日々は煌めく泡沫のごとく 


 ……こうして、ウィルス・シティは地上に姿を現した。


   朝は必ずしも始まりではない。が、………

 出勤前の竹井繭子はその日起きたときから妙に自分が情緒不安定なことに気づいていた。気をゆるめると泣いてしまいそうだったのだ。理由なんか何もないのに。何か、未来の記憶のようなもの、まだ見ぬデジャビュのようなものを夢の中に見たような気がしていた。それは犯罪と刑罰の錆びた香りとともに、疾駆するパンク・ミュージックに伴奏されていた。目が覚めたとき、繭子は溺れそうででもあるかのようにもがき、何かにつかまろうとした。
 とにかく落ち着かなかった。
 やがて、洗顔を終えて、繭子は鏡で自分の起きぬけの素顔を見た。はい、今日もかわいいわねえ。よし。そのとき、どういうわけか繭子は痒みを感じて、とても自然な動作で首の部分をつかんで持ち上げる動作をしてみた。何のことはない動作のつもりだった。冗談だったかもしれない。まさか首が外れるなんて思いはしない。だれがこの瞬間が尽くせぬ声なき歎きの始まりだと思うだろう。そして、或る歴史の開始だと思うだろう。時は通りいっぺんの流れのなかにときどき惨めな結び目をつくって私たちを陥れ、躓かせる。そして大抵その結び目は、とても喜劇的だ。
 思ってもみなかったことだが、そうするとかちんといやに軽い音がして、きれいに繭子の首は胴体から外れ、何本もなまめかしい内臓色や原色の赤や青のコードがはみ出してきた。なめらかで脂肪とまがうほどうつくしく真珠のように真白いラバー・カバーがのぞいている。それが覆っているのは何年と云わず経過しているはずなのにいまなお鮮やかにクロームにきらめく金属のシャフトらしい。彼女がちょっと首を動かそうとする無意識のこまかな動作に応じてかすかに振動していて、繭子はいっしゅん吐きそうな感覚を押さえられない。まなるで自分の中にクロームの虫がいるようだ。いや、むしろまるで自分がいっぴきの虫にでもなったかのような。イン・ナ・センス、シー・イズ・ア・グレゴール・ザムザ。「ターミネーター」という映画で手のひらの皮をむくとこんなふうに機械部分が動いているシーンがあった。自分であるだけにそれはおぞましい光景だった。これだけのことを短い間に見て取ってしまい、両手で首を押しいただくように持ち上げて、しばらくキティちゃんのパジャマ姿のまま彼女は呆然としてしまう。へ、なに? 金切り声で悲鳴をあげる切っ掛けをうかうかと逃してしまい、彼女は途方に暮れる。対処のしようのないできごとというのはあるものだ。思わず目をつぶり、五数えて恐る恐る目を開ける。残念、事態は少しも変わっていない。パニックがなぜか遠景に急に退き、一つの言葉が浮上してきた。どうしよう。
 とりあえずあわてて首を再びもとに戻す。以外に素直に首は胴体に収まってくれる。ため息をとりあえずついて、何事もなかったかのようにオートマチックな動作で歯磨きに取り掛かる。冷静さを欠いていた証拠にいつものではなく、献血でもらってきたほうのアクアフレッシュを使う。女は歯が命だわ。考えることに取り留めがない。念入りに歯を磨くうちに、冷静さが立ち戻って来て、いったい、わたしいつからこうなのかしら。鏡の中の自分の顔を見つめる。わたし機械に詳しくないから、いざというとき直せないわ、ということも考える。ボタンの三つ以上あるものは彼女には危険な魔法に等しい。壊さないように注意深く避けるべきものだ。うがいをドナルド・ダックのコップでいつものように三回してから繭子はリビングの絨毯のうえに手鏡を持ってへたへたと座り込む。
