啓蒙主義と文学の通俗性に就いて
私は、生涯、啓蒙するまでには堕したくないのです。
ぜったいに賢者、通人、風流人、識者ではありたくないのです。
この文章を、私の中の保守的で見え坊の啓蒙主義者にささぐ。
「じつは」「意外にも」「本当は」
「もしかすると」
「むしろ」「考えてみると」「案外」
といった副詞には、気をつけた方がよいと私は思う。私自身としては、なるべくそんな類いのいがかわしい副詞は本気では使わないようにしている。これらの副詞がまやかしのレトリックだからである。しかも、そのレトリックは、たちの悪いことに自分が通俗的ではないという振りをする。これをいま、試みに「賢者の修辞」と呼ぼう。
なぜこうした副詞を使って語ることが如何わしいのか? それは、こうした副詞を用いることで、何の根拠なく、その言葉が自分が真理であることを僭称し、愚昧な大衆・常識/少数の賢者・真理といういがかわしいことこのうえない二分法を押し付けるからである。これが、つまりここで私の云う啓蒙主義なるものであり、賢者の修辞だ。
考えてほしい。一般の考え方が間違っていて、その正反対が正しいなんてきまってると思い込むなんて、陳腐だとはおもいませんか。
啓蒙主義が西欧中心主義と植民地主義と密接に結び付いていることはここでは詳しく触れない。(かれらは「野蛮」に「文明」をもたらすために植民地化したと云い張った)ただ、指摘しておくべきは、啓蒙主義にもっともかけているのは、他者への畏怖であるということだ。自己の価値観の体系への疑惑の欠如である。ひらたくいえば、まじめであるがゆえに傲慢なのだ。他者が自分のように考えないことを受け入れるという礼節なき、きまじめさは愚かしい。
それはまた、「真理は隠されている」という西欧のオカルトにまで溯る信仰にも現れる。
なるほど、大衆は愚昧かも知れない。常識は誤謬に満ちているかもしれない。しかし、である。大衆とは誰か? 常識とは何か? そうとは限らないという事実がある以上、大衆的であること、常識的であること、流布している見解であること、つまり啓蒙主義者の云う「通俗的」であることをもって、すなわちそれが偽りであるとは断定できない。しかし、まさに賢者の修辞は、「意外と」「案外」「じつは」という副詞を使うことで、まさにそれこそが通俗的な、ものごとをたった二つに分けて選択を迫る二分法の図式を押し付け、通俗は偽りと、なんらの根拠なく、しかもひそかに、明示する事なく傲慢にも断定してしまう。
問題なのは論理によってそれが流布している見解に優越しているかどうかを示すことのはずであり、そこに、それが流布していない、意外な、新しい、意表に出た見解であることをもって正当化するのは、少数エリートの見解イコール真理とする、じつに通俗的な見解であり、まことに傲慢でアンフェアな手法である。しかも、面白いことに啓蒙主義的な「まじめな」インテリの言葉というのは、たいてい自分の「賢者の修辞」がそれじたい通俗的であることを悟っていない。そして、読者にも知らせない。まさに、真理性をひそかに密輸するのだ。たいていの読者は「案外」「じつは」などと云われると、すぐにそれがそれだけで聖なるオーラを帯びたような気になってしまう性向があるのは事実だから、むろんそうとも限らないけれど、大衆とは誰か? 、通俗を攻撃するやり口こそ通俗的であることは、絶対に忘れてはならないことだと思う。
問題なのは通俗に対し警句をたれることではない。それはあまりに通俗的だ。問題なのは、通俗がなぜ通俗であり、なぜいけないのかを論理によって示し、できうべくは対案を示すことのはずである。
さらに本質的なことを云えば、それが本当に意味のある意見なら、常識的意見/意外な意見のどちらにも与しない意見のはずである。それなのに、既製の意見のどちらかを選んでことたれりとするなんて、怠慢もはなはだしい。
