「不連続殺人事件」(「日本小説」昭和22・9から23・8。全八回)
1
坂口安吾の作品のなかでも、この「不連続殺人事件」という小説は、推理小説でもあり、また後述する作者本人の推理小説に対するゲーム主義的な姿勢ということもあって、おおむね余技としてその限界において捉えられてきた。しかし、こうした観点の多くは、磯貝英夫の発言に見られるように、多分に作中での坂口による記述に引かれてできあがったものであって、そのまま受け入れることはできない。
この作品の主役巨勢博士について、作者が「彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の進路へさまようことがないように、組み立てられているらしい。そういうところが天才なのである。」と説明していることは、その意味からも非常に興味ぶかい。ここに、推理小説の限界についての坂口の明瞭な自意識があり、あわせて、文学者とは、文学オンチ巨勢とはちがって、その「無限の迷路」を行くものだとの、はっきりした自負もしめされている。(中略)しかしすべてはその限界内のことである。……
(磯貝英夫「不連続殺人事件」『解釈と鑑賞』昭和四十八年七月)
ここで、磯貝は語り手である作家、矢代寸兵が巨勢博士について述べていることを論拠として、推理小説の限界性を断じ、この作品を余技とみなしているのだが、このような断定はあくまでも外在的なものでしかない。探偵すること、見つけることと文学者であること、つくることの差異がこの文脈では作品内で主要な差異(このことは探偵としての読者論としても重要であろう)なのであって、決して、文学と推理小説とが、差異づけられているわけではない。そのことは神山東洋弁護士の発言に明らかである。
「(……)矢代先生の御説によると、巨勢博士は小説が書けない方だから、大探偵の素質があるのだそうですが、まさしく、それが真理ですよ。そしてですな、それが真理であるということは、逆に文士の皆様方は、たいがい、大犯罪者の素質をもっておられる、という意味でもあります。ただし、これは、弁護士にもあてはまります。これ又、皆様方には比べようもありませんが、ともかく、これも、人間関係をつくりだす商売ですからな。(後略)」(二十章)
ここでの探偵に関する発言は、小林秀雄の骨董趣味に対するかれの批判とあわせてかんがえてみると、特に鑑賞と必然をめぐる論点において、興味深いものではあるが、ともかく骨子をなしているのはやはり探偵の限界であって、推理小説の限界ではない。探偵は、すでにおこなわれたできごとを必然的あるいは蓋然的な論理によって再構成しようとする。坂口のいう限界とはこの再構成にかかわっている。
残された痕跡から遡って推論するためには、ひとつの結果、ひとつの痕跡に対してひとつの原因が正確に対応していなくてはならない。これはすでに完結したうごきようのない世界である。世界をこのように把握することが探偵の観点であり、探偵は一つの結果から、その真実の一つの原因を探し求めるのであるが、坂口は、このような原因と結果の一対一対応は厳密にはありえないという認識をもっていた。このような認識から、「純粋小説論」における「偶然性」につながるような問題意識が出てくるのだが、これが語り手である矢代のいう「無限の迷路」の意味である。ではなぜ、探偵は犯罪推理において、文士に優越するのだろうか。それは、探偵の予測が確率的に適中率が高いからではない。そうではなく、あくまでも探偵が司法的観点に依拠して、「誰がどのようにやったか」、という事実的領域に自己限定するからである。すなわち探偵は意味を生成する記号表現の間の対応関係を糾明するのであって、記号内容を糾明するわけではないのだ。
