「不連続殺人事件」(「日本小説」1947/9-1948/8。全八回)

 1 複数の物語

 アッシャー家のように崩壊した歌川家の当主、歌川一馬には、どこか「暗い青春」(1947/6/1 「潮流」)などに見える坂口の実在の友人、長島萃の影が落ちているように見える。ポーの小説もまた兄と妹の背徳的ば色彩をもった関係を主題の一つにしていた。また坂口が長島を小説化するときにも必ずその妹が、好色の血の主題を伴って描かれている。「暗い青春」について付け加えるなら、「陽気なセムシ」の形象がここですでに「脇田君」としてあらわれていた。

 二番目は脇田君。彼は三田の学生であつた。セムシであつた。こんなヒネクレたところのない不具者は珍しい。私達が劇団をつくろうとした時、彼は笑ひながら、俺にできるのはノートルダムだけだ、と言つた。彼は明るく爽やかであつた。
                               (「暗い青春」)

 「暗い青春」で、青春期の友人たち(主にアテネ・フランセの友人、「言葉」同人たち)(注1)のうち、三人がそのころ死んだと彼は書く。この「根本君」「脇田君」そして長島の三人のうち、少なくとも「脇田君」と長島の影が「不連続殺人事件」には落ちている。この連載のすこしまえ、この坂口にまつわる死者の列にくわえていいだろう牧野信一についてかれは小説を書く。「オモチャ箱」(1947/7/1 「光」)である。このような文脈を横目に考えると、連続殺人事件の真犯人は坂口そのひとなのかもしれない。小説の「アッシャー家」的側面を代表する加代子と一馬の口づけの挿話に関して言えば、これは作家と矢田津世子との小説的な名高い「最後の接吻」の物語と似すぎている。

 僕は神様を犯せない。いや、然し、犯さずにいられそうもない気がする。加代子は僕の手を握りしめた。僕たちは接吻した。冷めたい悲しい接吻だったが、二人はまるで水のようにただ一つのものであったと言う事ができる。崇厳そのものであった。悲痛そのものだったよ。加代子は言うのだ。結婚しよう。神様は必ず許してくれる。そして死にましょう、とね。僕は然し死ねない。僕はそんなに単純じゃない。僕は悪党なんだ。
                           (「不連続殺人事件」)

 それでは、一馬が坂口で加代子が津世子でそれで解釈がつくかというとそんなことはありえないのはいうまでもない。モデルの問題はここでは複雑に奇妙なからみあいかたをしている。モデルが完全に溶解してしまってただの部分的素材になりきっているというわけでもない。モデルはかなりの人物について確かに指摘できるのだが、ほかの作品のように一対一に対応させて事足れりとすることができない。観点によってモデルが同一の人物について変わるのである。しかしそれは特徴が融合しているというよりは、解け合わないままに多面体のようにして混在しているといった方がいい。
 加代子は別の文脈では、坂口の松之山の早世した姪に比定されうる。この文脈とは「堕落論」(1946/7 「新潮」)での「処女を刺殺」という観点である。

 私自身も、数年前に私ときわめて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。(中略)人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ。
                              (「堕落論」)

