部屋

 ここにいないことがあなたの魅惑のひとつであることに撃たれる。

 ばあん。

 不可能な愛を信じこむためには、血まみれの暴力をとおしてこの、
 流れるモノに覆われた世界へ、
 愚かしいほど透明な、月と祈りと永遠と風と速度の不可能ないのり

(それもまた架空の名詞)

 を結び付ける
  《化肉》を行わなくてはいけないだろうか。

 ため息のような私のなかの欲望は絶望的なまでに世界とあなたの不在へと向く。
 一個の空白の《括弧》として、あなたの存在は私の部屋を満たしている。

 「きのうあなたはわたしへとても複雑な会釈をした」

 エロスが無償の愛でも友愛でもなく、ましてや肉へのつまらない快楽への欲求でもないなら、
 どうして私はあなたを独りのをんなとして、
 をんなの体をもちながら同時にをんなの魂と、
 をんなの欲望を持った独りのをんなとして、
 欲望することができるのだろうか。

 「話すことと話さないことのはざまのふかく危険な裂け目」

 途轍もない矛盾。
 あなたの体とたましいを欲望することのあいだの、避けがたい深淵。

  「おちていく、おちていく」

 ここにいないあなたを欲望することは、
 いつかここにいるだろうあなたを欲望することとは違って、
 まさにいまここにいないあなたを、
 約束としてではなく、
 現実として欲望するということ。

 肉体の欠けたエロス。

 でもそれは、一つのフィクションではないだろうか。

 (いいえ、むしろそれは倫理の問題よ)

 あなたであるをんなは欲情をそんなにも思い切ってエロスと区別する。

 (確かに欲情は返すことを知らない…………
 あなたは精神/肉体という血塗れの隠喩を使って、
 全くべつのこと、顕現する架空、を述べたのか)

 手に触れたいという想い、
 愛撫のように語り続けたいという想い、
 ここにいないことを欲望しうるという想い、
 かくされた殺戮と暴力に満ちた日常をしかくあれと云わせる想い、
 それがどうしてあなたのをんなの体を確かめたい、
 膚のすみずみまで知りたいという想いと別物であるだろう。

 (わたしは炸裂するファロス、あるいはリンガ、けれどそのことは耐え難いセクシュアリティ、
 《母親のための少年で、あることは、耐へ難い》
 ただをとこであることから逃れ外れることはきっとあなたをただひとりのをんなとして愛することと同値)

 いま、あなたはここにいない。
 けれど反響は私のなかを轟音を立てて響き、私を掻きまわす。

 「勇敢であることほど難しいことはない」

 わたしがをとこのからだでしかありえないように、
 あなたはをんなのからだでしかありえない。

 (世界は仕方のないことの集積、それゆえに理想は敗れ続け、ユートピアはいつまでもネヴァーランドでありつづける。
 だからぼくらは言葉もえらべずいのる)

 「でもわたしは女らしさで装うわ」

 もしこの欲望が、語られえない不在の歴史に刻まれる無二の新しい出来事なら。
 (それとも、そのように無理にもあいを作りなすべきなのか)
 けれど、恋愛が一個のこの殺戮と残虐と俗悪にみちた世界を支える血まみれの制度であるならば、
 わたしはどんな顔をしてあなたを欲望すべき。

(反省することのない閉じられた円環は回り続ける……!)

 わたしのエロスがあなたのエロスと語り合い流れこむという、
 キチガイじみた救済のビジョンのための祈りはもしかしたら果てのない愛撫なのかも知れない。

 (ユートピアは日常のすきま、
  目を瞑り、
  深淵に身を投げかければ、
  浮かび上がるのは「架空」)

 「キスして。二つのエロスが一つの管になった体(たち)のなかで溶け合うことなく交ざりあい、こすれあうの」

 ここにいないあなたはどんな返辞をこの独り上手の言葉に返す。

 (じゃれつく子馬のようなあまりにも素朴な、存在することの孤立が叫ぶ。
 けれどその叫びは間違ったやり方で、間違ったところへと向けられる)

