1 始めに
 プルーストの「失われた時を求めて」の重要なモチーフのひとつは、おそらく複数の一回きりの、固有のさまざまな「もの」が、仮想的だがきわめてリアルな或る場所、つまり固有名詞によって(これは、同一の存在が同一でありながら変化していくという、自己の自己生成作用であり、それは体験される持続としての時間そのものを形作る機能なのだが)、「重ね合わされ」、感覚的にはほとんど不可能な多重存在が現前してしまうという事態、つまりは、この物質世界が、形象や感覚の世界ではとなりあうことがまったくできないものたちを重ね合わせ、ポール・オースターの「孤独の発明」の表現を借りれば「韻」を踏ませてしまうという事件であろうと思える。どういうことかというと、時間的に異なる二つの、そして性質においても厳密な意味ではまったく別の二つの存在に、「項」とでもいうべき同一性を構築し、「もの」の認知を可能にしているのが、固有名詞であるということなのである。
 これは、自己にそれまでの自己にとっては不可能な認識(というのは、連続性において我々は微分的に時間そのものである、変化と同一性という矛盾に目をつぶっているのだが、その中間項がなくなってしまうと、そもそもそうした変化は自然な感覚的認識の次元では同一である根拠が名前にしか存在しないものだからである)を強制するなにか外部の力であり、また、そのような同一を可能にする第三の時空の次元を、奥行きを生み出すということでもある。あるいは、むしろ問題なのは二点から引かれた直線が交わる、仮想の奥行きのなかの一点なのかもしれない。これは「韻」という比喩に従って云えばそれが奏でる音色の次元であり、それがプルーストの云う「至福」の感覚だと云うことができるだろう。
 ここで重要なのはこの二点を結ぶのが、抽象的な共通性ではなく、まさに両者の物質性以外の何者でもないということである。
 では以下、具体的な問題を論じることにする。

 2
 ブルジョワ社会と、スワン家を象徴するスワン家の方と、貴族社会をあらわすゲルマントの方の二つの方角がこの小説には登場する。この二つの位相を惑星、あるいは人種の違いとして語るのはいささか安易だろう。そのような表現では逃れ去るものがある。しかし、かといって量子論的な多世界解釈を採用した所で、問題なのは両者の交錯なのであるから、もしSFとして、その方法論において語るならば、物質的、具体的次元において実際に両者が交錯することが重要なはずである。つまり、そうでなくて、象徴的な、云わば語られる世界ののなかの次元ではなく、読まれる表層の次元で交錯しても、それはSF的設定を必然とはしないだろうからである。
 そこで、ではいかなる方策がありうるか、ということになる。もちろん、多世界の存在の交錯について語ることは可能だ。しかし、そこで境界の綻び、あるいは「韻」を力強く現前させることはかなり困難である。前にも述べたが、平行して提示しても、その両者の同一の場での「重ね合わせ」を感じさせるには、より強い同一性が要請されるのである。
 二つの方角という位相を、「血」即ち遺伝子によって表象してしまえば、その交錯と変貌とアイデンティティを語ることは可能だし、歴史的な事件によって変わるものと変わらないものについて語ることも可能だろう。しかし、ここでの問題は、そこでの種族的な同一性の感覚がどれだけ有効かということである。つまり、ここでは「時間」をマルケスやフォークナーのように神話的に縦の血の系列によって語るすべが提示される。しかし、そうすると「自己」の問題の扱われ方が全く異質になってしまう。プルーストにおいては語り手本人が、無意識的想起によって作品を語り出す過程が重要なのであるから、この「自己」をなんらかの意味で救い出す方が望ましいはずである。
 ところでサイエンス・フィクションにとって、象徴というものには複雑な問題が存在する。SFはふつう主流文学が象徴を遣う場合に、或る観念を日常的な事物に、語り手の語りや構成によって二重写しにしようと試みるのではなくて、その観念を極限まで体現した仮想的な、本来非在の存在を、唯物論的に具体的かつリアルに描写し、その物質性に於いて、もともとの観念じたいの変成を試みるという指向がある。従ってここには裸形の象徴、物質的隠喩、寓意的形象化とでも云うべきものがあるのである。もちろん、これが、存在しないものを具体的かつ唯物的に描写するというSFの定義的な本質と深く結び付いたものであることは論を待たない。
