追補(1998/10/09)

  悪というものが「在る」のだろうか。私たちは価値観は相対的だと言われてきた。あらゆる善と悪とは役に立つ嘘だといわれてきた。一方では、在る普遍的な価値、相対的なすべての価値の「根底に」ある「共通の」価値をいうひとびとが、得々として「良心的に」善と悪とを裁断する。しかし、かれらに逆らって、価値なんてものは、と声をあげても、価値から逃れようはない。善と悪を口にするなというのはひとつの命令であり、ひとつの価値だ。悪がそのとき、善悪をはかることであるなら、善とは事実を容認することであるほかない。そのとき価値は自分を価値と呼ばせないだけだろう。だが事実とは既定のことであり、過去や必然性へのひとつの順応主義であるしかない。或いは、不合理なしかし味方、起源であるなにか、自己同一できる何かへの帰依だろう。判断しないことはなによりも大きなひとつの判断ではないか。しかしあらゆるものごとはまだ「完結していない」のだから、現在と過去は不可分なのだ。善悪の外部はたしかにあるのだろうが、それは善悪を口にしないことで到達できるものではない。生きているということはたとえ結果が自分の知らないところで決まっているとしても選びであり、価値とは選びの結果だろう。ことばをいうこともひとつの選びであるのだとしたら、善悪など子供の遊びだ、と言うこと自体が一つの選択であるだろう。自由とは課せられたものであり、わたしたちは無駄で無力な自由に幽閉されていて、なにか大きな力に身を委ねることでそれから逃れることはない。自由とは外的な力と内的な力の亀裂の感覚のことなのだから、外部に身を任せることで自由を「忘れる」ことはできる。ひどい、というべきなのは、結果をおもうとおりにできるわけでもなく、わたしがこのようなわたしであることが外部から独立しているわけでもなく、それゆえ、どこかわたしの知らない場所ではわたしの選択もその結果も在る意味で「決まっている」という物言いもある程度まで可能であるにもかかわらず、それでもことあるごとに、選択をひとはするし、しかもその結果の責任を取らされるということである。だが、だからといって、わたしというものはいない、ただ、なにか大きな見えない「機械」があるだけだといえるだろうか。
 ジャックの「仮面」がそのようなものだとしたら、やはりそれは「悪」だろうか。作者はそれを悪魔「蠅の王」と呼ぶことで明らかに価値判断を示している。そうひとまずはいえるだろう。ラーフは判断せねばならない。かれはただひとり、身を任せるなにものもない。はじめかれはヒロイックな願望をもってわれわれのまえに現れる。しかし、なにもかもがどこからかおかしくなっていく。かれが「自由」であるということは、与えられた状況のなかで選ばねばならないかれにとって少しも慰めではない。しかし、それは、見る者であるサイモンやピギーが、それぞれなにがしかの逃げ場、大きな何かをもっているのに対して、まして、古い非合理性に身を委ねるジャックに対してましではあるだろう。だが、ここでも、自由と選択を褒め称えるものいいの限界を思わずにはいられない。ともかく、かれは「指導者」であるにせよ、「英雄」ではありえないのだ。あるいは、かれを「英雄的個人」とみなすことは、かれをわたしたちにとってのジャックにしてしまうことになる。ここまでのことばがまさにこの小説の書かれたころにあったひとつの立場「実存主義」の物言いに似てしまうのは偶然ではないかもしれない。しかし、それでは、といわねばならない。ラーフの立場でサム・エリックをファナティックに非難するようなことを回避するためにも。従って再び問いはサイモンという形象を巡ることになる。そもそも、ラーフのように外部に固執し、ピギーのように理性に固執するとしても、それ自体非合理な衝動ではないか、という問いは消えない。この島で暮らすこと、もひとつの選択ではあっただろう。理性や文明というものがそれ自体無垢であるはずもない。実際、海軍士官とは「海からの獣」ではないのか? それでも、ピギーにある特権性があるのは、かれは目的を設定することはできないが、手段を特権的に提供するからだ。ジャックたちが、ピギー本人ではなくても、生存のためには何か道具を必要とするように。実際、ピギーとはわかりやすい、あまりにも自明な文明や知の寓意であると同時に、まず何よりも、秘められた死への意志につきうごかされた存在である。かれは豚であり、生け贄であり、ついには本当にある種の生け贄になってしまう。孤児であり、叔母に育てられ、身体的能力がなく、喘息で、かれはなかば、彼岸的な存在であるだろう。だがかれも忘れること、見ないこと、をサイモンの殺害については主張する。
 再び、「悪」があるのだろうか。恐怖があるならば悪もあるというべきだろうか。悪とは保身のことだろうか。悪をいうことが悪だろうか。それとも、なにかほかの場所があるのだろうか。ほかの場所があるのだとしなければ、しかし、文学は可能だろうか。
 物語は善悪について語っているように見える。しかし、起きたことは起きたのだし、誰ひとりとして、実際は、象徴ではないし、かれらに全人類を代表させることも、全歴史の責任を負わせることも、どう考えても大げさに過ぎる。それにも関わらず、かれらが、何度も起きたことを反復してしまうということが問題なのだろうか。反復ということと象徴ということには深い関連がある。そのことには、反復とは、同一の本質のあらわれにすぎないものか、それとも何かべつのものかという問いも関わってくるだろう。
 サイモンが問題なのは、恐らくかれが、「無垢ではない」からだ。 実際、ここまでの論述に対して、より自然主義的な、より「人間的」な見方、あるいは「俗な」見方はいくらでもあるし、そこからの批判をかわすことはできない。たしかにひとはより欲望や功利主義的な、あるいは慣習的な動機で動く。といえる。とくにこの小説のように観念的に読まれるものにはそうした読みをしておくこと、誰しも地上の人間であることを確認しておくことは大変に重要なことだ。しかし、それと同時に、やはりひとは或る型を反復しようとしたり、それに逆らおうとしたり、あるいはそのどちらにも失敗したりするのである。そのことは本編で述べたこと、客観的に象徴的な場合というのは確かに実在しているということにつながってくるのではないだろうか。ともかく、この小説を読むという体験はある時間に立ち会うということでもあるのだが、そのことによって、一体何が起きつつあるのか。それは何事でもなかったか。それとも、何かであったのか。それとも何かになるのか。それはひとそれぞれだが、少なくとも、サイモンとピギー、そしてもしかしたら「痣のある子」や名のない小さい子が、死んだということへの、ゴールディングの込めた意味はゼロではないとおもう。しかし、そんなふうにまとめてしまうことこそ、警戒すべきだったのではないだろうか。曖昧なまま、ただ、言葉だけが、ここでは確かだ。
 ともかく、ここで価値について語ることが不毛なのはたしかだし、一方で、物語の内部で少年たちが価値に纏わる出来事に巻き込まれているのも、或る程度はたしかであるように見える。と、すれば?