坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」
       退屈の悲劇性及び笑劇性と、女性における言語と主体に就いて

 0 本文の異同について

 一九四七年(昭和二二)年一〇月五日発行の『愛と美』に発表された。『愛と美』は『週刊朝日』創刊二五周年記念として刊行された雑誌形式の単行本である。ほかに、「華僑」(志賀直哉)、「ヴィナス」(矢代幸雄)、「愛の女神の誕生」(小林太市郎)、「西鶴のエロティシズム」(潁原退蔵)、「ミナ・ドゥ・ヴァンジェル」(スタンダール・生島遼一訳)が掲載されている。初出誌の本文は新仮名遣いで発表されたが、同年一二月に刊行された『青鬼の褌を洗ふ女』に収録の際、旧仮名遣いに改められた。その後、福田恆存編『坂口安吾選集』ヲ(一九四八年八月、銀座出版社)、新潮文庫『白痴』(一九四八年一二月、新潮社)、『現代日本文学全集』49に再録された。
 なお、初版本以降の単行本では、504頁11行目「なぜなら、私はただニッコリ笑いながら、彼を見つめているだけなのだから」という一文の「彼を」が「私を」に改められている。
 (以下略。筑摩書房版「坂口安吾全集05」解題より引用)

 なお変更部分は新潮文庫版では242ページにあたる。末尾近くの主人公の意識の部分である。
 また、執筆時期は坂口安吾「我が思想の息吹」(『文芸時代』一九四八年三月)によれば一九四七年五月から六月にかけてであった。

 1 死と溶解する主体

 一体、このふかい憂愁にみちた死のかげは何なのだろうか。この小説のなかでの退屈がひたされているのはまずなによりも死のけはいであるように見える。それは一歩まちがえれば悲嘆のものがたりとしてかたられかねないものだ。理想の女という空虚なことばをうつしみの坂口炳五、うつしみの三千代夫人にみすかして、あるいは坂口安吾のつむぎつづけた自己についてのおわりなきものがたりという罠にさそいこまれてくりかえすよりも、この匂いとともにただよう死のかげにまず着目しよう。この死のかげはこの小説の発表とおなじ月に完結した太宰治の「斜陽」(一九四七年七から一〇月)にいっそうあざやかにうつしだされているものと共通したものをひめているのかもしれない。
 まずは、匂いによってあらわになる死のかげである。

 匂いって何だろう?

 冒頭、かたりてであるサチ子はこう問いかけてものがたりをはじめる。この問いかけの異様さはなによりも自己の感覚をさらにそのさきに問うべきものがあるものとしてあつかうところにある。匂いがなにかということはふつうの意味では問いの対象ではありえない。ことばのてまえで身体的に了解されているほかないものであるか、さもなくば外在的に因果関係にまつわる問いとして実証的に処理されるかするほかないものだろう。勿論ここでは匂いとは何かということがそのうつろで純粋な論理性において問われているわけではない。つぎによみすすめば分かるとおり、これは実際には言葉が匂いとして感じられるというとき、その言葉としての匂い、或いは匂いとしての言葉という状態はいったいどういうことなのだろうというおのれの身体への問いなのである。しかし、それにしても、まるでここでの問いかけは匂いという比喩がかたりてがみづから与えたたとえではなく、一方的にむこうからあたえられた既定のもので有るかのようにおこなわれている。具体的には、匂いという言葉が、それが言葉を実際には意味しているという比喩を導入する段落のてまえにおかれているということが違和をよびだすもとなのである。この受動性は一方では匂いという感受の単なる比喩ではない感覚的リアリティを意味するとともに、他方ではサチ子という主体の徹底的に受け身のありようをもしめしているとみなしていいだろう。

 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。
 私は近頃死んだ母が生き返ってきたので恐縮している。私がだんだん母に似てきたのだ。あ、また│私は母を発見するたびに、すくんでしまう。   