 このように考えてみると、SFの本質的な問題意識である、テクノロジーとうちなる他者(たとえばうちなる他者としての機械、人間という観念の物質化としての機械の、モデルとしての人間からの逸脱は、前述の比喩の問題と平行しているし、この機械によって人間自体が物理的にも精神的にも変成しているのである。従ってSFにとって機械は他者かどうかと云う問題はきわめてアクチュアルな「現在」の問題である)の現前の問題とプルーストを交錯させるためにも、この場所の問題が変形されなくてはならない。
 従って、ここで二つの位相に機械と生体という位相を対応させる案が浮上してくるが、そこで今度は問題になるのが、幼年期という特権的な場所の利点である。そこで、両者を統合するために、語り手を機械であり人間でもあるものとして生まれたものとして描くことを考えてみる。ここで母の問題群を考慮に入れなくてはいけない。母子愛や同性愛の問題も含めて、これらは境界侵犯の問題でもある訳だから、ここにサイバネティクスの機械と人間の境界侵犯を重ね合わせることは恐らく意味があるだろう。アクチュアルな問題として、無生物でありながら自己増殖する生体機械としてのウイルスが問題になっていることもあり、ポスト・サイバーパンクというSFの文学状況においても、グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」をはじめ、機械としての身体が微細な、ナノマシンと細胞や細菌、ウイルスとの類比において問題化されていることもある。
 その場合、語り手の身体性の問題として、無意識的想起や、二つの方角、時間、母の問題は捉え直され語られることになる。これをもって最も根本的な変更と見なしてよいだろう。しかしこのように設定してしまうと、ある意味で二つの方角の統合者としてのサン・ルー令嬢の役割を語り手が奪ってしまう。もちろん、この場合、語り手は別にふたつの指向の調和を象徴しているとは言い難いのは確かである。
 もともとプルーストには血縁が意味論的にもある単位をなしていて、ゲルマント家の人々は、やはりそれなりの意味の役割を果たしており、スワンの家系もまたそうなっている。むろんそこで同性愛という精神的血族という分節も存在する訳だが、この方角と遺伝子の重ね合わせを考えると、方角という言葉の持つ探求への暗示を見逃す訳には行かなくなる。そこで、やはり位相のうえでも、二つの方角を区別したい所だが、前述のように変更を加えてしまうと、文明レベルもおのずと決まってしまう。そのため、幼年期に過ごした田舎という場所がやや説得性に欠けて来てしまう。「フランケンシュタイン」的にややあやしげな疑似科学、錬金術のようなものを援用する方法もあるが、それよりも時代をプルーストの時代におこうとすれば、スチーム・パンクのように(わたしたちの世界から見れば)奇形的に技術が進歩した平行世界を考えた方がよいだろう。(スチーム・パンクにおいては蒸気機関がきわめてはやく進歩し、蒸気によってコンピュータが完成しているヴィクトリア朝が舞台なわけだが)
 ここでも問題はきわめて困難な選択になる。実際の歴史との重ね合わせを残存させるべきかどうかというのは、その効果を考えるうえできわめて重要な問いだ。近代小説はすべてそうであるが、プルーストにはとくに顕著なように、語られたことと語られなかったことの間、その差異によって想像され、出現する事件や人物の多義性(というよりも、多義交錯性、二重性)が重要だからで、とくに実際の歴史を背景テキストとして持つと、この多義交錯を生み出すのにかなり有効なのである。ここで云う多義交錯というのは、曖昧な、一つの意味にも決定できないということではなく、複数の意味が同時に異なったベクトルとして成立し、その複数の意味が一つの固有名詞の場で交錯し、闘争するという意味である。従って、詩的な多義性とは異質な散文的な特徴とみなさなくてはならない。
 ここで直接的な固有名詞による歴史との交錯がプルーストによってかなり意識的にしかけられているということを考慮すると、問題はさらに紛糾してしまう。しかし、作品を再び語り直す主体がその時代に属していない以上、実は時代背景を保存するのはいささか不毛である。というのは、我々にとっては第一次大戦も、貴族の社交界もサロンも歴史だからであり、また、そのような対象として読まれてしまうからだ。