 ひどいわ。こんなの。今日は会社いけないじゃない。思いつつ、首のちょうど合わせのところに線が入っていないかどうか、そしてそれが見苦しくないかどうか手鏡でいろんな角度から確かめながら、彼女は会社に欠勤の電話を掛けた。もちろん、首が外れたので、というのは理由にできない。精神病院や大学の実験室と仲良くなるには繭子は世界に未練があり過ぎた。
 口実になったのは彼女の「大伯父」である。もちろん、この大伯父は架空の存在である。しかし、永遠にだれにも見えない場所で危篤に陥りつづける大伯父というのは、繭子の想像力にとってとりわけ訴え掛けるイメージだった。それは空白の王。彼女に生きている大伯父はいないのだが、あんまり長いことさまざまな場所で言い訳に遣ったので、すっかり細かいプロフィールやら持病やらのリストができあがっていたのである。その人格はだんたんとリアリティや輪郭を帯び、いまや彼女は彼と架空の対話ができるまでになっていた。そして彼女じしん、なぜこんなに自分がこの架空のイメージにこだわるのか理解できなかった。
 さて、首が外れるなんて、困ったわ。口に出してみて繭子は少し笑ってしまった。まさか自分が人造人間だったとは、汝自身を知れ、っていうのは本当よねえ、と感慨深い。そうなるとお父さんとお母さんって一体……。追憶があふれるように湧き出して来て、彼女はしばらく感傷にたゆたう。幸せだった幼年期の完璧で強靭な日々が欠如の烙印を押されてよみがえってくる。ばかね、そんなに急いで食べないの。差し込む陽光は燦々と豪奢な紅葉に舞い、完璧な午後が秋の乾いた風を散らす。なめし革と赤ワインと黄金のカーニバルが彼女を囲繞する。ほら、ちゃんと歩くんだよ。お前は負けず嫌いなんだからな。湿った大地から、降り注ぐ驟雨は虹のようにいつまでもかぐわしく、ほら、流れていく子猫たちの段ボール、夜は激しく深く繭子を包み、世界への行き場のない歎きが彼女の魂を切り裂く。ばかね、泣くのを我慢なんかしないの。どれだけ泣けたかであなたの好きが決まるのよ。どれだけ深く泣けるかで、今度あなたが子猫を助けられるかが決まるのよ。切り立つ崖のように父は出ていく。ごめんね。黙ってて。遠い戦争の余波はうつろなこだま、ただ閉まるドアだけが父を何度も連れていく。革靴の匂いはむせるように、だれもいない街路はお祭りのように白いビラやポスターに満ち、拡声器の声がますますカーニバルのように、そして夕食は皿が減り、おねえさんなんだから。なんのこと。わたしは好きでおねえさんなんじゃないわ。何が土産にほしい? どうしてとうさんはそんなに我慢しているの。どうしてとうさんは帰って来なかったの。どうして子供達は泣かなくてはいけないの。いまはもう記憶は掠れ、ただ傷だけが残って。ああ、もはや言葉は追いつくこともできず。

