螺旋と壮麗な蛇 「夜長姫と耳男」論

 1 位相構造から見た、物語の異様さ

 物語は、青空と乗鞍山を外縁として閉じられた領域で演じられる。物語の前半では、耳男の小屋が、そしてかれの小屋が燃やされてからの後半では、この内部世界の中心として高楼が出現する。この二つの中心は対応しつつ、一方は密閉された空間であり、後者は開かれた空間として対照的でもある。またこの中心におけるベクトルの向きもまさしく正反対であり、一方は他方の反転として位置づけることができる。小屋においては、吊された蛇たちや、耳男の視線はひたすら、さらにその中心に位置する化け物の像に向かう。他方、高楼での蛇の祭儀や耳男と姫の視線はひたすら、外部に向かっている。この対称構造を、耳男と姫の存在の性格の差異として考えると、耳男の場である小屋では外部+乗鞍+里+小屋+耳男+仏像という、内部へと向かう同心円構造が存在する。「イノチを打ち込」むという発言からも知れるとおり、かれの制作行為は、そのような内部への視線というベクトルに支配されている。それに対して、高楼においては、(虚無?)+笑顔+姫+高楼+里+青空+外部という、外へと向かう同心円構造がある。
 森敦「意味の変容」によれば、

 「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。

 内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。」


 境界は、外部に穿たれた「空所」としての、外部の、内部との接点の大きさを規定するにすぎないので、内部そのものを限定しない。そのために、内部は、無限定な領域として、全体と等しく無限だという理解である。
 姫と耳男の二つの同心円構造が、反転した形で対応するとすれば、姫の内部の無と、耳男を囲繞する物語世界の外部領域とは同一の領域であることになる。内部にも、外部にも、無限の数の点が存在し、この二つの無限は濃度が等しいので、適当な対応関係をおけば、円内のすべての点と、円外のすべての点を一対一で対応させることが出来る。
 次の情景はこの対応の傍証として考えることが出来る。姫と耳男の初見の場である。

 「オレは夜長ヒメを見つめた。ヒメはまだ十三だった。身体はノビノビと高かったが、子供の香がたちこめていた。威厳はあったが、怖ろしくはなかった。オレはむしろ張りつめた力がゆるんだような気がしたが、それはオレが負けたせいかも知れない。そして、オレはヒメを見つめていた筈だが、ヒメのうしろに広々とそびえている乗鞍山が後々まで強くしみて残ってしまった。」

 このとき、耳男におきているのは、姫の内部に密閉されるという事態である。姫と耳男の間には反転した対応があるが、同時に、それぞれの同心円構造においても、外部と中心は対応している。耳男は化け物の像の内部に、かれを圧迫する姫の笑顔を封じようとする。外部と中心から、姫の笑顔はかれを圧迫するのである。また、同時に、姫の笑顔の内部の無と、青空の外部との間にも、前述のように対応があった。

 「なるほど。まさしくヒメの言われる通り、いま造っているミロクなんぞはただのちっぽけな人間だな。ヒメはこの青空と同じぐらい大きいような気がするな」

 この非常にねじれたメビウス状の循環する対応関係を念頭においてみると、物語の不可解な部分がややあきらかになってくる。耳男が姫の笑顔を圧迫として感じ、そこに執拗にこだわりながら、理不尽な反感をもちつづけるのは、かれが、この囚われた内部から逃れようと欲し、姫の世界の内部であるかれのさらに内部に仏像という中心をつくることで、この圧迫を押し返そうとのぞむからだ。前述したように、この反転した位相空間では、中心は外部と対応しているため、境界としての仏像の表面を刻む行為は、反転して境界を押し返す行為でありうる。
 勿論、ここで、対応という用語で語りつつあることは、表現-本質という用語系列でより平易にかたりうることであるかもしれないが、この物語の空間構造との関係を明示する上で、この用語に固執したい。
 かれが、姫の内部にどういうわけか閉じこめられた傍証はほかの部分にも存在する。問題なのは目と耳である。耳男はもう一度、姫に魅了され、その笑顔に見とれる。このとき、耳男は残った耳も姫の母の形見の懐剣によってエナコに削がれ、何故か、姫を見て、涙を目にためる。