 「聖処女」、加代子は少なくとも一馬にとって、ここで語られているような観念的神話化、象徴による生の無意味の隠蔽、統御といった機能を果たしていたことは間違いがない。また、歌川家のモデルとなったのは松之山の、この姪の家であった。ここでも作家は自己の形成期にめぐりあった死者について思いを馳せている。この「堕落論」の文脈は、最後で明らかになる真犯人たちの動機の問題に接続してくるだろう。
 直接の犯罪目的は遺産の奪取であった。しかし、主要な人物のなかで、戦争下に歌川家に疎開していなかったことが明らかな犯人の二人、土居光一とあやかは、坂口も遭遇した大空襲を経験した公算が高い。その時、かれらに明らかになったのは、秩序の深層にある「アモラル」な「むごたらしさ」(「文学のふるさと」 1941/8 「現代文学」)だったのではないか。だとすれば、犯罪の動機には、この「堕落論」的な美しいままに「処女を刺殺」する欲望、意味への渇望があったのではないかと思われてくる。推理小説にかくされたこの死骸としての世界と、その人格的意味への渇望という問題意識は、その後、中井英夫の「虚無への供物」(1964/2)で決定的に露わにされ、受け継がれることとなるだろう。
 こうした観点から考え、「白痴」(1946/6 「新潮」)「桜の森の満開の下」(1947/6 「肉体」)という系列で考えるならば、今度は逆に、土居光一をこそ坂口に比定したくなる欲望は否定しがたい。いったい、この混乱は何なのだろうか。
 このように見てくると、この小説は不思議な構造をしているのだという感受が兆してきて離れようとしない。つまり、土居光一、歌川一馬、望月王仁、それにあえていえば語り手の矢代寸兵といった主軸をなす人々が悉く、機能においても、モデルとの関係においても、坂口の散乱した分身であるかのような趣を呈しているということである。長島との関係も坂口が描く限りでは多分に分身同士のそれゆえの葛藤という趣をつよく匂わせる。
 作家が登場人物に自己を投影しがちであるということは言うまでもなく前提にしたうえでも、なおこの事実が奇異なものとして映ると言うことには、恐らく理由がないわけではない。単に登場人物たちを書き分けることができていない、きちんと登場人物を相対化できていない、ということではないと考えてよいように思われるのは、これらの散乱した坂口の分身たちが、それぞればらばらに描かれて単なる混乱を作り出しているのではなく、それぞれに軸となって自分のまわりに固有の人間関係の「相」あるいは「系」を作りだし、一つの世界に対する、それぞれの複数の「観点」となりえているように見えるからである。語り手はたしかに矢代ひとりであるが、それぞれに重要な、複数の擬似的な視点人物が存在して、あたかも複声的な物語進行を形成しているかのようなのだ。そうしてこれらの分身たちの失われた統一性の場はいうまでもなく作者たる坂口なのだが、作家こそは作品のなかにいることのできないものなのであるから、彼らは永久運動のように齟齬し続けざるをえない。別の言い方をすれば、これは複数のずれた中心をもつということだ。
 物語の終末、分身たちの間に巨勢博士の推理によって、相互理解に類似したものがうまれかけ、統合が予感されるのだが、この努力はピカ一の死によって破綻してしまったように見える。そう考えたときには、ピカ一と探偵のあいだには、共通の目的に対する、逆のベクトルをもった解決をめざす意志が配分されているとみないしていいのではないか。ピカ一は絶滅による葛藤の解決を意志し、探偵はその真相の暴露によって認識のレベルでの相互理解を通じた和解をめざす。巨勢博士はその意味で、いわば多重人格のなかで自我が治癒をめざすときのような、統合への意志を代表しているとみなしていい。
 望月王仁と歌川一馬のあいだの構造的な対応というのは、二人の女性からなるもののことである。宇津木秋子と歌川あやか、歌川珠緒と加代子、この二つの対が、王仁と一馬を中心として対応をなす、つまり、こういうことである。
 王仁は公に珠緒と交わりを結び、私に宇津木秋子と情を通じる。一方で一馬はあやかを妻とし、加代子と密かに情をかわす。秋子とあやかは妻として交換可能であり、珠緒と加代子は妹として交換可能である。むしろ分身はここでは対等ではなく、王仁が、一馬のパロディを身をもって演じているかのような様相を呈する。王仁は性格というよりも位置において、一馬のコピーとなる。このように考えて初めて、珠緒と秋子の不和を正当に理解することができる。彼女らの不和は一見、王仁をはさんだ嫉妬にほかならない単純なもののように見えるが、この不和は実は嫉妬に先立っている。不和はすでに、秋子が一馬の妻だった時に存在していたのである。