啓蒙主義者はまた、しばしば皮肉(アイロニー)、逆説を用いる。(皮肉な称賛とか、「俗なおじさん」の誇張された演技とか)しかし、それらは決して、言い尽くし得ない事物の複雑性を表すための手段ではなく、たんに、自己の見解をひねくれてしめすだけのものに過ぎない場合が多い。云いたいことは一つの真理でしかなく、競い合う対等の二つの真理ではない。それこそが本来のアイロニーや逆説のめざすものなのに。(皮肉と逆説は絶対に嘲笑の具ではない)対話と終わりなき弁証法は無視されてしまう。本来の逆説とは、最後の結論を出せないもののはずである。しかし、啓蒙主義者の云う逆説とは、単に「意外なことが、じつは真実である」という使い古された言い回しの表現でしかない。彼らは結局、唯一絶対の真実が存在することを確信していて、自分がその真実の、少なくとも部分的には祭司であると思っており、少なくともその真理においては、他者に優越していると思っている。あるいは、部分的ならばほんのわずかでも、不変の真理をくらやみのなかから発掘できると思っている。それこそが間違いなのだ。真理はあるかもしれないが、それはつねに疑われるべきだし、他者に押し付けることが許されるほど、そんなにも確実な真理など、論理的にいってありえない。
真理かどうかは本来、いつまでも確認しえないものである。
真理はつねに疑われ、改められ続けるべきだし、それが知的な誠実さというもののはずで、である以上は、つねに自己の真理を疑っているべきで、そのとき、啓蒙主義者はどうしてあんなにも自信たっぷりに通俗的な見解を切って捨て、その正反対を持ち上げられるのだろう。誰が、彼にその真理性のお墨付きを与えたのだろう?
啓蒙主義者の云う、《意外な真実》がなぜつねにいかがわしいのかというと、それは彼らの論理が、まさに通俗的な見解のただ裏返しでしかないからで、つまりは通俗的な見解に、皮肉なかたちではあるが、依存し切っているからで、通俗の認識の地平から一歩も出てないからだ。このような例を私は、ビートたけしの毒舌エッセイや松本人志のよく売れた二冊の本、大新聞の警句的な投書に見る。彼らの意見は通俗の裏返しでしかない。だから彼らが「わざと」(これも賢者の修辞。意識的であれば、戦略的であれば正当化されるという言い訳である)通俗ぶるのを見るとき、まさにその通俗なるものに対するイメージこそが通俗的であり、「わざと」通俗ぶることで通俗を批判するという構図自体が、どれほど通俗的で、しかも身内のインテリにしか通じないものかは指摘されるべきことである。それこそ陳腐。
皮肉はまともにとるやつがいるかぎり破綻する内輪受けだからだ。
《陳腐》とは自己(の正しさ)への確信のことではないだろうか。
それは停滞した、疑いのない自足のことではないか。あとは啓蒙作業が残っているだけと云う思い上がりのことではないか。あるいは、啓蒙作業と自己の真理の問い直しが、あたかも切り離して行いうるというあからさまな勘違いのことではないか。
上から教えるよりも、正しさにおいて対等な立場で議論する方が、他者と情報を分かち合うには有効な戦略だし、誠実な方法だ。
賢者の修辞がまた示しているのは、蒙昧であることへのあからさまな侮蔑である。そこに存在するのは、知識は価値であり、権力であるという認識だ。だが、あなたの真理によって、なぜわたしの真理が一方的にさばかれなければいけないのか? だからといって、なぜ、どちらが正しいかきめなくてはならないのか? どちらも間違っていたら目も当てられないじゃないか? 結論なんてありえるのか? 議論の勝敗は真理性にどのくらい関与するのか? なにもかもがまさに自然科学が示して来たように有効ではあるが絶対ではない「作業仮説」としてしかありえないのではないか? 自己の価値観の枠内でしか、他者の価値をはかることはできない彼らは、人間をまさに序列化する。彼らは価値相対主義は不毛だ、と云う。それは「なんだかんだいって」(これこそ賢者の修辞である)選択を惑わし、人間を軽薄にするという。しかしである。それは、真理が知りつくしえないという、他者への尊重と世界への畏怖がかけている。文化相対主義とは、選択の放棄ではない。とんでもない。虚無主義はそれと最も遠い。それは選択を固定しないための原理なのである。そして他者の見解と生産的に渡り合うための原理なのである。議論を勝敗で考えていては、いつまでたっても、あたらしい思考は生まれない。それこそ不毛だ。思考するということは、そもそもとりもなおさず、自己の古い見解を改め続けることではないだろうか?
自己の見解に不安なものがどうして人に、問いかける以上のこと、教える、などということができるだろう?