 そうだ。女よ、尽くせぬ歎きがどれほど滑稽であるかを歎け。そして、自らの出自をうべなえ。そうでなくては何も贖われることなく、アナーキーな祈りは言葉さえを見いだせない。己の出自を贖うものだけが祝福された言葉を得るだろう。

 ……けれど、アンドロイドなら考え直さなきゃならないわ。(憂鬱に、なぜか媚びるように愛らしく、「わ」の語尾を上げて彼女は呟く。泣く寸前のように、そして絶対に泣かないと決めているように)「ブレードランナー」という映画で、アンドロイドの子供のころの記憶が移植されたものだったことを思い出して、繭子は急に気が付いた。どんなにつよく郷愁が彼女を誘っても、その過去は彼女自身のものではないかもしれない。
 すべてが全くの偽り。父もいない。母もいない。私は捨てられた子猫たちを歎いてすらいない? ああ。歎いてすらいない? ではわたしの《この》情動はなに? 歌っているのは誰? いや、もし彼女がアンドロイドであるのなら、まず間違いなく幼年期があったわけがないから、記憶は虚構だろう。それにしても、じゃあ何でわたしこんな普通のOLやってるのかしら。……鉄腕アトムみたいな腕力や、飛ぶ能力なんかないのかしらね。どうして、私は憶えているの……だいいち、なんで人間だと思い込まされていたのかしら。繭子は手鏡をにらんで首の合わせ目にファウンデーションをまぶしながら考えていた。そこへ、チャイムの音がして、聞き慣れた声がした。
 頼まれもしないのにやってきたのは、もともとは本当に郵便配達の人という関係でしかなかったが、何度も訪問するという得難い切っ掛けを活用して不純異性交遊相手にまで昇格しおおせた坂口靖行二十五歳独身だった。返辞を聞くや否やさっさと上がり込んでくる。勿論、郵便など持っていない。今日は休みなのだ。朝っぱらから元気満々の足音が近づいてくる。ドアが開くと、靖行は驚いた顔をした。何で分かったの? と一瞬、繭子は思ったが、そうではなかった。彼はおちゃらけた表情で挨拶をしようとしたままの顔をこわばらせ、無言で歩み寄ると懐からハンカチを取り出し、繭子に渡した。何のことか分からずに混乱していると、彼女の右目のほおを拭く。
 ハンカチの感触はざらざらしていて、痛みが頬に走った。漸く、繭子は顔を上げる。やや固い声で云う。
 「洗って返す。ありがと」
 でも、…失礼なやつ。
 靖行は無言で受け取ると、質問の言葉を探す。どうしたのさ。窓からは朝の陽光が斜めに部屋を暗がりと明るみに二分して差し込み、白いカーテンがまばゆく揺れた。しかしどうせ取り乱すだけのことで、大した対応ができるわけではないことを繭子は知っていた。やさしいだらしなさほど、苛立たしいものはない。悔いだけが、果敢な行いを準備することを彼女は知っていた。
 「ちょっと、気分悪くて」
 靖行はまだ尋きたいことがあったが聞けなかった。
 そして彼はその悔いによって生涯を定められてしまう。
 得てして、決定的な瞬間とはそんなさりげないものだ。

 「はい、次のひと」
 待ち合いにはそんなに外来の姿はなかった。呼ばれて席を立つ初老のおばさんは大儀そうに雑誌を棚に戻す。繭子はついてきた靖行の横で煙草を吸って何事か考えているみたいで、ついてきたくせにべつに元気づけたりしないぼんくらな様子を見やってから、いかにも病院らしく白で統一された待ち合いの風景がもっと賑やかならよかったのにと思った。膝にはノンノが乗せてあるが読むのも気乗りがしない。この期に及んで何で秋のモードとか血液型占いなんか見なくてはならないのだろう。と云うのは言い訳で、彼女は柄にもなく緊張していた。病院なんかに来たのは子供のとき風邪の注射に連れて来られて以来である。異常に丈夫な子供だとは我ながら思っていたが、作り物ならそりゃ丈夫な訳である。それよりもむしろ不思議なのは、両親が彼女を病院に連れていって、たとえば内科の診察を一回も受けさせたことがないということである。そこで彼女は思わず靖行の上着をつかんだ。嬉しそうに靖行が一瞥する。
 ばかみたい。
 記憶。存在や意識が記憶によって生まれているのなら、わたしとは記憶そのものだ。為したこと、為さなかったこと、話したこと、話さなかったこと、愛したこと、愛さなかったことの連鎖が私たちの人格と存在を定めるのなら、記憶が偽物の場合、記憶のなかのあまたの決断や歎きや涙や怒りや夢や愛が偽物の場合、そのひとの存在自体も偽物ということになるのだろうか。繭子は、自分が両親のことを考えるのを意識的に避けていることを思い出した。それはただ追憶や感傷だけの問題ではなく、むしろ、何か底にあるもの不確定になることが恐れを呼び覚ますからだった。
 「はい、次のひと」
 聞いてくれ、やがて彼女に死、あるいは昏睡が訪れる。
 聞いてくれ、どうして過去は避けられなかった出来事、変更不可能な記憶で満ちている? 忘れることはできないのか? ああ、けれど忘れることは苦痛よりもひどい。どうして、変えることのできないことが、こんなにも苦痛でありうる? なぜ、苦痛の総量は無際限なのだ? なぜ、そんなにも祈っているのに、全地のひとびとが陪審としてうべなわざるをえないほど正当な願いなのに、過去はどうしても変えられない?
 聞いてくれ、どうしてこの世に必然なんかが在る?

   世界は散文的だからこそ魅惑を秘めるのか?

