異邦人/L
Kに
そして、ウィトゲンシュタインに
海にゐるのは、
川井に始めて会ったのは、サークルの部室だった。それがどんなサークルだったのかは関係ないからはしょることにする。始めて紹介されたときは、妙に明るい奴だという印象がすべてだった。かれと、一対一で話すようになったのは、一カ月ほどしてからだ。かれは陽気につぎからつぎへと学校のこと、過去のことなどをよく話したものだった。趣味は、そして運動部は、ラグビーだそうだ。さもありなんであった。あんまりそれらしいので、薄気味悪かったくらいだった。
その日までは、それだけの人物だと思っていたのだ。
授業が終わって大学の門を出ると、そこに彼がいた。赤いジャンパーにジーンズといういで立ちだ。午後の日に映えて、うっとうしい位精気にあふれている。大柄なかれが、上から、粗暴と取られかねない大声でぼくに云った。肌は浅黒く焼けていて、髪はベリー・ショート、油で固めている。かつて僕はかれに酒席で背中をたたかれ、二三日痛みがとれなかった。
「よお、高宮。飲みに行こうぜ」
ぼくが驚いたのは云うまでもない。もちろん、親しい仲ならとくに不審なことでもないが、真っ昼間である。木枯らしが吹き荒れ、太陽はそれほど威儀を輝かせてはいないと云っても、ぼくは少し予想外のことに固まってしまった。
「…日も高いのに何を云ってるんだよ」
「いいじゃないか」
一向気にする様子がない。ぼくは口を開けて何か云ってやろうと思った。しかし、考えているうちに、靴の底のように分厚い面の皮が心理的に迫って来て、元来気力に欠けるぼくは頷いた。必ずあとで自己嫌悪に陥るくせに、ぼくも阿呆である。
「どこに行くんだ? 金ないぞ」
川井は任せとけと胸をたたいた。
それで、少し離れた駅前の飲み屋に行ったのだが、カウンターに座るや否や、彼は饒舌になった。
古い、ワックスでも塗ってあるのだろうか、すべすべのカウンターにどすんと音を響かせて腰掛け、ビールを麦茶のようにがぶ飲みしだす。勘定はべつだと道々かれは云いはしたが、ぼくは酔い潰れられたら困るなと、少々不安になった。ぼくに彼を運ぶ体力はない。ましてや暴れられたら始末に困る。もちろん、仮にも友人であるのに、このような冷たい現実的な心配をぼくは後ろめたくも思うのだが、こればかりは性分である。いままでかれは暴れたことはないが、それはまだ酔い足りなかった所為かもしれない。ぼくはそれとなくなんとかしなければと思った。
「ばか。なにちびちびやってんだ。いいか、びーるってのはこう、のどで飲むんだ、のどで。ぐいっぐいって。おとこぎがたりないよおまえらは」
「んなこと云ったってな」
「るさい。だまってゆうことをきけ。だいたいおまえらはおとこぎが」
以下延々と続くのだが、酔漢の話は繰り返しが多い。省かせていただく。要約すれば、ラグビーの試合で負けたそうだ。さんざ説教をぼくとぼくのサークルにしたあと、急に社会の慨嘆を始め、それがいつのまにか愚痴になり、そして結局それだけのことだった。愚痴を聞いてほしかったらしい。ぼくは退屈していた。
そして不思議だった。彼、川井はどうしてこんなに分かりやすく、上滑りなのだろう。なにより、ぼくを妙に気に入っているのが納得行かなかった。
そうして五時ごろのことだ。
ようやく飲み屋には客が増えて来た。話し声が喧噪に近づいてくる。団体が多いのはやはり大学が近いからだ。ぼくはそんな当然のことを確認しながら、やはりちびちびとビールを口にしていた。少しも酔っていなかったのは、分かると思う。案の定つぶれてしまった川井の体が横にある以上、酔う訳には行かなかったのだ。
それに、そもそも本当は酒は好きではない。付き合いでは飲むが、自分から買い求めたことはなかった。まずいとは思わないが、うまいとは到底思えないのだ。
