小説作成について 

 1 書く姿勢

 自分が一般的であることを、統計のうえでの多数派で、特に珍しい内面をもっている訳ではないということを認識しないうちは、よい小説は書けないと私は思う。先輩の干場さんがおっしゃっていたことだが、今や、ありのままに抜きん出た内面性を秘めているものなどありえない。それは、私たち人間が凡庸になったということではない。ましてや、とくべつな内面を持っていないのだから小説を書けるひとがいなくなってきたということでもない。もともと、特別な内面性が小説を書く条件だなどというのは、俗説にすぎないのだ。
 私たちが「多数派」になってしまったのは、歴史と技術の発展のなせるわざだ。そのように云うと、文学の事実を思想や歴史、つまりいわゆる文学の外の事実に帰してしまう危険な考えと見なすひとがあるに違いない。しかし、どちらも言葉と意味の世界の出来事である以上、どちらがどちらを支配するという関係ではなく、つねに生きた相互干渉を行っているのだから、問題なのは、文学と社会がどう関係しているかという問題なのである。
 具体的には、文学の言葉の意味と、政治の、あるいは思想の言葉の意味は区別できない。私たちの内面は、しっかりと外との境を保って存在しているのではない。私たちの内面は、世界に満ち、私たちに投げ込まれ、私たちが投げ返す「言葉−意味」のキャッチボールの交点として存在している。意識は、世界に満ちたさまざまな意味の動きと干渉しあっていて、「私の」意味と「外の世界の」の意味とは実際には区別などできないのである。言葉の意味は、つねにまず外から与えられ、私が別の意味を与え(しかしこの自分の意味を定義するのも別の言葉を使って行わなくてはならない)、それをさらに話し相手が別の解釈を投げ返す。そうして意味は生成されつつあるのであって、しかも厳密に見つめてみるならば、そこでは、意味とはどちらに属しているのでもなく、その二人の間の言葉の関係のある抽象としてしか、捕らえられない。
 個々の複数の人から言葉を通じて渡される意味にさらされることもなく、影響も受けない内面というものがない以上、内面はいままさに社会的な網の目のなかで形成され、生成しつつあり、その言葉/意味/五感のネットワークの模様の一つとして立ち現れる。
 だから、かつて人々が個々に比較的異質な内面を持っていたというのは、実はコミュニケーションに時差があったからで、ガラパゴスの動物が進化から異質なものへと進化したように、偶然と確率論の問題として個人が特殊化したに過ぎない。つまり、与えられた条件が生み出すパターンを全部出してみたというだけで、それは創造的な異質さではない。簡単に云うと、それは、「組み合わせ」を全部試してみるという意味での多様さである。(しかし、実際にはそのような表現形における異質さは、平行進化というものを考えるとき、抽象的な形式のレベルではまったく同一のものとして現れる。テーゼ:本当の異質さは交流によって生み出される)
 ところが現在ではコミュニケーションが高速化し、メディアが発達しているために、強力な表現形はまたたくまに他を圧し、自然はもはや全部試してみてからいいのを選ぶという悠長なことをしない。かつては総当たり戦だったのが、いまではトーナメントである。メディアは一つの思想を大々的に、さまざまな形でいろいろな所に忍び込ませて送り込む。それはしかも、意図せずに、さまざまな、おどろくほどさまざまなものを一つの考え方の形式の下に統一する。そしてそのことは気づかないままに私たちの内面に侵入する。簡単な例として、誰もが黒人と白人と日本人がいるという前提で、それに対するスタンスはさまざまであっても、議論したり、椅子をそれぞれの好みに合わせてとった統計に基づいて作ったり、統計に基づいてそれぞれの好みに合わせて海外旅行先を計画したりするとしてみる。そのとき、私たちはそれがそういうものとして長年流通すると、本当はどれでもないひとがいるかもしれないし、そんな区別自体がうそかもしれないのに、客観的に、家具や議論や商売の区分としては存在しているために、意識していなくても、その区別を学習し、意識の奥深く、私たちの内面の不可欠の要素として位置づけ、たとえ、そういう区別があることを私たちが意識してしらないとしても、私たちは、それが自然な区別であるとして、自分の自発的な好みとして、主体性として、その区別を暗黙のうちに前提した選択をするだろう。つまり、そのどれかのうちから選ぶという態度が区別を前提しているのだ。