啓蒙主義はまたいわゆる男性のレトリックでもある。したり顔で女性の蒙を啓く男性という構図こそ、権力的でやらしいものはない。女性対男性という二項対立の枠づけじたいが、通俗的なものだという罠があるから語ることはむつかしいのだけれど、一方が、一方に対し啓蒙的に振る舞うという情景が一般に見られ、そしてそれが、男女の場合、教える側が男性であることが圧倒的に多いし、また、そうあるべしという文化的な無意識の圧力が、現在、わたしたちの社会に存在していることはみとめなくてはならない。この場合、一般に女性的であるとされる、非−知識、直感、母性、自然といったものが、本当に、女性的なものだなんて云ってしまっていいのか、それこそ制度ではないのか、と、問うべきだし、また、そのことが、同時に、いわゆる男性的なるものの優越という、啓蒙主義の抜き難い価値観と結び付いていることは考えなくてはならないのではないだろうか。
私は、レトリックではなく、真剣に問いたい。
なぜ、物知りが偉いのか? なぜ、批評理論を知っていることが偉いのか? なぜ、小説に志をもつことが偉いのか? なぜ、哲学的なすたいるで、あるいは論理的なスタイルで思考できることが偉いのか? なぜ、リーダーシップをとることが偉いのか?
なぜ議論にたけていることが偉いのか?
なぜ政治に関心のあることが偉いのか?
なぜ新聞を読むことが偉いのか?
なぜ小説を読むことが偉いのか?
そしてなによりも、なぜこうした分野から女性は一般的にいえば、締め出されているのか? なぜこうしたものごとが男性的なものとしてまとめられてしまい、イメージされるのか? 私は、このいわゆる男性的なものが自明に偉いとは思わないが、だからといって、この逆が偉いとも思わない。それでは、啓蒙主義の言葉になってしまう。問題なのは、こうしたことが男女の関係と平行して秩序づけられ、体系的に女性と呼ばれる人間たちを「蒙昧」として侮蔑する方向に、あるいは逆に一方的に「称賛」する方向になっているのかということである。問題なのはこの二項対立から抜け出すことだ。そして、序列の思考を廃棄することではないか。
そのためには、制度によっていわゆる男性的なものとされているものごとのセットが、あなたのなかで、きちんと問われる事なくよいこと、ただしいこと、えらいこと、とされてしまっていないかどうか問い、そしてそれがえらいのかどうか、不断に問い続けることこそ、なによりも必要なことのはずである。
なのに賢者の修辞はいわゆる男性的な真理を簡単においてしまう。いや、それが、いわゆる女性的な真理でも同じことだ。枠組みは少しも変わっていない。
二項対立の枠組みの中で、AがBより一般に評価されている。そこで、啓蒙主義者は、理由を示して、BがAよりも評価されるべきだ、あるいは、少なくとも両者は対等に評価されるべきだと説く。
その果てしない入れ替えの作業の空しさに気づかないのだろうか。
そんなことは当たり前のことなのだ。それはたしかに、最初のレベルでは、枠組みの当たり前さを問う意味では、この作業は必要かも知れない。しかし、その過程で、新しい序列に入れ替えてしまうだけでは、あまりにも救われない。
問題なのは、まさにそのA/Bのどちらかしか選べない二項対立と、序列の枠組み自体を問うことのはずである。
たとえば、いわゆる男性がいわゆる女性より評価されているとして、いわゆる女性にはこんなよいところもある、こんな美点もある。ある点では、いわゆる男性より優れている。なんて、啓蒙主義的に云ってみても、はっきりいって何の意味もないのだ。それに啓発的な意味があると信じるところに、社会批判なるものの大半の通俗さが存在する。それは、枠組み自体の暴力性を覆い隠し、偽りの救済をあてがう意味では、謙虚な無知よりなお悪い。
だいいち、やらしくて、偉そうだ。
ともかく、「結局やっぱり」「なんだかんだいって」「最終的にはやはり」「案外と」「意外にも」「じつは」「むしろ」「わざと」「皮肉にも」という、賢者の修辞の如何わしさをどうか心に留めてほしい。
それは、正しいことを見つけるための方法としても失格している。二項対立を問うすべをもたないから。
ぼくは思うのだけれど、反俗を掲げることほど、なによりも通俗的なことはない。また、逆に云えば、反俗をかかげ通俗を斬っていることほど、楽でしあわせな立場はないのである。
自然科学では、真実は一つもないと考えられている。すべては作業仮説であり、みなが支持する作業仮説であるためには、反論のための、つまりたとえば検証実験のための、形式的手続きが整っていることが要求される。つまり、どういう試験をくぐったものを作業仮説として認めるかというルールにのっとって、暫定的な正しさを決め、同じく形式的手続きにのっとった、実験のルールにしたがって、それを取り替える。
これは徹底していて、本当に何一つ、自然科学では真理はない。あるのはただ作業仮説のみなので、絶対に変更されない足場としての真理というのは、どんな些細な事でも自然科学は認めないのである。
この手続きこそ、どれだけ文学や思想に必要なことか。
どうしていまだに、作業仮説でない真実があるなどと主張できるひとがあるのだろうか。
自然科学はその点、とても反啓蒙主義的だと思う。
以下を読みながら、大衆とは誰のこと? そんな人がいるの? と疑問符をつけながら読んでいただけると幸いです。
「ポップ」であることの意味は?