 この対応はまた最初の被害者と最後の被害者という形でも再演される。連続殺人では、あたかも最初の死者の死穢を、最後の死者の死が生け贄としてあがなうかのような神話性がどうしても伴う。しかしもちろん、ここでも事態は複雑なのであって、最後の死者とはいうまでもなく、土居光一であって、歌川一馬ではない。だが、望月王仁と交換可能な死骸は、神話的にはやはり一馬だろう。なぜなら、一馬こそが、当初、この連続殺人事件の犯人としての役割を負わせられることになっていたからである。それだから、さらに、最初の死骸を遡行して見いださなくてはならない。その死者とはきわめて意外な存在である。歌川珠緒の堕胎した胎児だ。この胎児は、語られる順序に従えば、いちばんはじめに出てくる死者であるとともに、非常に物語の中で、表層にはまったく浮上してこないものの、重要な意義を有している。この堕胎させられた胎児の父親はわかっていない。この、死は「事件」と全く関係のない、余分な死であった。
 歌川家の滅亡という事態にとって、それは坂口の小説世界一般にもいえることなのだが、特徴的なのはこの過剰なまでの不毛さである。何者も新しく生まれることはない。男女の関係は産出ではなく、蕩尽において、理念化される。第一、これだけの夫妻、恋人が現れていながら、一人として幼い子供、あるいは誕生といった出来事が、周辺的な事態としてでさえ、記述されはしない。その不毛さが、まず冒頭から小説には刻まれているのだ、ということを確認しておこう。
 その上で、この胎児の死は、土居光一とあやかの死に小説の中でつりあう、あるいは構造的に対応するものなのかどうかを調べてみることにしたい。死せる胎児は、まず第一に、絶対的な他者性を体現した存在だといっていいだろう。この性別さえ定かではない存在にとって、「不連続殺人事件」の動機が単なる遺産であれ、何か実存的な虚無感であれ、知ったことではないだろう。その意味で、この作品内で、なるほど、完全な意味で犯人の二人を突き放しうるのは、この胎児だけであるようにも見える。
 一方で、最初の死者というトピックに戻るならば、推理小説の常道にのっとって想定されるのはお梶さまであって、そのかぎりでは、まさに過去の因縁の再燃という定式どおりである。従って、ここでも「別の」二つの小説が、この物語の中にははらまれているのだといわねばならない。一方は、神山東洋、海老塚晃二、お梶さま、諸井琴路、南雲夫婦、歌川多門といった、年かさの人々との関係で構成される、まさに物語的な推理小説、そこでは恐らく犯人は海老塚であり、動機は、怨恨と遺産、海老塚の正体が明らかになることでいちおうの結末へと至る。横溝正史に代表されるようなこうした土俗的な因縁が一方の柱をなす推理小説は、「不連続殺人事件」のなかで、単に犯人ピカ一の仕掛けた虚構として機能しているのではない。そうではなく、「不連続殺人事件」とは別に、十全な遂行は妨げられながらも、物語の横をすり抜けていくように、見え隠れに、現に、別の物語として起きているのである。こう考えてくると、海老塚晃二とは、起きるはずだった、「別の」推理小説の主人公だった、ということが分かってくる。ここで重要なのは、「別の」物語だからといって、登場人物が重なっていていけないということはない、ということである。つまりこの差異はいわばライプニッツ的な意味で、「観点」の差異なのである。通例、推理小説で行われる間違った推理とは別の可能世界についての言及なのであって、事実とは異なる。しかし、「不連続殺人事件」では、この誤った推理(海老塚を犯人に比定する)は、現実の別の位相、別の人間関係の系列を示しているにすぎない。
 この海老塚の物語線は、恐ろしく神話的な構造をなしている。そもそも海老塚晃二とは、多門の最初の子の、不具の息子であり、放逐され、回帰してきた存在である。かれが釣殿に好んでとまるということからも、海老塚という名からも、記紀神話にいう蛭子神、エビスの役割を負っていることは明らかだろう。このような「観点」からは、当然、三輪山、古語で酒を意味する「みわ」という言葉(岩波古語辞典補訂版)、三輪山の神と蛇体の神大物主の説話、そこから派生するピカ一、あやかへのそれぞれ、スサノオ、アマテラスへの見立て、また内海と千草へのオカメとヒョットコ(民俗学的にはウズメとサルタヒコに遡るものだろう。ただ、珠緒の宴席での脱衣はウズメを思わせないではない)という見立てなどが、焦点にならざるをえない。つまり、これらの記紀神話的な見立てでは、総じて、「歌川家」という「家」、及びこの家を中心とする村落共同体を主題としている。