 わたしは自分のからだを深く掘りながら、
  その底にあなたのエロスがあると、できることなら世界の中心で叫ぶだろう。

 (そしてただ、自身のたえざる殺戮だけが
  世界の底のかくされた殺戮への隠喩となって
  あなたへの不可能な愛を成就しつづける)

 不在の膚が。

 あなたは一つの言葉から手触りに変わる。
 情婦になりたいとあなたに云わせる
 あなたの、気違いじみた、
 世界

 (懐かしく安らぎに満ちた核家族、
 それすらもまた血塗れの制度の一部なのか)

  への絶望の叫びを惟う
 わたしは、その指先に限りなく近く触れようとするときに、
 エロスがどうして無償の愛にまさる
 (あるいは奇蹟の地平において等しい)
 のか分かる。
 あなたは、いま
 (あるいは、つねに)
 ここにいない。
 そして、すべては一個の、フィクシオン。

 あなたなんて、いるのかも分からないのに。

 どうしてわたしたちは間違いつづけるのだろう。

いくつかの事例−世界は本当に野暮でくそったれなのか

 或る女性教授は七十を越えて一人の男を愛した。そのことは誰にも知られなかった。男が愚鈍で流行を価値と勘違いしているようなどこにでもいる学生の一人だったから。けれど本当は老女が自分の愛を口にしなかったのは、自分の若さを失った見かけを恥じたからだった。その厳格な女性教授は、その学生の前ではいつも、授業のはじめに五分だけ遅れ、それから吃りながら言い訳した。だれひとりとして、その七十の女が、その学生が授業を受けた一年間、出席票を受け取るとき、十五の少女のような紅潮を皺のなかに拡げることを知らなかった。

 或る女子校の寄宿舎の若い舎監が学生の一人の恋人を愛した。彼は彼に焦がれ、彼の恋人の学生を誘惑した。恋人を奪われた彼は彼女から離れていった。舎監は彼女を愛し続けた。それが彼にできる彼への愛の行為だったから。

 男がテレクラで女を知った。寸前で行為ができなかった。女は彼を罵ってお金を要求した。その瞬間、男はこの女を愛している、という否定しがたい馬鹿げた強烈な確信に襲われた。それはあまりにもひかりと熱に満ちた暴力だった。だが、彼はすぐ続けて女の男に殴られ道端にほうり出された。やがて男は愛を忘れてしまった。

 或る白い靴下の女に振られた男が、また白い靴下の女を愛した。そして振られた。それから急に、自分が愛しているのは白い靴下の女なのではないかと思った。けれど、彼はつねに純粋に情熱的に、そして誠実に魂を賭けてそのつどただ唯一の彼女を愛したのだ。

 或る残酷で誰も愛したことのなかった男が、墓場で知らない女の埋葬に偶然立ち会った。彼らの話を聞いているうちに、彼は自分が恐ろしいくらい不安なことに気が付いた。彼が経験したことのなかったその、鳥肌をこすられるような、不安な欠如の感覚。彼はその死んだ女を魂から愛してしまっていたのだった。彼はその死んだ女の友人たち、恋人たちを捜しだし、彼らのなかに残された彼女を見いだし、愛そうとした。やがて、彼はつまらない理由で死んだが、偶然にもその墓は彼女の墓の近くだった。−ロマンスは成就しうるのだろうか。

 愛はおよそ不可能な架空の名詞。だからぼくらはねがう。
 あなたがぼくの愛であるようにと。
 ぼくがあなたの愛であるようにと。
 絶対の一瞬の隠喩として、「永遠」。
 その祈りだけが、もしかしたら本当は不可能な愛なのかもしれない。

 「それは……ゆめだよ。ゆめはあり得ないからこそ……」

 こうしたことばはみな徒労のお喋り。
 だからぼくらはいっそ恋愛工学をこそ夢想する。