川井は大きな鼾をかいて寝込んでいた。カウンターに突っ伏して、安眠の体だ。見るも疎ましかったが、さりとてすぐに起こすのも億劫だったし、なにより自己嫌悪に僕自身浸っていた。ふだんは嫌いではなく、淡い友情めいたものすら感じているくせに、ただちにこうしたシーンに出会うと疎ましくなる自分の冷たさもいやだったし、この程度で雲散霧消するような友情ごっこにもいやけがさした。
やはり少し酔っていたのかもしれない。
注文を次から次へととる店主の挙措をながめていると、なんだか昔からここにいたような気がしてくるから不思議だった。ガラスビンのぶつかる音がする。七本盆に乗せてボックスへもって行く店員を見て、ぼくはここでバイトできるだろうかと、下らないことを考えた。
川井が寝返りを打った。いや、寝返りと云うべきだろうか。とにかく、前に突っ伏した姿勢で、前に組み、枕かわりにしていた腕の片方をカウンターからずり落としたのだ。だらんと死人の手のように垂れ下がる。その拍子に、彼の横、つまりぼくらの真ん中に置いてあったかれのバッグが落ちた。
ぼくが慌てて拾おうとすると、空いていたバッグの口から(というのも、酔い潰れる前に川井はぼくにユニフォームを見せたからだった)、一冊の本が転げ落ちた。
何のことはない英語の講読の授業のテキストだった。分厚いペーパーバックである。ぼくもとっている授業だ。だが、そこに挟まっていた紙片がぼくの目を引いた。第一に、ペーパー・バックに紙片という組み合わせがぼくの先入見の意表に出たからだった。ペーパー・バックに紙など挟んでもすぐ落ちて役に立たないようなものである。
それに、元来活字中毒者の気があるぼくは、じゅんすいに文字が見たかったのと、つきあわされて腹が立ったので何を書いているか見てやれ、という気持ちもあった。
しかし、一番意表をついたのは、その文面だった。内容も内容だったが、書体も尋常ではなかった。鏡文字である。
「私は異星人に憑依されている。助けてほしい。私の体を使ってしゃべっているのは私ではない。騙されないでくれ」
あれは人魚ではないのです。
その日は、ぼくはなにも見なかったことにした。かれをうちまで送り届け、勘定をかれの財布を漁って(ぼくの所持金ではたりなかった。これくらいはゆるされるだろう。ちゃんと明細をおやじのハンコ付でいれといた)払い、そしてほっかむりして六畳のわが家へ逃げ込んで布団を引っ被ったというわけだ。
しかし、むろん、それだけで都合よくあの異様な記憶が忘れられるはずもなかった。川井は、
一、精神異常。
二、宗教関係、
三、これだけはあってほしくないが、事実。
そんなことが頭を駆け巡っている以上、部室でかれに会うのが気まずかったのは当然だろう。しかし、かれはどうやら無理に誘ったので気を悪くしたのだと解釈して、そのうちきげんを直すだろうと静観の体らしい。たんじゅんで助かった、と云いたいところだ。
しかし、もし、その人のしゃべることを信用できないとすれば、もはやなにも決定的な証拠はないことになる。ばかばかしいことではあるが、ぼくは原理的にあの紙片の言明を否定できないことに気づいてしまった。それで、なにとなく憂鬱な気分でしばらくいたのだが、さらに、ことはこれだけで済まなかった。
一週間後のことである。
川井が、東京湾にぽっかりと浮かんだのだ。ぼくは思わず笑ってしまった。不謹慎だが、あまりの紋切り型に笑わずにはいられなかった。刑事ドラマでもあるまいし。
できることといえば笑うことぐらいだ。
そして、ご想像の通り、ぞっとした。いや、奇妙な符合に出来過ぎだと思っただけかもしれない。そのころのぼくのことを、ぼくはよく記憶しない。何をしたのかは鮮明に覚えている。だが何を思ったかになると、とたん、不鮮明になる。それだけ内心では動揺していたのかもしれない。強烈な出来事には、印象が鮮烈になるというのが普通の考えだが、ぼくの場合は、どこか記憶の回路が壊れたのかもしれない。
