個人読書会レジュメ 1996年5月24日
テキスト「ニューロマンサー」ウィリアム・ギブスン著/黒丸尚訳(ハヤカワ文庫)
“Neuromancer" William Gibson, 1984
ヒューゴー賞、ネビュラ賞、フィリップ・K・ディック賞、SFクロニクル誌読者賞(以上アメリカ)、ディトマー賞(オーストラリア)、星雲賞(日本)。
1.喪失と記憶
ケイスは始め、文字通り空虚な容れ物(CASE)として登場する。存在意義を奪われ、肉体を抹消しようとする。リンダ・リーも彼にとっては失われたも同然だ。リンダはリンダならざるものに変貌してしまったに見えたのだから。モリイもまた喪失感に捕らわれている。ジョニイを失ったことへの自責の欲求は彼女にヒデオのような存在への敵対を動機づける。ケイスに肩入れするのも贖罪の欲求抜きには考えられないのではないか。この二人と微妙にずれた形で、もう一組の男女がいる。レイディ・3ジェイン・マリイ=フランス・テスィエ=アシュプールの病は目的の喪失だ。母マリイ=フランスの示した道筋は失われている。老アシュプールの本質的に引き伸ばしに過ぎない方針は、彼女の聡明さにとって、退屈さに於いて認めがたい。彼女は退屈から逃れようと欲しながら、動機を持たないので何をしても無意味を見いだすに留まる。だから彼女はジミイのような盗賊をわざと侵入させて、退屈なものへ悪意と侮蔑を示す。しかし、彼女はけっして厭世的な虚無家だとは思えない。むしろ途方に暮れた少女の面、両親から受け継いだものをどうすべきか知らない娘、結論だけ失われた問いを問い続けている娘の顔こそ印象的に浮かび上がる。一方でリヴィエラもまた虚無に侵されている。彼を侵しているのは、価値のあるものなどないという認識だ。だから彼は、無意味なことを無意味であるがゆえに行い、常に行動を潤色し続け、愛する者に裏切ることによって記憶に残ろうと望む。彼にとっては華麗さ、強烈さ、激しさだけが辛うじて無意味であるにもせよ、行為を律している。彼の言う「天の邪鬼」というのも、そうした、自己正当化したり行為を意味付けようとする凡庸さへの悪意の現れなのである。この点で、彼の人格は「人形」のショウも含めて、ロマン主義的なものを色濃く体現している。
例えば、このショウの結末はケイスの解釈によって示されるだけだが、果たして本当にそういう終わり方をしていたのだろうか。あえて直接的に結末が示されていないという事実は、本当は違うのではないかという疑問をある程度正当化する。(p.223)
その意味で、この物語は彼らの過去に起源を持つ空虚が癒される過程であるとも見なしうる。この小説の登場人物が二人一組を基本としておかれていることも示唆的である。モリイはなぜケイスに引かれたのか、リヴィエラはなぜモリイにひかれ、3ジェインはリヴィエラにどういう関心を抱いたのか。それはただ道化としてのものに過ぎなかったのか。そしてこの二組が単純な対称性によって対立させられているわけではないことも重要である。ケイスが自己の内部の空虚を感じているのにたいし、モリィはより外的な喪失感を感じていて、それと同じように3ジェインは世界の自己にとっての無意味を感じ(退屈)、リヴィエラは自己の世界にとっての無意味を(無為、ロマン主義的イロニー、パフォーマンス志向)感じているというのは、ある程度図式化できる事実だが、ことはそう単純ではない。こうした様相はストーリーラインとも関係している。彼ら自身の生と同じく、結末までだれも結果も目的も知らずに、ただ盲目的に半ば操られながら動いて行くのである。そこで、もう一組注目すべき二人がいる。アーミテジ(ウィリス・コート大佐)とディクシー・フラットライン(マッコイ・ポーリー)(のROM構造物=人格コピー。しかしRead
Only Memoryであるということは、Random Access Memory RAMと違って人格は固定され変化しない。つまり、内的生を生きてはいない。その点でニューロマンサーと違う)である。本来の名で呼ばれないということでもあい通ずるが、彼らは生ける死者であり、蘇らせられたフランケンシュタイン、あるいはより溯ればゴーレムである。平板な感情、自己抹消衝動に於いて彼らは相通じる。彼らの存在は、内面などというものはもはや聖域でも何でもないという、苦い事実を突き付ける。彼らが非人間的な、機械的平板さを露呈するとき、むしろそのためになお、人間性を感じるのはなぜだろうか。「あんたときどき同じセリフをいうね」「性分でな」(p.221) 彼らが奏でるのは記憶のテーマのように思える。彼らは人格というよりは、むしろ人格の痕跡、記憶、残された日記のようなものだからだ。