 匂いという感覚は視覚と対立的な側面をもつ。まずなよりもここで喚起しておくべきなのはそれが指示対象を明確に規定することができない曖昧なしるしであるということだ。匂いはそれによって意味される匂いをはなつものをはっきりと指示することができない。その位置をはっきりとしめすことができないばかりではなく、その対象の性質についても言葉でかたりうるような意味での規定をきちんとあたえる能力に欠けている。また、匂いはまじりあうためにはっきりと世界をきりわけることもできないと同時に、匂いは相互浸透する感覚でもあって、主体の内部に浸入してくる。匂いを嗅いでいるとき、匂いが主体の外部にあるのか内部にあるのかは可成りのていどあいまいになってしまう。
 このように匂いという感受をおさえてみたときに、それが言葉という通例は正反対なものとしてたちあらわれるものと親密なかかわりをむすんでいることに奇異の念をいだかざるをえない。ことばという出来事がすくなくとも一面では世界をきりわけ、しかも名付け呼ぶことで同一性を対象におしつけるものであるとすれば、ここでは言葉のそうした基本的な質に機能不全が生じていると見なさなくてはならない。そのことをかたりては「頭がカラッポだということ」と表現するが、この頭のうつろさは決して知性のない状態を意味しているのではない以上、いったいなにが欠けてしまっているのかということが問いとして浮かび上がってこざるをえない。この問いはやはり直後に言及される母との関係へとむすびついていかざるを得ないように見える。というのも、母の欠落こそが彼女の異様な受動性をしるしだてているからだ。妾の子であるということからはまっさきに父の欠落をいうべきかもしれない。しかし、父は実父として欠落しているかわりに、久須美は彼女にとっていちめんでは父性的なあらわれかたをするし、彼女自身、年上の男性への好意をかたってもいる。勿論、この徹底的なニヒリストの側面をももつ女の対人関係に本当の意味で家族の隠喩からたちあらわれてくる狎れや甘えというものがあるかといえばおのずと話はべつであるが、しかし、ともかく父性的なものはイメージとしてはこの作品のなかにあらわれてくるのに対し、母性的なものはどこにもない。このことは特異なことである。いっぽうではサチ子本人が母性的なものを体現しているのだというものいいも可能ではあるが、しかし彼女は正確には決して母性的なものをもっているがゆえに優しさをふりまくのではない。彼女のやさしさは母性的な他者を所有あるいは幻想的に一体化することによって規定できるものではなく、むしろ孤独さの自覚ゆえに生起してくるものなのである。
 つまり、母の欠落とは具体的には彼女の母が彼女に対して母性的なものという幻想をあたえることをこばみ、あくまでもあからさまに彼女に対して権利を持つ他人としてふるまったということを意味している。この事実は、彼女が世界に中心をあたえられないという事実と見合っている。無条件に信頼しうるはじまりの他者として、主体に座標軸をあたえる母のイメージを欠く彼女は、ともかく絶対というものがどこかにあるという信念をもつことができない。

 私には国はないのだ。いつも、ただ現実があった。眼前の大破壊も、私にとっては国の運命ではなくて、私の現実であった。私は現実はただ受け入れるだけだ。呪ったり憎んだりせず、呪うべきもの憎むべきものには近寄らなければよいという立前で、けれども、たった一つ、近寄らなければよい主義であしらうわけには行かないものが母であり、家というものであった。私が意志して生まれたわけではないのだから、私は父母を選ぶことができなかったのだから、然し、人生というものは概してそんなふうに行きあたりバッタリなものなのだろう。好きな人に会うことも会わないことも偶然なんだし、ただ私には、この一つのもの、絶対という考えがないのだから、だから男の愛情では不安はないが、母の場合がつらいのだ。私は「一番」よいとか、好きだとか、この一つ、ということが嫌いだ。なんでも五十歩百歩で、五十歩と百歩は大変な違いなんだとわたしは思う。大変でもないかも知れぬが、ともかく五十歩だけ違う。そして、その違いとか差というものが私にはつまり絶対というものに思われる。私はだから選ぶだけだ。
(新潮文庫p194)