このことはこの小説にもあてはまり、確かに巨勢博士は心理的領域にもある程度踏み込んで推論しているが、それらは憶測の域を出るものではなく、かれの事実の解釈程には、決定的なものとして提示されているわけではない。通例、推理小説に於いては、この、探偵には事件の心理的、象徴的「意味」を確定することができない、という本質的欠陥をおぎなうために、探偵の告発のあとに、犯人の「告白」がやってくることで、それまでさまざまにゆらいできた読みのゆれが一義的に収斂される。このようなタイプの推理小説についてなら、池内輝雄(「不連続殺人事件」『解釈と鑑賞』平成五年二月)のいう、「推理小説のほうは、読者の『読み』を誘発するとはいっても、それは読み進む途中のことであり、全体的には「読み」はある一点に向かって集約、閉鎖される。作者の意図を無視して、真相を別に想定するといった逸脱は許されない。」という性格もよくあてはまるといえるだろうが、しかし実際にはこのような規定に過不足なくおさまるような作品はむしろ小数だろう。というのは、くり返せば、多くの場合、探偵が意味を確定しうるのは、あくまでも事件の司法的な意味だけだからである。従って、むしろ事件の解決によって、なお未確定の謎とはいえないまでもあいまいさが、視界のすみにノイズのように残ることになる。
勿論、巨勢博士も行っているように、事件の心理的意味、動機、象徴的次元、犯人による見立てといった、一見、探偵には最終的には確定し得ないはずの意味の領域の事象が手がかりとして、真相の露呈に寄与することもあり得る。しかし、これらの意味の領域の事象による推理は、真相にたどりつきはするものの、あたかもそれは偶然であるかのような印象をあたえずにはおかない。ここにもパラドックスが存在するのであって、或る仮定にもとづいてなされた推理が正しかったからといって、もとの仮定が正しいとは必ずしも限らないのであり、そのためにこそ、「物的証拠」と「自白」が絶対的に要求されるのである。(とはいえ、「物的証拠」も「自白」も、読みを確定させるおまじないとして、ジャンルの約束に乗っ取って機能しているので、厳密にはやはり司法的意味を確定しうるにすぎない。また多くの場合、犯人の告白は、まさにこの探偵の構造的無能さを補うものとして、心理的、象徴的意味の領域における推理の間違いを指摘することも多い。これは犯人の他者性を際立たせ、その個性を顕彰する機能さえはたす)さきの池内の論文は「不連続殺人事件」を磯貝のように限定されたものとはみない立場を論旨としては主張したものなのだが、そこで論拠として脇役である海老塚医師らの異常な個性がだされているのみであり、この作品そのものの構造の持つ未完結性には触れられていない。多くの推理小説はたしかに完結的で閉鎖的な司法的次元ももっているが、同時に、解決によっても確定されない心理的、象徴的な次元や、見立てといった意味の次元を持っているのであり、その意味では、他の形式の小説とかわることはない。おそらく、推理小説であろうとなかろうと、このような意味で読みを確定させようとすれば、三人称全知視点の語り手に断定させるほかないのであるが、「不連続殺人事件」はそのような小説ではない。
また、真犯人の二人は、なんら、事件の意味の領域でのゆらぎを凍結し確定すべき決定的なことばをあたえることなく、この世を去り、物語は終結する。このことを考えたとき、坂口安吾の作品のなかでも、この小説にはいまだ論ずるべきことが多く残されているように思われてならない。すくなくとも、余技として、純粋に謎ときゲームであるにとどまるものでしかないという扱いはこうした未完結性から見てできない。こうした読みにまつわる問題は、私見では推理小説一般につらなる問題であるというよりも、この小説固有のテーマでもあるように考えられるのである。
2
総体として見たとき、やはり「不連続殺人事件」には「歌川家の崩壊」といった色彩が濃いことは否めない。笠井潔はその『推理小説論』(1998年12月)で、「不連続殺人事件」を論じて、「白痴」に言及しつつその戦後的モダニズム性の徹底性に着目しているが、そうした観点にたつとき、当然問題になってくるのは、大戦の無意味な大量の屍体であり、坂口の東京大空襲の経験であり、ピカ一の名に刻まれた原子爆弾の形象である。笠井は、「絶対戦争における無意味な大量死」を経験しているかどうかで登場人物たちを考察したとき、主要人物中、土居ピカ一と歌川あやかだけが、戦時中、歌川邸に疎開していなかったことから、東京大空襲にあった可能性があるとして、雰囲気的な戦後性を体現している歌川珠緒や一馬と区別して、決定的に「子の世代」を体現していると述べる。