記憶と死者、そこから思い出される一組の男女がある。マリイ=フランスとアシュプールである。彼らの物語りは空白になっていて語られていない。マリイ=フランスはなぜアシュプールと結婚したのか、なぜ彼女はAIを夢見たのか、何を夢見たのか、アシュプールにとってマリイ=フランスは何物で、どうして殺さなくてはならなかったのか。彼にとって、3ジェインは、その姿と寝て殺すというのはどんな意味があるのか。物語のすべての起源である物語はついに語られることがない。
マリイ=フランスと3ジェインの関係も単純ではない。マリイ=フランスという名前を共有する二人は一族の変わり者という点でも同一的な存在ではあるが、対立し葛藤関係にもある。それは恐らく、自分が母と同じ存在になってしまうという精神的圧力への彼女の内面の抵抗から来ているのだ。
T=A一族はユダヤ系らしいということも、一つの問題を提起する。
2.神と選民との鏡
「ザイオン・クラスター」というのは言うまでもなく、約束の地シオンの丘からとられた名である。(ついでに申しますとガンダムのジオン・コロニーもそうです。よもやギブスンが参考にしたとは思えませんが)ユダヤは一神教を生んだ民族であるし、ゴーレム伝説を生んだのも彼らである。そこでまず素朴な疑問として、《自由界》ではなく、「ザイオン・クラスター」がシオンの名を持ち、しかもそこに住むのは、聖書的な起源を持つ部族的共同体で非近代的な、しかもドレッド・ヘアーのラスタファリアン、つまりレゲエのおっさんたちなのはなぜかということがある。ついでに言うとこの長老二人は、予言者とその言葉を仲立ちするものという、霊媒とさにわのような関係にある。このスペース・コロニーは楽園のような世界で、一見自然/文明の二分法を作者が提案しているように見えるが、実際にはこのコロニーも文明のなかに組み込まれているのであって、特権的な楽園であるということはありえない。
また、父性的な一神教の隠喩としてウインターミュートとニューロマンサーの統合が語られるのかと考えてしまうと、この物語が男性中心的なものととられかねないが、そこで面白いのは、この統合をすすめるのは基本的に女性たちだということである。また、統合されたAIはマトリックス(地球上の全コンピュータ・ネットワーク空間。だから、正確にはサイバースペースはロマン主義的な超越の世界ではなく、物質的基盤を持つ存在である。このことはケイスの問題を考えるときかかわってくる)と合体してマトリックスの意識となるわけだが、そこで実現するのは全く中央集権的なシステムではなく、一つの意志が生まれるという訳でもなくて、表面的には何も変わらないのである。(「ニューロマンサー」とは離れるが、続編「カウント・ゼロ」では、このマトリックスの意識は分裂し、複数のヴードゥーの神々として電脳空間に顕現するようになる)
T=Aが内向しゴシック趣味の館(Villa)に閉じこもるのも、ヨーロッパでのゲットー(ユダヤ人居住区)を思わせる。無限の入れ子構造もユダヤ・キリスト教的哲学体系の暗喩として受け取れないだろうか。ここでは唯一神の問題が(恐らく、ニーチェの「神の死」と無関係ではなく、リヴィエラたちが生の意味づけを失っていることもそこから納得がいくのである)微妙にずれた形で思考されているのである。
物語の最後でケンタウルス座のAIが語られるのはその点では面白い。これが本当のことなのだろうかという疑問があるからだ。マトリックスが一つの存在に統合されるということは、それがキリスト教的な父権的統一ではないにせよ、他人がいなくなるということであり、マトリックスは孤独のなかで、寂しさや孤独といった悠長な問題でなく、話し相手がいないというまさにその事実によって気が狂うのではないかと思われるからだ。だから、マトリックスは虚構の他者を作り出してしまったのではないかという疑いが存在しうる。しかし、もしそうなら、それは鏡に映った自分でしかないわけで、無限の反映が合わせ鏡をつくり、T=A的な「内向」が復活してしまうだけである。(参照。鏡像段階)そこでもう一度、マトリックスについて考えてみると、実際には、人間もその一部なので、情報処理という観点からいうと、人間と機械には本質的な違いはない。だから、マトリックスはある程度は人間も含めての存在なのである。その意味では、マトリックスは世界に対しさまざまなインターフェイスを通じて接触しているのであり、コンピュータの体系の中で自閉するというのはありえないことのようにも思えてくる。(参照。ゲーデルの不完全性定理)しかしそうなると、問題は人類の意識の変化にもかかわってくる。
