「田園の憂鬱」論
眠る水と廃園の織り成す反物語
1 不眠と水の変容するイメージ
I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was a stagnant tide.
Edgar Allan Poe
私は、呻吟の世界で
ひとりで住んで居た。
私の霊は澱み腐れた潮であった。
エドガア アラン ポオ
(新潮文庫「田園の憂鬱」冒頭のp.4より。以下、定本の本文の引用及びページ数は同書に拠り、ふりがなは適宜省くものとする)
「田園の憂鬱」定本はこのポオの詩の引用を掲げて始まる。牛山百合子氏の校註(文献1「校註」)によれば、この詩は「中外」(大正七年九月)に掲載された「田園の憂鬱」すなわち定本では六章以後にあたる部分に至って冒頭二行のみ訳詩ぬきで付加され、定本(大正八年六月二十日 新潮社)で現在見る形態となった。ただし、その間に出た天祐社版の短編集「病める薔薇」(大正七年十一月二十八日)所収のものでは、「黒潮」(大正六年六月)版の「病める薔薇」を恐らく踏襲したために(この点は私は「黒潮」を見ていないので未確認です)、ブレイクの
"The Sick Rose" が代わりに掲げられている。ここからまず考えられることは、この詩が単なる雰囲気的な憂鬱や漠然としたポオへの参照といった意味のみで掲げられているのではなく、改稿訂正を必要とするような、意味のある差異を孕んでいるということである。少なくとも、この詩をどのような形式で掲げるかということは作者にとってどうでもいいことではなかっただろう。阿部六郎はその「田園の憂鬱」論(文献2「『田園の憂鬱』所感」)でポオの「不幸」に触れてなぜこうして「冗談でない詩をモットオにまでしたのか」と問うている。つまり阿部はこの詩を衒学や戯れと見ていない。このことに関連して、訳詩の問題に触れておくと、中上健次がその春夫論で指摘するように(文献3「物語の系譜 八人の作家 佐藤春夫」)、日本語と英語との間に必然的に生成せざるをえない決定的な断層というものが問題としておのずから浮上してくるだろう。中上は、この詩は「田園の憂鬱」を織り成す物語のコードを規定しているのだが、同時に訳詩とのゆらぎや断層を含むことによってそのコードによる堅固な建築学的な構造からみずから逃れてもいると述べる。(註1)この中上が直接その内実を述べていない「コード」について具体的に考察してみると、「呻吟の世界」「ひとりで住んで」「澱み腐れた潮」の三つのモチーフが単純に考えて読み取られうるだろう。そのことは結局、大雑把にいってしまえば、憂鬱を描く小説、閑居をえがく小説、水と闇と腐敗のイメージに満ちた小説、という、テーマ、内容、イメージの三つの側面からのこの物語の規定を示すものとみてよいのではないだろうか。もちろん、このように規定されてしまったことで、例えば妻との位相や、火の形象、ルソー的な自然のひらかれた側面といったものが、物語の基調音からは疎外され、見えにくく、あるいは抹殺されてしまったことは確認しておくべきだろう。このことは、当然、中上のいう「物語の圧政」(前掲文献3)を意味している。しかしまた、この詩を子細に検討すれば、原詩そのものがこのようなコードを直接規定するものではないということもわかる。"I
dwelt alone"を「ひとりで住んで居た」と翻訳することは無根拠とはいわないまでも、いささか恣意的であるというそしりをまぬかれない。孤独であることと「ひとりで」あることは同じではないし、ことは当然妻の位置をどう計量するかに響いてくる。中上も指摘するように、"dwelt"もまた、「住む」というよりも「とどまる」というようなより抽象的な語感の語であるだろう。つまり訳詩の付加によって、これらのコードは「田園の憂鬱」という作品を支配するコードの表象となりえたのである。とはいえ、この詩、いやもっとはっきりいって、この「訳詩」が、「病める薔薇」の段階で成立していたわけではないだろうということを考えるならば、支配すべきコードが、「後に」成立しているという奇妙な事態が起きているのだと、わたしは主張していることになってしまう。このアナクロニズムがもたらすように見える不合理さは、しかしむしろなおいっそう、これらがこの物語のコードであって外的な付加物ではないことを物語る。すなわち、作家佐藤春夫は、この詩を、まさにこの訳詩のように、解釈する主体として、この作品とともに成立したのである。いいかえると、この訳詩を付加することによって、春夫は、自分に「病める薔薇」を書きはじめさせた「原・コード」(それはむしろモチーフとでもいうべきものだが)を対象化し、見出し、表現し、言語化した。そうすることで、中上のいうようなゆらぎ、「意味のズレ、軋み」(前掲文献3)を、無意識の「物語」としての、みずからの「動機」の内部に孕ませたのである。