従ってここにまず読みうる事件の意味としては、無意味な大量死をまえにした極限状況を経験した精神が、無自覚に生き延びようとする戦前からの秩序の代表者である歌川家の財産を奪おうとする行為ということがあげられるだろう。しかし、ここでまた笠井も述べるように、徹底した無意味にさらされた精神が、その意味の剥奪から目をそむけて安穏にいきる戦前的秩序にたいして、自己正当化につながるような怒りや、財産の強奪自体を目的とするような身構えを持ってしまったとき、それは明らかに、ふたたび、もっともらしい「意味」を獲得してしまう。しかし、こうした笠井の犯人の不徹底性についての指摘はたしかに正当なものではあるのだが、厳密にいえば、この「不徹底性」は巨勢博士の推理するところのものであって、ピカ一もあやかもなんらそれを肯定なり否定なりするような発言はしていない。客観的に、事件の内在的な意味を考察しようとするとき、やはりどうしても中心になってくるのはあやか夫人である。彼女は、以前、歌川一馬と知り合ったときは、モダンな詩人に憧れる文学少女であった。それが、つぎにあらわれたときは少なくとも柄がいいとは言えない土居ピカ一と同棲しており、天性の娼婦型として語られさえする。このような変貌は、たしかに笠井のいうような経験を不可避的に必要とするものと考えられなくもない。しかし、明らかに一種のニヒリストであるこの二人が、歌川家の財産を簒奪するだけの目的で、連続殺人計画を立案したとは考えにくい。たとえ、遺産が主要な目的であったとしても、それらは蕩尽されることとなったであろうし、決して、あらたな「家」を構成することはなかっただろう。となれば、やはり、なぜ歌川家が滅亡しなくてはならなかったのか、という問いは新たに脚光を浴びてくるのではないだろうか。
つまり、この二人における、歌川家、あるいは、歌川一馬に対する「悪意」というものの質を考えてみる必要があるということなのである。いわば被害者側の主人公とでもいうべき歌川一馬は山林地主である実家に甘えて生きている、主知派の詩人である。少なくとも、かれのあやかに対する恋慕がことの発端をなしていることを見のがすことはできない。また、一方ではかれは妹の加代子に対しても近親相姦の愛を抱いている。その苦悩はたしかに真剣なものではあるが、あやかとピカ一にとって、このような人物の存在はそれだけで「悪意」の十分な対象であることは明らかではないだろうか。つまり、意味の剥奪された「現実」のなかでいきざるをえないピカ一とあやかにとって、歌川一馬という人物は、完全に、その「現実」を隠蔽する「幻想」のなかで安穏といきている人物と映じたのである。かれのあやかへの恋慕も、あやかの精神の核を形成しているものへ到達することのない多分にひとりよがりな愛情であったし、加代子との近親相姦の苦悩も、大量死の現実の前では牧歌的きわまる苦悩でしかない。主知派の詩人としてのかれの職業も、かれが現実から遊離している、ということを読者にうけいれやすくしている。勿論、一馬もあやかやピカ一と同じ現実を生きているのであるから、問題なのはかれが事態を直視しようとしないという、そのことにある。そして、かれにそれを可能にしているのは、勿論、歌川家の財産である。
この歌川家の子どもたちにはどこかみな共通して虚無的ものがみられる。戦後の風俗的なものを反映しているに過ぎないといえばたしかにそれまでであるが、加代子と一馬はひそかに絶望的な愛を燃やし、珠緒は性的放縦に走っている。かれらに共通しているのは非常な絶望感だとはいえないだろうか。ここで太宰治の「斜陽」を想起しておくのは無駄ではないだろう。歌川家はたしかに「斜陽」のような金銭的没落を経験しているわけでは全くない。しかしまさにそれだからこそ、こうした全面的壊滅を経験したのだともいえるのである。歌川家に特徴的なのは、その不毛さなのだ。歌川多門は二人の妻のほかにや妾を何人ももちながら、結局もちえた子どもは四人にすぎない。その子の世代にいたっては、一馬は二度の結婚で子がなく、珠緒は堕胎し、加代子は肺病で聖処女と呼ばれている。閉ざされた系として、関係が内部でのみからみ合う結果、歌川家は完全な不毛性におかされてしまっている。この不毛さを象徴しているのが海老塚医師である。当主歌川多門の隠し子の子であり、つまり孫であるかれは異常な性格を発揮して、しだいに物語の中で狂気をあらわにしていき、ついには看護婦、諸井琴路を嫉妬から瀕死の重体に陥れる。
