坂口安吾「白痴」論 絶対的な白日の表現として
 一九九九年二月一日


 坂口安吾の小説「白痴」の初出は昭和二十一年六月一日「新潮」誌上であった。元旦の昭和天皇ヒロヒトによる人間宣言の詔勅によってあけたこの年は、前年からひきつづく食糧危機が最高潮をむかえ、英米ソを中心とする連合軍の蜜月がついに決裂して長い冷戦が開始された年でもあった。天皇制と人間主義の野合によって形成される象徴天皇制はこうして幕をあけ、二十一年の後半には新憲法をはじめ多くの戦後秩序が整備されてくることを念頭に置けば、この時期は少なくとも政治的な正統性が、意識のレベルでの解体から再編へとむかう或る臨界点をむかえた時点として捉えることが可能だろう。すでに連合軍による検閲は開始されており、渡航禁止とあいまって、列島住民は対外関係において受け身であることをしいられる監禁状態にあった。
 この状況下で、人間主義と平和主義をセットにした戦後民主主義言説が主流となっていくという形勢そのものが、世界史的文脈での主体喪失を隠蔽しながら、想像力のみをむなしく煽りつづけるという、主流言説の偽薬的機能をあらわしているが、このような場で、「白痴」はいったいどのような像をきざむことになったのか。
 事実問題として、戦勝国のようには世界史的な主体ではありえない列島住民の主流派が、自己の去勢状況を、あたかもみづから望んだものであるかのように述べることで隠蔽しつつあるとき、「白痴」が向かい合っているのはまずなによりも、この去勢状況である、とひとまずは指摘することができる。世界はもともと一種の泥沼であり、あらかじめ去勢されているという観点にたつとき、「白痴」の白眉ともいうべき大空襲の描写はアメリカ合衆国軍による主体的な攻撃の表現としてでは決してなく、隠蔽されることで主体性という錯覚を可能にする「おぞましきもの」が露呈してくる瞬間のあざやかな表現として読者の前にたちあらわれてくるだろう。と同時にこれは世界が知覚において散り散りに寸断されていく過程の表現でもあっただろう。またこのように見たときはじめて、空襲経験を「桜の森の満開の下」における桜経験と通ていするものとして見ることができるものと思われる。そしてまたそこから、時代性をこえるものとして、エロス性と主体性が溶解していく場所としての、ヒロシマ・ナガサキの、あらゆる陰影を揮発させる絶対的白日に象徴されるような、或る言語の廃虚の光景が遠望されてくるのではないだろうか。
 以上のような背景と想定を確認したうえで、本文の分析にはいることにしたい。

 坂口安吾の小説世界に特徴的なのはその不毛性である。つまり、子どもや豊穣性が、その小説世界において、重要な役割をはたすことはほとんどない。「風と光と二十の私と」(昭和二十二年一月「文芸」)におけるような「子ども」は、幼さにおいて子どもと呼ばれ扱われているのであって、家族的、系譜的意味での「子ども」、「息子/娘」として扱われているわけではない。もちろん、晩年の「狂人遺書」(昭和三十年一月「中央公論」)などでの「わが子」という形象の重要性は無視できないものではあるが、この子どもも、豊穣性、多産性とは縁遠い形で扱われていることはいなめない。かれは死にゆく秀吉の妄執の対象であり、ほろび行く豊臣家の最後の跡取りであって、むしろ、最後のものというイメージのほうが優勢だろう。しかしとりわけこの不毛さが重要なのは、かれの作品の男女関係が、未婚、既婚を問わず、出産というものを抜きにした、あるいは中心としないかたちで描かれているという点においてである。作品の周辺部においては、妊娠や出産が描かれはするものの、それは性行為の付随的結果としてであって、その目的なり、達成なりとして描かれはしない。
 「白痴」においては、仕立て屋に間借りしている家鴨に似た娘という人物が、唯一妊娠中であり、多産性とかかわりをもつように見える。しかしここでも、娘は「ひどく痩せこけていた」と描かれ、家鴨と滑稽なダブルイメージを与えられることで、母性の一般的理想化とは程遠いといわざるを得ない。
 主人公の伊沢が交渉をもつことになる白痴の女とのかかわりも、徹底的に不毛なものである。白痴の女との交渉によって伊沢がえたものは、なにか積極的な希望なりなにかなりではなく、全面的な白痴状態であるにすぎなかった。むしろ、白痴の女は、伊沢の人間主義的な外皮を剥ぎ取る機能を果たしたといえるだろう。
