1998/10/03  少年文学会部会レジュメ
 対象テキスト:「蠅の王」W・ゴールディング/平井正穂訳 集英社文庫 520円
 original:LORD OF THE FLIES by william golding ,1954 

 1 象徴と神話について

 このテクストの象徴性を見るのは或る意味容易いことです。しかしそれを指摘して満足して喜んでいるわけにはいかないし、かといって、このテクストが作者の意図をただ象徴的に語っているにすぎないからすぐれたものではない、といって片づけてしまうのもためらわれます。たとえば主要な年長の少年たちはそれぞれ明確に神話的な役割をおわされています。しかし、かれらはただの観念の代表でしかないでしょうか。そうでないことは明確なように見えます。となれば、象徴と呼ぶことで明確であったなにかはそれほど明確ではなかったのだといわねばならないはずです。つまり、こういうことです。ジャックにしろラーフにしろ、ピギーにしろ、またサイモンにしろ、かれらの負った役回りというものは、作者によって強制されたものであるというよりも、この遭難のなかであらたな秩序をつくりだすという神話的状況によって強制されたものなのです。それゆえ、これらの「象徴性」なるものは、作者が或る見方を読者に押しつけることで形成されるような意味での「寓話性」なのではなくて、現にそこで「起きていたこと」だということです。
 従ってこういわねばなりません。このテクストは象徴的なテクストなのではなくて、象徴という出来事を対象として描写したテキストだということです。実際、ラーフのなかでの役割との葛藤、ピギーが知的勇気をもちながら同時に滑稽でだらしない臆病者としてあらわれなくてはならなかったこと。これらは彼らが、そこで象徴性から逸脱せざるをえないことを示すように見えます。ジャックでさえ、完全に「仮面」にとりこまれてしまうにはいくつかの過程を経る必要があったのでした。また、ここでたとえば「蜃気楼」について述べていることや「獣」についての事実についても言えるように、神秘的、神話的な出来事というのは実はピギーがそう見なしているように科学的に解釈がつく、なんでもない出来事に対して、不安な少年たちが見てしまった幻にすぎません。ここでは不思議なことはなにもない。にも関わらず、それをいうことの無力はピギーを見れば明らかです。それゆえ、サイモンはそれでも獣は或る意味で実在する、といいます。しかしそれもまたここでは無力でした。
 結局、神話は失敗しているのだ、といえないでしょうか。その点でまたこういうこともいえます。自然描写の機能は、象徴的な意味を決して持ってはいないのではないか。少年たちは多くの場合、事実を見ることができない。あるいは、真実から眼をそらし続ける。それゆえに恐怖は外へと投影されつづけますが、それらの幾多の解釈に対して、自然描写は、ある時はそれに沿うような語りを見せもしますが、基本的には内部の解釈に対して超然としています。
 問題なのは見ることの不可能性なのかもしれない、と考えられます。
 神話が成立するためには、ラーフのホラ貝の権力とジャックの狩人の権力とのあいだに、調和的な妥協が成立しなくてはなりませんが、しかしこの提携はジャックの過剰な権力欲と、ラーフの外部へ救出への意志との摩擦によって成立しません。そもそも、「獣」によってはじまりから脅かされたこの少年たちの共同性は小さな子供を数えることができないという、最初の挫折によって秩序を形成することに失敗してしまいます。しかし、この試みの挫折を非難したところで何も始まらないことは明白です。問題は何なのでしょうか。しかしここでも「外部」への意志と、内部抗争へと向かう「内部」への意志と、内部をまとめるための幻想的な「外部」としての「獣」への攻撃衝動との葛藤は焦点にあります。内部の投影でしかない外部としての獣への害意は容易に内部の異端者へ転換します。サイモンの死にすべての少年が荷担し、そのことを誰もが認めようとしないのは、それが、もっとも知られてはいけない何かを露呈させてしまうからです。しかしそれは何でしょうか。
 再び戻って、「仮面」の問題について考えたいと思います。蛮族として顔に模様を塗りたくることによって、少年たちは個性と良心の仮借、つまり固有名をもつ個人であることから解放されて、匿名の衝動と集団の積極的奴隷、構成員になることができます。仮面とは、またそれゆえひとつの象徴的な役割に完全に憑依されることであり、いかなる責任からも免除されることであり、ただ集団の名においてのみ行動することであり、自分自身の絶対的な孤独さ、個別性を投げ捨てることです。仮面によってかれらは残酷さへの決定的な不感症を手に入れます。またかれらは狩りと火を囲む宴会での共同性によって、仮面の有効性を確かめます。しかし、その火とはピギーによってしか手に入れることができないのです。眼がねの問題はきわめて重要なつぎのことを示唆します。無様で滑稽な、聞きたくないことをいう、異端者から「暴力的に奪う」ことでしか集団はかれらを支える「火」をてにいれることはできないのではないかということです。ピギーはめがねを奪われたとき、もうすでに象徴的なレベルでは死者に等しい無力さへ陥っています。かれが、全く滑稽で、無力で、結果の分かりきった「抗議」を終盤でジャックに対して行うとき、かれの行為は、たしかにいささか文明をたてに思い上がったような面があり、また現実的な有効性を無視している愚かさもあり、さらにはこの期に及んで、怯えきった醜態をさらすことをやめません。しかし、それでもかれの勇気はともかくも真実であるように思えます。これは臆病者の愚かな勇気です。しかし、或る意味で、ピギーも前半のマザコンの少年の幼さとひきくらべたとき或る成長を見ることができるでしょう。
 このシーンでしかしより重要なのはラーフの態度です。かれはなぜ、この「友人」の決意に従ったのでしょうか。かれらの友情にはなにかしら、ただ、ジャックに対抗するための提携というものには決してとどまらないものがあるように見えます。じっさい、ジャックのこの二人の関係への固執はある種の嫉妬めいたものさえ考えられます。