どこかで、やはりぼくは、真の友情などとはぜったいに云えないが、少なくともあらゆる人が口を利いたことの有る存在に対して抱くある種の同情、同胞愛めいたものをかれに、さきの出来事にかかわらず抱いていたし、なにより、ひどい、そして冷酷で即物的な云い方を敢えてすると寝覚めが悪かった。人は同族が傷つくのを本能的に、もはや種のゲシュタルトのレベルで嫌がるものらしい。
死体は、溺死体がつねにそうであるように、ひどいありさまだったそうだ。青黒く、膨れ上がり、腐敗し、魚に食いちぎられた、かつて人間であった風船。
死因は、水死だったが、自殺か他殺かは、はっきりしなかった。当然だ。押されたのか、落ちたのかはわずかな差だ。加えて、かれは泳げなかった。しかし、動機のあるものがいないことから、自殺で落ち着いた。自殺を示唆するものはなにもなかったのだが、それでも他殺よりは説得力があったのだ。ぼくも一回呼ばれた。しかし、たいして話すこともなかった。じっさい、ぼくらはともだちのふりをしていただけだったのだから。このまま、三年顔を突き合わせていたら、もしかすると友人になれたかもしれないが、その機会は永遠に奪われている。埒もない。ぼくは何を云っているのだろう。
ぼくが、この事件ですっきりしなかったのも、分かってもらえるとおもう。なにより、このままでは、薄気味悪くて、この一連のなりゆきを思い出にファイルすることなどできなかった。
なまなましくぼくをおびやかす力の有るうちは、思い出などという浪漫的な呼び方はしないものだ。
それで、ぼくは、かれのことをほとぼりがさめたころ、調べることにした。事件が自殺で落着し、警察がいなくなってからだ。どうせ、警察が証拠はぜんぶあつめただろうし、むだ足になるのはわかっていたが、実際に実行しないことには自分が納得しないだろうと思ったのだ。
かれのうちはすぐ見つかった。某区某町某番某号のアパートの一室だ。いまは当然空室になっていて、まだ事件の記憶も新しく、借り手はついていないようだった。それでぼくは、その部屋を借りたいので下見させてくれと云った。
「安いって聞いたものですから」
大家は奇特な人間だという些か無礼な目でぼくを見たが、もちろんしばらく借り手がつくまいと思っていた物件だ。表面的には愛想よく案内してくれた。
部屋の中までついてくるかと思ったが、大家はカギを渡し、
「ついて行きましょうか」
と云うのにぼくが断ったら素直に外で待った。
閑静な住宅街である。休日の午後は静かに息づいていた。
赤錆びた、軽薄な音のする階段を昇り、二つ目がその部屋だった。カギを差し込み、開けると、かび臭い饐えた臭いがした。
がらんと、音が聞こえるほど広々としてなにもなかった。部屋は空虚だった。当然のことだが、或る異常な期待をひそかにしていたぼくは、やはり拍子抜けした。もちろん、予期はしていたが、それはこの際あまり関係がないのである。
清潔な、一目で全体を一望できる七畳半の部屋は、何の変哲もなかった。正面のドアからは西日が差し込み、入り口すぐのコンロ一つとトイレの一畳の板間から、障子を開けて入ると、右手の壁は押し入れである。
押し入れのふすまを、おそるおそるあけるが、なにもない。
ぼくは急に力が抜けて、畳に座り込んだ。
いったい、かれはどういう人間だったのだろう。ここには何の手掛かりもない。ぼくは自分の愚かさ加減に、愛想が尽きそうだった。それで、脱力して、呆然と西日を浴びて疲れていたのだ。いろいろな考えが駆け巡った。かれは何を考えていたのだろう。歯車がどこで狂ってしまったのだろう。ぼくがなぜ巻き込まれなければならなかったのだろう。少し、腹が立った。