 父のイメージはたしかに彼女に禁止されたものはなにか、なにをしてはならないかを開示するが、そのことは彼女に、無条件に肯定的な絶対的に信頼しうるもののイメージはあたえない。父のイメージはむしろ「コロノスのオイディプス」(ソフォクレス)のように没落や衰頽のイメージをあたえているかのように見える。父もまた保護者としてあらわれるかもしれないが、この庇護はむこうからやってくるものであって、主体にとってはただ受動的にうけいれるほかはない。それに対し、母の庇護というものは、一体化の幻想によってなりたつものである以上、いわば世界を幻想的に身体化し、所有し、他者ではないものとしてあつかうことである。つまり、恐らくは父のイメージがあたえる庇護の概念が恐怖すべき世界と主体との間に防壁としての裂け目をあけることであるとすれば、母の庇護のイメージとは外界の存在を幻想的に否認するか、あるいは外界を内部であるかのようにあつかうことであると図式的に整理できるのではないだろうか。つまり、母のイメージによって主体は外界に対し支配する主体としてふるまうことができるのである。父のイメージを内面化することによって可能になるのは、それに対して外界に対し、受動的にふるまうことであるか、敵対することであるかどちらかである。なぜならば、ここで問題にしているレベルでは、敵対も受動も、他者によって規定されることでは、おおきく支配や同一化というかまえと対立しているからである。
 しかし、それでは母が生き返ってきたとはどういうことだろうか。彼女にとって母は母性的なものの幻想をあたえない身勝手な他人であると同時に、自己の鏡像的な双生児でもあったということを意味しているようにも見える。このことはこの小説が、母、登美子、ノブ子と女たちをつぎつぎに彼女のかたわらに配していくことでヒロインの個性をあらわにしていくという構成をとっていることをおいても、とくに特権的にそうであるように見える。主体の形成において、母であるこの女は彼女に対して鏡のやくわりをはたしている。サチ子は母に自己との同一性を、具体的には妾の心性というかたちで見つめ続けるのだが、それゆえにこそ、東京大空襲での母の死の夜の出来事は、彼女の主体としてのこわれを象徴するものとなりえているのではないだろうか。この場面にも頭がからっぽになるという記述が、しかしこれは恒常的な状態としてではなく、ある事件とむすびついて語られている。

 そのとき母のさきに身支度をととのえて私の部屋にきていた男が酒くさい顔を押しつけてきて、私が顔をそむけると、胸の上へのしかかってモンペの紐をときはじめたので、私はすりぬけて立ちあがった。母がけたたましく男の名をよんでいた。私の名も、女中の名もよんだ。私は黙って外へでた。
 グルリと空を見廻したあの時の気持ちというものは、壮観、爽快、感歎、みんな違う。あんなことをされた時には私の頭は綿のつまったマリのように考えごとを喪失するから、私は空襲のことも忘れて、ノソノソと外へでてしまったら、目の前に真っ赤な幕がある。火の空を走る矢がある。押しかたまって揉み狂い、矢の早さで横に走る火、私は吸いとられてポカンとした。何を考えることもできなかった。それから首を廻したらどっちを向いても真っ赤な幕だもの、どっちへ逃げたら助かるのだか、私は然しあのとき、もしこの火の海から無事息災に脱出できれば、新鮮な世界がひらかれ、あるいはそれに近づくことができるような野獣のような壮烈な期待に興奮した。(p190)