 このような不毛さはどこからやってくるものなのだろうか。たしかに伊沢のすむ路地は乱脈をきわめた「交雑」の場であり、秩序がゆるみ、混淆が進行する、カオス的な「不連続殺人事件」の世界と通ずる乱倫の場であると評価することはできる。しかし、同時にこの「交雑」空間は不毛さにも浸されており、戦後的な交雑、「堕落論」(昭和二十一年四月「新潮」)的な「堕落」の健康な楽天性と豊穣性とはきっぱりと異質だといわねばならない。要するに、この「白痴」の時空の戦時下という条件を無視して、戦後風俗と同一視することは許されないということなのである。ここにはまだ日常にも濃厚に死の影が落ちている。戦争下でも健康にいきていた猥雑な庶民の生態をえがく、といった評価を不可能にしているモメントもまた、この徹底的な虚無性と不毛さだといえるだろう。
 それでは、こうした猥雑な庶民という神話と断絶した安吾の物語構築の志向するものはいったい何だったといえるのだろうか。確かにこの小説に人間の原像がえがかれているといった評価には一定の根拠が存在する。極限状態で伊沢は白痴の女とむきあうことでさまざまな外皮を剥ぎ取られてしまう。安吾にとってはいうまでもなく、庶民性は人間の原像とは程遠いものとして認識されていた。「小さな善良」は「絶対の孤独」を隠蔽するものでしかない。そのことは同時期の評論から確認することができるが、ではこの「絶対の孤独」の内実こそが全般的な不毛さにつながっていると見るべきなのだろうか。
 ここで、不毛さを問題にすることが重要なのは、伊沢と白痴の女オサヨとの関係の形式を規定することにつながってくるからである。いうまでもなく、この小説の中心的対象がこの男女であるということは動かしようがない。しかし、他方で、前半の路地の描写と、中盤の伊沢の死んだ情熱と映画会社の描写と、空襲以降の「道行き」(浅子逸男)の部分との有機的連関があまり見えにくいということも確かであるように見える。三つの物語の場としての路地と会社と空襲とは互いに緩いつながりしか持たない。例えば、大空襲が始まると路地の住人達は物語から姿を消し、非人称的な匿名の群集にとってかわられてしまう。もちろん、伊沢という主体の内面、意識という場をドラマの実際の場として指定すれば、ある統一的な、たおえば「無表情な白痴を相手にした道化が己の演技の無効であることに索然とした話」(黒田征「白痴」論-坂口安吾の素顔 昭和五十年2月「解釈」)といった物語を描くことはできるのだが、そうした「魂のドラマ」だけがこの小説の実体であろうかという疑問はのこる。語り手は多くの場合、伊沢と立場や視線を重ね合わせてかたるために、あたかも小説内の出来事はすべて、伊沢の意識との関係という観点からのみ意味をあたえられているかのように見える。一個の機能として伊沢という「人物」が、物語を時系列にそって統一するということは、必ずしも物語の焦点がそこにあるということを意味するものではない。この小説で重要なのはむしろ、伊沢の内面史やその展開などではなく、かれの意識を媒体として立ち上がってくる、ひとつの世界と、そこでおきつつある混沌とした力の場であろう。「つぎにどうなるのだろう」という興味とはまったく異質の、寸断された葛藤の状況にたちあう感触がこの小説をささえているものと思われる。いいかえれば、いままで多くの指摘があるように、「白痴」は近代小説的な意味での、問題=解決の構造を持たず、寸断された情景の部分が、暴力的に中心となる男女を介してつなぎあわされた、矢印としての「進歩発展」のない小説として、一見中途半端な印象を与えかねないところがある。事態は転変するが、それは中心となるテーマが弁証法的にその真理をあきらかにしていく過程などではなく、ただ、没主体的に転変していくといった感が強い。空襲も、白痴の女の侵入も、大局からみれば無理もないという意味で蓋然的であるが、しかし、実際には全くの無意味な偶発事である。ひとことでいえばこの小説では出来事は暴力的に侵入してくるので、ひとつの「過程」を形成しはしない。だからこそかろうじて伊沢の自我意識が、かりの統一を、想像的に与える機能をになうのである。この暴力的に寸断された形で侵入してくるという形式は描写される事物についてもいえる。