従って、ピカ一とあやかが犯行を実行にうつすまえから、歌川家にはすでに衰亡の芽が存在していたのだということができる。かれらは「堕落」を拒み、閉鎖された山中の空間で、何も起きなかったかのように振る舞おうとしている。そのために「現実」との接点を失い、不毛と虚無に犯されることになったのだ。
ピカ一とあやかにとって、歌川家がターゲットとなったのは、むろん、一馬の恋慕によって現実的可能性がうまれたからではあるが、かれらにとって、殺害行為の意味が、単なる憎悪の表現や事務的な仕事ではなかったということも見のがすことはできないと思われる。悪意ではあるが、同時に、祝福、あるいは供物としての意味が無意識にせよあったとはいえないだろうか。「夜長姫と耳男」の有名な「好きなものは呪うか争うか殺すしかないのよ」という台詞に通底するような、非常に倒錯して見える愛情に類したものを想定しなくてはならないと思われる。ピカ一とあやかは恐らく、歌川家の資産を所有するために計画を実行したのではなく、むしろ蕩尽するために行ったのだし、かれらが殺したのは、なにも、かれらの、たとえそれが絶対戦争後のものでも、倫理に反するような人物ばかりではない。つまり、殺害計画の意味も動機も、巨勢博士の推理ではくみきれないものが多分に残っているのである。
歌川一馬に執拗に言い寄られたとき、あやかは、この詩人が、自分に代理的な母を求めているに過ぎないこと、そして、あらゆる存在の意味が剥奪されるようなゼロ地点を意識の周辺では予感しながら、それを直視することを恐れて、より二次的な問題、たとえば加代子との問題や、宇津木秋子との離婚にその不安と恐怖を摺り替えようとしているということを悟っただろう。そのとき、あやか夫人がどのように考えたかはもはや憶測に入ってしまうが、ただ、彼女が一馬にとって、結婚後、ひとつの「謎」として立ちあらわれてきたことはたしかである。
珠緒や一馬といった戦後的ニヒリストとあやかやピカ一の違いは、その刹那的、虚無的なところにあるのではない。そうした表層を共有しつつ、珠緒や一馬には、いまだ希望と絶望の葛藤とでもいうべき、かくされた逆上が存在する。絶望しきれないのがかれらなのである。それに対し、絶対戦争を直視しした精神は、冷静であり、演技にたけ、一見、現状肯定的である。これは自己を突き放しているからであり、また堅固な自己同一性への偏執が破壊されているからである。こうした点で、あきらかにあやか夫人は、「白痴」の女、「青鬼の褌を洗う女」の女、「戦争と一人の女」の女の系譜にあるものとおもわれる。
こうしたことを考慮すると、殺害計画の真の動機のひとつには、すくなくとも、歌川家をその頂点に置いて崩壊させ、その現実的でみじめな「堕落」をさせないという意図があったとみることができるのではないかと疑われてくる。人間は堕ち抜くことはできず「処女を刺殺」してしまう、という「堕落論」の主張とここにはストレートに繋がるものがあるように見える。だがここでも事態が錯綜しているのは、このような意図が「堕落論」のような文脈とはことなり、はっきりと、或る悪意とないまぜになり、美化されずに提示されているということである。ここでいう悪意とは前述の一馬のような閉鎖された世界への逃避への悪意である。従って、動機はむしろ、再生へとつながりうるような「堕落」さえ許さず壊滅させる苛烈な悪意にこそ孕まれていたのかも知れない。ここで、この事件が「不連続殺人事件」であることを想起しなくてはならない。つまり、犯人である二人の悪意は、決して歌川家に集中的に向けられていたのではない。ここで殺意を悪意と呼ぶことは不当かも知れないのだが、この殺意は、ほぼ全面的なものとして対象を限定していない。勿論、トリックの問題として、無関係な大量の死者が要請されるのであるが、しかし、このようなトリックが与えられた状況で考えうる唯一のトリックではない以上、トリックであるとしただけでは問題は少しも解決しない。