文学は大衆化すべきかという問いは日本文学ではたしか大正以来問われ続けて来たそうである。一方では、大衆娯楽文学の芸術性をどう評価するかという問題も問われ続けていると思う。直接のきっかけは、商業的な大衆化だったのだけれど、いまでもこの課題は変わっていないと思う。むしろ、「純文学」があまり売れず、批評用語なんかを取り入れてマニアックになり、一方で新しい大衆娯楽文学として新書版エンタテイメントやヒロイック・ファンタジーが蔓延していることを考えれば、事態はより進展したともいえる。純文学なるものをいかに評価するかというのも問題である。
そこでまず、純文学とは何かなんて意味のないことを問うよりも、娯楽文学というものと、大衆文学というものを定義し直してから、話をしてみようと思う。ここでは、娯楽文学とは、純粋にいわゆる読書の楽しみを与えるとされ、芸術性を求めず、職人的な作家によって、物語の定型にしたがって生産される、ハーレクインやヒロイック・ファンタジーの大半や、列車ミステリーの大半を指すものとする。一方で、大衆文学というのは、単純に、階層を問わず、広範に売れた文学のことである。
そうすると、言うまでもなく文学は大衆文学では、あるべきだ。なぜなら、まさに作品の力とは、階層を飛び越える力にこそ求められると私は思うし(動的な意味での普遍性である。思えば「超越」という言葉はもともと飛び越える《動き》を意味していたのでした)、また、マスコミによる大衆化の力によって多くの個人が、「大衆」という定義に表面的にもせよあてはまってしまう画一化にさらされているいま、作家がそれに向けて書くべき特定の領域、特定の階層などほぼ消滅してしまったからである。あるいは、いや、我々は精神の貴族とでも云うべき、「精読者」に向けて書くべきだと云うひとがあるかもしれない。間違いである。なぜならそれは、一般的なことをよそおわれているが、その精読者とはほかならぬ文学マニアと云うべき少数の、大学生などを中心とする、小説家志望を含めたひとびとだけのことだからだ。それは、小説の文学的精読というのがまさに一つの制度だということを思い出せば分かるはずのことである。かつては複数の語りかけるべき領域があった。いまは、辛うじて、もし領域があるとすれば、小説家志望、批評家志望の集団が存在するにすぎない。しかし、もしそこに語りかけるのが小説の使命であるとすれば、それはたんなる内輪の、じつに下らないお遊びでしかないのではないか。文学が知り得ない他者に向けて語られることをめざすならば、文学的知識にまみれたひとびとにのみ向けて語るのは、はたして文学的行為と云うことができるのか。文学はギルド化し、はてしなく内輪受けへと傾斜して行く。ならば、と云うかもしれない。大衆の方を啓蒙して、精読者の輪を広げて行けばよいではないか、と。しかし、である。大衆はなぜ、そんな啓蒙を受けねばならないのだろう。果たして、小説を文学的に精読するということが、そんなに、必要かつ、立派なことなのだろうか。果たして、そのほかに文学をよく受容するすべはないのだろうか。この問いに答えられない啓蒙主義は挫折するといわなくてはならないし、まして現実問題として、大衆みんなの精読者化は無理である。
そもそもそれは自分と違う他者の消滅を願うファシズムだ。
ならば、文学はたしかに大衆化すべきであるとしよう。そしてそのうえ、大衆のすべてを文学的精読者にも、ましてや日常的文学愛好者にすることさえ、不可能だと認めよう。そのとき、どんな活路があるか。実際に、たとえば大衆文学として成功している娯楽文学の手法を取り入れたり、また、娯楽文学になってしまうべきだという考えがすぐ浮かぶはずである。しかし待ってほしい。そこでここではとりあえず、娯楽文学について考えてみる。