 この情景はもう一度、今度は久須美との生活のなかで回想される。しかしここでの文脈で重要なのは、母の男が彼女をおかそうとしたということ、そしてそのことにサチ子が衝撃をうけているようにみえること、そして彼女が自己を不幸であると認識しているのだということである。このなにかあたらしい世界への黙示録的な期待は、彼女の不幸のみを理由としてはじめて理解できるものだろう。その意味で、かたりては、その語りでの淡々とした口調とは対比的に、状況としては悲劇的なところにいるとみなさなくてはいけない。単純に、彼女のものいいを真に受けた場合、ひとりの理想の娼婦としてサチ子をうけとった場合、ここで彼女が母の男におかされそうになったことを不幸として感受することは不可解な事実である。しかしいうまでもなくそのような視線は女性主体を外在的に理想化する視点でしかないだろう。理想の女性とでもいうべき戦後のサチ子像は、彼女自身が意志して形成した、その意味であるていどまで虚構的な主体なのである。
 このように考えると、女性一人称という形式の意味はあらたな相貌でみえてくることになる。つまりもはや理想の女性像を形象化することが問題なのではなく、女性主体を言語の発話主体にすることで、言語によって規定されることで一面的に抑圧される女性という主体に、けはい、においとしての実在性をあたえることが問題だったのだということである。
 それはともかくとして、ふたたびもとにもどれば、頭がカラッポになるという状況は、一方では母の欠落と、そこから生じる世界の中心性、絶対性の欠如、世界の内面化、身体化の欠如、もしくは機能不全によって、彼女が世界に対する徹底的な受動性をもたざるをえなかったことからうまれたと考えてきたのであった。つまり、言葉ということとのかかわりでいえば、言葉をきちんとききとめ、くみたて、安定した意味として把握しようという努力は、世界に対して働きかけようという意志と不可分なものである。そしてまたその意志は、どのように働きかければ、どのような変化をおこすことができるかということについての絶対性への確信を必要とする。しかし、世界にたいして受動的たらざるをえないサチ子は、ことばを、明確な同一性をもって反復される形式として把握することをしない。そうではなく、一回ごとの具体性において、しかも、明確な決断をともなう返答をひつようとするものとしてではなく、彼女にふりかかる外在的なできごとのように理解している。この態度は、すでに確認したような受動性からしるしづけられたものではあるが、同時に、そのことでおきたリスクに対してもひきうけているという意味で意志的な態度であるともいえる。
 しかし、これははっきりと自己をなげだしているのであって、そこに生への意志をみることができるといえるのだろうか。生のあらゆる局面を受動的に肯定しそこに退屈なり面白さなりをみいだすという態度は一見生の肯定にみえるが、しかし死以外はあらゆるものが等価になるという意味では生ではなく死がつねに意識の中心にあるといえるのではないだろうか。言葉がにおいとしてあらわれるということは、一方ではある種の倫理ではあるのだが、冒頭で確認したように、彼女のどうしようもない実感でもあった。そうでなければ問いの対象にはならないだろう。この主体のある種の壊れは、母との関係で萌芽を持っていたものではあったが、それが決定的になったのは、むしろ母の死の夜、空襲の夜であったのではないか。ここには、偶然性によって母が死ぬという偶然のモチーフがみられるし、また、実際に母の死をしるまえに、母のおとこにおかされそうになるということによって、彼女の中で母が決定的に死んだのではないだろうか。さらに語りの現在時という困難な問いを視野に入れれば、あたかも彼女がはじめからさまざまなものへの幻想をもっていなかったように語っているのは現在の彼女なのであるから、これは語り直しによる主体の自己構築、更新のこころみなのではないかとうたがわれなくはない。
 第一、かたりの現在ということを考えてしまうと、冒頭での近頃ということばの範囲の確定しがたさがのぞけてしまう。いちおう、現在は、最終節で久須美と海岸で暮らしている現在がかたりの現在だとみなしてまちがいはなさそうである。それは動詞の時制や、近頃母が生き返ってきたという記述、それから最近よけいなあいさつをしたり所帯じみてきたという記述とも照応している。しかし、いつからがちかごろにはいるのかが不確定にみえてしまう。というのは、たしかに言葉を鼻で嗅ぐという記述はこの語りの現在にのみ属しているのだが、異様なまでの受動性や投げやりさといっていいような態度そのものはこのテキストのなかではつねにサチ子にともなっていて、近頃とくにということはないからである。であれば、なにか言葉を鼻で嗅ぎ、母が甦るという語りの現在と、それ以前のサチ子に、差異を見いださなくてはこの近頃という記述を理解することはできないのではないか。
 そのためにはまず、久須美との生活の記述のあいだにはさまる、隅田川との挿話、および、田代とノブ子との挿話をみなくてはならない。

 2 退屈と永遠

 「青鬼の褌を洗う女」は構成の破綻をいう説もあるが、すくなくとも大構造ではかなり整然とした構成をもつ作品である。まずアスタリスクでくぎられた五つの部分からなり、それぞれことなった時間を扱っている。第一部は母と登美子とのこと、第二部では東京大空襲と避難生活、第三部では久須美と隅田川、第四部では田代、ノブ子それに隅田川があつかわれ、第五部では久須美との生活のことが書かれる。
 ここで問題になってくるのはなぜ隅田川、田代とノブ子について語られなければならなかったかということである。主体としてのサチ子の特異性をきわだたせ、久須美との愛についてかたるだけが目的であったのなら、松本鶴雄注1の指摘どおりこれらの人物たちはめだちすぎているというべきだろう。
 そのことを理解するかぎとなるのは、つぎに部分、第三部にあたるところからの引用である。

 私は然しあんまり充ち足り可愛がられるので反抗したい気持ちになることがあった。反抗などということはミミっちくて、わたしはきらいなのだ。私は風波はすきではない。度を過した感動や感激なども好きではない。けれども充ち足りるということが変に不満になるのは、これも私のわがままなのか、私は、あんな年寄の醜男に、などと、私がもう思いもよらず一人に媚態をささげきっていることが、不自由、束縛、そう思われて口惜しくなったりした。実際私はそんな心、反抗を、ムダな心、つまらぬこと、と見ていたが、おのずから生起する心は仕方がない。
 ふと孤独な物思い、静かな放心から我にかえったとき、私は地獄を見ることがあった。火が見えた。一面の火、火の海、火の空が見えた。それは東京を焼き、私の母を焼いた火であった。そして私は泥まみれの避難民におしあいへしあい押しつめられて片隅に息を殺している。私は何かを待っている。何物かは分からぬけれどそれは久須美であることだけが分かっていた。
 昔、あのとき、あの泥まみれの学校いっぱいに溢れたつ悲惨な難民のなかで、私は然し無一物そして不幸を、むしろ夜明けと見ていたのだ。今私がふと地獄に見る私には、そこには夜明けがないようだ。私はたぶん自由を求めているのだが、それは今では地獄に見える。(略)
(p.203-204)