それだから間違ってはならないのは、そもそもの始めから、この作品においては、物語のコードの支配は挫折しているということであり、決して、はじめは支配が達成されていたが、改稿や詩の付加といった外的な操作によってそれが後に克服されたというような事態が問題ではないのだということである。つまり、コードは、挫折するためにこそ、与えられる。そこで、以下ではこの分節を仮に認めたうえで、比較的考察されていないとおもわれ、かつまた定本ではじめて明示的に付加された「澱み腐れた潮」のモチーフについてまず考察することにしたい。それから、具体的に、コードとしての主調音と、そこから疎外された意味との軋みとは、どういうものであったのかということを見ていくことにする。この点でも水のイメージを考察することが有効であるように見える。というのは、水という物質的対象へのイメージの変容は、意味的に強固な一貫性を持たないままに変転しつつ、なお水という物質性において、連続性と一体性をたもちうるからである。
ガストン・バシュラールはその物質的想像力(註2)に関する連作のうち水の元素についての詩学的研究(文献4「水と夢」)で一章を割いて、ポオにおける水のイメージ、あるいはその想像力の性質について詳細に論じている。ポオについての参照を多く含み、水のイメージについてポオと同じく根本的な場所で死との関係で考えているとおもわれる佐藤春夫のこの作品についても、この論考は示唆的なものを持っている。もちろんそこで提示される水という物質についてのもろもろの規定は飽くまでもポオの作品についてのものであり、それらの規定を「田園の憂鬱」に当てはめるためにはあらたに内在的な正当化を必要とする、ということはいうまでもない。その点を確認したうえで敢えてわたしがバシュラールの論考での観点に比較的特権的なコンパスとしての位置を与えようとするのは、かれがポオについていう水のイメージの「反映の絶対性」(前掲文献4)つまり水に映った像は現実的なものよりもなお現実的で純粋かつ理念的に見えるという観点、及び、かれが水と死と眠りと美に見出す本質的な連関、最後に、特権的な水としての「血」についての考察が、「田園の憂鬱」にみられるものと多く共通するようにおもえるからである。しかしまず、具体的な本文の記述をみよう。
冒頭(p.8.)で出現する小渠の描写は前半部では、
ぎらりぎらりと柄になく大きく光ったり、そうかと思うと縮緬の皺のように繊細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣の発作のように光ったりするのであった。
という、痙攣的なイメージで描かれており、語り手がいうような、「この楽しい流れ」(同)とは到底思えない。散乱するひかりと生々しい肉体のイメージの提示はこの水にある生命的な印象を付与している。それはそもそものはじめ、到着の時点から語り手が願ったような、「平静な幸福と喜び」(p.7.)を与えるような去勢された自然ではない。しかしまた続く描写は、この流れに空の反映としての性格を与える。(p.8.)
そんな時には土耳古玉のような夏の午前の空を、土耳古玉色に 或は側面から透して見た玻璃板の色に、映しているのであった。
反射する水は錯乱し散乱するが、空と映し合うことで、統一される。つまり水はみずからの統一性、全体性を、自らの中に映し出される空によってしか手に入れることができない。別のいい方をすれば、主人公の田園への調和的な幻想を露呈させるべき生ける水の錯乱は、空の反映というイデア的な全体性と二重映しにされることで覆い隠されることになった。ここでバシュラールを引こう。(前掲文献4 以下バシュラールの引用はすべて同書から)
一層純粋であるがために反映は現実的なものよりも一層現実的に思われる。人生は夢のなかにおける夢であるから、宇宙は反映のなかにおける反映であり、宇宙は絶対のイマージュなのだ。空の映像を不動化させることによって湖はおのれの中心に空を創造する。(中略)したがってここでは反映されたイマージュは、幻影が現実を訂正するという体系的な観念化に従っているのだ。現実から接ぎ痕や悲惨さを落としてしまうのである。(中略)少しずつわたしは、わたしだけが見ているもの、わたしの視点から見ているものの作者であると感じてくるのだ。(中略)純粋なヴィジョンと孤独なヴィジョン、それが反映する水の二重の賜物なのだ。