 だが当然ながら、ピカ一、あやかの織りなす物語線からいえば、こうした共同体の論理、観点は何者でもない。そこには別の観点が存在し、別の「小説」さえ存在する。これははっきりと「白痴」と「桜の森の満開の下」を受けるものだ。彼らの観点はだから厳密には探偵小説などではない。犯罪者にとっては犯罪は「犯罪」ではなくただのやむにやまれぬ行為であるにすぎない。もちろん、あらゆる推理小説の犯人の「観点」もそのように構成されるのだが、「不連続殺人事件」の異様なところは、それが語りの形式をも左右しており、単に読者のがわにゆだねられた、物語の「言及対象」のレベルでの余白とはもはやいえなくなっていると言うことなのである。
 従って、ピカ一と山賊、あやかと女を重ね合わせる視点がどうしても必要であるし、そうして初めて、八月九日という決定的な歴史の亀裂としての日付が書き込まれ、光一はピカの名を負わなくてはならないのかということが理解される。つまり、桜の森とは、ある点ではナガサキであったのだし、そこでの「過剰露光」こそが、意味の揮発していく絶対性として、「不連続殺人事件」の無意味な大量死と類比されるのである。「イノチガケ」(1940/7・9 「文学界」)のような大量死の物語と、そこには大きな共通性があるだろう。長崎は再び、過剰に無意味な殉教の血となったとかれは見なしたのではないか。
 だが他方で歌川一馬はむしろ物語をポー風のゴシック悲劇にする。それは、たしかにポーがいつもそうであるように、ファルスの一歩手前にある。一馬とのかかわりでは、あやかでさえ、そのように振る舞う。あたかも、古い淀んだ家の、不吉な崩壊の予感といったおどろおどろしいものが、加代子との背徳を伴奏としてつねにかれの周りには取り巻いているかのようだ。
 くりかえしておけば、一馬のいっけん観念的で、虚偽の表層として、真相の暴露ののちに退けられかねないこの「観点」も単なるかれの恣意的な解釈や幻想などであるわけではない。このような物語系列も、たしかにこの小説では起きている。実際に、背徳と歌川家の崩壊は起きたのであるし、本来、一馬の抱いていたような種類の不吉な予感といったものは、真相が分かったところで軽減されるものでもない。「アッシャー家の崩壊」でも、怪奇な内容にも関わらず、実は描写は一貫して超現実的なものなど描写してはいなかった。ただ、因果関係の感受が異様だっただけである。
 だがそれでは、望月王仁とは何者だったのだろうか。彼に焦点をおいたとき、「不連続殺人事件」はまったく索漠とした物語と化す。それは珠緒の堕胎した胎児の観点でもある。これは確かに一方では坂口の風俗的側面でもあって、船橋聖一や丹羽文雄と並んで肉体派の作家として知られた自己の唯一、直接的な対象化であるともいえるだろう。ここでは宇津木秋子や歌川珠緒は、肉体を通して肯定される。だが、この「観点」は珠緒の胎児をはじめとして、次々に抹消されていく。肉体にとって死そのものには、恐怖以外にはなんら意味づけはできないものだ。こうしたことを、背景においてみると、王仁と一馬の対応は綺麗に肉体の恣意性と観念の絶対性として系列づけられる。と、同時に、両者の分身性は、心身の不可分さから由来するものでもあるだろう。
 このようにこの小説は、複数の軸となる人物を巡って、そこから異なる眺望を展開するようになっている。繰り返しておけば、ここで間違ってはならないのは、分類が問題なのではなく、あくまでも、ひとつの時間的継起を追いながら、そして、公的には事件の司法的意味へのゲーム主義的興味をたてながら、そこにたがいに相容れることなく、ほとんど関係も持たない、複数の物語が流れているということなのである。
 ある程度の長編では、たしかに複数のエピソードが並行処理され、時間が散乱し前後することは珍しいことではない。焦点人物にしぼり、集中的にあるエピソードの起承転結を追い続けることのほうが珍しいだろう。しかし、ここで特異なのはそうした長編的構成法なのではなく、物語が多重化していることなのである。単に複雑な構成の問題であるならば、複数のエピソードは、相互に関係し、エピソード同士は、同列に並べられて、全体で意味を持つだろう。しかし「不連続殺人事件」の複数の系列は、収斂しないどころか、そもそも、長編の構成上の諸エピソードのように、複数の系列を同時に俯瞰することなどできないのである。あくまでも、これは、あいいれない観点からの眺望、見えなのだ。
 さて、それでは、こうした混沌を公的に「真相への興味」として、仮に統括する語り手と巨勢博士の観点からは、この小説はどのような様相をあらわにしてくるだろうか。