また、ウインターミュートとニューロマンサーは集合精神・意志決定者・即興/人格・不死性・予測・シミュレーションというふうに分けられているのだが、より具体的にこの二者の対立は何に根差し、また何かを暗喩しているのだろうか。とくに、ウインターミュートの性格づけは理解しにくく思える。
こうした考察に「蜂の巣」のイメージはどう関係するのだろうか。
3.ケイス/リンダ・リー
また前段とも関係することだが、統合には、なぜ言葉とともに、ケイスの「憎しみ」が必要なのだろうか。「憎む、たって、誰を憎めばいいんだ。教えてくれよ」「誰を愛してる……」(p.426)そして、ケイスの「怒り」(p.251)やリンダ・リーの「強さ」といった問題も、肉体の問題と切り離せないように思える。それはケイスが冒頭では精神/肉体のロマン主義的な二分法に従っていることに対立する問題だ。つまりケイスは憎しみや怒りといったものを通して、肉体にも比喩的に言うと声があること、精神=肉体というべきものを見いだすのである。そのことは肉体がもはや完全に機械/肉体という二項対立では考えられないことを端的に表すサイボーグの描写(義肢、義手、埋め込み手術、モリイのミラーシェード−埋め込みのミラーグラスの眼鏡)にも現れている。頻出する麻薬の物語のなかでの機能とともに考えてみてほしい。
また、ケイスにとってリンダ・リーは何者だったのだろうか。リンダ・リーもそしてケイス自身もかなり通俗的な人間である。三部作の最後に当たる「モナリザ・オーヴァドライヴ」で分かるのだが、実際ケイスはマイホーム・パパになって足を洗うのだ。だから彼は3ジェインやリヴィエラにばかにされているのである。しかしそのことはケイスやリンダが単純だということでもないし、低級だということでもない。この物語でも感動的なシーンのひとつ、(p.239)や、ニューロマンサーの作った世界の中での再会でも、それは明らかだろう。
彼は去ることで、ニューロマンサーに勝利するのだが、この不思議にうつくしい世界での出来事はいったいどういう意味を持つのだろうか。
また、ゴーレム伝説との絡みでは「一人は狂い、一人は盲い、一人は自分自身に出会った」という伝説があり、アーミテジ、モリイ、ケイスをさすとすれば、ケイスが見いだした自分自身とはいかなるものだったのだろうか。
4.構成・冬・ミラーグラス・ラッツその他
構成としては、原書で読むとより明らかだが、一部と三部、二部と四部の二つに分けられる。原書で定冠詞のついた章題のついた、二部と四部のRUN(作戦実行)が描かれるパートと、より内面的な残りの章に分けられる。このことは、一部と三部が、より寓意的な色彩を帯びているのではないかという疑いを起こさせる。とくに、「真夜中のジュール・ヴェルヌ通り」の真夜中の鐘が鳴るシーンなどは何かありそうである。
また、アシュプールの独白を初めとして、「寒さ」、「冷気」の示すものは何なのだろうか。それは外部の深淵を示しているのだろうか。ウィンターミュート=寒さと静けさという規定とも関係するように思える。
ミラーグラス。モリイの外科的に埋め込まれたミラーグラスはリヴィエラによって割られてしまうのだが、この小道具は、伝説とも関係して、見ること、について何事か語っているのではないだろうか。ミラーグラスは、見るということが、実は自分の視線に見られているということではないのか、ということを示すのかもしれない。見ることと見られることが一致してしまうということ。また、見ることと支配することの関係。例えば、監視という言葉。 脇役にも魅力的な人物がいる。フィンは仮面ライダーいうおやっさんのような役割を果たし、ラッツは市井の賢者の趣を持っている。彼が、ニューロマンサーのつくった世界の中に出てくるのも、理由があるはずである。また、ディーンは、ケイスにとって父親的な存在だったのだろう。彼は不死のテーマを先取りしている。そのことは、T=Aの内向と、彼のインテリア趣味の相似にも見いだせるだろう。