 月への移民の可能性を探るジェネシス計画はここ数年来NASAと国防総省との共通の極秘プロジェクトとして進行していた。なぜ秘密にされなければならなかったかというと、一つには抜き打ちで月への移民を進行させ、アメリカの先住権、領有権を主張することが必要だったからである。もう一つには、これが遺伝子工学と機械工学の実験に係わるものだったからだ。月への移住にはドーム都市を建設して隔壁の内側に空気のある空間をつくるという古典的な案のほかにも、衛星自体を全体として居住可能な環境に改造してしまおうという案や、人間の方を月の環境に適応させてしまおうという案なども提案されていた。(誰かがかつて云ったのではなかっただろうか? 肉体の変成は、精神のグロテスクな変容にほかならないのではないだろうか。すべての細胞に遺伝子にわたしたちの意識はふかく浸透している。失われた遺伝子の中に《いまはもういないわたし》の、意識されない魂の欠落を見るのではないか? 声はやがてこたえを得るだろう)それぞれの案は中央の評価に応じた予算が配分され、複数のプロジェクト・チームによって競争するように進められていた。レオン・グリーントマトはサイバネティクスと情報理論の専門家でそれらのチームの一つに従事していた。しかし、彼は自分が全体のデザインのなかでどんな位置にいるのか全く知らなかった。サイバネティクスというのは、生き物の神経系が筋肉を制御するフィード・バック・システムとオートメーション工場などの機械やロボットのコンピュータ制御などを研究する分野である。人間−機械の脳神経系の情報科学だ。MITにいたころは新進として期待されていた彼も、ある日突然やって来た電話に運命を狂わされた。幼いころからの夢だったAIと脳神経系と自然言語の理論を統合する情報理論の完成はお預けになり、代わりに夜空にかかる白銀の衛星にかかわる世俗的な研究が彼の存在を規定してしまった。それまでの人間関係はすべてどんな手段によったのか分からないが断ち切られてしまい、数百万ドルを越える貯金は銀行にいまも存在するが遣う喜びもない。奪われたのは行動の自由ばかりではないのかもしれなかった。思惟し、愛し、絶望する人工知能を創り出すこともまったく無罪の行為とはいえなかったが、いま、レオンは自分がますます中立的では在り得ないことを感じていた。幼いころから挫折を知らず、建前で成り立った世界を生きてきた彼は、いま漸く建前の世界を支える深層の剥き出しの冷酷で論議の余地ない力の構造に触れたのだった。世界を決定するのは、どうやら建前や常識ではなく、欲望と偶然と力であり、意識の及ぶ範囲をはるかに越えた必然の変更できない法則なのだった。奇跡のほかには世界には例外はありえないらしかった。内面の強い願いはどれほど激しくても、表現されない限り無であるということが、どれほどの夜、レオンを苛んだことだろう。どんなに深い悲しみも歎きも願いも祈りも、有効な戦略と表現と幸運を伴わなくては、何物でもなく、出来事の価値はその影響力にまったく関係ないのだった。実際、神は恐ろしいほどシニカルな合理主義者だった。レオンは神の創造に逆らう研究を行いながら、やつほど散文的なやつはいない、と思っていた。
 その日、レオンの処に送られてきたフロッピー・ディスクは彼の心臓をふたたびそんな思惟へと導き、刺し貫いた。長身のひょろながい子馬のような容姿のレオンは不精髭を剃るのも忘れて自室で回り続ける古風な換気扇を見つめている。年相応のやつれた容貌に子供時代をようやく終えようとしている青年以外のなにものでもない瞳。アンバランスが彼を特徴づけている。天井に取り付けられたプロペラといった趣のやつだ。淀んだ空気を律義にかきまわし続けている。つけっ放しのコンピューター端末のモニターには、えんえんと数字が羅列されていて、門外漢にはその意味さえまったく理解できない。云わば聖なる古文書のようにも見える。電灯の消えた部屋の闇のなかに、その文字の羅列が白く投影され、レオンの額や横顔を烙印のように彩る。