 2 探偵における「読むこと」

 この「不連続殺人事件」という小説は、推理小説でもあり、作者本人の推理小説に対するゲーム主義的な姿勢ということもあって、おおむね余技としてその限界において捉えられてきた。しかし、こうした観点の多くは、磯貝英夫の発言に見られるように、多分に作中での坂口による記述に引かれてできあがったものであって、そのまま受け入れることはできない。

 この作品の主役巨勢博士について、作者が「彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の進路へさまようことがないように、組み立てられているらしい。そういうところが天才なのである。」と説明していることは、その意味からも非常に興味ぶかい。ここに、推理小説の限界についての坂口の明瞭な自意識があり、あわせて、文学者とは、文学オンチ巨勢とはちがって、その「無限の迷路」を行くものだとの、はっきりした自負もしめされている。(中略)しかしすべてはその限界内のことである。……
         (磯貝英夫「不連続殺人事件」『解釈と鑑賞』1973/7)

 ここで、磯貝は語り手である作家、矢代寸兵が巨勢博士について述べていることを論拠として、推理小説の限界を断じ、この作品を余技とみなしているのだが、このような断定は恣意的なものでしかない。探偵すること=見つけること、と文学者であること=つくることの差異がこの文脈では主要な差異なのであって、決して、文学と推理小説とが、差異づけられているわけではない。そのことは神山東洋弁護士の発言に明らかである。

 「(……)矢代先生の御説によると、巨勢博士は小説が書けない方だから、大探偵の素質があるのだそうですが、まさしく、それが真理ですよ。そしてですな、それが真理であるということは、逆に文士の皆様方は、たいがい、大犯罪者の素質をもっておられる、という意味でもあります。ただし、これは、弁護士にもあてはまります。これ又、皆様方には比べようもありませんが、ともかく、これも、人間関係をつくりだす商売ですからな。(後略)」(二十章)

