早大少年文学会の部会/1996.11.30(土)

 テキスト:「1984年」ジョージ・オーウェル/新庄哲夫訳

 1 物語の循環

 オーウェルは冒頭の短い段落で世界を見事にほぼ紹介し切ってしまいます。季節は四月、砂ぼこりから都市が荒廃していることが知れ、十三時は体制の変化とともに不吉なトーンを示し、「勝利マンションズ」がたいしたことのないアパートであることから貧困な全体主義社会とその言葉と実質の矛盾を示し、そのうえ、全体の肌寒いトーンはすでに主人公の違和を導入しています。また、英文学の伝統を踏まえれば春はロマンスの芽生えの季節ですから、ジューリアとの巡り会いをも予告しているとさえ、いえます。
 この物語はじつは四月に始まり、四月に終わります。一年で一つのサイクルが完結する、そういう構造になっているのです。そこで季節との係わりついて考えてみたいと思います。
 四月から五月にウィンストンとジューリアは出会い、八月まで蜜月時代を送ります。七月から八月にかけてオブライエンと接触し、「例の本」をもらって一週間後の八月のある日に逮捕されます。そして釈放されたのが三月ごろ、「ビッグ・ブラザー」を愛するに至るのが、四月です。(この九、十カ月を子供が胎内にいる期間になぞらえる論者もいます)
 つまり、春、芽生えの季節とともにウィンストンは再生し恋に落ち、田園で自然に触れ、夏、チャリントン氏の家でジューリアと愛し合い、希望さえ抱く、しかし凋落の秋とともに彼は逮捕され、死の季節の冬、おそらくはこの時期に屈服し、オブライエンの言う「理解」と「容認」の段階に入ります。そして、春、ウィンストンは再生するのです。こう見てくると、かなりよく季節に対応していることが分かります。さてこのような循環の時間が仕組まれていることを仮定すると、物語の基本線が明瞭になります。これは死と再生のふるい物語形式を取っている、ということです。しかし決定的にそれまでのものと異質なのは、再生が不毛だ、という点です。オセアニアという社会を示す、という観点から言うと、なるほどこの物語形式は、読者に、ウィンストンを代表選手として(実際、かれはオセアニアにほうり込まれた私たちの一人のようにものの見方が設定されています)オセアニアの周遊旅行を体験させる、というのに好都合です。まさに私たちはウィンストンに共感し、彼と同時進行でオセアニアへの違和感を体験するように作られているからです。また、物語を読ませる技巧としても巧みなものがあり、たんに絶望を提示しては読者がついて来ないので、まず希望を示し、それへの期待で読者を前半引っ張り、後半は逆に絶望へのこわいもの見たさで引っ張るというすべをとっているのです。
 しかしこのストーリーの循環の図式には別の側面もあります。オセアニア社会の動的な不変性を指し示しているのです。これはゴールドスタインの兄弟同盟の存在に対応します。つまり、反逆を誘発し、取り込むというサイクルです。ですから、私たちは、この小説の世界のなかには本当に希望はまったくないのだろうか、と問うとき、この季節のサイクルの問題を避けては通れません。この小説を一読し、言わば一巡したとき、さて、最初と、何かが変わったでしょうか? すべては元どおりになったでしょうか。もしかするとそうともいいきれないのではないか、と私は思うのです。そのことは、この小説をまったく違う目で読み替える可能性があるかどうか、ということでもあります。つまり、循環ではない流れが、この小説のなかにあるかどうか、ということです。すべては回収されてしまったのでしょうか?
 そのとき例えば、個人に目を向ければ、時間は循環してはいません。もはや二度とウィンストンはかつての彼ではないし、ジューリアもそうです。しかし、それが何の意味を持つでしょう?
 ウィンストンとジューリアはまた会おうとなぜ云ったのでしょう?
 また、「彼は“偉大な兄弟”を愛していた。」というのはたしかにオブライエンの意図した事態であり、非人間的な結末です。しかし、これは多義的に読み替えることができないでしょうか。というのは、果たして、「偉大な兄弟」を愛するようなるということが、オブライエンの勝利といえるかどうか、という微妙な点なのです。オブライエンと党の意図する所は、彼らに反するものを撲滅し、同化したうえで抑圧を徹底することです。彼は、仲間にして後悔させたうえで殺すと云います。しかし、なぜ殺さなくてはならないのか、と問うことは必要です。それは治癒がなにか本質的に回復とは異質なものだからではないでしょうか。つまり、“偉大な兄弟”を愛するようになることは、じつは完全な同化とはいいがたい、ということです。ウィンストン個人が敵対的であろうとなかろうと、彼はもはや不可逆的にシステムの異物なのです。その意味では、やはりオブライエンは本質的な所で破綻していると云うべきではないでしょうか? “ビッグブラザー”への過剰な愛がシステムを壊す可能性だって考え得るわけです。もちろん、だからどうなんだ、全体のシステムからいえばその方が思う壷にはまってるじゃないか、ともいえます。しかしオブライエンの態度はそうした合理的なものというよりは、ただひたすらに屈従と同化を求めるヒステリイです。オセアニアの合理的なシステムの底には不合理な衝動が潜んでいるのです。それとの対比の限りでは、やはりなにかしら違和があるように思えます。簡単に云うと、ウィンストンは小オブライエンにはやはりならなかったのかどうかというのが私の問いなのです。