 電話が鳴った。
 「どうしたの?」
 「すまない。ジェシカ。ぼくはきみに申し訳が立たない」
 「何? どういうこと」
 時間は溯ること十三時間。レオンは、共同研究室に白衣の男女に交じって立っている。みな一様に若い。年長でもせいぜい四十代だ。男には不精髭が目立つが不潔感がないのは服装からの印象かも知れない。目映いまでに自然光に近づけた明かりが充満する室内の中心には筒状になった水槽が据え付けてあり、その高さは天井につながっている。天井近くではいくつもの管が出ていて、室内および恐らくは室外のいくつかの端末につながっている。研究員たちはみないちように、とはいえめいめいなりに、その水槽を見つめている。水槽には藻の色なのか緑色のうすく発光した液体が詰まっている。その液体の中には、裸体の少女がホルマリンづけのように浸けられている。水槽の天井から伸びた管や線が彼女の華奢な背中に接続され、どういう意味があるのか周期的に点滅を繰り返している。少女はアジア系の黒い髪と黒い瞳をもち、そのくせ肌は不自然なほど白い。年齢はアジア系なら十五・六歳程度に見える。コーカサス系ならもっと幼いだろう。黒髪黒瞳でさえなければ、白子であると断ぜられたかもしれない。目は瞑っている訳ではなく、魂のない人形のように虚ろに見開かれている。しかし拡散した瞳孔、静止して焦点のない視線から、何も見ていないことが分かる。そのほかにも、よく見れば水槽にはたしかに微細な藻が浮いていて、上方には白色灯が据えてある。葉緑素に関係があるのかもしれない。
 水槽の根元は床に対して切り株のように放射状に広がった端末部分で覆われており、そのモニターに見入りながら、主任研究員のアリスティッドがキーを叩いた。
 「覚醒までの過程は順調だ。あとは」
 「テストは何処の班がやるんだ?」
 「知らん。立ち上げた後はロベール班の管轄だろう」
 「全く、ペンタゴンと来たら」
 「皮膚反応が少し弱くないか」
 「冬眠効果だろ」
 レオンは自分の研究がこの少女の脳に寄生するニューロ・コンピュータの制御プログラムに使われることを頭では理解していた。故意に遺伝子工学で発達を抑制された少女の脳の補正と管理を行うのだ。ルナリアン・チームと呼ばれるレオンらのチームは、月面環境下で生存可能な半−機械化人間を研究している。しかし、この日まで実際に少女を見ることを拒否して来たのは、やはり何処かで血塗られた我が手を認めまいという心理的規制が働いていたせいだったのかもしれない。息を呑んで立ちすくんでいたレオンの目が、ふと、少女の目とあった。ありえないことだった。半ば以上空洞で、しかもその空洞を半導体に食い荒らされた脳が、意識を育むことなどありうるのだろうか。冷や汗が彼の背筋を流れていた。
 「それで、怖じけづいたっていうの? でも、気のせいかもしれないわよ。実験体が意識をもつ可能性は理論上で否定されたわ。ほら、アラエ博士の39番めのリポートで」
 「…ヨコスカ基地の班に頼んでおいたデータが届いたんだ。あっちの実験体は脳以外は機械体だけど、やっぱりぼくの造ったプログラム・システムが使ってある。最新のデータを見るとね、脳の復元が認められるんだ。分かるかい? この意味が。再生しないはずの神経細胞がすごい勢いで再生してるんだ。ほかにも不思議な情報の構造が両方の実験体に生まれてる」
 「すると、どうなるの?」
 「分からないよ。いま考えてる。ありえないことが起きた。それだけならいいんだ。タイムテーブルが変更になるだけだ。今日はずっとこもりっきりだ。やっぱり、気持ち悪い予感がしてならないんだよ。ジェシカ。もしかするとぼくは、責任のとれないことに手をつけてしまったのかもしれない」

