蔓草と火炎と

 そうだ。きみは読んでくれるだろうか。ぼくはたしかに一方ではそのことを少しも疑っていない。きみとぼくが呼びかけるとき、それは間違いなく、そうした信を込めての言葉だからだ。だが、この信頼のなかみを説明するのは難しい。それはともするとほとんど虚構の中に入っていくような概念だからだ。情けない形で夢想家として生きてきたぼくにとって、それは、決して純粋な幻とはいえない何かリアルな言葉なのだ。むしろこう云うべきなのかも知れない。ぼくがこの手紙の達成を信頼する、そのかぎりにおいてきみがこの手紙を読むだろうとぼくは信じている。

 だからぼくは戸惑うことなく、ただ、書くべき事を書きさえすればいい。ただ、書くことさえできたら、それがすくなくとも届くことは信じていられるのだから。それにしても、ぼくはこのところ、自分がひとなみに人恋しい人間だということを思い知らされて愕然としている。さびしいなどという感情を自分が経験する、などという事態をぼくはてんから信用してはいなかった。ぼくはいまのいままで、その感情をただの退屈だと解釈してきたらしい。だから、きみとぼくが呼びかけられずにいられないのは、ただぼくがなお生きているからだと云ってもいい。

 数日前だかに、ぼくは公園で木箱が爆発し、浮浪者の手足が吹き飛ばされたというニュースを見た。ニューヨークでの事件のときにぼくは、白状すればたいした衝撃は受けなかったのに、なぜかこの事件がぼくになんだか、印象、そう、いかにもことさらめいた言葉だけれど、印象を、或る形を備えたくらやみの気配を思わせた。手足という具体性が理由なのかもしれない。あらゆる場所に落とされた不意打ち。そんなことを考えたかもしれない。

 数日前に(だが、それがやがて迅速な無情さで百年となり、千年となり一億年となって、やがて私たちはお話の中にすら残らない)、今まで何度も読んできた新潮文庫版の坂口安吾「白痴」をまたぱらぱらとめくっていた。なんだか、身をいれて読む気にはなれず、漂い、拾い集めるような呆然とした読書だった。

 「私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出していた。満ち足りることの影だにない虚しさは、私の心をいづれ洗ってくれるのだ。私は安んじて、私自身の淫慾に狂うことができた。何物も私の淫慾に答えるものがないからだった」

 「ふと孤独な物思い、静かな放心から我にかえったとき、私は地獄を見ることがあった。火が見えた。一面の火、火の海、火の空が見えた。それは東京を焼き、私の母を焼いた火であった。そして私は泥まみれの避難民におしあいへしあい押しつめられて片隅に息を殺している。私は何かを待っている。何物かは分からぬけれどそれは久須美であることだけが分かっていた」

 「僕がもうそんなに何でもないのか」
 「思いだしたって、仕方がないでしょう。私は思いだすのが、きらい」
 「お前という人は、私には分からないな」
 「あなたはなぜ諦めたの?」
 「だってお前、僕は貧乏なウダツのあがらねえ下ッパ相撲だからな。お前は遊び好きの金のかかる女だから」
 「諦められる」
 「仕方がねえさ」
 「諦められるのなら、大したことないのでしょう。むろん、わたしも、そう。だから、私は、忘れる」

 ホームレスの手足が吹き飛ばされる。芋虫のような胴体。そのあたらしい生き物のイメージがぼくからなぜか離れない。いつか、きみは世界の果てとはいま此処のことだと云った。荘子だったか覚えていない書物に、こんなことが書いてあるそうだ。いちおう注記しておくと、燕は北の地方、越は南の地方の名前。「われ天下の中央を知る。燕の北、越の南、これなり」

 爆発が、漂っている、世界の中央で、世界の果てで、起きる。誰かが、誰かの切り落とされた手をぎゅっと握るのだけれど、それを握り返す動きは決してない。まるで、部屋という部屋がトーチカのようだ。

 二年越しで、考え詰めていたような気がしたことがあったのです。ぼくにとって、裏切りということ、そして、別人になるということは切り離せない「イメージ」だった。それはたしかに事後的に捕まえられたはかない印象でしかない。無意識のうちに、とてもながいスパンでひとの体は考えることを継続する、というのは本当なのだろうか。そうして、ある日、思いもかけず、自分が「考えていた」ことに気が付くというのは。ともかく、ぼくは考えてみれば果てしなく飽きもせず、へんしんについて書いてきた。

