空所を埋めない

 いま、アルバイトでポスティングをしている。ちらしを勝手にポストに投函して回るという、失礼極まりないしごとである。こういうことをしていると、その性的なニュアンスにこころが赴かないではない。とはいえ、考えてみれば、空所を埋めるという働きは、わたしたちすべての度し難い欲求であるかのようだ。
 日々の仕事のすべては、穴を埋め、空所にはめこみ、欠落にあてはめるという形に殆ど抽象できるのだということにぼくはふっと気がついたのである。マークシートを埋め、空所を埋め、試験のなかでも、それ以外でも、穴を埋めることを幼い頃からしつけられていく。心の欠落は埋めなければならないらしいし、充実し、充満してないといけないらしい。穴を埋め、何かで満たすことはほとんど、反射的な義務ででもあるようですね。
 真実という言葉の真という漢字は充填の填ともともと同じ文字だったし、実という言葉は充満し、充実し、中身が詰まっているというニュアンスがとてもつよい。

 けれど……空所は埋めなくてもいいのではなかろうか。
 いや、それを空所と呼ぶから、ただそれだけの理由で、わたしたちは、それを埋めるべきだと思うのではないだろうか。

 空所について考えてみると、考えてみれば空所のことを空所と呼ぶのはわたしたちの性急さのせいだということが分かる。へこみや窪みをみると、すぐにわたしたちはそれを空所だとおもう。そして、そこにあるべき中身を幻視してしまう。埋めようとする。でも、窪みやへこみには、何かが欠けていたり、何か当てはまるべきものがあるわけではない。全然ない。
 それは、大地の優美なカーブ、ひとつのアーチであるにすぎない。ひとつの湾曲、ひとつのカーブ、ひとつのまるみ、ひとつの窪みを、欠落と見なし、穴とおもい。当てはまるべき何かがあると、へこみはそれを埋める物を、待っているというのが、わたしたちの愚かな間違いなのだ。
 勿論、厳密な意味での空所、欠落というものはある。出来方が、欠落であった場合だ。ただ、そのときでも、空所は、ただ、じつは、欠落に起源をもつへこみでしかなく、それが、欠落に起源をもつへこみだからといって、充填されなければならないなどというのは、あまりにも性急な決め付けでしかない。欠落がおきると、傷がのこる。でも、傷は、充填によっては治らない。
 だいたい、原状復帰はけっこう、ろくでもない結果を来すことが多いものですよ。

 問いを答えで埋める。答えが重要だとおもうひとたちは、埋める衝動に従っているのだ。問いには問いを、問うという事は、埋めることではなく、穿つことだ。空所を穿ち、つねに、埋め尽くせないものをつくりだす。(ぼくがバフチンが好きなのは、問いの思想家だからだ)

 ニーチェはルサンチマンということをいった。欠落を想像によって埋め、想像のなかで、価値を逆転させ、あの蒲萄は酸っぱいということ。天上の果実で、地上の労苦を想像のなかでつぐなうこと、それのみならず、地上の権勢家を想像の地獄に落とし、軽蔑することだ。ニーチェが論じられるとき、ルサンチマンはいつもいわれるのだけど、ニーチェが、現実に悲惨な境遇にあったり弱者であるひとたちが、いきのびる必要として、ルサンチマンに身を任せることは否定していないのである。ここでもかれの言い方は曖昧で、許容しているのか、肯定しているのかよくわからないところがあるのだが、ともかく、かれが指弾しているのは、弱者でもないくせに、弱者であると自称して、実際の権力をにぎっているくせに、しかも、弱者の想像のなかでの勝利さえ奪い取る偽善者たちのことなのである。

 マスコミが、道徳家ぶり、反体制を自称して正義の側にたつ。
 金持ちが、貧乏人の節約の美徳を誉め、自責の念を表明してみる。
 かれらの道徳的憤懣のみぶりこそ、ルサンチマンと呼ばれる。

 空所は、でも、埋めなくてもいい。

 シモーヌ・ヴェイユは悲惨にあうと、魂に空所ができるという。その空所を、想像によって埋めないようにしていると、恩寵がやってくるのだという。彼女は想像が、現実の苦痛を、観念的な操作で、イメージのなかでつぐなうことを拒む。