豊穣な庶民的交雑空間とみえた路地は、むしろこの観点から見て、交雑というよりも交通の不可能性として現象する。なぜなら、ここで問題なのはむしろ、決定的な関係が欠けていることだからだ。妾や近親相姦というかたちでくりひろげられる関係のかたちは刹那的で不毛な、いかにもファシズム=映画的な終末意識の中で、決定的に暫定的なものとして滑りながれてうつっていくだけであって、どの関係も、「女」が増殖することによって多数化したというよりは、寸断されることで多数化したというべき印象をあたえる。家鴨に似た娘は妊娠後、痩せこけている事実もこの寸断と無関係ではないだろう。不毛性の印象も、多数化した諸部分を統合すべき全体性としての「大地」の欠如を明示しているのだろう。ここで注意しておくべきなのは、この寸断の様相は安吾にとって、自然の疎外状況として捉えられているのではないということである。そうではなくて、全体性、豊穣性こそが、自然の疎外された様態であると安吾はみなしているのだ。安吾の自然はあらかじめ寸断されているのである。
 このときに、やはりそうした近代小説的観点からの逸脱としてまっ先に手がかりを与えるのが、まさにこの不毛さと、偶発性、そしてなにより多数性である。過剰な多数性というのはつまり、この小説が目的論的な一定方向をもたず、過剰な方向をもってしまっているということをしめす。伊沢と白痴の女の「地獄巡り」には作品構造から予想されるような必然的帰結というものが備わっているだろうか。かれらの空襲下の逃走と全くおなじように、どちらへ、どこをさしていっても同じ結果になるような、無数の開かれた出口がまっているにすぎないのではないか。通常の古典近代的小説のようにある結末をあたかも必然的結果であったかのように読者に遡って偽装することでなりたつ結末(この構造の特徴的な、そしてそれゆえにこそまた、そこからの逸脱ですらある例が探偵小説である)とはこれはまったく位相を異にする。それゆえにこそ、作者は小説を「休止」「停車場」という結節点的な過渡的「中間点」のイメージで終わらせざるを得なかった。決定的結末が、全体性とともに不在であるなら、終わる一瞬前の、可能状態の休止を、終わりの代理物として提示せざるをえない。
 それでは、こうした寸断された世界イメージがこの小説の主眼なのだろうか。そういってしまうことには躊躇いが残る。しかし、かといって伊沢という個人の意識の物語をふたたび中心にもってくることにはさらに強い違和感がともなう。たしかに伊沢という個性は、本質的には単に受け身の狂言回し的機能しか果たしていないにしても、映画産業とのかかわりでかかれるそのロマン主義的な造形は、かなりの筆を費やされており、なんらかの意味で視点人物であるというだけのもの以上の重要性は持っているに違いない。伊沢の言葉そのものには、やはり陳腐というしかないのであって、やはりかなり相対化された造形であると思われるのだが、かれが重要なのは、出来事がかれの意識におこす波瀾においてではなくて、おそらく、他者、とりわけ白痴の女との関係において逆上してかれが吐く言葉と、かれの現実の行動との不一致においてである。伊沢の多く地の文と同化した形で語られる感動の水位のたかい発言には、それ自身の意味と同時に、明らかに伊沢の身体的本心を隠蔽する機能をも果たしている。伊沢という人物が重要、というより興味深いのはその、本能的とまでいえる「いいわけがましさ」、「大仰さ」なのであって、かれはなんらかの形でそこに意味や積極的意義をあたえて、出来事を聖別せずにはいられない。伊沢のこうした人物造形の意義というものは、たしかに、道化としての役割も大きいのだが、やはり白痴の女との対において考えるべきだろう。客観的に見た場合、伊沢と白痴の女との関係は、どちらが主人でどちらが奴隷であるのか容易には結論しがたいたぐいのものだ。伊沢はものいわぬ女に奉仕しているとみても矛盾は出ない。