   FIGHT FOR THE CHRISTMAS

 冬の太陽の透明な滴が窓から惜し気もなくふりそそいでいた。医師はピアニストの指先で未記入のカルテを叩いた。医師は若く、彫りの深い顔立ちで冷静な表情が彫刻めいていた。寒さはまだその深淵を見せず、窓の外でとまどっていた。次の患者をいれる前に少し医師は休息を望んでいた。看護婦はみょうに神妙に彼を見ていた。さっきの患者は風邪だと思い込んでいたが、ノイローゼだったので精神科にまわしたのだった。そんなことがあると気が滅入る。若い医師にはとりわけあまり経験のないことだった。大学で研究を続けたかったのだが、老いた父に懇請されてこの病院にきたのだった。彼は後悔すらし始めていた。肉体の変形ですら本当のことをいえばたえがたいのに、精神の変形や萎縮には、医学的なまなざしを向けるだけの冷静さを得られないのだった。医学は彼にとって或る点ではマゾヒスティックな行為だった。医師は研究室で喜々として遺伝子工学を学んでいたころの自分を思い出した。遺伝子は彼を裏切らないように思えていた。人間もまた生物であることは侮辱のような気がいまはじめてしていた。患者はただのノイローゼではなかった。妄想にとらわれているくせに、きわめて聡明で高貴な人格をしめした。医師は、あの男は父に似ていたのだ、と戦慄しておもった。
 看護婦が時計を見た。
 「先生、そろそろ患者さんが」
 医師は頷いた。どうじに、父が死ぬときに遺した言葉を思い出そうとしていた。父は確か、おまえは死を見いだし、生の種を蒔くものになるだろうと、譫言の床で云ったのではなかっただろうか……
 入ってきたのは、ありあわせの服装でやってきたことが一目で分かったが、若い女性だった。笑い出したいのか泣き出したいのか、ともかく途中で無理やり押しとどめられているような表情だった。丸い黒い患者用の椅子に看護婦に導かれて座ると、女は医師をひたと黒目のめだつ目で見つめた。背は平均かそれより低めで、姿勢のよさが印象的だった。全体に華奢で、そのくせ小気味のいいめりはりのある動作で歩いた。一見して病気らしくはなかった。やややつれて白けた頬、乱れた髪、赤みの差した白目の部分が異常をものがたっているだけだった。医師はなぜか気圧されるものを感じた。
 「どうしました」
 患者はこたえなかった。
 実際、答えられるような状況ではなかった。
 まさか、首をはずしてみせるわけにもいかないし。どうしてわたしはここに来たのかしら。あいつが誤解したからだわ。いいえ、それは嘘。わたしが望んだこと。わたしは知ってほしいんだわ。何かできそうなひとに、少なくとも、何か知ることができそうなひとに。いいえ、わたしはただ、責任を預けたいだけかもしれない。けれど、滑稽じゃないかしら。小話よね。診察に来て、どうしました。はい、じつは、といって頭を胴体からはずす患者ですって、頭が痛いんです、ほら、って渡しちゃえば落ちがつくわね。ばからしい。ちっとも面白くないわ。わたしは何をしているの? 
 繭子は答えが見つかるのではないかという荒唐無稽な願いを込めて医師の顔を見つめた。
 医師は脅えたような落ち着きのない表情で彼女を見ていた。神経質に万年筆で落書きをしている。答えを促すべきなのは分かっているが、その機会を逸し続けているのだ。めのまえに持続する失敗の見本があるといったていだった。何を恐れているのか繭子には少しも分からなかったが、繭子が視線を動かすと、そのたびに医師はびくんと野良猫のように敏感に肩を揺らして反応するので、なにか意味不明のあいまいな空気のような影響力、あるいは言葉のない交感関係とでもいうべき緊張の綱が張られていることは間違いなかった。かたわらに立つ看護婦は焦れて来ていたが、ただの患者ならぬ雰囲気はさすがに有能で事務的で家庭的で切り替えの早い彼女にも察せられたようで、いつもなら惜しまない医師への差し出口をも控えていた。
 漸く、何度目かの失敗の後に、立場を思い出したのか、もはや逃れられないことにようやく気づくという子供っぽい瀬戸際に立たされたせいか、医師はついに言葉を発することに成功した。
 「どうかなさったんですか」
 咄嗟に、いえ、と言い掛けて繭子は
 「何でもありません」
 と、およそ場所と場合を考えれば理不尽な台詞を吐いた。
 はあ?
 医師の顔の疑問符を見て繭子は再び慌てた。すでに立ち上がりながら言い直す。
 「いえ、あとで、電話します」
 もはや何を云っているのかも分からないまま、繭子は医師に無意識に名刺を渡すと彼を残して早々に部屋を出た。
 やがて医師は手遅れになってからその名を思い出す。
 そう、ちょうどクリスマスのこと。

