1998/10/30

 横光利一「上海」における下降について

 1 分身と下層

 参木と甲谷という二人の人物は明らかに一個の分身的な対を為している。参木は複数の女性たちから求愛を受けながらそれを拒否し続けるのに対し、甲谷は宮子に対して空しく求愛し続けたあげく拒絶される。なにより両者の分身的性格を提示しているのは参木の部屋に於けるお杉にとって「曖昧な」陵辱である。結局のところ、お杉とオルガへの両者それぞれの到達は、それぞれの芳秋蘭と宮子への恋慕の挫折のあとにやってくるという意味でも相似形を描いている。したがって二次的なペアとしてスパイの芳秋蘭、そしてスパイあるいはスパイと山口によって噂される宮子の分身的対を考えなくてはならない。しかもそのふたつの到達のまえにはともに関門として「地獄巡り」があった。参木にとってはそれは死の危険のあとで排泄物のなかに落ち込むことであり、甲谷にとってそれは山口に身体を冗談混じりに死体として値踏みされ、死骸と鼠に充ちた地下室へと降りることであった。どちらも比喩的に下層と死とを意味する領域への通過なり浸入であったことはたしかだろう。
 ここにバフチン的な下層や祝祭や、死の試練による再生という神話的構造を読むことはともかく、参木と甲谷が分身的対をなすことを仮定した場合には、人物配置の考察において、参木を中心においた、たとえば注1前田愛による、芳秋蘭、お杉、宮子という三極構造に対して異質な構成をかんえがることができるようになる。すなわち、
 参木/甲谷
 芳秋蘭/宮子
 お杉/オルガ
 という二項対立の構図である。勿論、女性たちがいわばその「本来の」相手とのみ関係をもつわけではない。むしろそのようなことはあまりにも物語的な図式性の強制であって、実際のテキストにはまれなものであろうと予測される。実際、この「本来性」という物語が規定しているコードへの絶えざる侵犯こそが、甲谷によるお杉の陵辱を初めとして物語を構成していくのであり、けっしておきては絶対的なものではない。にもかかわらず、この三つの位置と二つの対象(相手の男)からなる構図は、侵犯を侵犯として意識させるという限りにおいて、たしかに存在している。この平行関係を興味深い形で展開している箇所のひとつがテキストにある。

 甲谷は黙って立ち上ると、山口を捨てたまま表へ出た。芳秋蘭の黄色な帽子の宝石が、街灯にきらめきながら車の上を揺れていった。甲谷は黄包車を呼びとめると、直ぐ帽子も冠らず彼女の後から追っていった。彼は車の上で半身を前に延ばし、もっと走れ、もっと走れ、と云いながら、頭の中では芳秋蘭を追いもせず、しきりにだんだん遠ざかっていく宮子の幻影を追っているのであった。
 │あの女は、あれは素敵だ。あれが俺の嫁になれば、もう世の中は締めたものだ。│
 (講談社文芸文庫「上海」p.32 以下本文の引用、ページ数はこの版に依る)

 ここでの甲谷の独白は一応は宮子をあの女と称していることが読みとれはするが、しかし飽くまでも文脈は曖昧である。実際、現実に追いかけている対象は秋蘭であることを考えれば、状況からはむしろ彼女のことについて述べていると考えたほうが妥当ですらある。ではかれにとって宮子と秋蘭は交換可能なのだろうか。そうとはやはり考えられない。ここでも明らかにかれは宮子の幻影にとりつかれている。で、あれば、この二人の関係はやはり、構造的対応という言い方で指定するほかなさそうである。しかし、そのことを確認しても、実は、まさにここで甲谷が秋蘭を追わねばならない理由がわかるわけではない。気まぐれとしかいいようのないこの行為であるが、現実の宮子が「外人」たちに奪われているための代理行為としてなら理解することができるのではないだろうか。(付言しておけば、注2沖野厚太郎の分析は「上海」内部の人名を山に関するものと木に関するものに分類し、宮子を木の側に配列しているが、私見では宮子はこの弁別にはあてはまらず、素直にみやこ、都市「上海」との同一性を考えた方が妥当ではないだろうか。そのことは彼女がこの街をはなれられないという発言とも呼応するように思われる)
 勿論、強調しておかなければならないのは、この対応関係は飽くまでも、一面のものだということでたとえば宮子と参木との関係に対応するものが、甲谷と秋蘭のあいだに存在するわけではない。したがってむしろこういうべきかもしれない。すなわち、この対応は飽くまでも分身と男性の意志の視点から見た構造だということである。女性側の意志を問うた場合、事態は全く異質な相貌を見せる。しかし、これは何のことはない。参木を中心とする従来の構図であった。
 とはいえ、このような分析には、オルガと「建築師」山口の役割について、焦点化した考察ができるという利点が存在する。都市論的な文脈、および参木中心の文脈における人物関係の分析としてはやはり三極が大きな役割を果たしていると思われるが、甲谷に焦点を置いた場合に見えてくるこうした関連もゆるがせにはできないのではないだろうか。そのことは当然、お柳や高重が焦点化されるような方向にずらされた別種の視点をも予感させるが、ここではそこに踏み込むことはしない。
 ともあれ、甲谷もまた、気づかれにくい形ではあるが、参木とほぼ対応するような死と再生の物語をいきることになったのであった。では、両者の差異はどこに存在したと云うべきなのだろうか。たしかに両者とも、終着点は「愛国主義」であった。しかし、このふたりの自称する愛国主義なるものの実体はひどくいかがわしいものでしかない。この点では、横光の日本回帰や伝統の再評価といった事柄といったんは慎重にきりはなすことが必要ではないだろうか。甲谷が山口に対して愛国主義者を自称するのは空腹と貧窮からでしかないし、参木の発言に関しても、かれが愛国主義者としてあらわれるのはお杉に会いに行く「前」のことでしかなく、なるほど、排泄物のなかでかれは故郷や母親を想起しさえするが、この想念はただちに芳秋蘭への思いによって中断されるのであり、亀井秀雄のいうようにむしろ帰属意識による自己規定からの解放であると解釈する余地は多分に残されている。