 2 性愛と兄弟

 《ビッグ・ブラザー》とウィンストンについて考えるとき、全体主義社会はホモセクシュアルな空間ではないのかということが思い浮かびます。異性愛は排除され、同志愛が奨励される事実にそれは見えかくれします。同性愛は、この父権的な空間ではナルシシズムをただちに意味します。はやい話がゴールドスタインやオブライエンに対するウィンストンの態度は同性愛的、父子愛的な要素が濃厚です。「自分の理想化され、強化された姿」に憧れ、それに陶酔するのを同性愛的と呼ぶのはさほど間違ってはいないでしょう。ただこれは勿論、同性愛一般がかならずそうである、と云うのではありません。(同性だろうが恋人はやはり本当は他者です)そうなるとしかし実は女性と父性的なシンボルである《ビッグブラザー》との関係は微妙なのです。父子関係は容易に自己投影、同化たりえますが、父娘関係はそう簡単にはいきません。それはどうしても恋人関係の隠喩になってしまうからですが(ムッソリーニは「万人の夫/恋人」とみなされていました)、それは全体主義にはちょっと異質なのです。それはどうして異性愛が排除されるのか、にも関係します。簡単に云うと、異性愛は、相手の反応が分からない故に熱意のあまり余計なことをしてしまう可能性があり、その過剰さがシステムには危険なのです。その点、自己陶酔的な同性愛の場合は過剰は存在しません。きわめて安定した自足があるばかりです。じっさい、ジューリアの反抗はまさにそのような位置から行われ、間違ってもゴールドスタインに結び付くような性質のものではありません。彼女はただ単純に、自己同一化しないのです。
 で、そうなると、ウィンストンの母子関係の思い出、妹というのはどういう位置にあるのでしょう。ジューリアとの異性愛の問題はとても難しい問題です。そもそも、これは通常の意味で愛といいうるものなのでしょうか。これは欲情でしょうか、愛でしょうか。そのような二分法に意味がないのなら、それを何と表現すればよいのでしょうか?
 結末で二人の愛は本当に失われたと云ってよいのでしょうか。

 3 ノスタルジーと客観性

 自然と都市は対比されています。生命力と色彩にあふれる郊外、それはまた追憶のなかの「黄金郷」と結び付いています。ジューリアとの愛情もまさに自然か追憶かどちらかの空間でしか許されません。しかしついに追憶は抵抗にはなれず、チャリントン氏は思想警察でした。ノスタルジーは無効だと宣言されているように見えてしまいます。そこで第三項として都市のなかの自然としてプロレが見いだされます。そこでたとえば、彼ら向けに機械で作られた逃避的な流行歌を、歌うことですばらしいものに変えてしまう彼らが描かれたりします。しかし、希望が託されている割りには彼らの描かれ方はあまりに抽象的です。
 追憶といえば記憶と過去の改変の問題はどうかかわるのでしょうか。