 2 火と水、海と空、獣

 この小説には二つの象徴的な領域があります。火と水がまずそれであり、他方は海と空です。水は調和的な雰囲気をかもしだし、そこでは基本的にはなごやかな出来事が起きます。一方で火は、破壊と文明の両方を示し、火によってこの島は滅ぶのです。また火は、外部への、救出への希望でもあります。ここにアイロニーを指摘するのは容易でしょう。
 海と空は、勿論、「獣」にかかわる区分であって、ふたつの他界、つまり民俗学でいうふたつの、死者や神々の住む領域、海中他界と天上他界にもつらなります。
 ここで、「獣は海から来る」といった年少の少年がいましたが、この予言は実現したのでしょうか。
 また、まずなによりもこの小説の結末は「ハッピー・エンド」でしょうか。
 また「獣」についていうなら、「獣」という象徴的な記号をこの島にもたらしてしまった「痣のある子」はどこへいき、どうなってしまったのでしょうか。また、なぜかれには痣がなくてはならなかったのでしょうか。はじめ獣は暗闇にまぎれてやってくる、とされ、つぎには海から、そして、空からやってきますが、この獣はサイモン以外には見られることがないままに恐怖されます。
 最後に大きな問題として、「獣」の形象として、「蠅の王」と「パラシュートの男の死骸」のふたつが必要だったのは何故でしょうか。ゴールディング自身は後者について、「歴史」の象徴だと述べ、現代の大人が子供に与えうるのは、この死んでいるのにいつまでも大人しく横たわろうとしない、みすぼらしい、しかし威嚇的な死骸だけだと述べています。しかし、勿論、ここでの「獣」の意義はそうした象徴的なレベルにとどまるものではなく、もっと普遍的ななにか悪や恐怖にまつわるものであるとも思われます。それ以外にもなにか考えられはしないでしょうか。
 「蠅の王」についていえばこれは周知の通り旧約にいう腐敗をつかさどる悪魔ベールゼバブの称号ですが、同時に蠅にたかられ嘲笑的な表情のまま腐敗していく豚の生首の適切な形容であることも事実です。しかしこの「蠅の王」は元来、ジャックの原始的な思考から来る「供物」でした。それゆえ、まずここからつらなっていく意味系列としては、狩りの残酷さ、野蛮さ、獣性、熱狂、そして「仮面」が考えられます。ここでのうちなる悪は仮面と関連をふかく根本的にもっています。また、他方では「豚」の系列も無視してはならないでしょう。ピギーというあだ名との関連も、決して見過ごすことができません。豚はまた多産性、豊穣性の象徴でもありました。このことは女性を「所有」しないがゆえに豊穣性から決定的に見放されている少年たちの状況ときわめて対比的です。

 3 岩落とし

 はじめ探検のときに行われた岩落としの遊技は悪もしくは攻撃衝動の展開の過程を見るのにきわめて適しているように見えます。テキストのなかで何度か行われる岩落としは、あとになるごとに嗜虐性をたかめていき、ついにピギーの殺害、ラーフの迫害に用いられるようになります。
 岩をおとすということに着目するときにはやはり、ジャックとひとつの、ラーフ、ピギーに対抗的なペアをなしているロジャーのことを考えなくてはならないようです。かれは恐らく、ジャックの権力衝動とはことなり、純粋な攻撃性のとりことなっています。

