reading on the text ; "JOURNAL DU VOLEUR" by Jean Genet 

薔薇とかえにしだとか
ありえない交わりだとか


 ああ、いつ、わたしはの中心に躍りこむことができるだろうか。わたし自身、心象をあなた方の眼に伝える光となることが……。いつ、わたしはの中心に身を置くことができるだろうか。


 裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題なのだ。それらは互いに連関関係にある。この連関は必ずしも常に露わでないとしても、わたしには少なくとも、わたしの裏切りと盗みへの嗜好とわたしの情事とのあいだには、一種の血脈的交流が認められるように思われるのである。


 @かみさま、もうぼくはあなたを信じていないのです

 ジャンの記憶は語られることで光り輝く。けれどその輝きは事柄を歪めることで得られたものでも、ましてや事柄そのもののうつくしさからきているのでもない。花で飾ること、自分自身の伝説になるということ。記憶とは現在のなかで自己をつくること、記憶とはだから裏切りなのだろうか。過去そのものを裏切ること。裏切りは内通、内通とは決して交わってはならぬものを交わらせること。
 ジャンは自分を言葉でむなしく閉ざされた想像の世界で美化するのと、どれだけ違うことをなしえたのだろう。
神聖なものとはなぜ卑劣なもの、臆病さとでさえ通うのだろう。


 @喪に服すわたしは盗まれた花を供えることはできなかった

 いまやジャンは金持ちの高名な作家であり、かつてかれをとざしていた壁はもはや見えない。泥棒たちとの連帯はたやすくうしなわれ、ひとりの少年への愛のためにわれわれの道徳に妥協しかけさえする。
 それでも、泥棒としてかたる言葉のなかで、そこからなお残ったものは何だろうか。
 このようなうしなわれつつある危機のときにあわだつように語られた言葉はどのようなものとなるのだろうか。ここでみづから注釈する感動的な悪への意志はすでになかば過ぎ去りつつあったのではないだろうか。
 作家とは記憶についてかきしるすものであり、裏切り者でさえあるだろう。言葉は現在について、そして言葉についてしかかたれないのだから。それは墓碑銘を書くことに似ている。あるいは、
 花で飾ること。墓地の花は、ただ花で飾るという表現の陳腐さを越えて、あるうつくしい情景を出現させる。
 カロリーヌたちのパレード。

 @神は細部に宿る、とか、そんなあたりで

 男たちは混乱した(とみえる)順番のなかで入れ替わりたちかわりあらわれ、去る。失われないのは、忘れがたい仕草、身振り、ある偶然の動作、胸元で組まれた腕、それらは交換できる。いや、交換できるというよりも、一方が他方のしるしとなり、相互に呼び合い、思い出させ、まるでひとりの理想的な男の躰であるかのようにしてあらわれてくる。劇のようにして、性格や習慣としてではなく、ある不意の瞬間に本質をあらわにする男たち。かれらは性愛そのもののように激しいがゆえにこそもろく卑劣で恥にまみれている。仕種は通いあう。似ているという意味ではなく互いを喚起するという意味で。交わりは性的なものだけでなく、躰のうちがわにまで及ぶ。とりつかれ、身を任せ、ただちに男の従順な反映になって陶酔するジャンの神聖なものへの渇望。女らしさを意志することへのつよさ。なぜ同性愛なのだろうか。
 とはここで何なのだろうか。どのようにして存在しようとしているのだろうか。
えにしだ(genet)

 @わたしの正確さへの嗜好があまりに強かったため……

 スティリターノ、リュシアン、アルマン、サルヴァドール、ロベール、ペペ、ジャヴァ、ベルナール、ロージェ、ミカエリス、ギー……。男たちの系列とともにジャンは多くの町と自然を経巡る。なによりも、スペイン、フランス、そして泥棒の国、ヒトラー治下のドイツ。太陽はかれにとってスティリターノであり、かれによって代表されたうちがわの何かだった。自然とかれとは共振し、ともにうちふるえ、そのことをおそれるあまり、美しさに対して倫理的な隔てをつくりさえする。
けれど、一方では、自然は決定的にとおざかり、あるふしぎな透明さであらわれもした。(page185)ジャンは見ていた。だが何を見ていたのだろうか。

@怪物を育てるみにくい泥棒女、老婆でありたいとジャンは願い、

 ジャンは母なるものを多分無条件には信じられない。ジャンは母親になりたいとさえ願う。男たちはときに女のようであり、やさしさは残酷さと通う。同性を愛するということは同じものを愛するということだろうか、それとも別のものを愛するということだろうか。たとえば父子同性愛はおそらく最大の禁忌だろうが、それはどうしてこんなにも激しく禁じられるのだろうか。ジャンはなぜ交わってはならないものたちを交わらせてしまうのだろう。醜いものと美しいもの、汚辱と栄光……、それは逆転というよりも交じりあいだったとおもう。
ページの白さとそこに飾られる文字の花のような模様。植物たちと言葉、文字とは親密に似通っている。

 @かたることかたること、そしてかたること、けれど、何のために?

 リュシアンとの時間と過去の時間、ふたつの時間はからみあいながら、ヘビのようにひとつの頂点をめざす。名前、名前、ジャンはみずからの汚辱をリュシアンのこととして語る。語ることで、そのように語られうるものとして、語られたものはある可能性を見出す。リュシアンはジャンのようでもありうる。あらゆる人間たちの、積極的な内容をもたない、輪郭だけの、空虚な、しかし絶対的な同一性。そのこととリュシアンを愛することはどのようにうずまきからみあうのか。汚辱を語ることで何が成し遂げられるのか。

すべて終極は美しいはずだ、という。そうだろうか。それは夢想であり、決して不可能な点だ。到達不可能な無価値性。自己に到達することはけっしてできないし、完全な同一性も認識することはできない。

 ジャンは何を書きとめただろうか。言葉が歌っているのは何だろうか。

悲劇の微笑は、また、神々に対する一種の諧謔によって起る。悲劇の英雄は、かれの運命を軽妙にからかう。かれがあまりにも優雅にその運命を成就するので、このときは人間ではなくて神々なのである。