 ふと、参木は停止した自分の身体が、木の一端をしっかり掴んでいるのに気がついた。│しかし、ここは│彼は足を延ばしてみると、それはさきまで見降ろしていた船の中であった。彼は周囲を見廻すと、排泄物の描いた柔軟な平面が首まで自分の身体を浸していた。彼は起き上ろうとした。しかし、さて起きて何をするのかと彼は考えた。生きて来た過去の重い空気の帯が、黒い斑点をぼつぼつ浮き上がらせて通りすぎた。彼はそのまま排泄物の上へ仰向きに倒れて眼を閉じると、頭が再び自由に動き出すのを感じ始めた。彼は自分の頭がどこまで動くのか、その動く後から追っ馳けた。すると、彼は自分の身体が、まるで自分の比重を計るかのように、すっぽりと排泄物の中に倒れているのに気がついて、にやりにやりと笑い出した。│           (p.265)

 勿論、その場合、ことはこの汚辱の中に浸り込んでしまった状態に於ける「安らぎ」をどのようにはかるかにかかっている。この「自由」さは母胎回帰における退行的な気安さでしかなく、日本回帰に本質的に通うようなものだろうか、それとも、そのような観念性をすべて剥ぎ取られた境遇における或る「唯物主義者」の誕生なのであろうか。近代的自意識人との差異は明確であるにせよ、その位相はやはり曖昧であるように見える。
 この選択はマテリアルという単語にひそむ母胎と物質という語源的、地口的な両義性を想起させずにはおかないが、それはともかくとして、いづれにせよ、参木の日本回帰を最大限に見積もったとしても、それは決して建設的な、あるいは信仰的なものではなく、「皮膚」の実感によって強いられた心情的、あるいは退行的なものであったことは間違いない。そのことは山口やアムリの志士的な風貌と比較したとき明らかである。そのような身体的レベルでの「愛国心」こそ隠微で強力なものだという議論は当然予想されるが、ここではそうした拡大した意味でのイデオロギーの問題に焦点を置かず、ただ、両者の「愛国主義」がともに、物質的降下、窮乏といった即物的、身体的なレベルでの出来事のほうに重点があったということを確認するにとどめたい。
 しかし参木の到達点であるお杉が根無し草として作品の早い時期に例示される「娼婦」であるのに対し、甲谷にとってのオルガは山口の妾である亡命ロシア貴族である。実際、ここで問題になるのはやはりロシア革命の身体的な記憶としての痙攣であることは間違いない。甲谷は、上海に物質的成功と花嫁をもとめてやってきたのであるが、上海にも、宮子にも拒絶され、オルガの痙攣に自己自身の格闘を見てしまうことによって、その美しさに打たれる。しかしここで、甲谷の感動を支えているのはいったい何なのだろうか。参木とお杉の結合が、最下層での安らぎとしてともかく押さえられるとすれば、ここで起きていることはいかなる対比だといえるだろうか。そのためには、甲谷という主体について再考しなくてはならない。
 前田角蔵注3らのいうとおり、参木に関しては、競子や母親などの不在の他者につぎからつぎへ自己の身体を幻想的に帰属させることで、現実から距離をおき、あるいは決定的な関係から逃避するという性格が指摘されてきた。しかし、甲谷に関してはそもそもかれの小説内部での存在の意義すら比較的明確ではなかったように見える。勿論、物語内容における狂言回し的な機能は見やすいが、「上海」を参木の物語としたとき、かれの位置はかぎりなく曖昧である。参木の物語に、脇役としてでなく関係するのはただ、お杉の陵辱においてのみであって、かれはこの小説の内部では参木とかなり希薄な関係性しかもっていない。いや、別のいいかたをすれば、この二人は相互の関係は希薄であるか、仲介者としてしかあらわれないからこそ、対比的な意味で分身性を帯びているのだと云うことである。たしかに参木と甲谷は会話もよく出てくる上に、相手の紹介や情報で動いていることも多いのだが、しかし直接、このふたりの間で、事件が起きるということは殆どない。
 甲谷はみずからの帰属によって関係を忌避すると云うよりは、みずからの帰属を代表することによって関係を成立させようとする。甲谷にとって日本人であったり、材木会社の社員であったりするということはかれ個人の福祉に従属するのであって、主体となるのはかれ自身の欲望である。自己の欲望を意図的に帰属する主体に従属させる参木とはことなるが、しかし甲谷は、自己の欲望そのものが実現の手段や、可能性といった側面から、帰属する会社なり民族なりに無意識に規定されてしまっていることから、罷市の進展とともにその主体性を崩壊させていく。そのように考えると、この甲谷と参木のペアは対比的でありながら、同一の地点へとたどっていくことによって、唯物主義者という主題のひとつを明確にするために設定されたものとみなせるのではないだろうか。
 また、そう考えることによって、甲谷のオルガの痙攣への感動と自己同一化も、帰属すべきものを奪われたものが無意識的、身体的な記憶によって苦しめられると云う共通項からくるものとして理解できるのではないだろうか。甲谷は別に職を失ったわけではないし、愛国主義者になったと自称してはいるが、罷市の進行の中で、かれの存在の意味は経済とともに一時的ではあれ崩壊しており、それにもかかわらず、かれは参木のように帰属や自己の存在意味を変換させることはできない。つまりここでのオルガと甲谷との結合は、変わることのできない、置き去りにされたもの同士の結合だとみなすことができるのではないだろうか。