 「オレの耳がそがれたとき、オレはヒメのツブラな目が生き生きとまるく大きく冴えるのを見た。ヒメの頬にやや赤みがさした。軽い満足があらわれて、すぐさま消えた。すると、笑いも消えていた。ひどく真剣な顔だった。考え深そうな顔であった。なんだ、これで全部か、とヒメは怒っているように見えた。すると、ふりむいて、ヒメは物も云わず立ち去ってしまった。
 ヒメが立ち去ろうとするとき、オレの目に一粒づつの大粒の涙がたまっているのに気がついた。」

 
 この部分には世界、さきの用語をつかえば全体概念のイメージがすぐれて現れていると見ることが出来る。丸い、姫の目を、耳男の目が見つめる。このとき、この鏡像的関係は、たがいに、相手を視界のなかに包含する関係にある。円形の孔としての目は、内部と外部の通路であり、このとき、耳男が侵した「錯誤」のために、姫は、耳男から去る。この部分の直前に「オレの心は目にこもる放心が全部であった」とあり、耳男は姫を、対象としてここでは見失っているのである。
 言い換えよう。この部分はきわめて重要である。耳男は、化け物ではない弥勒をつくるという二度目の錯誤にさきだって、ここで決定的な最初の錯誤を演じている。耳男は、個としてではなく、宮廷的な制度に身を任せて、姫とエナコを決定的に対象として誤認し、あたかもかれの内部に存在する、予測可能な受動的対象としてあつかい、有名な台詞をひけば、呪いも殺しも争いもせず、同一化しようとした。耳をそがれるという去勢行為にさきだって、描かれる耳男の姿はきわめてファロス的な、無神経で威勢のいい、無謀な存在だ。アナマロの申し出への拒否も、エナコへの、不当な侮辱的発言も、この文脈で理解すべきである。男根的な愚かな若者として、耳男は姫のまえに登場し、そのようなものとして、かれは姫と、宮廷的関係をもとうとする。
 従って、放心によって、耳男は、姫を対象として見失い、一方的に、主体から、姫の対象へと失墜する。外部に属するがゆえに見ることが出来ない境界によって包囲されながら、その圧迫にたえかね、怯みつつ、抵抗をこころみる。そのような存在として、耳男は姫の世界の内部へと密封された。つぶら、や、まるい、そして、涙といった形象がここで重要な役割を演じているのは、これら円形の事物が、世界の全体性を象徴し、強調するからである。
 耳男はこうして、姫の恐怖と切りはなしえない魅惑からの脱出のために苦闘することになるのだが、この耳男の密閉は、考えてみればひとり相撲といっていい。姫は明らかに耳男の対応に失望しているのであり「これで全部か」というような表情を見せたと耳男には思われた。この場面まででも明らかなのは、耳男が「見る男」であると同時に「閉じこもる男」でもあることだ。かれは仏像をつくろうと決めた段階で、その像の下に自分を埋めてしまえばいいのだ、という決意をしめす。姫にわらわれたときには山奥へ逃走し、像の制作は離れた小屋にとじこもる。耳男の自己閉鎖は、かれのかたくなな言動からもあきらかだが、耳男が、自らを内部とするときに、外部として姫が選ばれたと云うことは、必然的ななりゆきではあるが、姫の意志したところではなく、罠のような偶発事である。従って、姫の側から見れば、この事態は、耳男が、自らの内部にはいりこんで、自らを、視界から消去し、身を隠した、と見ることが出来るだろう。耳男は姫の対象にみずから変容することによって、姫と対峙することから逃れる。
 では、出会いの情景において、耳男が姫に魅惑され、取り込まれるという事態と、この二度目の情況とのあいだは、どのような差異をもつのだろうか。(付言すれば、この物語は、二度という反復がきわめて優勢であることによって、特徴的である)じつをいえば、耳男と姫は、このとき、関係をもちそこねている。
 再び、「意味の変容」に依れば、

 「関係とは単なる対応ではない。おのおのそれみずからが矛盾を孕む実存として対応するとき、はじめて関係となる」(「関係」と「対応」に傍点。引用者注)

 これは前述した、耳男と姫の同心円構造の対応関係によくあてはまる。そして森敦はこのあとにつづけて、「矛盾は矛盾でなくなろうとする」と書く。物語の動因のひとつを、姫と耳男の関係性におくとき、そのありかたを、このように定式化してみていくと、どうなるだろうか。