 「いったい、かれはどういう人間だったのだろう。ここには何の手掛かりもない。ぼくは自分の愚かさ加減に、愛想が尽きそうだった。それで、脱力して、呆然と西日を浴びて疲れていたのだ。いろいろな考えが駆け巡った。かれは何を考えていたのだろう。歯車がどこで狂ってしまったのだろう。ぼくがなぜ巻き込まれなければならなかったのだろう。少し、腹が立った」

 「革靴の匂いはむせるように、だれもいない街路はお祭りのように白いビラやポスターに満ち、拡声器の声がますますカーニバルのように、そして夕食は皿が減り、おねえさんなんだから。なんのこと。わたしは好きでおねえさんなんじゃないわ。何が土産にほしい? どうしてとうさんはそんなに我慢しているの。どうしてとうさんは帰って来なかったの。どうして子供達は泣かなくてはいけないの。いまはもう記憶は掠れ、ただ傷だけが残って。ああ、もはや言葉は追いつくこともできず」

 原体験なんてものをぼくは信じない。ぼくがたとえ原子爆弾投下の瞬間に死んだ犬の生まれ変わりであろうと、一億年後の世界を支配する虫の先祖であろうと、何か輪廻を信じることのほうがまだましだ。だが、原体験というイメージほど付きまとって離れないものもない。ぼくが馬鹿の一つ覚えのように繰り返すということは、何事かを語っているのかは分かりようがない。花はめずらしさであり、そしてだからこそ反復の効果なのだとあのひかりかがやく中世の能楽師が囁く。だが、ともかくぼくは微笑みを書きえてきたのではなかったか。

 満ち足りることの影だにない虚しさ、というけれど、そんなことがほんとうにあるんだろうか。ぼくは伝説もお祭りも民話もまるでないような場所で育った。本当を言えば、そうしたものはあったのだろうけれど、町からきたぼくたち家族はそういうものからはじき出されて暮らしていた。だから、ただ生活感覚だけが現実の異界との接触だったような気がする。

 気になってならないのは、むかし、人々に知られていた「人攫い」のイメージだ。夕暮れの郊外を徘徊する異様のものたち。まだ凄かったころの高橋留美子の「うる星やつら」に出て来た「怪人赤マント」、数年前に松本人志が造形した人攫いや異形の者たち。空き地、公園。黄金バット。

 ぼくの家の真裏のかなり大きな堤(農業用水の溜池だ)が小学生のころに埋め立てられて公園になった。水のないときにはその草の生えた底を走り回った堤がみずのころにはくろぐろとした湖となる。それがいまや、近代的な公園になって、野球やサッカーをして・・・・・・どんなところにもおそらく廃墟という側面は潜んでいるのだとぼくは思う。

 廃墟という言葉はほんとうはただしくない。何かが壊されて、滅びて、廃墟になるのだろうけれど、その過程にはぜんぜん重点がないからだ。廃墟は、何かさかんなときとの対比とか世の無常なんてことにはまるでかかわりのないひとつの経験のジャンルなのだと思う。廃墟というのはがらんとしていて、ものがまばらで、しかし、ものすごく風通しがよくて、美しく、いいかげんで、観念から奇跡的にまぬかれていて、そして「本当」だと思う。

 海の青さはありえないことだと不意におもうことがある。海がなつかしかったりやさしかったりする何かそういう場所なら、海はいっそもっとやさしい色をしているだろう。あれは天にあこがれているのだ、というひともあれば、あれは天を誘惑しているのだ、という人もある。海と陸が接する場所には、不思議なことにいつも「廃墟」がある。コンビナートだって、そうだ。テトラポッドはまさしくむきだしの骨格で、投げ捨てられた雑誌は扇情的な記事と突飛で落ちのないかたわに不気味な話を持ちかける。聞くところによると、公園の砂には貝殻がときに混じっていて、子供たちがそうするように横たわってべったりと耳をつけると波音が聞こえるのだとか。

 ひとがひとに出会うということは奇跡だと言われている。はたしてそういえるものだろうか。奇跡に値するのは再会だ。ひとは、関係は続ける理由があったり、つづけない理由がないから続くだけだという。けれど、出会いにはまったく重点をおく必要はない。いずれ誰かにひとは出会うからだ。だが、再会は意志であり、そして、根拠のない果敢さだ。