 なぜ、わたしたちがそんな自然な根拠は何もないのに、それが男女の区別に由来していると意識するよりはるかまえから、男は黒を、女はピンクを愛するようになるのか? 答え、それは技術の発展のお陰です。
 因にこのことは、選択のまえに前提として選択を暗黙のうちに規制するものの区別としての平均化の話であるが、私たちが同質であるということには、さらに、その与えられた二分法のうち、同じ方を選ぶというレベルでの同質さもある。勿論、逆を選び、皮肉を唱え、逆説を弄し、みずから少数派であると任じる人たちこそ、この二分法の一番の味方であるのだけれど。(そもそも数が少ないということだけを根拠に、自分たちが多数派になることを少なくとも字面だけでも望むような言葉を主張することの矛盾に気づかないのだろうか。−是とするということは多数派になることを求めるということと正確に等しい−宇津和くんがサルトルの言葉として教えてくれた、「全員がそれをしたらどうだろうと考えて是としうることをなせ」という倫理は、そういう文脈でも意味を持つと思う。自分たちが少数派であることが暗黙のうちに前提されている反抗は、きわめて反動的なのである)
 そしてこの選択の同質さは、そうは思いたくないかもしれないが、私たちが、少なくとも小説家になりたいと称する人々が、きわめて同質的な社会的経済的立場にいるということと、密接に結び付いている。私たちがみな少数派を是とし、みな学問を労働より是とし、個人を集団より是とし、無用さを有用さより是としてみたりするのは、私たちが自分を肯定する方向に、無意識のうちに選択を思考と内面を形成して来たからにほかならない。このとき、主体性と客体性はほとんど程度の問題である。私たちは、みなきまって中産階級の出で、みなきまって勉強ができ、みなきまってそれなりの暇を持ち、みなきまって社会的には無用で、みなきまって給料が上がることを望んでいるために、みなきまって進歩派である。本当に、わたしたちのものの考え方が、きまって私たちの現在の立場を肯定してくれるように見えるのは、はたして本当に偶然なのだろうか。本当に、こんなにうまい偶然があるものか?
 私たちは、たいていの場合自分の思想に合うように自分の立場を決めるのではなく、自分の立場に合うように自分の内面を決めるのであり、しかもその過程は無意識のうちにひそかに、まるで自分で決めたかのように自分には意識されるのである。
 しかし、決して私はそうして立場に強いられた思考に抗うのは不可能だと云っているのではない。ただ、自分がいま現に月並みであるということを無視しようとしたり、選択のもうひとつに、鏡のようにいまと線対称になっている考え方にたんに鞍替えしたりするような(つまり「少数派」や「反体制」の方法)安易な方法では、強いられた考え方とそれを強いるものを強化しこそすれ、決してそれに抗うことは不可能だと云っているのである。そしてそうした安易な反抗は、ちょうど不良の服装が、校則にあった制服/違反の制服という二分法を正確に反映しているだけで、その分け方自体に少しも反抗できていないのと同じで、まさにそうした制度としての思考を強いる枠組みに抗うものとしてある小説に、何の貢献もできないし、そんな考え方では小説を書くのは不可能だということである。せいぜい、小説もどきを書くだけなのだ。
 だから小説を書くことは、自分が月並みであることをさまざまな角度から正確に認識することから始まるといってもよいのだと思う。

 ただ分けることは、私たちが選ぶということをする以上避けることができないし、選んだ/主張した途端その分け方が誰かを抑圧し始める(それがすぐれたものであればあるほど。このくだらない文章でも、無視されない限りは誰かの自由な思考を制約するに違いない。自由であれという文章は自由を制約するという逆説。もちろん、再三云っているように純粋な観念的抽象のほかに、自由な思考などありえないのだけど)ことも避けることができないし、社会的に通じる言葉でしか書くことができないのだから、私たちはこうした一般的な意味や枠組みの世界の外に出ることで抗うことはできないのであり、小説は、どうしても誰でも知っている物語や誰でも知っている言葉の意味で書かれねばならないので、そのことを痛切に認識すること、小説家は凡庸なものを書くことで凡庸でないもの書こうとする不可能に近い挑戦であるということを認識することこそ、小説を書く最低条件なのだと思う。