 アスタリスクによって分かたれる全体で九つの節で、このすれ違いに似た出会いから前述の二度目の出会いまでの間、二と三節はインターバルであって、エナコとアナマロが相手となり、姫は登場しない。この二度の出会いはあきらかに或る反復を形作っているが、このように反復が物語に要請されるのは、第一の出会いにおいて両者が、何かに失敗し、しかも、その何かへの志向を保ち続けたからである。これを、矛盾が矛盾でなくなろうとする傾向として把握し、考えてみると、まず、第一に、この出会いにおいて、耳男は、姫の「視線」から逃走し、姫もまた、耳男の「視線」をうけとめることなく、叫びをあげてしまう。
 注意しておかねばならないのは、この物語がおもに耳男の側からえがかれ、姫は魔性のちからをもつ、人外の存在のように見られるために、あたかも彼女は全能の巫女のようにおもわれてしまうが、子細にみればそれは全くではないが、あたらないということだ。耳男が錯誤をおかしたとすれば、彼女もまた錯誤を侵したのである。そして、物語の動因のひとつは、ここに端を発している。姫は、やはり、長者の制度の内部で、屋敷に閉じこめられるようにしてくらしているし、この一度目の出会いでは、思わず(とおもわれるのだが)叫びをあげており、二度目の出会いでは、耳男の反応を読み違えている。
 この部分で、あたかも姫は、耳男に対して、第一声から、嘲りの、蠱惑するような声を投げかけたかのように見えてしまうが、実際には、姫の叫びを、嘲りへと変換したのは侍女たちの追従的な笑いなのであって、客観的に見れば、耳男の執拗な凝視の圧力に対する、反応であったと見るのが適当なのではないか。

 「長者はそれをフシギそうに眺めていた。すると、ヒメが叫んだ。
 「本当に馬そっくりだわ。黒い顔が赤くなって、馬の色にそっくり」
 侍女たちが声をたてて笑った。オレはもう熱湯の釜そのもののようであった。溢れたつ湯気も見えたし、顔もクビも胸も背も、皮膚全体が汗の深い河であった。」

 耳男が、姫を見る。見られた姫は、視線から逃れようと、声をあげる。その声を、耳男は嘲りと解して、姫から逃れる。両者は、全速力ですれ違っている。耳男は姫に反発をもち、化け物を姫のためにつくることを決意する。つまり、矛盾として、つぎの出会いを、用意した。第一の出会いが失敗した理由である嘲りそのものが、第二の出会いの契機になる。また、姫にあっても、彼女が、父の長者のもとにあり、姫として存在していると云うことが、彼女の言葉が嘲りへと変容してしまった理由であった。その同じ事実が、父の長者の意図として、彼女を耳男に会わせる。
 具体的には、この経緯はインターバルであるふたつの節に見ることが出来る。それぞれの節の中心人物であるエナコとアナマロは、二人の再会という問題にかかわる機能を物語によって主にもたされ、それゆえに存在していると見ることが出来るからだ。
 