チューリングやタージバシュジアンといった人々はさほど重要な役割を果たしていないように思えるが、本当にそうなのだろうか。ブルースやキャスといった若者についても考えてみるべきだろう。それにロマン主義のこととも関係するが、ヒデオが人間味がなく、むしろ「人形」めいたところがあり、そのことは完璧に優雅な動作というところからも分かる。その彼にリヴィエラが殺されるのも何か意味がありそうである。
「決定的に同じ立場のリヴィエラが」(p.422)というニューロマンサーの発言も意味不明である。単に、死を前にしているというだけの共通点を指しているのだろうか。
また、何よりも、なぜこの小説はニューロマンサーを題名に選んだのだろう。
5.ヒューマニズム/倫理/内向
この小説には分かりやすい倫理はないように見える。むしろ、犯罪者と麻薬中毒者ばかりが出て来て、悪を行いながら何の制裁も受けない。アメリカのSF作家オースン・スコット・カードの言によれば、こうしたアウトローに感情移入できなければ楽しめない点がある。(しかし、続編「カウント・ゼロ」でギブスンは作中人物に「サイバースペース・カウボーイはアウト・ローではあり得ない」といわせている。犯罪すら、システムを前提とし、全体のシステムのなかで、或る役割を演じてしまっている以上、それはアウト・ローではありえないからだ)とくに、ヒューマニズムの姿勢は皆無といっていい。では、これは、アンチ・ヒューマニズムの作品といっていいのか。しかし、社会やメディアが悪を個人に(そして個人が相互に)強いる過程がますます複雑になっている状況で、(具体的にはリンダ・リーやアーミテジの運命を参照)ヒューマニズム的な平等やユートピアやハッピー・エンドを述べることが、果たして結果として善たりうるか。ヒューマニズムこそ何かを覆い隠し、残酷なものになってしまうのではないか、(チューリングを参照)と考えるとき、ヒューマニズムに対してヒューマニスティックであるような、アンチというよりポスト・ヒューマニズムというべきものではないかと思うのである。強い意志と主体的な強さがあれば善をおこないうるし、行うべきだという信念は、個人がすぐれて社会的な存在だということを覆い隠していて、ヒーローたりうるのはそういう立場の人だけだということを告げていない。無論、善が不可能だというのではなく、限りなく困難だということである。その意味で、私はこの作品はきわめてリアリスティックだと思う。そして、彼らがしかし決して幸せではないという事実、犯罪や麻薬にたいする無感覚は(フラットラインの無感覚であることの苦痛)、それだけでそうした淪落をギブスンが肯定している訳ではない証左である。
では、そこには何かヒューマニズムではない倫理が現れているだろうか。善と悪の二分法はどのように捉えられているだろうか。「誰でもいい、憎むことだ」というニューロマンサーの発言はそこにどういう関係を持つのだろうか。
また、この物語のプロットは入れ子構造の中へ中へと進む過程だといえる。サイバースペースも、ヴィラ・ストレイライトも世界や小説のひな型であって、その中心へと主人公たちは進む。そして二つの探求の出会う地点で、また、全体の構造を反復しているような「言葉=寓話」が語られる。
The Ducal Palace at Mantua,contains a series of increasingly
smaller rooms.
They twine around the grand apartments, beyond beautifully carvd
doorframes
one stoops to enter.They housed the court dwarfs.」(マントヴァ公爵邸には、だんだん小さくなるひとつらなりの部屋がございます。それが大部屋を取り巻いて、美しい彫り物を施した扉枠をしゃがんでくぐらなくては、はいれません。そこには宮廷侏儒が住んでおりました)(p.425)
世界→サイバースペース→ニューロマンサーというのも、入れ子構造だし、むろんストレイライトもそれ自身入れ子構造の実践である。
一体、この何処までも自己相似でありながら小さくなっていく入れ子は、物語のなかでどのような意味を持っているのだろうか。