完全犯罪が成立していた場合、歌川家はやはり壊滅し、しかし一馬が犯人とされ、その自殺によって、事件も、歌川家も、完全な自己完結性をそなえるにいたっただろう。そのように考えたとき、中井英夫の「虚無への供物」に見られるような、無意味な死者や無意味な崩壊に、人間的な意味と自己完結性を与えたいという、推理小説的な欲望を動機のうちにみることはやや正当化されるかにみえる。しかし、「不連続殺人事件」はまさにこのような営為のうちに無意味な死体を大量発生させてしまう。さらにくり返せば、犯人の欲望はやはり巨勢博士に解釈されるのみで、決して語られてはいない。だから、意味への欲望は、まず第一には犯人というよりも読者に帰属するものなのである。遺産は目的ではあった。しかし動機であるとはいいきれないだろう。動機が目的にすりかわるときに、多くのものが不可視になる。しかし計画的犯罪は、動機を目的にずらすことなしには実行不可能である。
結局、「不連続殺人事件」には動機と事件の意味、さらには解決には寄与しない副次的なできごとの一部(誰が誰をいつどのように疑っていたか、など)に未完結の部分が残っていることは否定できない。そのうち、動機については、犯行計画の目的としては遺産の奪取があきらかであるが、そのような計画を実行した動機は、一方では自閉し、衰亡しつつある歌川家や死から目をそらそうとする当時の現実に対する二律背反的な悪意、他方では、大量死の経験の記憶を、意味のある大量死によって隠蔽したいという推理小説固有の欲望、この矛盾しつつも補いあうものがもっとも考えられるものだといえるのではないだろうか。
だがこのように考えてきたとき、巨勢博士や、海老塚晃二、諸井琴路、内海明や南雲千草、下枝、加代子といった、魅力的な脇役たちが視点からはずれてしまうことも否めない。そこでつぎに、こうした人物たちを主に見立ての観点から考察することにしたい。
3
土居ピカ一はスサノオノミコトとして何度か見立てで言及される。同様にあやかは衣通姫、アマテラスオオミカミといわれ、内海と千草はオカメとヒョットコにみたてられる。これらは直接言及のあるものだが、ほかにも海老塚晃二はそのはじめの流された不具の子という境遇と、釣殿に寝泊まりするという事実から、恵比須、蛭子神に意図的に見立てられているとみて間違いない。また歌川家は酒造家という設定であるが、その位置する三輪池や三輪神社といえば当然、大物主の説話を連想させると共に、「みわ」とは古語で御神酒のことをさす。大物主の説話では神である大蛇が姫君と交わるのだが、歌川家のトーテムがこの蛇体の神であるとすると、それをほろぼすピカ一がスサノオにみたてられているのは、あまりにも整合している。一方ではピカ一は南方の踊りを披露したり、土俗的な側面を見せる。また一馬と加代子の関係は、沖縄の王とノロ、天皇と斎宮などの巫女との関係に類似しており、多門と下枝の関係にも似たようなことが言える。
問題なのはこうした見立てが一体どういう目的でなされているかということである。通例、推理小説の場合、こうした象徴的、あるいは神話的次元でのプレテキストの導入は、推理を導き、あるいはミスリードするためのものとして提示されるのだが、ここではこうした見立てはそうした機能を全く果たしていない。そこで考えられるのが、記紀神話的な構造によってなりたつ戦前的秩序への批評性を導入するためであったという観点である。天皇の人間宣言(昭和二十一年元旦)によって、この時期、戦前的な神話秩序は様相をかえて復活しつつあった。歌川家の滅亡の物語は同時に、戦前的な神話の絶滅を意志した物語でもあったのではないだろうか。