 2 反復の媒介

 耳男のエナコへの不当な嘲りは、姫の嘲りに変容してしまった言葉の、正確な残響である。この変奏は、赤面逆上の正確な再演へとつながる。嘲りと赤面は、切りはなしえないセットなのであり、エナコは耳男と姫の媒介者としてはたらく。耳男は、エナコから目をそらさないで、かつ、嘲りを宿してしまったがゆえに、再び、失策を犯す。この失策は、姫の場合と、奇妙に対応している。耳男は、姫に嘲られたがゆえに、目をそらしてしまったのであった。
 このとき、耳男が見ているのはエナコそのものの目ではない。かれは、エナコを、姫への媒介としてしか見ることが出来ない。かれはエナコを姫との関係でのみはかり、姫と自分の対抗関係の象徴としてみているに過ぎない。それゆえに、「一心不乱ではなかった」といわれるのであり、エナコはにわかに憎悪をいだくのである。エナコの憎しみは、わたしを見よ、という意志とひとつであり、それゆえ、のちに姫が彼女の服を耳男の服に変換したように、愛と区別がつかないような性質の執着であった。このように考えると、エナコが、耳男と姫との間の媒介者として機能するのは、まずなによりも第一には、具体的に傷害によって、姫と耳男が同一の場に立ち会う理由を形成し、両者のいまだ交わらない視線をともに浴びることで媒介することによってだろう。さらにもうひとつ重要なことは、彼女が、耳男を、ウマミミではなくならせたということである。耳男は長者の言葉の力とそれに乗せた姫の言葉によって、「馬」という象徴を負わせられる。この命名と聖別は、嘲りと、最初の錯誤と、全く、同一の根をもっている。だから、エナコが両方の耳をそいで以後の物語では、もはや決して、耳男は、馬との関係で語られはしないし、ウマミミと呼ばれもしない。
 エナコは自分を見ることを迫り、第一の出会いの結果である馬という属性を、耳男からそぎおとし、去勢する。それは、ふたつの点で、第一の失敗の原因を、除去し、第二の出会いを準備する行為だといえるだろう。
 まず、嘲りとその効果である馬という役割を除去し、さらにその具体的な実践において、姫の側の錯誤である、長者の権威への隷属という行為に抵抗する。エナコの傷害は、いかなる意味でも長者の意図した物でも、その制度の容認しうるものでもないから、姫のはじめのあやまちに対して、いわば対話的に、アンチテーゼをなし、修正をせまるものでもあり、しかも、具体的にその機会を将来する原因にもなっている。エナコは、はからずも、姫の錯誤を、彼女に代わって補償し、かつ、やり直しを行う機会をつくることになるという意味で、媒介者である。
 同様のことは、アナマロと耳男の関係についてもいえるのであって、第三節はまるまる、この部分にあてられている。かれは、耳男に対して、使者であると同時に逃亡の「誘惑者」として両義的に立ち現れる。ここでの問題は、分裂であり、混乱であり、平行である。

 「しかし、その努力と湧き立ち溢れる混乱とは分離して平行し、オレは処置に窮して立ちすくんだ。長い時間が、そして、どうすることもできない時間がすぎた。オレは突然ふりむいて走っていた。他に適当な行動や落ち付いた言葉などを発すべきだと思いつきながら、もっとも欲しない、そして思いがけない行動を起してしまったのである。」

 この姫の嘲りの言葉から逃亡したときの耳男の描写は、奇妙なことに、この三節のかれについても見事なほどにあてはまる。それは、耳男の性格造形の問題と云うよりも、物語が、テーマを反復しているといったほうが正しい。アナマロが媒介者であるのは、第一には、具体的に使者であるからだが、さらに、耳男のなかにすでにあった逃亡への傾向を、ことさらに、対象化してしめすことで、耳男に、自己の内部の分裂を、自覚させる機能をはたすことによってでもある。
 耳男は、タクミとしての与えられたアイデンティティにおける矜持がかれの劣等感をも形成しているという面と、かれが個として対象と向き合い、それをひたすらに見つめるときの、その具体的な関係からうまれる意志やタクミの心といった面とが、ひとつの矛盾を形作っていて、このふたつの矛盾を調停できなくなったとき、逃亡せざるを得なくなる。かれはこのいづれもタクミであることに依ってたつ二つの側面を統合することなく、混同している。アナマロは誘惑者であり同時に使者としてあらわれ、耳男に、長者の、あるいは長者とかれの分裂を語る。ここでは耳男ではなく分裂しているのは相手の方である。しかも、この分裂は、真の葛藤を意味すると云うよりも、長者の利益という観点から云えば、建前と本音の分離であって、本質的には分裂とすらいえないような、或る、自己本位の策略ですらある。長者は、エナコの犯罪におけるマイナスを、耳男の逃亡による被害といっしょにして、飛彈の匠への政治的な負い目を帳消しにし、有利にすらはこびうるだろう。黄金さえ持ち出す理由はここにある。
 耳男は自尊心によって、誘惑をつっぱね、誘惑をつっぱねることによって、対象である姫と、直接に向き合わざるをえなくなる。アナマロを媒介とすることで、いまだ、矛盾を孕みつつではあるが、かれの姫に向かう視線と、タクミという矜持は、同一の方向を獲得する。この矛盾はかれの内部にとどまっているかぎり、静的な葛藤として、かれを立ち止まらせるにすぎないだろうが、同一の二つの可能性が、他者であるアナマロから示されることによって、反発によって、とりあえず統合される。対象化されることによって、無意識の政略にも似た偽りの葛藤は、真の動的な矛盾葛藤へと変容させられる。アナマロの「一時の恥は長生きすればそそがれる」という立場は、時間的にひきのばすことで、矛盾を馴致させようとする政略であるが、耳男はこれを拒否する。これは、対象との対決への意志と、名声や保身への意志という明確な矛盾を、調停しているかのようであるが、本質的には、静的に、本音と建て前のようにして、体系づけることで、矛盾を無化し、名声や保身を優位におく選択だからである。それに対置して耳男は、「オレはここへ来たときから、生きて帰ることは忘れていたのさ」という立場にたつ。
 アナマロは、つまり、第一には、最初の出会いにおいての、耳男の側の錯誤である「逃亡」の原因である自己の分裂の放置を、対象化し、かれと耳男の間の葛藤というかたちに変換して、それをいやおうなく、放置された分裂から、意志的選択にいたる動的葛藤として捉えさせる媒介であり、また同時に、つねに耳男の思ってもいなかったような痛いところを指摘することで、かれに選択を強いる。
 両者が媒介者であることは、4っつめの節で、姫と耳男が、エナコとアナマロを契機にして、はじめて会話を交わすに至ることからもあきらかで、エナコが情況をつくり、アナマロが直接のきっかけである、耳男の発言を引き出している。姫の言葉は、この発言への問いというかたちで、現れるのである。
 それでは、このようにして媒介されることで行われる反復の意味はなんなのだろうか。