ごちゃごちゃ芸術だなんて云うよりも、案外、純粋に読書の快楽を与え、ひととき別世界に遊ばせてくれる小説こそ、本当の意味で優れた小説だ、という意見がときどき提起される。しかし、では読書の快楽とは何かと問うてみると、たいしたことは考えていないことが多い。そりゃ、確かに小説の価値など面白いかどうかだけである。しかし、その面白さの質はやはり問わねばならないのではなかろうか。問題なのは、ここで小説が暗黙のうちに美食の類推で捉えられてしまっていることである。しかし私は考える。文学は大量消費財ではないし、単にもし、受動的な快楽が果たして倫理的な価値づけになりえるのかということである。快楽主義や唯美主義はたしかに小説の独自性、反イデオロギー性をきわだたせるのには、役に立つ。しかし、そこに問題がないわけではない。
なぜなら、文学はそれ自体、社会的な行為、現象だからである。
ここで問われているのは、文学が民衆の阿片であってよいのかということなのである。もし世界が娯楽抜きにはつらすぎるとしても、娯楽はその世界のつらさとは全くかかわりを持たないし、ましてやそれに対して、建設的に反応することもない。むしろ、世界のつらさを耐えやすいことにすることで、世界を変えたいという意志を見失わせさえする。
それでよいのなら、よいのだ。娯楽文学を書いてほしい。しかし、民衆の阿片、あるいは鎮痛剤に徹するということは、そのこと自体、じつは文学的魅惑をやせほそらせてしまう要因なのではないだろうか。そこでは、世界への認識はご法度になり、明るい嘘が主流になり、結果、人間への認識は単純化されざるをえない。きちんと書けば、暗黒面や曖昧さ、物語的でない現実に論理的必然として書きたくなくても達してしまうからだ。しかし、文学的快楽、魅惑のなかには、あきらかに、複雑な存在の複雑なドラマが必要条件としてあるはずで、図式化、単純化された人間が単純化された世界で、形式的にいくら複雑で気の利いた物語りを演じても、その空虚さは明らかではないだろうか。量的にいくら複雑化しても、人間はばかではないから退屈さに気づいてしまう。魅惑は、あきらかに情報量の多さに関係し、世界と人間への認識の深さと複雑さと多重性は、それだけでないのは勿論だが、やはり、深く文学的快楽に関係している。誰も、ハリボテの大活躍よりは、人間の同じ程度の大活躍の方が面白いと思うのではないだろうか。
技術論から云ったって、娯楽文学の優越は認めがたい。
文学的な快楽というのは認識し、嘆き、思考する存在としての快楽であって、肉体的な快楽、性的な、または食欲の隠喩で理解すべきではない。一方では、文学に人生の知恵を求める教養主義があるが、これだって結局わたしがまえに述べた啓蒙主義の変種にすぎない。「おもしろくてためになる」なんて云うのは、マンガとしても優れていない、あの子供向けのマンガ科学解説書について云うのならともかく、文学についていうのはあてはまらないと思う。
しかし我々は娯楽文学が大衆文学として成功しているという事実と、いわゆる純文学という、芸術性を指向する日本の特定の文学伝統が読者を失いマニアックになりつつあるという事実をみすごすことも許されない。娯楽文学に徹することが文学性を失わせるのと同時に、純文学なるものに徹することも、文学的魅惑を失わせるのではないかと問う必要があるからだ。読者に受けない文学性というのは、ロマンチックな芸術至上主義のナンセンスである。それは、本当は芸術性があるのだけれど、読ませる工夫をしなかったから受けなかった、という意味では断じてない。文学性とは文学的魅惑によってのみ定義され、文学的魅惑とは、読者に効果を発して初めて発生するからだ。発生しなければ、そもそも存在しない。
では、と私たちは大衆化問題の手前で立ちすくむ。だからといって、これは娯楽文学的なるものと、純文学的なるものあるいは、哲学小説や私小説的なるものとの、混合の程度問題なんかではない。これを難解な芸術とたのしい娯楽を適当な量まぜあわせるべきだという、程度問題に解消してしまうのは、犯罪的なことである。これは、新しい小説を生み出すべきだ、ということなのである。個々の回答は確かに個々の創作でしかしめされえないかもしれない。しかし、ともかくもいえるのは、その小説は、少なくともその小説自身のうちに、もしそれが難解なものであれば自分自身の解読のための方法や暗号表を、なんらかのかたちで分かりやすく含まねばならない。