 この関係は、安吾の作品史にそって類例を考えてみると、ただちに、その淵源を「風博士」(昭和六年六月「青い馬」)の風博士と蛸博士、それに風博士の白痴的と称しても過言ではないような新妻に見ることになるだろう。通説にしたがって今仮にこの分身的対を、精神と肉体の対に比定してみると、いまや、蛸博士と花嫁は一身に統合され、語り手「僕」と風博士も、語り手と主人公という微妙な異和をふくみつつも統合された形態となって、読者の前に姿をあらわす。伊沢という造形は、その自意識の軽薄さにもかかわらず、いやだからこそ、その行動の、意識による後付けの意味付けによっても糊塗しえない突飛で衝動的な無意味さにおいて、「風博士」の後継者としての意義を白痴の女とともに担っているのである。ではその意義とは何だろうか。
 伊沢は昭和二十年時点で二十七であるから、昭和初期のプロレタリア文学全盛と風俗的モダニズムを十代で通過し、左傾する間もなく社会に出たときにはもう決定的に軍国化が進行していた世代に当たる。「芸術の独創」といった伊沢の大正モダニズム的な発言はそれだから、決して身についたものとは言えない。現実から遊離したかれの信念は多分にうえの世代からひきつがれたものだ。おくれてきた「芸術派」としてのかれの精神性には、だから、裏返しの、過剰化された、予め不在の「純粋芸術性」への憧憬があるといっていいだろう。その彼の造形がここで作品構造のなかで意義をもつのは、かれの内面性においてではなくて、かれの観念的無鉄砲さが、すでに寸断されている世界に、一本の「逃走の線」「廃虚を縫う道」をひくからである。伊沢は事態を過剰にややこしくする。考え過ぎるために、仕立て屋の夫妻のように、着実で理性的な対処をとることができない。その意味で仕立て屋と伊沢の対比は重要である。仕立て屋の理性とくらべると、伊沢の理性は、どこか狂気を孕んだ過剰な理性である。かれの理性が均衡を失しているのは、単純に、基礎を欠いているからだ。おのおのの判断としては合理的な判断が、全体として見ると不合理なものになるのは、諸判断を一貫するものがないからである。伊沢はこの意味で、たしかに道化であるし、ファルス論の問題意識とこの作品は遠いところにあるわけではない。しかし、伊沢が逃走の線をひくというとき、この道化としての造形は、ファルスや滑稽化、相対化という側面において重要なのではない。そうではなくて、あくまでも、その観念的無鉄砲さが、かれの過剰で直線的な行動をみちびくという、構造的機能の点において重要なのである。
 この小説は大局的に見たとき、二つの物語行為からなる。白痴の女の隠匿と、空襲下の逃走である。どちらも、伊沢にとって引き受けられた主体的行為であるが、実際には強いられた、偶発的な出来事でしかない。伊沢はこの一次の出来事(女の来訪、空襲)に対して、過剰な意味を付与することで、二次の出来事(同棲、逃走、とりわけ群集からの決別)をうみだす。このとき、重要なのは、伊沢があたえる過剰な意味はあくまでも、二次の出来事を誘発するだけであって、かれがあたえた意味やその意味から予想される、たとえば「可愛い女の誕生」といった結果は決して実際にはおきないということである。にも関わらず、かれのさきばしりがなければ、この小説の物語行為そのものがおきないということは明白である。伊沢の幻想はしたがって疑似餌として作用する。
 では、かれのこのとき体験される幻滅が主題なのだろうか。これもまた相当に疑わしい仮定である。なぜなら、このように仮定して読むとき、この小説は曖昧でありすぎるからだ。伊沢は十分に幻滅する間もなく、移り気につぎのことに意識を移らせてしまう。かれの意識はたしかに空襲経験によって、あるいは白痴の女との生活が結局汚辱でしかなかったという体験によって、幻滅というか、去勢されるのであるが、しかし、この幻滅なり去勢なりもまた相当にそこの浅いものだといわねばならない。正確にいえば、ここでおきているのは、幻滅というよりも、はりあいが抜け、その気がなくなる、心が移るといったことなのであって、幻滅においておきるような激しい精神のドラマではさらさらなく、逆説的な、反発といった形の固執もないのである。このような曖昧で意味のない出来事が、この小説の焦点にあると考えるのはやはり無理があるだろう。平野謙の「傑作になりそこねた力作」(小説月評-坂口安吾「白痴」「外套と青空」、昭和二十一年10月「人間」)という評価も、こうした遠近法から生じてくる錯覚だろうと思われる。
 問題なのはそれだからあくまでも伊沢と白痴の女の「地獄巡り」の過程がきりひらく、線なのであって、その結果なり、意識への反映なりではない。