 復讐をしても、失われた物は帰らないのだから、これも、想像による補填の一例。

 空所をうめない。

 だが、空所を埋めないと云うことは、空所を、欠落を、空虚を、ほったらかしにするということではない。空所を放置すると、それは知らぬうちに、埋められてしまう。想像によって、あるいは、もうひとつの誤認によって。たとえばニーチェの追従者たちは、空所をそれ自身ですばらしいと肯定することによって、その誤認に至って、結局、まわりくどい仕方で、埋めてしまった。

 その誤認というのは、空所には、空虚という物があるという誤認、詭弁のことだ。空所は空虚によって、あるいは日本列島伝統のいやらしいいいかたを使えば、無によって充填されているという思考によって、空虚は、また、埋められてしまう。

 だが、もちろん、空所は、すでに確認したように、空所と呼ばれる物は空所ではなく、へこみ、大地の優美なカーブなのだから、空所でない以上、空虚によってみたされているわけでもない。このおなじ詭弁、誤認はべつの文脈で、ながくおこなわれてきた。

 空のことだ。

 ぼくは仏教についてはなす資格はない。それほどよくは知らない。だから、わたしの目的に添った側面だけ、抜き出して話す。

 空とは、事物には実体はなく、本質もなく、ただ、事物は、事物の相互関係、因果関係、によって、時々刻々に構成されている現象でしかないということだ。だから、それは、ただ、空所を埋める物はない、ということをいっているのであり、空所には、空という素晴らしい何かがあるのだといっているのでは全くない。

 (勿論、ニーチェのルサンチマン理解と同様、ぼくも、救済する仏教というもの、埋める教えというものの存在を否定する気はない。ぼくは、ひとは、埋めなくても、救われなくても、べつにいい、ということをいいたいだけだ)

 でこにかならずぼこがつきものだとしても、(それはとても怪しい)、凸のなかが充満しているなどというのは、なんら確信できることではない。むしろ、はりがたのなかみは空虚だとかんがえたほうが正しいとおもう。つまり、そのようにして入れ子、マトリョーシカになっているのが、現実の実態ではなかろうか。この入れ子の無限を終わらせたいために、ひとはそれを埋める何かを夢想し、埋めたいと願う。だが、多分、実際には、そんなものはない。いつだって、なかからさらに小さいマトリョーシカが出てくるのだ。

 ライプニッツの哲学はそのような哲学だとおもう。かれは真空の実在を否定しているけれど、一方で、物質は無限に小さく分割でき、最小という物はなく、どんな部分にもさらに部分があるという。この哲学は、空所は埋められているけれど、でもそこにはつねに欠落があるといっているように見える。すくなくとも、充満して安定することだけは決してない。かれの美しい言葉に、流動性こそが根源的なのだというのがある。

 書くことは白紙を埋めることだろうか?
 いや、ぼくらは透かし彫りの職人だ。
 欄間に、空所を、文字の形で、穿つ。

 すけべえな話にもどしてしまうと、空所を埋めたいというのが、性的衝動の本質なのだろうか? ぼくにはそうは思えない。むしろ、空所を穿つことのようにも思え、あるいはより優美な観念を探せば、やはり、接触、愛撫だともおもう。埋めると云うことは、考えてみれば、とても保守的なことである。だからこそ、ぼくらの日々の労苦が埋めることで代表できるのだろう。しかし、包み込んだり、埋めたりすることをひとは願っているのだろうか。そういう、静止へと至る、保守的な衝動ではなく、もっとなにか、優美で、柔軟で、はげしいものがあるはずではないだろうか。

 だから、へこみや凹凸は、埋めることが必要なのではなく、それに触れ、その湾曲と相互作用し、押したり引いたりしたり、踊るように舞うように、たしかめられることが、たとえば必要なことなのかも知れない。

 とはいえ、生活が現実であり、すべてが崩壊への傾向をもっているからには、埋める作業は、不可避ではあるのだろう。ぼくらは実際、胃を日々、埋めなくてはならないのだから。しかし、かならずしも、埋める必要はないし、空所を至る所に見いだし、空所には全て理想的な充填物があると想像するのは間違いだし、埋めることを闇雲に価値あることとみなすのは、うそだと思う。
 まして、充実したり、満足したり、目標で空虚を埋めたり……などというのを強いるのは、おかしなことだ。