 2 泡と流動性

 「上海」を「動く小説」として位置づけそこに水のイメージを読みとることは従来、栗坪良樹や注4篠田浩一郎を初めとして多く行われてきた。しかしそこに「泡」の形象が比較的現れており、それとともに、「浮き上がる」「沈む」という対がおおきな役割を果たしていることはさほど評価されてこなかったように思われる。まず、該当個所を引用することにしたい。トルコ風呂についての言及は別扱いとした。

 お杉は漆喰の欄干にもたれたまま、片手で額を圧えていた。彼女の傍には、豚の骨や、吐き出された砂糖黍の噛み粕の中から、瓦斯灯が傾いて立っていた。彼女は多分、その瓦斯灯の光が消えて、参木の部屋の窓が開くまで動かぬだろう。彼女の見ている泥溝の上では、その間にも、泡の吹き出す黒い芥が、徐々に寄り合いながら、一つの島を築いていた。その島の真中には、雛の黄色い死骸が、猫の膨れた死骸と一緒に首を寄せ、腹を見せた便器や、靴や菜っ葉が、じっとりと積もったまま動かなかった。(p.40)

 お杉はそれらの泡を見ていると、欄干に投げかけている自分の身体が、人の売物になって、ぶらりと下がっているように思われた。(p.43)

 泥の中から浮き上がった起重機の群れが、錆びついた歯をむきだしにしたまま休んでいた。積み上げられた木材。崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の爆けた腐った小舟には、白い茸が皮膚のように生えていた。その竜骨に溜まった動かぬ泡の中から、赤子の死体が片足を上げて浮いていた。そうして、月はまるで、塵埃のなかで育った月のように、生色を無くして、いたる所に転げている。(p.81)

 泥溝の岸辺で、黒い朽ちかけた杭が、ぼんやりと黒い泡の中から立っていた。
                       (p.135)

 ふと参木は、薄暗い面前の円卓の隅で、瓶の水面を狙ってひそかにさきから馳け昇っているサイダの泡に気がついた。(中略)彼は瓶を掴んで振ってみた。泡は、泡とは、圧迫する水の圧力を突き破って昇騰する気力である。
 (p.136-137)

 しかし橋の下の水面では、橋の上を通る人々が逆さまに映って動いていくだけで、凹んだ鑵や、虫けらや、ぶくぶく浮き上る真黒なあぶくや、果実の皮などに取り巻かれたまま、蘇州からでも昨夜下って来たのであろう小舟が一艘、割木を積んだまま、べったり、泥水の上にへばりついたように停まっているだけであった。(p.176)

 その傍では、黄色な雛の死骸が、菜っ葉や、靴下や、マンゴの皮や、藁屑と一緒に首を寄せながら、底からぶくぶくと噴き上ってくる真黒な泡を集めては、一つの小さな島を泥溝の中央に築いていた。(p.280-281)