 「爆弾、破裂しなかったわ」

 かつてぼくはそう書いた。それは楽観だったのか。というより、それは、絶望の表現だったはずだ。だが、いま爆弾がいたるところに配達されても、決して、そんなことに意味など宿るはずがない。ぼくはfarewellという言葉が好きだった。多分、「ホームズ、最後の挨拶」で知った言葉のはずだ。挨拶が美しいのはそれがいつもわかれでもあるからだ。

 過ちを繰り返すたびに、その過ちと出会い損ねた、乗り過ごした、行き違った、という気になるのは、あながちぼくがとりとめもないやつだからというばかりでもないんだろう。二度と会えないものにしか、本当の意味で再会することはできないのかもしれない。もっとも、ひょいと次の日の朝にでも隣町で見かけたりするのかもしれない。そして、なんだばかばかしいとすこしはほっともして、また次の朝いってみると、影も形もなく・・・・・・

 「恋人たちの予感」のメグ・ライアンのことを考えて、少ししあわせな気分でいた。そしてこんな話を考えた。友人同士の二人が何かの弾みでいたすことになってしまう。けれど酔っ払ったせいか、緊張のせいか、できなくて、そのまま暗闇の中で朝まで、物語をしてすごす。状況がまるで映画から連想したようなものだけれど、暗闇の中、顔は見えず、物語が聞こえている。体は近くにあって、しかし手軽に相手をどうすればいいかわからないへんなあてどなさと親しさ。

 忘れるということは、盛大な祝祭なのではないだろうか、そんなことを考えてもみる・・・・・・

 どうにかして、或る広場、木箱によって閉ざされはしない、ひとつの踊場をつくり、そこにはかすかな麦笛かなにかを匂わせて、がらんとした廃墟のような、人形が踊って、しかし、それは陽気なホネホネロックのおもむきで、愛執や悔いが、逆立ちして酔っ払うような、そういう時間があればと思う。小説を書いていて、そんな空間、それは別にふざけた場面ということにはぜんぜん限らないのだけれど、それが気配として感じると、うれしくなってしまう。何か、ともあれ、荒涼とした平野であっても風は吹き、だから舞踊があるはずなのだ。

 明治のことを書いた本に、「今の人にはわからないでしょうが、当時は文体苦と生活苦が大きなものだった」という意味の言葉が引用されていた。ぼくはわあっと思わずにはいられない。いまだって、文体を一から作らないと惨憺たる羽目になるということではいっしょなんじゃないか。標準的な、使い勝手のいい文体、文章語なんていま、どこかに存在するんだろうか。古臭く見えることを覚悟すればそれはいかにもな文学語みたいなものはあるだろうし、同じくらい古臭い「口語体」もあるだろうけれど、どっちも実用にたえないことでは変わりはしない。いまものを書くということは、なにか、ただしい言い方をゆがめているという引け目なしにはすまないような気さえする。擬古文で書きたくなる衝動に駆られることだってわかりやすすぎるくらいだ。

 事件の当事者の話。事件の部外者がそれを追い求める話。どちらも多い。いま、どちらかというとぼくは目撃者のことをやっぱり考える。(あたりまえだけれど、考えは前に考えたところからしかはじめることはできないらしい)目撃者は何者なのだろう。なにも、目撃というだけのことではなくて、一過性の、関係者というか、本来の関係者とはいえないような、そういう係わり合いということを考える。

 たとえば、話をした、とか、携帯で最後の声を聞いた、とか、すれ違った、とか、そうした、何かごくごくたいしたこともなく、進行にとくに影響も与えなかったような事柄が、どんなふうに人に染み込んでいくのだろうということかもしれない。
 
 それは、タルホのような、なんでもない顔をして、街角でばったり月に会ったらどうしようというような連想としっかりと結びついている。とりあえず、ベーごま勝負でもするほかはないような気もするけれど。

 ぼくはやはり、感謝というのはうろんな概念で、とても扱いが難しい、と思えてならないのだ。保身の念でいくらでも感謝の念はバーゲンセールされるもののように見えるし、かといってほんものの感謝とはなんだろうと考えてしまう。いつか感謝ということを小説に書けるようになるときもあるかもしれないけれど、なんだか、この言葉はそれ自体で手放しなところがあって、うろんな気がしすぎる。

 そうそう。橋という橋もまた、廃墟的なものだと感じてきた、ということを書くのを忘れていた。

 ・・・そういえば、月のうえにいっても、やっぱり二日酔いがあるというのは本当なのでしょうか。

 ではまた。どこかで。