 白痴の女オサヨは流出する不定型の実体として理解することができる。

 このように潜在的にあったとしか説明のしようのない逃亡願望の体現者として、白痴の女はうってつけであった。オサヨは、気違いの男が四国を行脚したときどこかで見初めてつれてきた。まさにどこの馬の骨とも知れない女であり、謂わば非定住者である。

 と、浅子逸男は「坂口安吾私論-虚空に舞う花-」(一九八五年五月)で述べ、「逃げたい心」などの逃亡願望にむすびつけている。彼女は、「気違い」によってかれの家に幽閉され、ついでそこから遊離して、伊沢にふたたび捉えられる。逃げさる女アルベルチーヌのように、オサヨの本性は浮遊し流出することにあるといえるだろう。そのオサヨを伊沢は外聞をおそれて絶対的に封印しようとする。このような文脈でよんでくると、東京大空襲は、オサヨという女性的実体の、あふれだす激烈な反作用であるように見えてくる。「気違い」の女房であったときにくらべ、伊沢に幽閉される彼女には、より強大な封印する圧力がかかっていた。もちろん、東京大空襲をそのような形で神話化することは、物語の専制に身を任せ、伊沢と白痴の女にかかわりのない死者達を、すくなくとも意味の上でテキストから閉め出すことになり、その代償はおおきなものとなるだろう。だからここで指摘しておくべきなのは、いづれやってこずにはいなかったオサヨの溢れだし、流出が、大空襲という契機と、偶然に一致したということの重大さである。あくまでも偶然でありながら、この一致は、女と伊沢の関係の転変におおきな影響をあたえることになる。つまり、事態に一気に、強引に神話的次元が付け加わってしまうということである。
 しかしそれではなぜいままでこのような神話的観点がほとんどなされてこなかったのだろうか。それは主に、白痴の女の恐怖の「顔」が強調されることで、空襲の絶対的な他者性と女の卑小さが印象付けられているからである。まさにこの点に、「白痴」を「桜の森の満開の下」(昭和二十二年六月「肉体」)と対をなす小説として読むときの困難が存在する。白痴の女は桜の森の女のように魔的な加害者としてあらわれているのではなく、徹底的な受動性によって刻印付けられた被害者としてあらわれているかのように見える。しかし、この見かけの差異はじつはそれほど重大なものではない。考えてみれば、桜の森の女も当初は山賊の刀に夫を殺された受け身の被害者であった。ここで、加害/被害の関係、能動/受動の関係は再考をせまるものとして、転倒したかたちであらわれてきている。
 白痴の女オサヨと桜の森の女の存在形式はみかけほど懸け離れてはいない。彼女達は実質的には男に幽閉され、依存して、受動的に、現実と遊離した「肉体」あるいは「花」として存在しているに過ぎないが、同時に、あらわれとしてはあたかも男のほうが女に従属しているかのような見かけを呈す。もちろんこうした従属は一方的な支配というよりは相互依存的な、鏡像的な状況の表現にすぎない。これは安吾の妾礼讃とも関連する、非家庭的な、多産性との比較では不毛だがより純粋な、二人称的男女関係である。
 「白痴」の女の虫のごとき自意識を欠いた身体的、絶対的恐怖の表現は、伊沢にとって、ある「おぞましきもの」としてあらわれる。まさにこれは無防備に曝された問いかけとしてのリアルな「顔」である。このおぞましさは、桜の森における「首遊び」の表現にも比せられるものだろう。彼女が空襲に対して激烈な恐怖をあらわすということは、必ずしも、彼女が、空襲と同質の本質を所有しているということを否定するものではない。やはりここでも、「桜の森の満開の下」の女と桜の森そのものとの関係が類比的なものとしてあげられるだろう。ただ、ここでも事態が錯綜してくるのは、すでに述べたように、空襲そのものを神話化することは安吾は慎重に避けているということである。空襲が起きることはあくまでも蓋然性の問題であり、一旦、空襲がおきればそれが物語の中で神話的な役割を果たすということとは、また別の問題である。従って、白痴の女が、空襲とパラレルな存在性質をもって神話的なあらわれをとるのは、あくまでも、伊沢との関係においてであるということは、銘記しておくべきだろう。空襲そのものが神話的なわけではまったくない。
