一九九九年五月二一日(金) 演習発表

 ひかりを放つもの
          萩原朔太郎初期詩編より
 
 「光の説」(『異端』大正四年一月号)を見るまでもなく、朔太郎にとって、「感傷」と「光」とがときに「手」を媒介としつつ密接なネットワークをなしていることはその実作の多くに見ることが出来る。

 光は人間にある
 光は太陽にある
 光は金屬にある
 光は魚鳥にある
 光は蛍にある
 光は幽霊の手にもある。

 幽霊の手は鋼鉄製である、鋭くたたけばかんかと音がする。

 幽霊の手は我の手だ、我の手を描くものは、幽霊の手を描くものだ。然も幽霊を見るものは尠ない。

 幽霊とは幻影である、あやまちなき光の反照である。
 幽霊は實在である、妄想ではない。
 (以下略)

 この「光の説」冒頭部の定義的な、テーマを反復していく「は、にある」という形式で重要なのはむろん「光は蛍にある/光は幽霊の手にもある。」という切り替えと連結の機能をはたす橋渡しの「転」にあたる部分であったり、子細に見れば「にある」という定位が「である」という定義に変換されていくところであったりするのだが、核心的な構図は「光は幽霊の手にもある。」という詩行によってすでに予告されている。
 これらの映像に顕著なのは、対象がときにまさに光によって不分明になっていくことである。光は対象の「色」としての概念的特徴を揮発させ、その背後の名状しがたいものを露わにする機能を果たす。決して、明晰な地中海的な認識の光ではない。だからこそこの光はおそらく無名の恐るべき「顔」からも放たれている。なぜならば、顔は視線を招き寄せながら、とくに朔太郎においては返答を返すことなく、泥沼のように吸い込んでいく「穴」だからだ。それは直視することを恐怖させる予覚をはらんでいることによって詩語となり得ている。
 しかし、光と幽霊の間の関係ははかなり込み入っている。光は幽霊の手に定位しながら、幽霊とは光が照り返したその効果でもある。つまり、これは文字通り光線のつくりだすゴーストであるということである。となれば、それ以前の人間や太陽やに定位した光も、事後的にそれらから発せられていると言うよりは、それらを幽霊として構成している光のことを指すのだと考えなければならない。しかしこのような意味でのひかりとはもはや明るさではなく、なにかひどく不明瞭な白日として経験されるのではないだろうか。つまり存在かあるいは「生命」のなにか普遍的な媒質のようなものとして光が考えられているらしいということである。
 白秋との関わりで興味深いのはその色彩への否定的態度である。朔太郎はこの詩では、色彩を概念であり、素朴実在論的現実であるとして、詩精神の埒外に追いやっている。

 色は悉く概念である。

 ということは、光がただ色ではなく光として直接に「感知」されるということは、すでにして異常事態なのであり、この概念的自己の破綻こそが、朔太郎が「月に吠える」を編むことを可能にした詩の方法論のひとつであったとひとまずは仮定しておけるだろう。しかし、この揮発させる光の形象は、いったいどのようにして朔太郎の中で生成してきたものだったのだろうか。
 白秋の名高い「思ひ出」の序詩は、

 思ひ出は首すぢの赤い蛍の
 午後のおぼつかない触覚のやうに、
 ふうわりと青みを帯びた
 光るとも見えぬ光?

 という一連で始まるが、この光のくすんだ、そして何よりも色彩をおびたひかりは朔太郎のものとは異質である。「思ひ出」のひかりは微光であり、強烈なひかりはむしろ単色を帯びて現れる。ひかりはステンドガラスのように分析されてあらわれ、目眩を招くわけではない。にもかかわらず、朔太郎におけるひかりの生成にとって、白秋の原色のひかりは決定的である。なぜなら、そこでは、官能という回路と、ひかりの象徴化という回路が接合されているからだ。白秋に於いては色彩はつねにといっていいほど修飾語の地位にあり、被修飾語の地位にはない。色彩は規定する権能を持っている。このとき色彩はその意識を介さない直接性、規定されない暴力性において、幼時の官能へと接合するのだが、なお色彩は、他の色彩との関係では、安定した体系を保っている。つまり、ひかりの持つ錯乱を色彩から色彩へと転変することで、制御することが出来る。白秋の目眩とはこの転変のなかにあるのだとすれば、朔太郎は、この目眩の部分だけを、すなわち或る色彩から或る別の色彩へと移る瞬間にあらわれる、亀裂としての無色の経験を、拡大して自らの方法としたのではないか。
 ひとつの詩的領域として、過剰露光された情景があらわれるとすれば、万華鏡を朔太郎は活動写真へと翻訳したのだということもできる。
 
 初夏の祈祷

 主よ、
 いんよくの聖なる神よ。

 われはつちを掘り、
 つちをもりて、
 日毎におんみの家畜を建設す、
 いま初夏きたり、
 主のみ足は金屬のごとく、
 薫風のいただきにありて輝やき、
 われの家畜は新緑の蔭に眠りて、
 ふしぎなる白日の夢を畫けり、
 ああしばし、
 ねがはくはこの湖しろきほとりに、
 わがにくしんをしてみだらなる遊戯をなさしめよ。

 いま初夏きたる、
 野に山に、
 栄光栄光、
 栄光いんよくの主とその僕にあれ。
 あめん。
                    -一九一四、五、八-
 (『創作』大正三年六月号)

