微睡む鳥たちの吐息/1998/7




 初めてその鳥たちを見かけたのは七つのときだったがそのときには幼すぎてその鳥たちがどんなに異様かということに気がつかずにしまった。家の裏手にある児童公園で友達のカズくんとゆうとたけしとサッカーをしていて、キーパーをしていたゆうがころんでひざを酷くすりむいたとき、ゆうのおかあさんがゆうを飼い猫のように可愛がっていることから叱責を予期して真っ青になったわたしたちはゆうを水飲み場まで連れていって、傷口を懸命に洗い流していたが、そのときにわたしたちがふと気がつくとまわりをからすともわしともつかない未知のしかし思慮深げな黒い、猫ほどの体長の鳥たちに遠巻きにされていた。この鳥たちはからすにしてはくちばしがちいさく、なにより全体から受ける印象が、いかにもものいいたげな、それでいて、ふかい井戸の底のような沈黙にまどろんでいるような心ここにあらずというようなものでもあるのだった。
 不意に張り裂けるように泣き出したゆうに気を取られて沈黙がゆるんだとき、鳥たちはゆっくりと飛び立った。服を着替えるときのような優雅な手つきで羽根をおもむろにひろげると、一羽、また一羽とぽんとつまさきだつようにして飛び上がり、そのまま夢のように緩い円を描いて浮遊していく。最後の一羽が飛び立ったあとも鳥たちは上空を旋回しつづけていた。それは始めはたんなる旋回だったのだが、やがて一角が崩れ、上下に螺旋を描き出した。
 その回転がつづくあいだ、最初はほとんど気がつかないほどわずかに、やがては雪のようにかれらの羽根が舞い落ちてきた。わたしたちはなかば降り積もる羽根にうずもれながら、鳥たちをいつまでも見上げていた。
 気がつくと鳥たちは去り、ゆうはもう泣き疲れて眠っていた。
 わたしたちは帰ってからいつゆうの家から自分の家に電話が来るかと戦々恐々としていたが、不思議なことにその夜も、明くる夜も、夏休みに入ってもわたしたちがゆうに怪我をさせたことでおばさんは文句をいってはこなかった。ほかのひとなら驚くようなことではなかったが、ゆうのおかあさんのような、少しネジのはずれた人物から音沙汰がないのは気味がわるくさえあったのだった。まして、ほかのことでは、やはりしょっちょうわたしたちはゆうを甘やかさないという咎で怒られていたのだから、なおさらであった。
 とはいえ、子供は子供であり、すぐにことは忘れられた。鳥たちのイメージも、底に沈殿して残ったにすぎない。
 つぎにかれらに巡り合わせたのは高校三年生の夏のことだった。
 受験勉強とその合間の真剣めいた恋愛沙汰とにつかれてわたしはその夏ごろにはよく学校のうらにある使用されていないほうのプール・サイドに入り浸っていた。夏休みに一般向けに開放されている新しいほうのプールにくらべ、解体を待つばかりのこのよどんだ沼地そっくりのプールは人影なく実に静かで、そのうえ、廃物じみているくせに太陽にたいしては意地でも張っているのかまるで夢のようにきらきらひかるのだった。水質がどれだけよどんでいても水というのは不思議なことに鏡としての透明さを失うことはない。ただ、覗きこみ、はかり知ることができなくなるだけだ。わたしのひねた若すぎる意識にとっても、そうした点はなぜか心地よいものだった。その日も、模試を終えて蒸発してしまった精神をそのまま氾濫するひかりのシャワーにゆだねてしまおうとわたしは苔だらけの時代がかったプール・サイドのタイルの上にかばんを敷いて、飛び込み台のあたりにある見学者のためと思われるいいわけじみたひさしというかトタン屋根の陰にかくれ、禁制のたばこを吸う度胸はなく、ただ漠然とそれを思いながら、はだしになってすそを捲り上げた足を放り出し、一本の電話をかけるべきかどうか考えることを頭からハエのように絶えず追い払いつつ、絶対的に単調な空を見ていた。
 音はなかった。どういうわけか、絶対的なひかりで空間が充満してしまうと音はその密度に追われて揮発してしまうように思える。汚い水を見もせずに意識のすみに流露させて、わたしはしばらく「永遠」に追放されていたのだろうと思う。
 強烈な眠気が太陽とともに眩暈として降ってきた。それはさらさらの鉱物質の砕かれたひかりであり、火星あたりでとれた化石化した異星人の夢の残滓であり、つまるところ渇いた夢魔が空間をきりさいて現れたかのように明るい暗さだった。
 眩暈をやぶったのは遠慮がちでありながら自分の行為に深い確信をもっているためにどうしてもせかせかした焦りを隠しきれないような、あの、聴きなれた声、いま思い出すことができず、ただ空虚な言葉であっさりと言及することにしか耐えられそうにもない、あの声、つまり、電話をかけるべきかどうか思案すべき相手からの、不意の鳥を撃ち落とすような呼びかけだった。