しかし、もちろん、このままでいてよいわけがない。ぼくは気力を奮い起こして部屋を出、大家に西日だの、事件のことなど、狭いだの勝手な難癖をつけてことわり、そのまま、帰ろうかと思ったが、それではあまりにむだな一日になってしまうような気がして、ちょうど電車が大学の駅を経由するという都合もあり、よく寄るマンガ喫茶によって行くことにした。
この喫茶には、自由帳と称するノートがテーブル毎においてある。暇つぶしに書き、知ったもの同士の連絡や、知らぬ同士の交流に使われているのだ。
何げなく、コーヒーを頼んでページをめくると、そこに鏡文字が見えた。それもかなり崩した字体だ。これでは判読はぱっと見ただけでは不可能に近い。
しかし重要なのは、それがぼくの覚えている川井の筆跡だったことだった。
背筋に寒気がした。ぼくは迷信家ではない。いづれ、ここにおいてある以上、ぼくが見つけるのはむしろ理の当然で、しかもぼくしかおそらく鏡文字の筆跡など知るまいから、ぼく以外が見つけるはずもないことも理の当然だと、ぼくは納得できた。
にもかかわらず、薄気味が悪かった。しかし、ぼくはそのながながと二三ページにわたって書かれた文の最後に、かれの普通の書体で、
「意味のない落書きして汚しちまった。すまん」
と書かれ、以下当たり障りのない冗談が書かれているのに、視線を吸い付けられた。もし、かれが意図して手の込んだ悪い冗談を弄した(しかしそれに結末をつけるのに死ぬというのは理解できないが)としても、それはあまりにぼくの知るかれの印象とは食い違った。いづれにせよ、かれはぼくの知る限りのかれではなかったらしい。
ぼくは、ページを破って持ち帰った。
あれは、浪ばかり。
こう書いて有った。
「いまや見ることしかできないいや考えることすらできない私はただ心のうちで異星人が話す言葉を聞くことしかできなくなってしまった奴が意識しないときだけ私は手を動かしこのように書き奴に気づかせないように意識の隠蔽をほどこすだけだもはや心すら奴のものになってしまった助けてくれ誰か気づいてくれ奴の言葉は私の言葉ではないんだ」
外では沛然と雨が降り出した。
「私は封印され見るだけと云う永遠の苦痛を課せられているいまも意識のなかで奴の比重が日に日に重くなって行くのが分かるそんなことになるくらいなら死んで道連れにしてやる奴は私に気づきもしないどこからやってきたのかも分からないだが奴は絶対に私ではない奴が紡ぐことばは私の心を盗み見て私の記憶を利用して何の矛盾もないようにしている……」
雨音はまだつづいていた。ぼくはそのページを破いてゴミ袋に捨てた。それから、インスタント・コーヒーを一杯いれて、天井を見た。そして次の日から、元気にサークルの部室に通い、授業でノートを取った。
そして一年が経ってから、この物語を書き始めた。
それからずっと、ぼくはただ悲しかった。心理学も哲学ももってのほかだった。かれは、自分が信じられなくなったのじゃない。自分だと信じられなくなったのだ。そしてそのことに自分で気づいていなかったのだ。なんだか、やるせなかった。必死で、解釈しようとした、かれが報われなかったことが、ひどくやるせなかった。なぜかれはあるがままをうけいれなかったのだろう。いや、ぼくらはきっとみんなそんなことはできないのだ。なぜだろう。かれの恐怖がいまやぼくにも分かるからだろうか。かれはきっと足を滑らせたのだ。けっして死のうとしたのじゃない。かれは足を滑らせたのだ。滑らせてはいけない足場から。
…泳げないなんて、莫迦だな。
ぼくはその日に、あの飲み屋で、ひとり黙り込んで一晩飲み明かした。不思議に店は静かだった。いつもと同じで、ビールは舌に苦かった。自殺できなかった少女のように憂鬱だった。アルジャーノンに花束を贈らねばならないように、おまえのために、ぼくは一杯のビールを干さねばならない。その埠頭では、浪が今も天を呪っていることだろう。
そう考えながら一気にコップを干した。
(了)
94/10/20-21
加筆 95/12/7