 4 文学と寓意

 この小説の先見性や批評性、思想性を高く評価しても、それだけでは文学的に評価したことにはならないし、面白い理由に近づける訳でもありません。だからといって技巧的な部分をいくら評価してもやはり同じことです。となれば、この小説が文学か、ということ、そして、もし芸術性が思想性とイコールではなくここに存在するのなら、それをどんなふうに説明したらよいのかという点を考えてみたいと思います。たとえばそれは人間についての問いである、と規定してみれば、なるほど、後半の拷問のシーンや母の追憶のシーンからも、うちなる悪や取り返しのつかない悔いの問題が浮かび上がってくるのは事実です。しかし、それが全体主義社会のヴィジョンとどれだけ本質的に結ばれているか、というのは考えてもよい問いのように思えます。
 となればやはり、問題は言葉の暴力の問題に帰するのかもしれません。つまり、他者を説き伏せ支配したいという欲望の問題です。しかしまた、そこで私たちはこの作品の解釈という行為にそのものに潜む矛盾に立ちすくみます。まさにこの作品こそ、何かを単一のメッセージに帰してしまうような思考を非難しているものだからです。

 5 匂い、その他

 オーウェルの作品では匂いが重要な役割を果たします。実際、最初と最後のシーンを彩る感覚は嗅覚なのです。キャベツの匂い、香水の匂い、ジンの匂い。これらは何を意味するのでしょう。また、ウィンストンの足首の小さな潰瘍はいったい、何なのでしょうか。
 書くことという命題もあります。なぜならこの小説はウィンストンの日記への記入により始まり、ゴールドスタインの書物を読む行為に彩られますが、その後にやってくる洗脳はある意味で彼へ新しい思想を書き込むことだともいえます。記録と過去の同一視は党の思想ですが、そのときウィンストンがものを書くという行為の意味はどうなるのでしょうか。
 骨董もまた、書かれたものと同じく過去の痕跡でもあります。
 また、愛情省での拷問、監禁、101号室はそれぞれどのような関係にあるのでしょうか。位置の変化がそれに大いに係わって来そうです。

 歌。作中に出てくる歌について、意見があればお聞かせください。
 愛の歌が「憎悪の歌」よりも長く流行したことなど。
 また、アンプルフォース、パーソンズ、サイムとみながみな連行されて行くということ、またそれぞれの意味や事情の違いについても考えてみてください。とくにサイムとパーソンズとウィンストンの相互の違いは興味深いところです。三人はまったく異質な意味で連行されたのですから。この対照は明らかに意図されたものです。

 さて、例えば「人間性」などというものは存在するのでしょうか?
 また、現代との比較を考えても面白いかも知れません。
 101号室というのは、ウィンストンが自己の愛情への信頼を失う事件でした。つまり、自分自身になにか気高いものがあるという幻想を打ち砕かれることで彼は屈服したのです。しかし、果たして愛するひとを本気で自己の身代わりに求めることが、裏切りでしょうか。まさにそのような事態も含めて愛することは可能なのではないでしょうか。

 マゾヒズム/サディズムの問題。盗み見の抑圧。拷問。それに当初ウィンストンがジューリアに覚える窃視と暴力的な衝動や、子供達に蔓延しているサディスティックな傾向、それから勿論、テレスクリーンという盗み見の装置。ウィンストンもまた、小窓からプロレを覗き見します。こうした性的倒錯は何を意味しているのでしょうか。なぜ、かくも倒錯が蔓延しているのでしょうか。

 ウィンストンにとって、鼠、チョコレートはそれぞれ何物なのでしょうか?
 彼の肉体的特徴、冴えない中年男、下級官僚、別居中は、どんな必然性があって設定されたのでしょうか。彼の名はチャーチルから取られたと云います。傑出した人物の名ともっともありふれたスミスという姓の寓意は何でしょう。
 彼は共感の試みに挫折し、そのことを悔いている人物です。彼は極めて孤立しており、そのため、理解されたいという強烈な願望に支配されています。一方で彼は党に忠実な女性党員をはげしく嫌悪しており、それは或いは肉体的交渉を拒絶されるところからくる、屈折なのかも知れません。ならば、ウィンストンの逮捕を、去勢の過程としても記述できるわけです。彼にとって性愛の意味したものは何だったのでしょうか。それは彼の幼児の体験と何か関係しているでしょうか。またこの小説には、暗黙の了解というフィクションというか無言の馴れ合いが何度も出て来ます。ウインストンはまさにそうした暗黙の了解が成立したことからして、自分が反逆などしていないということを悟るべきだったのではないでしょうか。ここでは共感の問題がクローズ・アップされます。