 映莉子はもう私服にきかえていた。新校舎と旧校舎をへだてる小さな排水溝にかかった小さなコンクリートの橋をわたりながら、なにかいいかけて手を振っている。紺のワンピースに白い帽子、わたしはあいかわらず服装にくわしくないためにこの程度しかお伝えできないが、これではおそらく犯罪の目撃者としては甚だ不向きだろう。そういう場に居合わせないことを望む。
 眠気をきりさかれ、突然、それまでのゆくたてがゼロであったかのように、屈託のない、不思議といったっていいような振る舞いを、なぜかよくききとれない言葉をつむぎながら演じる彼女を見たときの気分は正直に言ってあまりにも非現実的なものだった。
 ふたたび、澱んだプールに浮かぶ浮き草に目をやったとき、そこには無数のあの鳥たちが、死骸となってとつぜん見出された。かれらは眠っているのか死んでいるのか、よどんだ、太陽のもとでぎらつく波涛にもてあそばれながら、おもいおもいの姿勢で力なく漂流していた。かれらは完全に無力でありながら、いつ不意に痙攣的にはばたき、空を目指すかわからないいらだたしい「沈黙」の濃厚な気配を浴びてもいた。
 映莉子の足音がしていた。
 このとき、彼女のことで逃げ出したいと思ったことを否定はしない。ともかく、その夏に彼女が望んでいたことはわたしがのちにいくつかの証拠から推測したことに従うなら、彼女の望みを彼女に知られずに言い当てることだった。ところがわたしときてはそのころ一番おそれていたことはといえば、彼女のこころに土足で踏み込むことだった。一方で鳥たちのことは少しも恐怖をまねきはしなかった。かれらは実に自然にその場にとけこんでいて、陰惨な雰囲気などかけらもなく、むしろこっけいなユーモアさえ湛えていた。
 わたしは彼女に鳥たちを見せまいと出口のほうに向かった。今思えば、彼女にとっても鳥たちが実在であったかどうかを確かめていればよかったのかもしれない。

 ……そういえば、思い出したことがある。最初に鳥たちを見たのは七つのときではなかった。今朝、皿洗いをしながら思い出したのは母親のことだ。当時、どういういかれた突飛な意見のせいかしらないが、彼女はわたしに自分のことをママンとよばせていた。
 二歳か三歳だったわたしはよく、大人たちの頭上、天井とのあいだの空間にかれらがわがものがおで飛び回っているのをみたものだ。かれらはいたずら好きであるらしく、大人たちの頭上すれすれまで天井から降りてきて気が付かれる寸前で旋回してまたまいあがるということを繰り返していた。
 ママンがいつものように父親に殴られていたその夕べに、わたしもいつものように泣きじゃくりながら、一方で奇妙にさめた目で鳥たちのその日に限って理解しがたい振る舞いを注意深く見つめてもいた。かれらはいつものように天井近くの彼らの領域でいささか嘲笑的に戯れることもなく、なにか含むところでもあるように、黙然と肉体を直接間接的に毀損してなにか意味のある文字をママンに刻み込むという幻想におぼれている父親を凝視していた。
 ほとんど、スローモーションのようにして、鳥たちは、一羽、また一羽と父親の体に静かに取り付いていった。父親には彼らは見えないらしく、やがて、かれはまっくろい毛で完全に覆われてしまった。それでも気がつきもせず、かれが右手を振り上げた瞬間に、ママンがああああああとため息をついた。そのため息は悲しみであったのか、官能であったのか、あきらめであったのか、退屈ですらあったのかはわからない。つぎの瞬間に鳥たちはかれに鳥葬のようにとびかかった。食いつき、貪ったのだ。くろいうごめくかたまりがあるばかりで、残酷な情景は直接見えなかった。だがそれは一瞬の幻影でしかなく、やがてそこに横たわっていたのは心臓麻痺で倒れた何の変哲もない肉体に過ぎなかった。それからわたしは七つのときまでかれらを見なくなった。
 最後にかれらを見たのはつい最近のことだ。いや、正確に言うとかれら、ではない。その一羽だ。
 用があって、大阪まで新幹線でいく途中に、窓の外を見ると、見渡す限りというほどでもないが、かなり広い畑の畝のひとつに、こわれた自転車が横倒しになっているのが見えた。五段切り替えの、あの懐かしいタイプのものだ。錆びて、殆ど農地に同化しているその自転車の前の籠に、鳥が一羽、まるでそれが鳥かごであり、かれは生まれたときからそこにいた、とでもいうように、あるいは塔に閉じ込められて、それでもその状況にそれなりに安住しているお姫様のように、ぬけぬけと、鎮座していた。それが彼らのうちの一羽であることは、とにかく間違いがなかった。一瞬で通り過ぎたそのながめにわたしはなんだか馬鹿にされたような気がしていた。
 もしかすると、あの鳥はじつは一羽なのではなくて、あそこにかくれていた無数の鳥たちのことを、わたしは見間違えたのではなかろうか。その疑問もどういうわけか離れない。
 それからは鳥たちに出会うことはなかった。