また、それは、娯楽文学がなぜ売れるのかという問題について深く考えたうえで、その娯楽文学が売れる理由に対して、きちんとリアクションしたものでなくてはならない。そしてなによりも、読みやすく、同時に、読み捨てにくいものでなくてはならない。そしてまたそれは、現実への認識に支えられ、何らかの形で現実と交流しているものでなくてはならない。そのことは、小説の情報量と分かりやすい複雑さを増やすという技術的な面でも大切なことだ。もし、現実に言及していたら、その小説は現実が変化すれば、自分の解釈を変え、また、現実の複雑さを、「参照」という形で小説に取り込むことができる。しかしこれは、あまりに直接的な言及であり過ぎると、「CMネタは風化する」の格言どおり、風化してしまう。
きちんと情報量が多く(しかも人間工学的にやさしくなかったり、過密であることなく)、複雑で、世界と人間の多様性と対話し、しかも、分かりやすいということは、おそらく最低限のルールだ。私たちが書いているのは、読んで、それから文学性を伝えるためではなく、読むということじたいの魅惑を伝えるためなのだから。
だからここで問題なのは、娯楽文学の大衆的な人気は、いったい何を意味しているのか? という、いささか社会学めいた問いなのであり、そのことが果たして文学をどう変えうるかということである。売れるのはくずだ、という古い言葉はとりあえず忘れよう。私たちがそれらを文学的に評価できないということは、たしかに大切なことだが、流通すること(売るという形を取るかどうかはともかくとしても)と芸術性を安易に対立させずに、両立させなくては、文学はそもそも理念的に成立し得ないのである。
そこで私たちは、受けるとは? という恐ろしく古典的な問いに立ち戻ってしまったことに、はたと気づく。すぐれた文学とは、実は大衆的に受けた文学のことで、それがなぜ受けたかを理論化したのが文学理論だったとすると、その理論にのっとった作者たちの文学観や作品が、受けなくなった、あるいは一部にしか受けなくなった、というのがいまの状況であり、すると、ここにはなんとまあ、理論と実践の逆立ちが存在しているのですね。
たとえば、それは、昔受けたが、今は受けていない作品(古典の一部)ばかりを理論化して、最近受けた作品からの理論化あるいは学習を怠ったということに、いまの状況は起因しているのかもしれない。
娯楽文学の問題も、べつにわたしのように倫理的な評価のほかにも、そもそも、娯楽文学の受け方は、云わば一発芸で、全体としてみれば、量としてはとても受けているけれど、読んでいる個人にとっては、読み捨てなのだから、それほど、個別のテキストとしては受けていない、といえるわけで、その意味では、古典はやっぱり単純に、受ける作品なのだ。となると、受け方というのは、追求すれば、文学的魅惑以外のものではないらしい。
そして、受け方が歴史によって変わるのなら、作家はやはり、目の前の歴史的存在としての世界と人間を見つめることから始めなくてはならなくなるのではないだろうか。たとえ、人間の変わらない相を文学化するにしても、受けるためには、まずもって、目の前の歴史的世界と人間への気配りが必要になる。
なんだか、結論がいっけん当たり前のことばかりになってきてしまったが、それは実は私が目の前の世界と人間の現在に社会学的に言及して、何が受けそうかということに触れるのを避けているからである。
たとえば、オウム真理教やバブルの終焉や関西の震災は、そのままたんに風俗としてではなく、歴史的事件として小説に関係させることができれば、もしかしたらそれは受けるのではないかとも思える。受ける小説の条件の一つには、恐らく、世界と人間がどのように変わってしまったかについての認識にささえられているかどうかがある。歴史認識とは、世界が不断に不可逆的に変化していることを見抜くことだ。しかし、問題なのは、それが単に評論のような認識ではなく、なぜ小説でなくてはならないか、ということなのだが。だからそこでは、娯楽小説に典型的に見られるような物語の定型をいかに考えるかということでもある。