 奥山文幸(坂口安吾「白痴」論-聴覚空間のアレゴリー劇、一九九一年五月「近代文学研究」)が指摘するように、「白痴」の物語には、三月十日と四月十五日の二つの大空襲が刻まれているため、地久節(皇后誕生日)三月六日前後の「母の日週間」という時間性が象徴的に埋め込まれている、ということを考えることも不可能ではない。白痴の女と気違いの男が「相当教養深遠な好一対」としてみられ、気違いが「度の強い近眼鏡をかけ」と描写され、訓示をたれたりするということを考えると、この夫婦が、皇室夫婦に象徴的に擬せられていることは動かしがたいことのように思われてくる。そのように考えたとき、「気違い」の家が侵入しがたいものとして、路地のどん詰まりに設定されていることも、「禁裏」のイメージと重なりあって理解可能なものとなる。
 しかし一方で、皇室への参照軸によって損なわれる普遍性と得られる政治性は、すぐさま、そうした神話軸そのものが寸断され、崩壊することで、より高次の統一を獲得しているかのようにみえる。というのは、結局、王のイメージは、全体性と、統合する自我のイメージと不可分なものとして存在するからであり、この「白痴」という小説は、こうした主体性の寸断の物語としてあるからである。神話性そのものは、象徴性の、特殊な形式として存在している。神話性とは、現実を、超越的秩序の従属的な反映として理解する形式であり、その超越的秩序の「全体性」の焦点として、王のイメージが賎民のイメージとかさねあわされたかたちで存在する。円環の二つの極がこうして閉じることで秩序は自足的に完成するのだが、象徴性一般はかならずしもこういうものではない。現実が超越的実在と二重写しにされるにしても、超越性全体と現実全体が、対応する必要はないのであって、混沌とし、寸断された超越性と、散乱した形で現実の諸部分が、一対一ではなくばらばらに対応するということも可能なのである。つまり「白痴」は、政治的寓意性をはらみつつも、そのさまざまな見立ては、必ずしも、一貫した体系をなしているわけではなく、あえていえば、局在しているのである。
 こうした観点にたってふたたび、地久節と天皇夫婦への寓意というものの小説に対する意義を考えてみると、ともかく問題になるのはやはりオサヨの位置のゆらぎというべきものだろう。彼女は象徴的意味においても、現実の位置においても、きわめておちつきのない状態にある。第一、この対応の見かけは一旦、四月の大空襲がはじまるとぬぐい去ったように消えてしまい、「気違い」自体がオサヨの移動とともに物語から完全に姿を消してしまうのである。この一点からから見ても、ある時点で正しかった読み、象徴的対応がいつまでも正しいとは限らないということは確実なように思われる。ともあれ、路地の場面で仮設されるこの象徴性は、伊沢の映画会社での「二百円の悪霊」の観念との明確な対応を示しているように思われる。伊沢の現実は、列島内部の日常現実によって強力に規定されており、列島を支配する天皇制神話と、プロパガンダ映画の作成を通じて、強力にコミットメントしている。かれと白痴の女との関係は、密通として、伊沢にとっては、もっとも強烈な侵犯を形成する。白痴の女が天皇制的な神話性によって、聖別されているからこそ、この内通は、天皇から女を奪うことに象徴的に類比されるのであり、そうであればこそ、かれの倦怠と絶望にみちた現実を内破させるだけのポテンシャルをはらみうるのである。しかし、伊沢が、無意識にもせよ、この夫婦を「王」として措定したという事実は、小説の作品としての次元にも干渉せずにはおかない。それはしかしきわめて逆説的で繊細な天皇制への批評である。つまり、天皇制的な、「王」の観念とは、密通によってのみ要請され、密通へのアンチテーゼとしてのみ幻想的に存続しうるのだということである。天皇とはつねに密通されつつ気がつかない不能の善良なコキュとして想定される。この認識はとうぜん、前述の、没主体性、不能性とまっすぐに連絡する。