 この文脈で、唐突に隅田川との挿話がはじまる。単純に考えて、この不満が隅田川との情交の理由になるわけなのだが、しかし、不満とともにあらわれている絶望は問題である。この絶望は結末で解消されたのだろうか。ある意味で第五部結末での両者の関係はより苛烈なものになっている。久須美は第三部のように単に彼女をうけいれてくれるおとことしてではなく、孤独な観念的エゴイストとして語られ、サチ子にとっても、久須美は希望ややすらぎの場所ではなく、退屈の場であり、交換可能な鬼のひとりとしてあらわれてくる。絶望は結論としてはおそらく解消されてなどいない。サチ子は自分はのたれ死にするだろうと語る。たったひとつの違いは彼女が、そのことを恐れておらず、地獄でさえいくがいいと、絶望としての地獄を、退屈といい、なつかしいということで肯定していることである。
 つまり、やや図式的に整理すれば、サチ子ははじめ第一部においては、おもに母との関係で世界に幻想をもっておらず、しかし現在の不幸からのがれる新生をどこかで期待していた。つぎに第二部において空襲によって、母が死に、地獄の苛烈な状況で、その情景を原風景として、悲惨さゆえにこそこれを新生とみようと決意し、それを久須美に託した。第三部では、しかしこの生活の出口のなさが露呈し、隅田川との情交にいたる。
 その意味で、隅田川との関係は、劇的な一瞬によって、生に出口を見いだそうという考えに対するサチ子の賭けであったと考えられる。人間侮蔑ということと関連づけて考えれば、ここで隅田川が担っているのは、意味のあるもの、うつくしいものを、その最盛期に、醜い悲惨さにおちいるまえに、消滅させ記憶の中で生きさせようと云う態度である。しかし、サチ子は隅田川と死ぬことはできないし、隅田川はサチ子と日常をおくることはできない。隅田川は空襲の地獄を背景に持つ退屈を理解することができない。あるいはこの退屈はやはり憂愁とよぶべきかもしれない。

 「私は思いださない」
 「僕がもうそんなに何でもないのか」
 「思いだしたって、仕方がないでしょう。私は思いだすのが、きらい」
 「お前という人は、私には分からないな」
 「あなたはなぜ諦めたの?」
 「だってお前、僕は貧乏なウダツのあがらねえ下ッパ相撲だからな。お前は遊び好きの金のかかる女だから」
 「諦められる」
 「仕方がねえさ」
 「諦められるのなら、大したことないのでしょう。むろん、わたしも、そう。だから、私は、忘れる」
 「そういうものかなア」
(p226)

