のテーマを、具体的な点から描いているともいえます。具体的な自分の父の記憶としてです。父と子が一般に似ているということも無視できません。
 孤独とは、こうして理解をたとえば父に拒まれるという体験でもあり、またある誰かがここにいないことでもあります。孤独は、特定の誰か(たとえば父親)が一人もここにいないということであり、不特定の誰かがここにいないということではないからです。群衆のなかでも人は孤独でありえます。だから、孤独を感じさせる誰かはべつの意味ではここにいるのです。(父をなくした語り手としてのオースターの孤独)それは半分しかここにいないという意味で悲しみを呼び覚ますのだといえるかもしれません。
 偶然は、オースターには特別な意味を持つ道具立てで多くの作品に現れますが、これも、ここにない出来事が、ここにあるということだと云うことができます。繰り返される出来事は、全く同じでないがゆえにここにないのですが、何処かしらひどく似通っているが故にここにあるとも云うことができるのです。似通った出来事の記憶があってはじめて、その出来事は偶然になるのです。
 しかしこれらには微妙な違いがあります。「偶然」は、再会が実際にかなった状況です。しかし「記憶」では一方は過去に、一方は頭の中に、あるだけで、現実に再会が果たされたわけではありません。語り手としてのオースターも、「父」を記憶としてしか探求できません。「孤独」というのは、まさにそうした再会、偶然の一致をまだ果たしてはいないけれど、再会が果たされていないという意識だけがある状態なのではないでしょうか。
 ですから、この小説は対応する二つのうち、特定の何か一方が欠けているという「孤独」を巡り、その云わば「偶然の一致」を回復させたいという風に進んでいるのだと一応云うことができると思います。(この一致が単なる偶然でない再現と違うのは、全く同じではないけれど似たものが繰り返されるという点、そして繰り返しが予期できないという点です)父と子が似ているということ、それでいながら違うということは、偶然の一致に限りなく似ています。
 もう一度まとめると、問題になっているのは、かつて確かに存在したものが、記憶の中で生き続けていて、そこで不意にわずかな違いを含みながら再び現れるということなのです。(ただ、偶然の場合は思い出すことと再会することは同時です)ここで、語り手は、この微妙な繰り返しが欠けてしまったという感覚に突き動かされているのです。これが、孤独という言葉のおかれた文脈であると思います。
 さて、では、なぜこの物語が、もう一つの主要なテーマ、シェラザードの物語ること、また、記憶の書を書くという風に、書くということと拘わるのでしょうか。また、どうして、解説でオースター自身の言葉として云われているように、「自己の成り立ちを探る」ということと拘わるのでしょうか。また、以上の解釈や関係付けとずれる、孤独と云う言葉の定義が作中にはあります。つまり、他人と関係しなくてよい、また自分とも向き合わなくてもいいという意味での、退却としての孤独です。こうしたことについて、もう少し考えてみたいと思います。

 2.引用すること、三人称であること、形式についてなど。

 もうひとつ、別の面からも考えてみることは可能です。たとえば、なぜ引用がこんなにも多いのか、なぜ「記憶の書」では三人称に変わるのか。書かれている理由づけですべてなのか。あるいは、よりうがってみると、この小説の現在というのは、つまり物語のなかの時間というのはどうなっているのかということです。これは、引用が多いということとも関係しているように思われます。なぜなら、ここでの語り手は普通の三人称の小説のようにすべてを知っている人格のない、伝達の手段としての語り手ではないからです。こういう語り手はたとえば昔のフランス文学などに見られます。肉体を持たない、しかも登場人物の心を読むことのできる語り手です。しかし、この語り手はそうした語り手ではありません。なぜなら彼はストーリーのなかに生身で存在しているからです。かといって、普通の一人称の小説の語り手のように、話の中で肉体を持ち、ストーリーにみずから関係する語り手であるとも言い切れません。かれがするのは、主に語ることだけだからです。とはいえ、語り手がストーリーと関係しないとはいえ、彼は話の中に存在して、話の中で語っているわけですから、この話にとっての「今」というのは、まさに語っている今であって、話の内容にとっての今ではないと、形式的には云わざるを得ません。しかし、我々は読んでいるとき、語っている語り手の顔を想像しながら読んでいるのではなく、語られている内容の絵を直接思い浮かべて読んでいるはずです。ここに、この語り口の特殊なところがあります。二つの時間が、同時に流れているのです。
 さて、ではこの語り手は何者なのでしょうか。それはまず第一に作家です。そして子であり、父であり、それから、これが引用の問題と係わるのですが、解釈する人です。彼は、自分のいま書きつつあるこの小説じしんについてすら、「記憶の書」として言及しながら解釈をします。本来解釈されるべき存在が解釈するのです。これは私たちのように解釈する立場に立った場合には厄介かつ不逞な態度です。そのうえ、下手をすればこういう書き方をしてしまうと、小説の種明かしをしてしまうことになり、もし、そこで解釈された以上のものがその小説にないならば、まったく下らない小説へと変えてしまう恐れすらあります。ですから、私たちとしては、この解釈をどれだけ真に受けるべきかというのは、それだけで問題です。なぜなら、もしその解釈にすべてが云われているとするならば、その部分は全体の必要十分な要約ということになり、全体を読む必要が少なからず消えてしまうからです。全体はその部分を現実化するための手段に成り下がり、それ自体としての意味を失います。それがゆたかな読みだとは言えないと思うのです。

 3.最後に、

 さて、孤独の発明という題名は結局、何を意味していたのでしょうか。そしてこの本が何か意味のあるものだったとしたら、それはどういう訳でそうだったのでしょうか。ひととおり議論を終えたときに、この本がいままで話して来たような仕組みになっておりこれこれの仕掛けがあったとしたら、それが面白い、あるいは意味がある、あるいは読んでみたい本だと感じられるのは、あるいはそう感じられないのはなぜか、ということについて、話してみたいと思います。つまり、読んだときの体験がいま解釈したこととどう関係しているのかと、考えてみたいということです。こういうことを話すことをなるべく個人的な思い入れに完全に堕してしまう事なく、人に分かるような言葉で話すということが可能かどうか分かりませんが、感想程度でもよいので考えてみてください。そして、誰かにどこがいいのか説明するとき、この部会がなにかしら役立ったとしたら幸いです。もちろん、まえにも書きましたが、解釈がすべてを云ってしまったとしたら、その途端に作品は貧しいものに変わってしまうという呪いが掛けられているのですが、そのまえに、できることはやってもよいのではないかと思うのです。すぐれた作品ならば、どれだけ話し合っても言い尽くせないものが残るはずだ、と思うからです。
 もちろん、その本について話すことが一番よい読み方というわけでは決してありませんが。