 この詩に金属製の手足の形象を見て、そのうえ、別の詩では「祖先」に関係づけられていたこの手足が、「にくしん」と関係づけられていることも十分興味深いことなのだが、さしあたり問題なのは、神の栄光という、この「ひかり」のことである。神の栄光というレトリックそのものは珍しくもないものであるが、それが「主のみ足は金屬のごとく、/薫風のいただきにありて輝やき、」という詩行と連結されると、にわかに奇妙な現実性を帯びてしまう。同様に「この湖しろきほとりに、」という詩行も、「ふしぎなる白日の夢を畫けり、」と協和することによって、白いひかりが色彩を揮発させるイメージを印象づける。「新緑の蔭」にはなお色彩が残っているが、それはもはや、対象を規定する官能的な原色ではない。

 地上

 地上にありて
 愛するものの伸張する日なり。
 われは友を呼び、
 友は遠き静物を呼ぶ、
 りんりんと光る空気に、
 ものみなは音なくめざめ、
 わが行くところに鋭く銀透す、
 かの深空にあるも
 しづかに解けてなごみ
 燐光は樹上にかすかなり。
 いま遙かなる傾斜にもたれ、
 愛物どもの上にしも、
 わが輝く手を伸べなんとす、
 うち見れば低き地上につらなり、
 はてしなく耕地ぞひるがへる。
 そこはかと愛するものは伸張し、
 ばんぶつは一所にあつまりて、
 わが指さすところを凝視せり。
 あはれかかる日のありさまをも、
 太陽は高き真空にありておだやかに観望す。
                   -一九一四、四、二〇-
 (『創作』大正三年六月号)

 ここでも手とひかりとは結合して出現してくる。手は伸ばされるものである。とすれば、後年の「竹」は手足の形象の延長上にあるものだと断定して良いかも知れない。勿論、この健康的な情景と地底のイメージを同列に扱うことなどできないが、一点の不安、そしておそらくはこの詩のひとつのがわの軸は、「燐光は樹上にかすかなり。」として存在している。虚の焦点としてのこの燐光があればこそ、実の焦点としての太陽が存在しうるのであり、そうでなければこの詩は、緊張感をうしなった賛歌と化してしまうだろう。多中心的な不安定さは、「指さすところ」と「太陽」とのあいだの不安定なあいまいさにもあらわれている。指さすところはどこなのか、それは太陽を指さしているのか。読者の想像的な視線は、一瞬まよいのなかに陥れられるのである。
 燐光はたしかに太陽光が葉を経過してぼんやりとした光源のあいまいな状態でさしこんでくるものをいうのだろうが、それを燐光と呼ぶことで、あたかも光源とは独立のもののようにして、樹上にとりつきはじめるのだ。実際、こうしたひかりのありかたは、盲点としてのひかりのあり方とともに、ホワイト・ノイズとしてのあり方といってもいいかもしれない。
 このひかりはまた、魚の鱗としても現れてくる。

 供養

 女は光る魚介のたぐひ
 みなそこに深くひそめる聖像
 われ手を伸ぶれど浮ばせ給はず
 しきりにみどりの血を流し
 われはおんまへに禮拜す
 遠くよりしも進ませ給へば
 たちまち路上に震動し
 息絶ゆるまでも合掌す
 にちにち都に巡禮し
 もの喰まざればみじめに青ざめ
 おん前にかたく瞳をとづる。

 (『創作』大正三年七月号)

 ここでは主体は目を閉じてしまいさえするが、しかし、女が、光りでありなにか軟体のものであるかぎりにおいて、それはまぶしさというよりも、しろい露光によって見えないはずのものであったのだから、そこに矛盾はないのである、とはいえないだろうか。

 なにか知らねど

 なにか知らねど泣きたさに
 われはゆくゆく汽車の窓
 はるばると
 きやべつ畑に日は光り
 風見ぐるま
 きりやきりりとめぐる日に
 われはゆくゆく汽車の窓
 何か知らねど泣きたさに

 (『上毛新聞』大正二年九月三十日)

 朔太郎におけるひかりと感傷との結びつきには、この詩に典型的に現れているような原型的なものがあったようにも見える。それは「光の説」に見られるような意気込んだ態度で主張されるものとは、いちおう別に、不意打ちに現れる視界の盲点としてのひかりが呼び覚ます感情であったとはいえないだろうか。要するにそれは、想起できないような過去への郷愁であったと考えれば、かれの懐郷の詩人としての側面をもうまく説明するようにも思われる。実際、「きやべつ畑」「風見ぐるま」は幼年期にむすびついた形象であるだろう。
 この感情が白秋の方法化された欲情を表象するための、ひかりの純化(白秋にあってはそれはいまだ複数の色彩への還元にとどまるものだが。勿論、白秋も、『白金之独楽』大正三年十二月 で、よりひかりの強度へと傾斜していくようにも見える。ただ、この白秋の白金のひかりはあまりに全面的に瀰漫するために、朔太郎のノイズとしての側面とはおおきなずれを孕んでいるようにも思える)とむすびついたときに、以後の詩法のひとつの根拠となりえたのではないかと思われるのである。

 参考文献

 「萩原朔太郎1914」 菅谷規矩雄 
                 一九七九年五月三十日 大和書房
 「日本文学研究資料叢書 萩原朔太郎」一九七一年一月二五日
 「日本文学研究大成 萩原朔太郎」 田村圭司編 平成六年五月

 「朔太郎と白秋」 勝原晴希 
             「日本近代文学」三五集 昭和六一年十月

 「萩原朔太郎全集」 昭和五二年五月三十日 筑摩書房
 「文芸読本 萩原朔太郎」昭和五一年六月三十日 河出書房新社