 3 構造の反転

 この問いは、第一に、第一の失敗の必然性は何かという問いであり、同時に、にもかかわらず第二の失策がおきるのはなぜかという問いでもある。何故エナコとアナマロについての挿話は必要とされ、姫と耳男は、再び会う必要があったのか。
 さきに耳男は、第二の出会いによって姫の内部に封じられたと述べたが、鍵はここにある。第一の出会いのすれ違いは、何らこのような意義を持たない。ただ、第二の出会いを準備するという意味で、決定的なだけである。姫と耳男の間の特異な関係が成立するためには、一度の出会いでは不足であった。最初の出会いの時、耳男は姫に恐怖を感じていないし、その笑顔の圧迫も感じていない。第二の出会いが決裂するまでは、耳男にとって魔神をつくるという行為の意味も、ただ、敵意と反発のあらわれであるにすぎない。
 しかしまた、第二の決裂だけで、前半部を消去することも不可能だろう。第二の決裂は、第二であるがゆえに、このような決裂であるからだ。第二の決裂において、それが二度目の反復であるということが必然の条件になっているのは、顕著には、姫が耳男の耳をエナコに斬れと命じる点にあらわれている。すでに述べたように、この物語では姫は無動機で全能で有るかのようにみえてしまうが、けっしてそうではない。たしかに、彼女には、内部というものが、通常の形であるとはいえないとは思われるが、決して、その行為に意味がないわけではない。
 姫は、まさにあのような決裂をした相手である耳男であるからこそ、このようにエナコに命じているのである。そして、何か耳男に対し、意図しあるいは予期するところがあったからこそ、第二の出会いは、彼女の失望と決裂に似たかたちで終わっているのである。しかし、では、この、耳男の側には完全に隠されていて、見ることが出来ない意図とはなんだったのだろうか。
 第一には、彼女が、生み出してしまった「嘲り」の問題がある。前半部のすべての事象の起点には、この意図せざる言葉の変容、「嘲り」のはらむ残酷さがある。彼女は、この責任を、エナコに加担することで、あがなおうとしている。正確に言えば、彼女は、エナコに対して責任を負おうとしているのではなくて、歪曲された耳男とエナコの関係性を、起点にもどして、対峙する正当で対等な関係へと変換しようとしたのである。耳男は斧をもっているのであるし、エナコに懐剣をわたすことは、耳男に対する敵対とばかりはいえない。むしろ、問題なのは、耳男がエナコの矜持を理解せず、同情と自己の矜持をおしつけていることの背後に、姫に対する耳男の反発と幻想があることのほうなのである。耳男は、エナコを内部にとりこんでしまっており、しかも自分が、姫の内部にいると幻想している。これはリアルな現実とは食い違っている。そしてこの幻想は、耳男が、目前の現実を否認することによって、実現してしまう。実際に、耳男は姫の内部に、閉じこもってしまい、圧迫されるようになってしまうのである。
 耳男は、姫が、場の主体であったのではなくむしろ、エナコこそが、かれに対峙していたのであるという現実を否認し、そのことで姫を、理解不能なまでに、絶対化してしまい、そのことで、彼女の内部に自分はとらわれているという主観的幻想を、客観的現実に変換してしまう。
 姫の誤算は、自分の言葉の効果をとりかえそうとしながら、自分が第一の決裂のとき、決定的に、見られていたということを、忘却しはかりそこねたことにある。問題はかかって、「言葉がその物質性ゆえに意味を変容させてしまうこと」と「見ることと見られることの間の非対称性による齟齬」に存在しているかのようであり、第一の決裂はその決定的な証明であったのだが、姫は見ることという契機、つまり、耳男の側の事情を見失っている。
 恐らく彼女は最初の出会いにおいて、見つめられることに圧迫を感じたのであるが、このときの彼女が予期していたのも、そのような凝視であったと思われる。また、耳男も、最初の出会いにおいて、かれを惑乱におとしいれ、嘲り、そしてつつみこんだ姫を予期している。両者は、ともに、最初の出会いを原因として変容したのだが、にもかかわらず、相手については、以前の相手を想定している。そのことが、ここでの齟齬の基本的な理由である。
 こうして、齟齬の反復が、姫と耳男の特異な「関係」(「意味の変容」)を形成する。
 そして同時にそれは、前述のメビウス状の構造的対応をも意味するものであった。