 4 子供と無垢の神話

 子供は無垢であり、文明に汚染される前の人間は「高貴な野蛮人」だといって、「自然」や「純粋なもの」をたたえたのはルソーですが、この小説では子供の無垢も大人の知性も否定されています。原罪をまぬかれているものはいないのです。サイモンでさえ、聖人ではありませんし、幼いからといって、それだけ、攻撃性からまぬかれているとは到底いえません。ところで、ルソーの社会契約論の中心思想は国民(ナシオン)の「一般意志」は間違わないし、その意志に従って政治も行われるべきであり、それにあらゆる個人は従属すべきだという、民主主義思想とナショナリズムの両面の危うさをもったものでしたが、この思想の根本にあるのも、「自然」「一般意志」への無条件で一方的な信頼であることはたしかです。こうしたことを考えるとき、ラーフの「ホラ貝の秩序」でさえ、全面的にジャックに対して無垢を主張できるわけではないことが考えられます。つまりかれの理性と「言葉」「集会」への信頼は一面では非常に空想的なものであり、実際のかれの権威は「ホラ貝」という非合理なものによって支えられているのです。ここで「ホラ貝」とは何かと問うてもいいでしょう。一方でジャックの秩序は、たしかに統一と秩序をもっていますが、第一に「峰火」というものへの義務、つまり外部への想像力を決定的に欠いている点、それから、飽くなき「血」に飢えており、つねに犠牲者を必要とするという点、そしてかれらはその過剰な攻撃衝動によって生存の条件である島の環境を焼き払ってしまいます。そしてなによりその火をもたらすのは彼らに敵対するピギーなのです。
 ですから、問題なのはもはや正義の所有権の詮索や非難ではなくて、個人のなかで行われている出来事です。「善意」と素朴な「文明への信頼」によってなりたっていたサム・エリックのラーフへに支持と連帯はもろくもむき出しの力によって覆されます。ラーフはかれ自身非理性のなかに落ち込みながら、逃げ続けます。それでもラーフに何か意味があるとすれば、それは恐らくかれが、自分自身が無垢ではないことを知っていて、そのことにともかくも向き合っているからではないでしょうか。
 そのことを称賛したところで、しかし問題はすこしも解決しないので、再び、ことは、エンディングの「悲しみ」へと至ります。一体、この嘆きとは何なのでしょうか。

 ピギーとラーフの友情とは何だったのでしょうか。
 サイモンがラーフに「きみはかえれるとぼくにはおもえる」といったとき、この「言葉」はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」におけるアレクセイ・カラマーゾフのように響きます。それは、つまり、この言葉には、サイモンという人物の全体が賭けられているということです。この気休めのようでしかないこの言葉にどうしてこれほどの重みがかけられているのか、ということは勿論、一面では、作者の、サイモンをキリストのように描くという意図の反映がありますが、しかし、むしろ、他者に対して、自分の言葉が予言の言葉ではなく、またそのことを相手が知っていることも知りながらこのようにいうということ、そこにもまた、ピギーの示すものとは別の種類の、勇気があるように思えます。

 5 死骸

 250ページあたりから始まる、サイモンの殺害とその死骸が流されていく様子の自然描写。
 とくにこのような描写がなぜなされたのでしょうか。

 6 最後に

 困難なのは、このテキストを読むとき、一方では登場人物たちの立場を非難したり弁護したりして、結局自分の意図にこのテキストを従属させてしまうという陥穽におちいりやすいということがあり、他方では、そうした悪や獣性といった問題を、当たり前のことであるとして、そもそもの問題意識そのものを無視して、ただの冒険小説のようにして、或いは説教臭い寓話として読んでしまうという不感症に陥ってしまいやすいということがあるということです。どちらにしても、この小説のなかで、少年たちが、少ない選択肢のなかで必死で考えたり生きたり間違えたりしているということ、出来事の出来事としての性格が無視されてしまいます。したがって、まず、必要なことは、自然描写や、副次的で大筋には関わらないようなエピソード、それに少年たちの象徴的な役割からのそれぞれの逸脱や迷いやためらいについて、もう一度、眼をむけてみることのように思われます。神話や象徴的な役回りは少年たちの行動をかなり制約していますが、それでも、かれらの行動は決して、あらかじめ決まっていたわけではないのです。
 そこで最後に一つの問いとして、なぜ、サイモンの死のときに、同時にパラシュートの死骸もまたさっていくのでしょうか。