 ただ、さっきの論理に従って、物書きだから小説を褒めるという風にならないように、すべての営みが(いわゆる芸術に限らず)少しでもよりよくしようと思えばこの不可能な試みにぶつかるということを付記しておく。

 2.小説と貴種流離譚

 そこで、今度は具体的に「文学」あるいは小説というものが、「いかなるものだ」といまここで歴史的、社会的、地域的に規定されているかを考えてみたい。
 まず、小説は言葉による、認識の交通である。いま読んでいる読者と、いま読まれている文章とが、認識として相互干渉することである。何か決められたものを固まった性格を持った読者に受け渡すことでは断じてない。読む行為は、読まれるものと読むものを同時に決定する。(もちろんそれぞれに対してさまざまな別の要素も介入するからことは単純ではないが。たとえば読む状況、ページの状況、etc.)瞬間だけを捉えれば、この二つを厳密に区別することはできない。物理的なそれではなく、現れとしてのテキストが読まれる瞬間に決まるように、生理学的なそれではなく読む主体としての読者の内面も読む瞬間に決定される。
 だから、読まれるものを考えるには、ある程度読むものについても考えなくてはならない。(もちろんそこでは悪しき社会学者のように断じてテキストを社会学の資料に貶めてはならない。テキストには固有名が付せられていることの重大さを考えるべきである)むろんそこには二次的には書くものとしての読むものの問題もあるが、いちおうここでは二義的な問題としておく。
 そこで、前段からの論理に従えば、小説は無傷で自由な内面の表現ではありえない。むしろ小説は、個人的で同時に深く社会的な、この二つの対立ではありえない、もっと微妙な絡みあいとして現れる。しかし、一般にそうした「いわゆる個性のいわゆる表現主義」が跳梁跋扈している。では、こうした思考は一体、どんな起源をもっているのだろうか。

 さて、私たちは形成されつつある自然主義へとまなざしを向けよう。(もちろん実際の資料にあたらない限り以下の論点は大ざっぱな素描であることをまぬかれない)維新によって冷遇された、教育のある没落士族の子弟たちが、その社会的無用物であるという意識と、もはや封建道徳にも頼れないという意識のなかで、輸入された近代文学に対してどんな態度を取ったかを。そこで採用された図式というのは、教養はあるが金の無い没落士族/無教養な俗物の市民という事実を投影した、個人/俗世、または、無用性/有用性の図式であり、そのことによって彼らは無意識のうちに、無用なものを肯定する論理を小説に反映して行く。そこでの過程はまるで高貴なものが身分を隠して流浪し、最後にはその身分に合った地位を得るという貴種流離譚にそっくりである。あるいは、ゴータマ・シッダールタの出家のイメージでもよい。聖杯探索譚との類似も指摘できる。
 1.通用の価値を否定して高貴な地位から「転落」し、
 2.高等遊民として下層世界で「彷徨」し、
 3.自己/真理を発見して彷徨の苦悩を「表現」し、
 4.芸術の世界においてもとの高貴な地位を「回復」する。
 認識してほしいのは、この図式がけっして一般的普遍的なものではないということであり、ある時代の刻印を押されているということなのであり、そのくせ私たちのなかにいまも居残っているということなのである。論理的に批判するなら、通用の価値/芸術の価値という区分もアプリオリに正しくはないし、芸術の上層/下層と階級の上層/下層が関係しているというのも時代的な傾向でしかないし、ましてや、その「下降」に於いても、自分だけは染まってしまわないというのも、彼らの士族の血に対する自己同一性への信頼に由来する観念で、人は貧しい暮らしをしていれば、よきにつけあしきにつけ貧しい人だとも云いうる。