ながながと書いて来た割に、結局結論としていえそうなことは、文学は目の前の歴史や時事問題に無関心であっては受けないし、受けなくては文学的にすばらしいとは言い難いということぐらいのように思える。問題なのは同時に、物語りの定型と読者への伝達の問題をどうさばくかである。
私たちはおそらく受けた小説がなぜ受けたかについて真剣に考えることなく、受ける小説を書くことはできない。理論はつねに過去受けた小説がなぜ受けたかについての仮説でしかない。かつてすばらしかった詩学の複製には何の意味もない。もし小説を書くのなら、なぜ物語を使わなくてはならないのか、そして、なぜ単なる図式物語は愚劣で、たとえ図式物語に単純に世界と人間への認識を、たとえば台詞としてあるいは地の文として足しても面白くないのか、そして、物語と世界と人間と歴史への認識を用いて、そのどちらでもない変種を生み出すというのはどういうことかについて、感じ、あるいは考えなくては面白いものは書けない。(実際、小説はその初期において、ある程度は図式物語であるロマンスを、リアルに描写するとどれだけ滑稽で、そして不思議な、ときには感動的ですらある効果が生まれるかというふざけた試みからスタートしたのではなかっただろうか)面白さや受けるということは、世界と人間とを認識することの魅惑でもあり、また、物語の魅惑でもあり、その両者の特異な絡み合いのはずである。そのとき、では、この認識と物語が、寓話なんていうモデルに解消されずに、どう関係しているのかに思いをはせなくてはならないし、そのことについて作家が意見を出す必要は必ずしもないが、ともかく、認識と物語の不可分の統一体こそ、魅惑なのだという見通しだけは必要なきがする。
たとえばそれは、いかにしてリアリティが昔ながらのそして、私たちの世界の隠喩であり反映であり、私たちの社会体制のシンボルである、そしてまた同時に私たちのうちなる陳腐さの表現でもある、物語図式を必然的に改変し、裏切り、組み替え、変貌させ、それに伝染し、なにものか陳腐で図式的でない新奇なもの、つまりは面白いものを生み出す過程こそが、読書の魅惑なのかも知れない。
それはあるいは他者、もしくは未来、いまの私たちの眼鏡では見通せない現実の手触り、希望もしくは絶望のおぞましいほどリアルな、私たちの思考と存在への侵入と名付けても遠くない気がする。
けれどそれがどれだけ評論と異質かということには、もっと突っ込んで考えてみる必要があるのだろう。
それは例えば、なぜ語りのなかの時間が必要かということにもなる。評論は基本的に無時間なものだが、小説は時間を内蔵している。
これは重大な問いだ。
一つには、それは出来事や人間の二重性、多重性を静的な矛盾という形ではなく、重ね合わせるために必要なのかも知れない。二つの意味はそこでは、たしかに重なり、そうごに否定せず、対話する。
無時間な対比は、時間という場所を得て初めて対話になる。
たしかに間違いなくそれは小説の魅惑のひとつである。
たとえば愚かで強圧的なファシストが同時に、限りなく心優しく忍耐強い存在でありえた、というような、言葉を絶した事実にせっしたときの多重性の感覚、そこから生まれる、無数の解釈の可能性、そして存在の豊かさとはかりがたさへの畏怖。それは小説の魅惑のかなり重要な部分を占め、それはたしかに時間という矛盾を矛盾でなく含むことのできるものを内蔵したメディアにしか表現できないものだろうと思う。
しかしそれも古い詩学だという批判もありうる。
ともかく、あらゆる書かれる小説は理念的には、それまでの小説であってそれまでの小説でない、新(非)小説でなくてはならないのである。だから、もしあなたが書くなら、それは、究極的には新しいジャンルを創設するつもりで書くのでなくてはならない。それはつねに、たとえ微細な違いではあれ、新たな詩学の創設なのだから。
小説はその希望において、少なくとも必要条件として、novel-新しき奇異なるものたらんとするのではないかと思う。