1999年6月12日 少年文学会部会
テキスト 「八月の光」 ウィリアム・フォークナー
"Light in August" by William Faulkner,1932
時間の流れの複雑さと、語りの重なり合いが、まず、目に付いたのではないでしょうか。フォークナーにとって、
経験される時間の意味ということは大きなテーマです。語る声が複数に絡み合い、溶け合うのも、そうしたことから
出てくるのでしょう。
リーナ・グローブの倦むことのない、繰り返す永遠の現在であるような時間、過去に、生まれる以前の過去にとら
われ、退却し、時を無視し、高い塔に自己を隠棲させようとするハイタワーの時間、過去から執拗に呼びかけてくる
声や名前にとらわれ、そこから逃れ、あるいは一体化しようとするクリスマスの時間、三者の時間は八月の光の中で
きしみあいます。
@ ハイタワーは失った時間を取り戻さなくてはならかったのでしょうか。かれに時間をふたたび取り戻させ、
「窓」の向こうの「現在」へと引き釣り出すのはバイロンです。かれもまた、リーナと出会うことで、決定的な変化、
「傷」を受けます。クリスマスはまさにふたりの出会いのとき、すでに殺害をなし、館の煙はかなたから二人に開示
されています。複数の決定的で、後戻りのきかない、予想不可能な「出会い」が物語を作り出していくのです。
ハイタワーはなぜジェファソンから離れようとせず、そして、かれはバイロンとの交渉の中でどのように変わって
いくのでしょうか。
@ 他者と出会い向き合うことで、決定的に自分というものから離れていくこと。そういう傷ににた出来事が、重
要なのだとしたら、バイロンやハインズ夫妻、さらにブラウン、あるいはグリムは、どのようにこうした出来事を経
験し、それに立ち向かったのでしょうか。
@ おそらく、クリスマスの事件は関係者だけではなく、町のものたち全員にとって、重大な出来事でした。です
が、それはどういう意味だったのでしょうか。かれは何を犯したがゆえに嫌悪されるのでしょうか。ジョアナ・バー
デンは決して、町の人々に愛されていたわけではなかったのです。
かれはなぜ、このような生をいき、自己を捜し求めながら、つねに愚かな行為へと導かれ、引き裂かれながら、流
浪していくのでしょうか。すべてこういったことは、かれの具体的な描写や属性にも現れているかのようです。かれ
の生い立ちの中で、なぜ、女というものを、あいまいなものを、飲み込むものを、くらいものを、嫌悪したのでしょ
うか。
それはリーナと対比すべきものだと思います。
ジョアナとかれの関係は愛だったのでしょうか?
クリスマスの「無垢」は依然としてかれのなかにあるのではないでしょうか。
いけにえということが、ジョアナの死やクリスマスのリンチについていえるなら、それに対比されたときの、リー
ナの出産はどう考えるべきでしょうか。
ハイタワーという、大地からも現在からも生命からも離れた男が、つねに助産婦としての役割をはたすのはいった
いなぜでしょうか。
@ クリスマスとブラウンの関係もあいまいです。ブラウンは、軽薄で、現在のみを生きており、小器用で、陽気
で楽しくしていることが好きで、クリスマスとは別の意味で、流浪せざるをえない人間です。かれは表面のみをいき
ているからです。ふたりの関係はなんなのでしょうか。ブラウンは、それでも、ただひとり、リーナを孕ませ、現実
的な金銭欲でいきる、そのような意味で、かれなりに、エゴイスティックではあれ、地に足がついてはいるのです。
単なる軽薄漢であるかれはしかしいちばん普通にも見え、生殖力のある、逃げつづける男といういみで、たしかにリ
ーナにつりあう神話性を備えているのかもしれません。
かれの裏切りと表面的な性格と、ほかの人々のそれぞれなりの何かへの固執と比べてみることは重要かもしれませ
ん。
@ それにしても、「八月の光」とはなにをさしているのでしょうか。本文中、光についての言及は、時の流れや、
車輪への言及と並んで数多いのですが、それはかなり多義的に見えます。本人はこう言っています。
ミシシッピー州の八月には、月の半ばごろ、突然、秋の前触れのような日がどことなくやってくる。暑さも和らぎ、
その光は穏やかな輝きを呈し、それは今日からというよりはむしろ、遠い古代の時代から差し込んでくる光でもある
ようだ。それはローマの半獣神や、ギリシヤのサテュロスや、神々の国―ギリシヤやオリンポスの山あたりから差し
込んでくるに違いない。それは一日か、二日しか続かない。だが、わたしたちの地方では必らず毎年、八月にはおと
ずれるのである。このタイトルの意味するものはただそれだけである。それはわたしたちには面白い生き生きしたタ
イトルであった。というのは、それはわたしにとってわれわれのキリスト教文明よりも、もっと古い時代からの光輝
を思い出させるからである。おそらく、その光は凡ゆるものを受け容れることの出来る、何か異教徒的な要素を持っ
た、リーナ・グローブと結びつくであろう。
しかし、それはどういうことでしょうか。
@ クリスマスは名前や言葉に呪縛されて生きています。かれはたしかにキリストの象徴という側面もありますが、
だとしたら、どういうことになるのでしょうか。
@終わり方。ハイタワーの最後の幻想、あるいは悔悟の意味するもの。かれの意味のなかった偽証。なぜクリスマ
スはハイタワーの家にいくのか。
リーナとバイロンの喜劇的出発。ここでの語り手の推測は正しいか。なぜ、これが終わりなのか。そしてリーナの
せりふ、人間はなんてとおくまで来れるのだろう。変身の可能性は、彼女のようにただ受け容れながら歩くことによ
って得られるのでしょうか。しかし、負わされた意味はともかく、現実の彼女は、バイロンが出産のときに不意に気
づいて驚くように、幸福なわけでも聖女なわけでも、聡明なわけでもないのです。
ただ、彼女は、真夜中に窓から抜け出して「出発」することをしただけです。
@そして、最後に、これら、かさなりあいながら、直接接触することのない三人の主要人物を軸にして、この物語
は、いったい、なにをそれらを結び合わせる主題としているのでしょうか。そして、結局、いったい、何が起きたと
いうべきなのでしょうか。それはかれら個人についての出来事でもあり、同時に、ジェファソンという共同体につい
ての出来事でもあったはずです。南北戦争の傷痕の未だなまなましいこのとき、だれもが歴史の呪縛の中にいたのだ
とともいえるのではないでしょうか。八月の光はなにを照らし出したのでしょうか。
@個々の描写にたくさん、印象的な部分があります。それらは、微妙にストーリーと絡み合いながら、直接には関
係のない比喩でしかない場合も多いのですが、こうした、ひかりや、時間や、感覚のありようは、なにか、やはりた
だの描写というのではない次元を持っているように見えます。できれば、気になったところをあげてみてください。
というわけで、まだまだあると思いますが、あとは口頭で。
部会を、楽しんでくだされば、幸いです。