 ここでの探偵に関する発言は、小林秀雄の骨董趣味に対するかれの批判とあわせてかんがえてみると、特に「読むこと」としての鑑賞(注2)と「既定」としての必然をめぐる論点において、興味深いものではある。解釈し、痕跡を正しく組織して、事実を再現させることは、探偵行為として把握され、「つくること」としての「書くこと」に対比される。ここで骨子をなしているのはやはり探偵の限界であって、推理小説、作家の限界ではない。探偵は、すでにおこなわれたできごとを必然的あるいは蓋然的な論理によって再構成しようとする。坂口のいう限界とはこの再構成にかかわっている。
 残された痕跡から遡って推論するためには、ひとつの結果、ひとつの痕跡に対してひとつの原因が正確に対応していなくてはならない。これはすでに完結したうごきようのない世界である。世界をこのように把握することが探偵の観点であり、探偵は一つの結果から、その真実の一つの原因を探し求めるのであるが、坂口は、このような原因と結果の一対一対応は厳密にはありえないという認識をもっていた。これが語り手である矢代のいう「無限の迷路」の意味である。
 ではなぜ、探偵は犯罪推理において、文士に優越するのだろうか。それは、探偵の予測が確率的に適中率が高いからではない。そうではなく、あくまでも探偵が司法的観点に依拠して、「誰がどのようにやったか」、という事実的領域に自己限定するからである。
 このことはこの小説にもあてはまり、確かに巨勢博士は心理的領域にもある程度踏み込んで推論しているが、それらは憶測の域を出るものではなく、かれの事実の解釈程には、決定的なものとして提示されているわけではない。
 通例、推理小説に於いては、この、探偵には事件の心理的、象徴的な「意味」を確定することができない、という本質的欠陥をおぎなうために、探偵の告発のあとに、犯人の「告白」がやってくることで、それまでさまざまにゆらいできた読みのゆれが一義的に収斂されることになる。物的証拠は物的事実を明らかにするにすぎないからだ。
 このようなタイプの推理小説についてなら、池内輝雄(「不連続殺人事件」『解釈と鑑賞』1993/2)のいう、

 推理小説のほうは、読者の『読み』を誘発するとはいっても、それは読み進む途中のことであり、全体的には「読み」はある一点に向かって集約、閉鎖される。作者の意図を無視して、真相を別に想定するといった逸脱は許されない。