 伊沢はこのような認識に立っているわけではむろんなく、むしろこの神話を、侵犯を聖化することで強化さえしてしまうのだが、しかし、かれが「二百円の悪霊」に象徴的次元で抵抗しようとするとき、主題として密通が必然的に、オサヨをめぐってあらわれるということそのものは、かれの日常現実においてのリアルを暴露しているといっていいだろうし、かれの観念的過剰性のここでの、批評的側面からの意義とは、すでにあらかじめ天皇制に観念的に内包されている密通を実際に行為してしまうということだろう。しかしまたこの小説での伊沢の機能がそうであるように、かれの密通は、聖なる侵犯として「新鮮な」別天地をうみだすこともなく、現実を変革するものの、それは決して伊沢が予想するような変革ではなくつねに、単なる去勢、冷却として結果するにすぎない。これは「二百円の悪霊」とはたしかに観念の神話的な掟でもあるが、それ以上に単なる唯物論的な、それゆえに他者的な規定だからだ。だから、小説としてのレベルでは、むしろ、より重要なのは、伊沢が白痴の女オサヨの実体を、とらえかねて、てはじめにかれのはまりこんでいる天皇制的日常性のもつ神話で、処理しようとしているということだろう。

 ここで漸く問題が回帰してくるのは、伊沢と白痴の女のえがく軌跡が、なぜ物語にとって主題的に重要なのかということである。この男女の対が重要なのは、「桜の森の満開の下」や「風博士」との類比で理解されるような、精神と肉体の二元論にまつわる問題意識、とくに「主体性」の幻想が成立するために必要な、相補的な男女の側面が描かれているからだが、それ以上に、全体的な視点から重要なのは、この対が、齟齬しあうことによって、はじめて、物語を行う、ということである。つまり、かれらは、この組み合わせで始めて、逃走を開始するのであって、しかもそのときどちらかが主体であるということはない、ただ相互作用が結果的に逃走としてあらわれるという状況になっているのである。
 かれらが、空襲という時点で、天地の崩壊のなかで、無目的に彷徨するとき、読者の前にあらわれてくるのは、ほかでもなく、切り裂かれた時空のなかで、突然、露呈される様々な部分である。とくに、特徴的なのが、三月の空襲の跡地でみつかる無数の女の寸断された部分である。ここで、女たちは女とだけ呼ばれ、あたかも、白痴の女の身体が寸断され増殖したかのように、多数性と同一性を付与されている。
 過剰に、寸断された部分を一定以上の強度で、おしながすとき、それらの諸部分の、隙間に、背景の「白」が、無言の強烈な差異と力のせめぐ空間としてのぞけてくる。それは意味がそこからたちあがってくる基質とでもいうべき、背景の白さであるが、「白痴」の意識のホワイト・アウトでもあり、夜の白む白さ、境界の裂け目からのぞく白さでもある。白さという色彩はあらゆる色彩をなかにひそめる天然白色光でもあり、白熱する発光体のもつ色彩でもある。この白さが、小説「白痴」のなかに、「気違い」の発心の白衣などのように特徴的にあらわれるということも示唆的であるが、その象徴的意味が、部分を羅列することで構造を破壊する「白痴」の男女の道行きと、対応しているということもまた、決して、偶然ではないと思われる。
 端的に、解釈すれば、伊沢は、白痴の女オサヨと対になることで、単独で逃げている場合とは全くちがう反応を空襲に対して示している。それは、単純にいえば、気分的に盛り上がって、逃げることに積極的な意味をあたえているということだろう。この視点と行為だけが、空襲下の廃虚空間に、「現実」の基礎にある、象徴的には白さとして、そして意識のありようとしては「白痴」として表現されるような、リアリティーを露呈させることができたのだったといえる。なぜなら、過剰に観念的な視点だけが、生命の危機における知覚の寸断にもっとも敏感に反応し、その影響を受けるからである。仕立て屋のような主体は、戦争状況における知覚の寸断でさえも、現実的な再構成を無意識のうちにほどこし、編集してうけいれやすい連続性と全体性をつくりあげてしまうだろう。また、過剰に饒舌でありながら、決して合理的とは言えない伊沢のような行為者だけが、外部の混乱だけではなく、内部でも生じる、意志の去勢をあらわにするからである。伊沢のように落差のおおきな失敗を、主観的には合理的で意志的な行為において経験してはじめて、読者は、物語世界が内的にも外的にも、主体性が壊れているのだということを実感する。
 このとき、読者が主題として経験し、とわれるのは、こうした寸断化によっても、まだ残存する、背景の白さ、廃虚の風景はまた、普遍的なものとして、戦争のあとにもひきつづく現実なのではないかという問いなのではないだろうか。