 さらにまた別のより本質的な問題も存在する。SFは日常を記述するのがはなはだ困難だということである。特異なものを描くことを本質とするSFは、その性質上差異をひとつの平面で描き、時間の軸で描くことが難しい。なぜなら、SF的な事物が発生すると、それは、よほどのことがないかぎり日常を破壊してしまうからであり、たとえそれを人物が日常として生きても、読者の側の違和はなかなか去らないからである。
 しかし、プルーストの場合、根本的に重要なのは、日常生活のなかにひそかにさしこむ差異と時間なのである。
 そこで、暗喩的な形で時間を扱うことはSFではほとんど不可能だとみなさなくてはならない。むしろ明示的に時間を扱うべきだろう。実際、その歴史に於いてSFは思弁小説(Speculative Fiction)という解釈を提唱されたこともあるのだから。
 さて、そこで時間を物質的な対象として問題にすることのできる設定、もしくは仮想的な技術がどうしても要請されてしまう。問題なのは、理性的な、少なくとも理性的であろうとする主体だからである。SFは合理的な主体を導入することでテクノロジーを内面化してきたのだ。
 たとえば;語り手はまず機械と有機体の混成体として生まれる。しかし彼の主体は安定しない。身体が確固とした自己によって統一されないからだ。それはもちろん身体の不統一に由来する。また彼のセクシュアリティも不安定だ。彼の身体は不安定で流動的なので、「変身」が可能であり、そのときの意識状態によって変形してしまうからだ。彼はみずからを男性として認識すべきか女性として認識すべきか知らない。彼は誕生する時点でウイルス性の疾患を彼を生み出した女性研究者に伝染させ殺してしまう。彼は母殺しによって生まれる。このウイルスは世界中に蔓延し、女性を皆殺しにする。彼女の人格はコンピュータにコピーされ、機械の体を遣って彼を養育する。父親は普通の人間である。しかし彼はたえず母がすでに死んでいることを違和によって知る。彼はコンピュータ・ネットワークを通じて、死者たちのAI人格コピーがおりなす一種の「不死の国」、無数のヴァーチャル・リアリティのサロンに、パソコン通信のような「部屋」に区切られた社交界と、だんだんと下層の方からアクセスしていく一方で、現実の世界では男性はただの人間、女性の場合は体はほんものの人間でも、頭脳はコンピュータというアンドロイドと平穏な日常をおくる。これは、女性を殺すウイルスが反応するのが、身体ではなく、女性の精神だからである。
 また彼はもう一つの世界も持っている。それはウイルスの混乱で廃墟となった都市のスラムである。ここでは、成り金が上層に清潔なサロンをつくり、機械相手のさまざまな倒錯が氾濫している。
 この二つが語り手にとってのゲルマントであり、スワンである。死者の国は華麗であり、知的で、一時彼はその世界に参入したいと思うが、やがてそれが「リアル」なのか彼は疑うようになる。そしてその表層のおくに、彼自身の精神とも関連した構造を感じるようになる。彼の意識と自己はネットワークと接続されていることによって、ネットワークの情報のさざなみ自体を自己の無意識としてしまっているのである。そして、ある行為や身振りがその構造を振動させ、彼に「至福」を与えることを見いだす。
 この構造が何なのか彼は知りたいと思う。一方で、彼は、なかば自己を機械化し、スラムにいながら「ネット」すなわち死者の社交界にいりびたっている人物と知り合うようになる。この男、「スワン」との交流のなかで、身体の意識への影響の重要さを感じる。ジルベルトへの恋などがあるが、彼女はウイルスにおかされないために眠らされている。彼は彼女の不在を愛する。
 「バルベック」で彼は群体生物の疑似ヒューマノイドを愛する。生体兵器として生み出されたのだ。アルベルチーヌである。しかし、結局彼らは互いの欲望を知ることができない。
 以下、同性愛者たちは同様で、モレルは純粋な機械を接合していない「人間」、ヴァントゥイユのソナタはネットワークのなかで語り手にときおり触れる自律的なプログラム、語り手の文学志望は、そうしたプログラムをつくりたいという欲望として、ウイルスを撲滅する手段や自己の起源を知りたいという願望として複合的に表し、現実の世界でのささいな行為が無意識的想起を呼ぶのは同じ。
 最後には、語り手が無意識的想起が、現実の世界とネットワークの世界との両者の深層にあるもう一つの時空を開示していることに気が付く。地質学的な時間が過ぎて、老いた語り手はやがて、誰もいなくなった地球上に、生体と情報体の統合として一人の少女(サン・ルー嬢)が誕生するのを見る。これで終わる。