彼らが通用の価値を否定するのは、彼らが没落しつつありながら封建道徳によって抑圧された成長をしていることと無関係ではないし、芸術的内面に対しての自負が強烈にあるのも、士族の自負心と世俗の冷遇と無関係ではないし、「転落」するのも、実際に彼らが経済的理由で上京するとそういう暮らしになることと無関係ではないし、「表現」するのも、実は表現するということは内面を見つけることと同語反復なので、まさに、それは彼らが具体的な理由で創作を志した事実と平行しているし、それが「回復」を意志するのも、彼らの意志が士族の誇りと密接な関係を結んでいるのと無関係ではない。さて、個々の作家の場合には、この無関係でないというくだらない曖昧な台詞が具体的にどういう関係だったのかという究明になるわけだけれど、全般的な事実として、こういう対応が見いだされるのも疑いがない。
 これにはさかさまの説明もできる。そのような文学的図式が普遍的に妥当するからこそ、彼らはそうした生を選び取ったのであり、そのような理念にしたがって、そのような芸術的欲求に従って彼らの地位を選び取ったので、その他の一致は偶然にすぎない云々。なるほど、これには説得力がある。しかし、ではその芸術的欲求はどこから来たのかと問うてみるべきではないだろうか。果たして、何処か全く別の世界に精神や純粋な内面が存在しているなどと主張できるのだろうか。
 所与の現実を盲目的に肯定すべきではないし、立場の発言になり切ってしまうことは非人間的、非芸術的だ、というロマン主義的な問題提起は間違いなく正しい。ただ、間違っているのは、その所与の現実の立場をまったく無視して、純粋に語り、認識することが可能だと信じてしまった所にある。純粋に立場に無関係な発言は厳密にはありえないし、普遍的な人間(つまり純粋な内面)というものはありえない。所与の現実の立場、具体的な社会的な言葉の文脈を前提として認識することは、与えられた現実に従うことを拒否することと少しも矛盾しないし、むしろそこにしか抗う途はない。私たちは手持ちのもので勝負するほか許されていないのであり、社会体制の言葉を素材として用いざるを得ないのだ。ましてや、感性などという、内面の自然へ信頼など、まったくできそうにない。私たちはオリジナルな自分を表現するのではない。表現することで初めてオリジナルで表現している間はありうるので、むしろ、書くとき、オリジナルするとでも云うべきなのだから、人為を廃して自分の書きたいことを書けばよいものが書けるなどというのは夢の亦夢、もちろん理知的に書けばいいというのではなく、小説もまた労働であり、何らかの形での工夫と努力が必要だという月並みの結論に達するだけなのであり、ただその工夫と努力の結果は少しも労力に比例しないという残酷さが小説にはあって、私たちは自らの無意識や内面を社会的文学的にある程度は意識して生成しなくてはならないのであって、ありのままの自分など、少しも小説にはならないということなのである。ただそのことは、哲学的、倫理的、道徳的によい人間であるということとは、微妙にずれつつ絡み合う複雑な関係にあり決して一つではない。
 しかも、首尾よくよい小説を書けたとしても、それは別の価値観からすればとくにすばらしいことでもなく、職人が気に入りの作品を作れたというのより、偉くも卑しくもないのである。
 しかし、小説が不特定の人の間での流通を前提としている限り商業芸術であるという厳然たる事実を認識することは、決してそれが商品に、過ぎない、と云う訳ではないので、商品でありながらなお、あるいは、商品だからこそなおかつ、というところに、賭けたい人は賭けるべきなのだと思う。
 だが、どれだけの作家の名が、そしてその名のついた作品が後世に残るだろうか。私たちはヴィクトリア朝の小説家の名をどれだけ知っているだろう。そして、今、日本にどれだけ莫大な数の作家と、さらにそれを上回る作家志望がいるかと思うと気がとーくなるし、現在では、決して作家になるということが反時代的なことではなくて、一つのありふれた志望であるということにきづかされざるを得ない。
 なれるかどうかはまた別として。
                         終わり。