 しかし、この構造的対応は、徐々にすがたをあらわすのであって、そこには、「反転」というこの物語の本質をなす「事件」が介在する。前半部を終えて、五節目になって登場してくるのは、耳男の内攻する同心円的世界構造である。この閉じられた内部は、中心に位置する仏像という特異点を介して、特殊な形で開かれているともいえる。
 ついで六節になって、姫は耳男の小屋をおとずれ、閉じられた世界に、侵入し、それを焼き滅ぼす。このとき、姫は、まだ、彼女の構造をもってはいない。物語世界は依然、耳男の構造のなかにある。そこへ、外部であり、中心のさらに内部であるはずの姫が、直接あらわれる。これは特異なことである。全体概念である神が、個別存在であるキリストに化肉するのと同様に、カテゴリー・エラーを矛盾として孕む。
 正月は、世界秩序における特異点であって、物語は、耳男の世界構造から、姫の世界構造への交代を、この部分、六節で行う。その意味では、五節と六節は、中環部とみなすことができるだろう。一節を四節が反復し、二・三節がそのインターバルをなして、五節で耳男の構造が明示され、六節で、変換・反転が発生する。七・八節は反復をなし、九節が再び、五節を反復する。
 このように、さきまわりしていえば、構造を整理することが出来るだろう。概観していかに、反復が重要な役割を演じているかが了解されることと思う。
 六番目の章節では、しかしすでに、耳男は像をさしだした後なので、厳密に云えば、かれの構造は中心をかいた暫定的な浮遊状態にあり、姫がその中心にとってかわることを容易にしている。来訪した姫は、小屋の内部にたつことによって、中心をかいたがゆえに廃墟化した小屋を掌握し、それを焼き払う。この段階では、中心としての姫は存在するが、構造はまったくの未確定状態にある。この未確定の中有の状態で、入浴しながら、耳男は、姫の笑顔に対して、或る了解に達する。これもまた、胎児の状態の儀式的な再演であって、耳男は死と再生の儀礼のなかにある。水中にあるということが、浮遊する無構造の状態をよく表している。
 耳男は、構造をもたないながら、姫を中心とする縛り付けられた自由電子のような情況にあるので、姫との関係や対応を規定するなにものも持たず、その近傍にある。
 このとき、かれが姫の笑顔を怖ろしい、なにものでもあるようなものとして、了解するのは、かれが現在、姫とのあいだの位置関係を確定するようなものさしをもっておらず、仏像が完成したあとはどのような処遇をうけるのかもわからず、しかし、彼女の恐ろしさと絶対的中心性だけが決定しているにすぎないからだ。かれは姫の笑顔の真実を了解したと信じているが、それは、この時点での、両者の関係の単なる反映に過ぎない。したがって、かれの与える恐ろしさの定義は奇妙に空虚であり、曖昧である。
 こうして、境界を喪失し、ただ、ブラックホールとしての中心のみを持つ耳男は、そこを通じて、構造もなく、抽象的で絶対的な外部をそこに見るしかない。それが姫の笑顔である。

 「いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応するものとすることができない。対応するものとすることができなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味を持つことができない。」(「対応」に傍点。引用者注。)
 