 という性格もよくあてはまるといえるだろうが、しかし実際にはこのような規定に過不足なくおさまるような作品はむしろ小数だろう。というのは、くり返せば、多くの場合、探偵が意味を確定しうるのは、あくまでも事件の司法的な意味だけだからである。従って、むしろ事件の解決によって、なお未確定の謎とはいえないまでもあいまいさが、視界のすみにノイズのように残ることになる。
 このことは前述した、小説の多中心性ともまっすぐつらなるものだろう。
 勿論、巨勢博士も行っているように、事件の心理的意味、動機、象徴的次元、犯人による見立てといった、一見、探偵には最終的には確定し得ないはずの意味の領域の事象が手がかりとして、真相の露呈に寄与することもあり得る。しかし、これらの意味の領域の事象による推理は、真相にたどりつきはするものの、あたかもそれは偶然であるかのような印象をあたえずにはおかない。ここにもパラドックスが存在するのであって、或る仮定にもとづいてなされた推理が正しかったからといって、もとの仮定が正しいとは必ずしも限らないのであり、そのためにこそ、「物的証拠」と「自白」が絶対的に要求されるのである。(とはいえ、「物的証拠」も「自白」も、読みを確定させるまじないとして、ジャンルの約束に乗っ取って機能しているので、厳密にはやはり司法的意味を確定しうるにすぎない。また多くの場合、犯人の告白は、まさにこの探偵の構造的無能さを補うものとして、心理的、象徴的意味の領域における推理の間違いを指摘することも多い。これは犯人の他者性を際立たせ、その個性を顕彰する機能さえはたす)
 さきの池内の論文は「不連続殺人事件」を磯貝のように限定されたものとはみない立場を論旨としては主張したものなのだが、そこで論拠として脇役である海老塚医師らの異常な個性がだされているのみであり、この作品そのものの構造の持つ未完結性には触れられていない。多くの推理小説はたしかに完結的で閉鎖的な司法的次元ももっているが、同時に、解決によっても確定されない心理的、象徴的な次元や、見立てといった意味の次元を持っているのであり、その意味では、他の形式の小説とかわることはない。おそらく、推理小説であろうとなかろうと、このような意味で読みを確定させようとすれば、三人称全知視点の語り手に断定させるほかないのであるが、「不連続殺人事件」はそのような小説ではない。
 つまり、巨勢博士は、実は解釈をしてもろもろの犯人の痕跡に意味をあたえているというのではない。そうではなく、かれは、その、読まれるべき暗号としての痕跡のあいだの正確な関係を解明しているのである。問題なのは、ある痕跡とある痕跡のあいだの関係であって、その痕跡の意味ではない。そうしてできあがった「記号体系」を司法的に意味づけるのは、探偵の仕事ではなく、警察の仕事である。その意味で、探偵は、価値判断や意味のレベルにおいて、奇妙な無能さを示すこととなり、決して事件を防止できないのである。
 まして意味の確定という視点からいえば、あやかは自殺し、ピカ一は犯行を認めただけであり、事実関係以外のあらゆることが死によって宙づりにされてしまっている。最後の巨勢博士の演説自体、子細に検討すれば、犯人の確定に関わらない謎についてはきわめておざなりにしか述べておらず、小説を読む過程で謎として公然と問われたことのすべてが解決を与えられるわけではまったくない。
 その代表的な例が、胎児の父であり、モルヒネの意味である。両者ともに歌川珠緒にかかわるのも興味深いが、この「空白」はただちに読者を、むしろ巨勢博士が言わなかったことのほうへと、引きつけることになる。
 あえていえば、ここで、矢代や巨勢博士とともに物語を追っていくとき、重要な役割をはたす「観点」とは、内容を欠いた記号の系列という世界把握、世界の能記としての側面、つまり「言葉」のレベルなのではないだろうか。そうであればこそ、この「観点」だけが、まさにその空虚さゆえに代表として空虚な仮の結節点となりえたのではないかと思われるのである。
 ともあれ、坂口のさまざまな作品系列の合流点として、この小説を位置づけることが必要なのではないだろうか。



 本文引用は角川文庫版「不連続殺人事件」に拠った。それ以外の坂口安吾の作品からの引用はすべて筑摩書房版「坂口安吾全集」に拠る。

 参考文献

「『不連続殺人事件』を評す」 江戸川乱歩 昭和二三年十二月 「宝石」
「不連続殺人事件」 磯貝英夫 昭和四八年七月 「解釈と鑑賞」
「戦後の坂口安吾-石川淳を補助線として-」 岡本卓治 昭和五三年一月 「日本文学」
「坂口安吾『白痴』論-聴覚空間のアレゴリー劇」 奥山文幸 平成三年五月 「近代文学研究」
「不連続殺人事件」 池内輝雄 平成五年二月 「解釈と鑑賞」
「攻撃・犯罪・安吾」 中辻理夫 平成六年三月 「日本文学誌要」
『探偵小説論1 氾濫の形式』 笠井潔 平成十年十二月十五日

『ポオ全集1』 エドガア・アラン・ポオ 創元推理文庫
「消えなましものを-坂口安吾とエドガー・ポー」 八木敏雄 昭和五十年十二月「ユリイカ」

 (注1) 「言葉」同人は、坂口安吾、江口清、葛巻義敏、若園清太郎、関義、本田信、高橋幸一、長島萃、山沢種樹、野田早苗、脇田隼夫、青山清松、白旗武、片岡十一、根本鐘治、山口修三、山田吉彦(きだ・みのる)、大沢比呂夫、吉野利雄ら。
                          (三枝康高編「年譜」より)

 (注2) 当然、小林秀雄を間に挟んで、両側に青山二郎と坂口安吾を配し、そのうえで両者の思考の線の対立と交錯をよりあらわにしていく視線が必要であると思われる。従ってこれはあくまでも坂口からみた「鑑賞」のことである。