ここでなされる種々の見立ては正確にはばらばらであって、決して全体的な対応図をつくることはない。まずなによりも、神話秩序そのものを破壊するスサノオとアマテラスというのは異様な情景であるといわねばならない。また通例ふくぶくしくイメージされる恵比須をその渡来神としての出自のおぞましさを露呈させてえがきだすことは、そのような異物を排除しそれによってつきまとわれざるを得ない閉ざされた秩序そのもののおぞましさにひとを直面させる。また一方では、一馬と加代子の対は、同じように神話的には近親相姦的な兄妹であるスサノオとアマテラスを想起させる。つまり、このような読みをとる限り、一馬と加代子の対は、ピカ一とあやかの対と対応関係におかれ、しかもあきらかに、そのばあい、一方が天上の神話的対であるということにくらべると、一馬、加代子の方が偽物として現象してしまう。
このことの意味は大きい。というのは、加代子の聖処女としての巫女としての性格、一馬の理知的で優柔不断な性格といったものは、歌川家の内部でのみ、神話的次元で物語となり、苦悩なりをうむのであるが、それは地上的な代理物であるにすぎない。そもそも聖処女とは地母神から「おぞましきもの」をぬきとった形象であって、本来、代用の形象なのである。また一馬の理知も、本来は、ピカ一のような実際的知の、退廃形式でしかない。これはあきらかに自意識や観念のレベルにとどまる、肉体のない聖性、あるいは観念的絶対性を否定する作者の思想が露呈されているところであるように思われる。こうしたことから、つぎのような結論が一方では導きだすことができるように見える。すなわち、この小説は、あらかじめ、作者自身の手で見立てが行われていて、しかもその見立てが決して、体系を作らないように、相互に排除しあうようになっているために、読み手はいかなる神話的な、物語的な読みにも回収することができ内容になっているのだ、ということである。
4 結論
中辻理夫は「攻撃・犯罪・安吾」(「日本文学誌要」平成六年三月)で、この小説を坂口の表現衝動とつらなるものとしての暴力衝動を、メタフィクション的にえがいたものとして評価しているが、こうした観点は、当然、犯人たちの動機の問題とも関わってこざるをえないものとおもわれる。しかしそのように考えたとき、やはり表現衝動の加害性と、作中人物たちが芸術家であることだけをもって、メタフィクション的性格を論じるのではなく、探偵と読者、犯人と作者が重ねあわされるような、「読み/推理」という地点で考えることが必要になってくるものと思われる。
ともあれ、「不連続殺人事件」の根本にある暴力衝動とは、愛とも悪意とも近接するものであり、であると同時に、完全な無意味を隠蔽したいという衝動でもあった。このような無意味な死体、とくに犯人からの意味付けを拒む千草と内海の屍体、それから、犯人とかかわりのない場所で、自滅していく海老塚と諸井看護婦、このふた組の男女が、たしかに犯人の男女の計画にたいする執拗な抵抗をしめすのだが、ではかれらを作者はどのようにあつかっているのだろうか。探偵の限界と作者の限界が同一でないように、少なくとも、作者は、これらの男女になんらかの意味を与えようとしたはずである。
どのように「不連続殺人事件」を読む場合でも、この、三組の男女が織り成す決定的な不協和音をどのように解釈するかがカギとなることは間違いないように見える。とくに、犯人の男女と事件を軸として読むとき、海老塚医師と諸井看護婦の暗躍は、事件と結局本来的にはかかわりがないにもかかわらずそこに波瀾をまきおこし、ノイズをつくるという点で興味深い。実際、諸井看護婦の悪意も悪徳行為も、海老塚の狂気も、ただそこにあるだけのものでしかない。内海と千草に関しては犯人の男女はかれらを利用しようとして失敗するのだが、この二人については利用することもできず、そのうえ、内海殺害をしいられてさえいる。
坂口がこの作品にこめたテーマ的なものは無意味な死をまえにした精神のありようの問題ということのほかに、こうした読みと読むことの加害性の問題があったのではないだろうか。つまり、坂口は意味を一方的に付与されてしまう事物に対し、一方では執拗に違和を表明しつづける無言の対象として、また他方では複数のいつまでも相互排除しつづける読みの可能性を投げ出すこととして、ふた通りの抵抗を小説に書き込むことで、それら受動的な対象を、主体として回復しようとしたのではないだろうか。そのことが、歌川家の滅亡の本質的な意味であったように思われるのである。