 持続する、日常としての都市の中の戦争。これは、あるいは交通戦争のようなものを連想させます。平常化することで無感覚になる死。伝聞としてのみ存在する政治と歴史。人間関係のゆいいつの仲介者として立ち現れる党。問題なのはまさにリアリティの欠如です。オセアニアはまさにフィクションに犯された社会です。そのとき、ウィンストンの記憶というフィクションはどうなるのでしょう。そして我々のマスメディア社会は。そこでジューリアは、彼女のコミニュケーション・メディアとして性を利用します。だからこれは道徳/不道徳の問題ではないのでしょう。つまり、党以外がメディアを持つことは許されないのです。しかしここで私たちはジューリアの人物像の思いもかけない曖昧さに突き当たります。まずもって、なぜジューリアはウィンストンを選んだのでしょうか。そして、まさになぜ、慎重なはずの彼女が部屋を借りることに同意したのでしょうか。ウィンストンの文脈から云うとストーリー上の必然に見えることでも、ジューリアの文脈では忽ち不可解になることがあります。もしかするとまさにジューリアのこの自ら意識していない自殺行為こそ、愛の表現であったかもしれません。彼らは死を確信していたのですから、たとえ後に本心から裏切ったとしても、愛のためには思想警察による逮捕さえ受け入れることを意味する行為は、それ自身愛を意味してはいないでしょうか。問題なのは結果ではなく行為です。

 しかし、ウィンストンを反逆させた動機は何だったのでしょう? 彼にそんな危険を冒させた感情的動機は。彼はまるで捕まることを待ち望んでいるかのような態度をとります。彼はまた体制を非難する割りには、自分に反省がありません。「兄弟同盟必読の書だよ」などと偉そうにジューリアにゴールドスタインの本を押し付けたりします。過去の変造に罪の意識もなく、《ビッグ・ブラザー》がオブライエンに変わっただけだという事実も見ず、オブライエンの口調にそもそもの初めから潜んでいた皮肉な調子と残忍な風貌を気にもとめません。最良の書とは思った通りのことが書いてある本のことだ、という点に至っては、自己満足的な気配さえただよいます。しかしそれでもなお、ただ人間性を信じているという一点において彼は重大です。いや、少なくとも人間性の必要性を信じている、というべきでしょうか。では、やはり彼の動機が不明瞭なのです。また、なぜ彼だけが記憶力を持っていたのか、という点も問題です。何が彼をその一点においてまわりから引き離したのでしょうか。

 この小説は失われた時についての物語ともみなせます。とりかえしがたい欠如の感覚が基調として流れています。過去を取り戻すことがウィンストンの衝動には潜んでいます。さて、このテーマはどのような変遷を経て、どのような結末を迎えたのでしょう。