もちろん、清澄な湖と淀みはするにせよ流れる小川の差異は決定的なものであるし、ポオにおける水の主題には生ける錯乱した水のイメージは欠落していないまでも中心にはない。とはいえ、こうした水の性格付けには、主人公が感じている「子供らしい気軽さ」(同)を解くものがないだろうか。かれは目の前の風景に空の反映を通して牧歌的な全体性を付与し、その作者としての感覚を感じることで、「主体」になることの「気軽さ」と歓喜を味わうのである。こうした観点は当然、あとで触れる十二章でのフェアリーの丘の挿話にも応用可能なものであろう。ところで、主人公が田園に隠棲してきた大きな理由は「不眠」であった。もちろん正確に云えば眠りは欠如していたというのではなく、かれが忘れていたのは「深い眠り」(p.7.)であるにすぎない。一方で、この作品には「死」のイメージが濃厚に漂っていることはファウストのエピソードを引くまでもなく明らかである。そもそも、彼らのすむ家そのものが死者の痕跡を残す「廃園」なのだ。また、主人公が都会から逃れてきたのは、かれの自意識の鋭敏さのゆえであり、それゆえにかれは無意識状態としての眠りを望んでいる。しかし、この意識の消滅とはやはり一個の「死」ではないだろうか。後半の展開から理解されるとおり、この意識の「崩壊の過程」は皮肉なことに平静な眠りとしてではなく、無意識の、あるいは他者的な生ける「自然」の、あるいは犇めき合う「無上に重苦しい闇」(p.99.)の、あるいは無数の蛾の侵入と氾濫として感受されていくことになる。つまり、ここには二つの「死」のイメージが存在するのであり、一方は平静な眠りのイメージで代表され、他方は錯乱と痙攣のイメージで代表される。この二つのイメージの対立は、明らかに、ここまで見てきた「水」のイメージ、コードにまつわる戦いとしても、見出すことができるのではないか。こうして、眠りあるいは死のイメージとそれに対して「自ら欺く快さ」(p.96.)を与える反映としての両面をもつという水の規定について考察していくとき、欠かすことのできないもうひとつの側面が、冒頭に続いて現れる。水の女性性である。
屋敷の奥の方から流れ出て来た水は、それらの小草の茎をくぐって、それらの蘆の短い節節を洗いきよめながら、うねりうねって、解きほぐした絹糸の束のようにつやつやしく、なよやかに揺れながら流れた。そうして、か細く長長しい或る草の葉を、生えたままで流し倒して、その草のために一時流動することをさえぎられたそれらのささやかな水は、その草の葉を伝うて、より大きな道ばたの渠のなかへ、水時計の水のようにぽたりぽたりと落ち濺いでいた。彼にはこの家の屋後に、湧き立つ小さな清新な泉がありそうにも感ぜられた。そういう地勢ででもあったから。
女性性ということはこの個所からだけでは断言できはしないが、清純な受動性のイメージは明らかであるように思える。また水時計や泉の形象から「西班牙犬の家」(大正六年一月)を想起するのも有意義だろう。ここでの文脈では、この時間性が、この情景では肯定的な清純なイメージであらわれているとはいえ、やはり、死へ向かう衰亡の時間性として現れてくるということを、確認しておくことが重要であるように思える。十六章で、「時間」が狂い、時計はきわめて恣意的な様相を呈するようになるが、ここで、「渠のせせらぎ」(p.82.)が耳障りなものとして登場してくる。オルガンの幻聴が快いものであるのに対し、この響きが不快でありつづけるのは、それが確実に衰亡の時間を刻むからではないだろうか。したがって、他の音楽が聞こえ始めるとき、やはり、隠蔽されたのは、この、不眠を引き起こす、「現実性としての崩壊」であったということができるようにおもわれる。しかし、それでは、空と全体性の問題もそうであるが、「自ら欺く快さ」とはどこからやってきて、どのような必然性をもっていたのだろうか。そのことを考察するためには再び論を戻さなくてはならない。とりあえず、ここでわたしが指標として考えているのは、ナルシシズムと水と音楽とのかかわりである。翻って水の女性性であるが、このオルガンの音が、「法悦」(p.85.)とよばれ一種性的な快楽として呼ばれていることに着目しなくてはならないらしい。そこで、いささか回り道ながら、女性的なるものへの憧れについての藤田修一氏の論考に基づく検討を行ってみたい。若く美しい母親の死という体験にポオの詩学がふかく支配されていることは、定説であるが、春夫については安易に伝記的事項から同様の結論を導くことができないからである。氏はその論考(文献5「『田園の憂鬱』―十七章の意味―」)において、十二章と十七章の挿話をともに「西班牙犬の家」と同様のファンタジーと見て、
このファンタジーの世界を魂の「澱み腐れた」満ち潮の間に、再び挿入したのが、十七章の「白い足の夢」だとわたしは見るのである。