 以上で網羅したと主張するものではまったくないが、一カ所をのぞいてすべてお杉の視線のなかで泡が見られているということがとりあえずいえることである。またこのことは単純にいえばお杉がスラムとしての下層を代表させられていると云うことの付随的な結果に過ぎないとみることもできる。しかし、他方で、参木にとっての泡の形象が、革命の圧力を意味することと対比させたとき、この泡の両義性はたしかに一見無関係なように見えるが、根本的には下層に位置づけられているものの浮上を意味する点で通底しており、お杉によって見られる停滞した水における泡もまた、サイダの泡と同じように、単に漫然と浮かんでいるというよりはやはり噴きあがってくるものとしてある。勿論、この点についても、むしろ時系列での変化を見るべきであって、最初は81ページまでの引用では「動かぬ泡」として描かれているものが、丁度、物語では工場での暴動のあとになる136ページの引用から泡は勢いよく吹き出すものとして、ただしその死骸や塵芥のイメージはともなったまま、描かれるようになってくる。
 またここでトルコ風呂における泡まで視野にいれたとき、例えば、

 するとゆっくりと絞り出された石鹸の泡は、その中に包んだ肉体を清めながらぽたぽた花のように滴った。(p.13)

 というような、字形からも予想されるような「包む」意義との関わりが見いだされてくる。さきの泡についての引用もその多くが泡の中になにかがあるという描写である。この両者の意義がどのように接合するのか、お杉という女性を媒介として性的な身体の売買へと接合していくがゆえに、「ぶらりと下がって」いるように感じるのか、断定はできないかもしれないが、ともかく、泡の描写が、下層の活力の噴出と対応した点を持っていると云うこと言えるのではないかと思われる。

 3 結論

 所有することに憑かれている甲谷と帰属することに憑かれている参木という形で整理をした場合、この視点から見えてくる「上海」という小説はやはりふたつの下降の物語であるには違いないが、しかしそれは日本回帰、あるいは退行的な根無し草の居直りといったものではなく、むしろ「唯物論者」への過程としての物語である。問題なのはなぜこの下降の過程が分身的に二重化されなくてはならなかったかということだが、そのことはまたふたつの下降の過程の差異からも語られねばならない。両者の所有と帰属への欲望の差異ということから導かれてくるのは、二つの軌跡を描ききることでありうべき、観念と所有についての関係を十全に把握しようとしたということではないだろうか。この所有と幻想および観念についての問題を考察したとき、参木も甲谷も直面せざるをえなかったのは、自己の身体をみずから所有するという問題ではなかったかと思われる。それは具体的にいうならば、甲谷にとっては自己の身体を売り渡すことをほのめかすという行為を通じて、自己の身体の所有を確認するということであった。しかし、参木はついに秋蘭への感情を失うことはないのであって、かれにとって、またお杉にとって陸戦隊の上陸を考慮しても、事態は一時的なものにとどまる。その意味では、決して、この結末部を単純な回帰と呼ぶことはできないにせよ、また一切の幻想を剥ぎ取られた唯物主義者の誕生であるということもためらわれる。同様のことは甲谷にもいえるのであって、かれとオルガとの関係が永続する保証も、またかれが、経済状態が復旧した時点でもとのエリート社員にもどらないともいえない。従って、正確には、むしろここで横光が描こうとしたものは、最下層での出会いという一時的体験であったというべきだろう。その意義はといえば、やはり所有および帰属の観念からはなれたところでの「愛」の可能性だったのではないだろうか。
  

 参考文献 註にあげたもの以外で主要なもの。
 
 「租界人の文学-横光利一「上海」論-」 金井景子
                  『新感覚派の文学世界』1982/11
 「文字・身体・象徴交換 -横光利一「上海」の方法・序説-」 小森陽一
                  「昭和文学研究」 1984/1 
 『身体・この不思議なるものの文学』 亀井秀雄 1984/11
「横光利一「ある長編」考-〈掃溜〉の中で-」玉村周 
              「日本近代文学」1985/5
 「横光利一ある長編の覚書」      十重田裕一 「繍」1989/5
 「横光利一「上海」-人間・内面・心へ-」      「繍」1990/3
「横光利一「上海」」田口律男   「国文学解釈と観賞」1993/4


注1 「SHANGHAI 1925 -都市小説としての「上海」-」1981/8「文学」 
注2 「「上海」の方法」1988/10 「文藝と批評」
注3 「浮遊する主体の方向 -「皮膚」「肉体」の発見としての「上海」-」1989/1 「日本文学」
注4 「「海に生くる人々」と「上海」」1982/5  「小説はいかに書かれたか」岩波新書