 サチ子は苛烈なのであるが、この苛烈さは隅田川の甘さと対比的だ。この直後おもいけっした隅田川はサチ子に心中をせまる。問題なのはこれほどの憂愁のなかで一貫して、もはや希望がないような彼女を生の側にひきとめているのは何かということである。それは希望ではない。いや正確にいえば「何かおもがけないようなこと」への期待である。これは主体の理想への希望ではない。むしろ主体がうらぎられることへの期待であり、けっして、このましいことのみをさしているのではないだろう。あるいは、そのような変化がおきてもなお退屈でありつづける日常への愛だろうか。しかしこの久須美との日常はもはやどこにもいきどころのない停止した、破滅によってのみ区切りがつけられるような時間である。久須美は家族を捨て世間の非難を浴びるであろうし、そうでなくても、このふたりの関係は変化しようがない。
 サチ子はまた忘れる女であると同時に、眠る女でもある。これらの形象性は言語的な覚醒の意識とはべつの場所に彼女の主体が成立していることをものがたっている。言葉を鼻で嗅ぐ、というとき、この匂いの感覚には同時に死のイメージをみることもできないだろうか。匂いとはなによりも腐臭や果実の爛熟とむすびつくものであるようにもみえる。海岸という海のイメージも死とはいわないまでも主体の溶解とむすびつく。勿論、民俗学的なコードを援用すれば海は他界である。
 しかし、それでもサチ子は死をえらばないという矛盾は、しかし意志的な死は、サチ子がとらわれているような主体性の溶解としての死に対立する、むしろきわめて生の側に位置するものなのではないだろうか。日常性におちこむことから主体をヒロイックにすくいだすのは自殺、あるいは時間の有限性をあたえる観念としての将来の死である。
 勿論、サチ子の健康な側面をみのがすわけにはいかない。しかし、ここでの健康さもやはり徹底的な受動性を特徴としていることにはかわりがない。
 しかし、希望のなさにおびえていたサチ子がそのことをおそれなくなったのは隅田川との関係の破綻ということばかりではないだろう。そこで、いままで管見にはいった論ではほとんどうまく作品内部に位置づけることに成功していない田代とノブ子である。この二人はそのくせ作品の三分の一の空間を主役に近いあつかいで語られる。したがって、すくなくとも作者の構成的な意図というものを考えずにはすまされない。
 恐らく、かれらの関係というのは、サチ子に対して、自己を対象化する契機として機能したのである。田代とノブ子の関係は主観的には真剣極まるものであるがはためには退屈なおなじくいちがいの反復でしかない。しかも、田代が言語によってかたりつづけ投影し続けるノブ子の聖処女の物語、それにからめとられてしまいみうごきのとれない関係、これは久須美とサチ子の関係に内実はにていないにせよ形式的には類似している。サチ子はこの反復の笑劇的な様相にふれることで、地獄としての退屈をなつかしいものとみなすようになったのではないだろうか。すくなくとも、ここで、サチ子と隅田川、それに田代とノブ子という二組の男女がくりひろげるいささか道化芝居めいた事件は、ともに男が物語を女にかぶせようとして挫折するか滑稽な状態におちいるという様相を提示しており、退屈の笑劇性、悲劇性をともにあらわしているように見える。サチ子にとって、退屈は悲劇的な絶望であり、空襲の炎のなかの地獄と不可分のものであるが、にもかかわらず、笑劇的なばかばかしさにも通じている。
 つまりこの小説のなかでおおきな比重がおかれているのは、理想の女ということでも、あるいは風俗的ファルスでもなく、むしろ自己の起源にある選択なり出来事なりの悲惨な滑稽さ、あるいは端的な退屈さをいかにして愛するかということ、そして男の注2投影する観念なり物語からいかにのがれるかということ、そしてそれらふたつの根底にある主体の漸次的なこわれとしての死をどのようにして物語るかということであったようにおもわれる。自己にあたえる物語であれ、他者に強いられる物語であれ、そのこわれによってはじめて自己たりうるという矛盾した場所で語る女性一人称の意味は、ある意味で能の卒塔婆小町の小町の語りのように、妄執と地獄の花を鎮魂することにあったのではないだろうか。むろん、そうであるにもせよ、のたれ死ということを思いながらもサチ子はいきるのであり、その生きるという位相によって、坂口安吾は、第五部のほとんど他界的な海辺の空間を、ふたたび現在のかたりての意識へと引き戻すのではないだろうか。そこでは青鬼が胴間声をあげ、女が媚態をこらす。この寓意的な場は、永遠回帰する滅びとあやうさのうつくしさをもって小説を閉じようとするちからに、ふたたびさからって、普遍性を獲得しようとしているようにも見える。つまり、久須美とのかかわりで滅びの予感のままに小説が閉じられてしまうとき、退屈の反復するけっしておわりえない側面がかすんでしまうからである。


 参照文献

 「青鬼の褌を洗う女」伴 悦 『坂口安吾研究』森安・高野編 南窓社 1973
 「『青鬼の褌を洗う女』の考察 -天性の娼婦、現身の三千代-」花田俊典
                       『解釈と観賞』1993/02
 「坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』-海を見ている女と男」 古谷鏡子
                       『新日本文学』1992/01
 「『青鬼の褌を洗う女』への軌跡一 -無償の行為という観点を基盤として-」
                               槍田良枝
                             『学苑』1995/1
 「『青鬼の褌を洗う女』への軌跡二-不感症の女たちをめぐって- 槍田良枝
                         『学苑』1996/1

 『シンポジウム日本文学19 戦後文学』学生社 1977/5/30
 『決戦下のユートピア』荒俣宏 文芸春秋 1996/8/15
 

注1 「青鬼の褌を洗う女」考 松本鶴雄(『坂口安吾研究講座』一九八五年一一月三弥井書店)
注2 言葉と云うことにかんして、とくに言葉の規定するちからから逃れる聖母的な女性像をえがい
た作品として石川淳「処女懐胎」(一九四七年九月から十二月)がある。