という。意識してか期せずしてかは定かではないが、氏がここで「潮」の比喩に訴えているのも興味深いが、さらに氏はこの「ファンタジー」を「女性的なものへの幻想」とみなす。この点に関して、「ファンタジー」であるとして、憂鬱の闇をひきたたせるためのコントラストであるという氏の認識には単純すぎてにわかに同意はできないが、このエピソードが両者とも直後に妻の日常的な、非調和的な出現をともなうことからいっても、組にして考えるべきものであり、女性とのかかわりが問われているのだということも、確かであろうと思われる。しかし、ここで組にして考えるならば、わたしは第七章の「馬追い」の挿話も含めて考えるべきだろうと思う。第一にこの挿話もまた、語り手がいうとおり「童話めいた空想」(p.40.)であり、見ることにまつわる挿話であり、馬追いの形象にはきわめて女性的な特質が付与されている。「青い細長い形の優雅な虫」「きゃしゃな背中」またこれは馬追いではないが「青い小娘の息のようにふわふわした」といった描写もある。さてでは問題は、これらの童話的な女性的なものへの幻想の意味であり、水や音楽への接続である。勿論、こうしたことの後景には薔薇が「小娘」の比喩で云われることなども考慮してしかるべきところではあるだろう。恐らく、主人公は、「額縁」のなかにある種の「庭園」とでもいうべき全体性を「囲う」ことによって、自己の統一を、象徴的な、しかし限定されたかたちで回復することができるのであり、そのときに、かれにとって、全体を統合するためのモデルとして、また、その「中心」として機能するのが、女性のイメージなのである。いいかえれば、子宮や宇宙のイメージとして把握された女性性が、囲われた領域で、「額縁」の内部で、中心として「見られた」とき、かれはある種の快楽を享受するのである。したがって、藤田氏のいうとおりたしかに「白い足の女」の挿話は「丘」と対にして考えるべきものではあるが、まさにそれが「足」であることからも理解されるとおり、すでに統合は破綻しかかっていると見なくてはならない。さて、水は融合のイメージを持ち、何物かを映し出すとき、それに枠を与える。水溜りの中に世界を移しこむことができる。このような全体性への快楽は、安定した自己がみずからを映す鏡へのナルシシズムでもあるだろう。それが性的快楽として感じられるメカニズムについてはなお明らかではないが、その点については別の機会譲るものとして、いっぽうでは水は流れ散乱することによって全体性を切り裂きもする時間性ともなる。したがって不眠において問題になる音楽とせせらぎのかかわりについて、とりあえずつぎのような仮説を置くことが許されるだろう。すなわち、音楽がせせらぎに代わりえたのはともに両者が「水」であったからであり、ただ、せせらぎが、「物語」「コード」をもたない散乱する水であったのに対し、音楽はかれに「コード」を与える水だったのである。女性的なものと音楽のかかわりは、ここではそれゆえに、統合の象徴として機能するかどうかにあったというべきである。付言すれば、ではどこから「音楽」が訪れたのか、と問うた場合には、かれの身体のリズム、全体性、統合性からだったとこたえるほかはない。かれの崩壊は精神の次元のものであり、いまだ身体には及んでいないからだ。
2 危機/恐怖と鏡の反映
保田与重郎がその春夫論(文献6「佐藤春夫論」)でこの作品を「世の詩人というものの、当面に持つべき日の、歓喜と危機の交錯した一つの時期を示すやうな作品」といい「一つの完璧な科学的詩人論」といった所以、また前掲阿部の文で「何が現実かといふことだ。現実の限界が危機に瀕してゐるのだ」という所以はいったいなんだったのだろうか。この作品の「憂鬱」に普遍性を与えているものとはなんだろうか。そこにはたしかに複数の危機が、存在したはずであるが、その本質を問うならば、それは言語の他者性と表現の問題だったのではないだろうか。この小説は、言葉に追いかけられておわりを迎える。また言葉が意のとおりに伝わらないことへの苛立ちが頻出する。なによりも、それは「鏡」のパラドックスであったということができるのではないか。つまり、表現することによって、鏡に映し出された「私」はしかし、それ自身としては「私」ではない他者である。それとおなじように、はじめは印象主義的に「田園」に自己の心理の投影を見出してきた主人公はやがて、そのようにまさに投影してしまったことによって、今度はそれらの外部に支配され、外部の無秩序さを内面に導き入れることになってしまう。きわめて簡単な論理ではあるが、このようにして主人公の分裂は進行していくのではないだろうか。そのように考えたとき、表現されたものが自立し、しかもアナクロニスティックに表現したものを逆に支配し構成してしまうという事態はたしかに保田のいうとおり、すぐれて表現者の問題であるといえるが、それはなかんずく、革命を遠望し震災をひかえた昭和前夜に固有の危機であったともいえるのではないだろうか。まとまりのない論考ではあるが、最後に、昭和期にすぐれて言語と他者の問題について思考した作家、横光利一の作品にあきらかにこの作品と類似した構成を持つ作品「慄へる薔薇」があることを指摘して結びとしたい。
参考文献
1 校註
2 「田園の憂鬱」所感
3 物語の系譜 八人の作家 佐藤春夫
4 水と夢
5 田園の憂鬱 十七章の意味
6 佐藤春夫論