 資料 1 新語法に訳すということの意味。

 オーウェルの《ニュースピーク》に似た事態は身の回りに存在します。たとえば「日本人は日本人ばかりではない」という文章は一見意味不明に見えます。しかし、これをたとえば「日本領土で生活し日本共通語を話す人間は、日本国籍をもち、あるいは日本人種であるひとばかりではない」といえば文句なしに意味が通ります。つまり、さきの文章は、比喩的な意味ではなくまさに《ニュー・スピーク》なのです。逆に、後のカギカッコで述べられた方の意味を、「日本人」という用語しかないときに表現しよう、思考しようと一生懸命頑張って見てください。結局、一見意味不明な「日本人は日本人ばかりではない」のようにしかいえないのではないでしょうか。
 新語法で表現されたゆえに矛盾に見える例はもっと挙げられます。しかしこれらは状況を考えればとくにへんなことを言っている訳では有りません。「有害マンガには無害なものがある」「人間は非人間的だ」「正義はなすべきでないときがある」「道徳的であるのは不道徳だ」「その車は加速した結果、減速した」
 また新語法の暴力とは、「日本人はもちろんみな日本人だ」という文章があまりにも説明抜きで自明のように見えてしまうところにもあります。「人間は人間的だ」「道徳を守るのは道徳的だ」「高級品は高い」「東洋は東洋的だ」「文学はもちろんみな文学だ」「小説というのは小説である」「詩はみな詩だ」「文芸サークルにいるのは勿論いわゆる文芸サークル員である」
 これが所謂、《ニュースピーク》です。つまり《グッドシンクフル》な、日本語で云うと「適切な」考えです。果たして、「1984年」は私たちから本当に遠いでしょうか。それはまた、抽象的な政治や社会の問題でしょうか。私はこれはむしろ日常の言葉遣いの問題だと思います。

 元のテキスト(司会者和訳)

 (1)ジョージ・オーウェルの「1984年」は全体主義という現代の邪悪な疫病への辛辣な攻撃である。(2)オーウェルは政府がメディアを支配し、その支配を拡大された警察網によって強制することで人民を奴隷化しうるという考えを表現している。(3)主人公はイギリス中産階級的な考えをもつ人物で、名をウインストン・スミスという。(4)ウィンストンは奴隷的な支配の知的な作用によって幻惑されている。(5)彼は或る省庁につとめているが、これは大衆向けの嘘の大半を作り出しており、皮肉にもミニトルーと呼ばれている。(これは真理省の短縮形である)(6)ウィンストンはその体制の邪悪さと、大衆への欺瞞が国家によってなされていることに気づいたために支配者に反逆した。(7)彼は《(8)孤独な男としてだが》、違法な日記を記して踏み出した。彼は我々に自分たちの世界がどのようなものであるか伝えようとする。(9)オーウェルは彼の世界の恐るべき醜悪さを描き出している。(10)ウィンストンが住んでいるのはスラムで、生きて行くのも辛うじてである。彼の健康は惨めで、彼は死にたがっているのではないかという印象を与える。(11)オーウェルはウィンストンを希望と悲惨のジェットコースターに乗せる。(12)オーウェルはウィンストンに恋をさせることで希望をわれわれに与える。(13)しかし、それから彼は秩序正しく反逆を粉砕され、人間以下のものとして残されることになる。(14)このエッセイは、人間性と社会を取り扱い、人間性と社会が我々から取り去られたとき何が起こるかを述べようとする。(後略)

 新語法訳(文章が短縮されること、和訳すると漢語中心の名詞構文になりやすいことに注意)

 (1)ジョージ・オーウェルの「1984年」は思想犯罪である。(2)オーウェルはイングソックへの犯罪思考を家鴨言説している。(3)主人公は超不良な旧弊思考者のウィンストン・スミスである。(4)ウインストンは、《偉大な兄弟》を愛している。(5)彼はミニトルーにつとめている。(6)ウィンストンは思想犯罪をした。(7)ウィンストンはさらに犯罪思考的なことをしたが、(8)彼は性的優良ではあった。(9)オーウェルは超優良なイングソックを描き出している。(10)ウィンストンはオセアニアの優良な暮らしをしている。(11)犯罪中止がなされる。(12)オーウェルはウィンストンを優良思考者で性的優良者と誤報する。(13)ウィンストンは犯罪思考的であったがそれから優良思考者になろうとする。(14)このエッセイは、超優良なイングソックについて述べようとする。(後略)

 和訳者注。
 「日記」という新語法の言葉は存在しない。「日記」は違法であり、違法なものは存在するはずがなく、存在しないものを表す言葉は存在しない。ゆえに、それを規制する法律もない。この循環する矛盾は「二重思考」である。また、「超優良なイングソック」は、これでほぼ一語のように意識されているとみなせる。《イングソック》には日本では「国体」が近いニュアンスで用いられたことがある。《ミニトルー》は例えば真からとれば、シン省とでも訳しうる。まさにチョベリグでMG5のノリである。