 耳男は、姫にこのとき、強烈な一方的な対応に属させられているが、未だ構造してはいない。そしてついで、姫を中心とする、あらたな構造が生成するが、これは、耳男の構造の反転としての同心円構造をもつようになる。それは、これが、文字通り「裏返し」によって形成されたからだ。

 「蛇のようにオレを裂いて逆さに吊すかも知れないと思った。」

 と、まさに、前述の直後の、秩序が形成される該当の場所にこのような文章がある。そしてその具体的な展開として、かれは姫の笑顔を刻み遺すことを決意する。これも、反転したアイディアであるといわねばならない。化け物の弥勒は、ウマミミであったかれを象った、姫の圧迫を封じるためのものであった。しかし、いま、耳男がつくろうとする弥勒は、かつて封印しようとしたその姫の笑顔そのものである。弥勒は内部と外部をいれかえ、かつて内部に封じられるはずだったものが表面となる。また、皮を剥がれた、裏返しになるというイメージも、エナコの着物が仕立て直されるというかたちで間接的ながら、明確に補強されているといっていいだろう。

 「にもかかわらず、ひたすら壮麗であろうと冀い、げんに壮麗なるに似ることのできた無数の蛇たちがいるのだ。壮麗なるに似たといっても、見たところ壮麗なものの持つべき崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものに欠けると言うのではない。ただ、そこにはいかにも隠然として夜光のように輝く邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められていない。
 よって以てひとつの全体概念を形成するところの反対概念がないのであるから、境界によっていずれが内部をなすともなく外部をなし、外部をなすともなく内部をなして、ひとびとを憎悪させ、嫌悪させ、忌避させながらも、なお戦かせ、魅了し、誘惑する幻術めいたものを感じさせもしない。いわんや、壮麗なものがなんぴとにも眼をそむけることを許さず、しかもなんぴとにも眼をそむけさせるようなものもなく、いたずらにひとびとの笑いを誘うにすぎない。これはいうところの滑稽ですらない。単なる錯誤である。反対概念をなさしめる境界なしでは、内部外部をなさぬにもかかわらず、なお内部外部をなすがごとく考え、みずから全体概念をなすと見做して澄ましている。境界こそは内部外部の変換の鑰である。」

 ふたつの弥勒の差異は、構造的なものとして見ることが出来る。前者の弥勒は耳男の同心円構造の内部で、中心として位置し、それゆえに外部である姫をその内部にはらんでいた。このために、化け物の像は、「壮麗な蛇」としての両義的な全体性を備えることが出来る。しかし、後者の弥勒は、なによりも、すでに世界構造の中心ではないし、そのうえ、その内部になにかを孕んでいるというわけではない。この弥勒は、姫の模造であって、その構造的対応物ではないのである。
 一方で、第一の疫病、疱瘡では、ひとびとは家の内部に閉じこもる。そして、死は外部から内部に侵入し、死者たちは内部でひっそりと死んでいく。この疫病はあきらかに外部からやってきたものであり、そして、名前をもっており、秩序はこれによって逆に強化され、耳男の魔神によって、疱瘡はにらみ返される。これは外的な病であり、圧迫し、閉じこめ、締め付ける病である。それゆえ、まさにそのような圧迫に抗して耳男がつくった像は、抵抗として有効である。
 しかし、二つ目の、名のない疫病は、性格をまったく異にする。これは、充溢し、破裂し、踊らせる病であり、指向性が逆を向いている。内部から外部へと向くこの侵犯には、耳男の像は無効であるのも当然である。

 こうして、内部、外部、といった位相の問題に着目していくと、「夜長姫と耳男」という小説の基本的な構造があきらかになってくるようにおもわれる。もちろん、反転がなぜ必要なのか、ということや、表現行為と、内部と外部との対応という問題は、十分に検討することが出来なかったが、顕著な反復と、反転、同心円構造がの変換が、この小説の意味構造が、進展させる事態をもっともよく説明しうるということは争えないのではないだろうか。


 主要参考文献

 「意味の変容」 森敦 1999/3/26 筑摩文庫

 「坂口安吾研究講座」 1985/11 三弥井書店
   「「夜長姫と耳男」曼陀羅」 角田旅人

 「解釈と鑑賞」 1993/2 至文堂
   「「夜長姫と耳男」 -古代のまぼろし-」 浅子逸男