   亡き王女のために叙する賦

 半覚半睡の夢のなか、彼女の理性は空回りして愛についての無数の問いを生んだ。なぜだろう。彼女は恐らく、もはや当たり前のようには愛するという言葉を使えないことに気が付いていたのだ。自分が当たり前の存在の仕方をしないのなら、当たり前の愛のありようにも拒まれていると疑ってもよいはずだった。
 けれど、愛するひとよ! 私は問いたい。問うのをやめれば泣き崩れてしまいそうだからだ。私は愛しているのだろうか。愛するという動詞の意味はどう働くのか? 欲することが愛することの意味なのか。それでは、依存すること、堕落することと愛することはどう違うのか。自己犠牲はそれならば愛か? 遺伝子が互いに恋う呼び声が愛か。どういう動作が愛の動作なのか。喜ばせることが愛の動作なのか。果敢でなくては愛ではないというなら、愛は倫理的なものなのか。欲望と倫理はそのときどのように手をつなぐ? 子の母への愛と、動物の交尾欲求の、どちらでもない愛とはなんなのか。そんなものは本当にあるのか。存在しないなら、なぜわたしたちはあると信じて行為できるのか、行為するのか? なぜ私は異性を恋うのか。恋う心と愛する心を分けることは可能なのか。そもそも、愛することは倫理的なことなのか。共同体の、そして遺伝子の使命である生産をはなれたとき、生物学的に不毛な愛は、倫理的にどのように是認される? 愛するひとよ! 盲目的な愛がなぜ充実している? われわれはなぜ狂気を放置し、あまつさえ、生そのものとまでみなしている? 愛する行為において、正しい行為とは相手が嬉しいと思う行為か。保護者的な倫理は恋愛とどう対立する? 父であること、母であること、子であることは恋愛の人間関係学にどのような場を占める? 愛するひとよ! もし愛がなければ生が耐え難いとして、愛の倫理はどのように構築されるのだ? 愛の政治学は? そうだ。それこそ私の問いたいことではなかったか。恋愛において、なにもかもが許されているのか? 恋愛を維持することこそ至上命題なのか? 愛の目的とはなにか? 目的がないなら倫理はどうなる? 生の充実、あるいは歓喜こそ恋愛の目的か? だが、もしそうなら、愛の倫理は奴隷の倫理学、幸福な隷属者というパラドクスをまたしても生み出すのではないか? 愛においてならば、いま幸せなら何だっていいのか? それが愛の倫理か? 愛は本質的に排他的なのか? 愛と自由はどのように踵を接している? 愛するひとよ! 私はどの問いひとつをとってもかいもく分からない! 愛において、衝動との向き合い方の倫理さえ知らない。情動は押さえるべきものなのか? 押さえうるのか? それは倫理的なのか? それとも退嬰に過ぎないのか? そもそも、私は愛しているという構文は、現象学の命題なのか、社会学の命題なのか? だいいち、プラトニック・ラヴは果たして背理なのか? ならば身体と精神は恋愛の場においてどのように結び会う? 身体と機械は? 理性と意識は? なぜ恋愛において我々はほかの情動よりもはげしく苦悩する? その特権性はどこからくる?
 風が吹き込む夜のベッド、繭子は問いを投げ付ける虚空を見つめて、みずからのなかを溯っていった。架空の記憶、架空の自我のそこへと。そして彼女の架空の愛したひとたちへと。
         かぐや
   いばらの森の赫夜姫

 そのレストランはオープン・テラスで、おりしも晴れ渡った冬空に張り詰めた明るい大気のなかでまるで透明なパステル画のように見えた。繭子がすみのテーブルで食事をしていると、黒服のアメリカ人らしいヨーロッパ系の人物が近づいて来た。不精髭で、疲れ切った顔をしている。思いがけず流暢な日本語で、
 「お嬢さん、ご一緒して宜しいですか」
 口調になぜか有無を云わせないものがあり、繭子は断る理由もなく承諾する。
 「あなたに、お知らせしたいことがあるのです。それから、さしあげたいものが。そして、やがてそのときがきたら、どうか許していただきたいのです」
 「どういうことですか。私をご存じなんですか?」
 「これを読んでみてください」
 男は早々に立ち去った。相変わらず有無を云わせぬ沈痛な面持ちで勘定書を奪い去ると。
 男が渡したのは黒い横書きの封筒で、ワープロうちで文字が記されてあった。男は、虚構の大伯父に似ていた。

 わたしは或る国の政府機関のものです。わたしはあなたに償い切れない負債があります。神をもなみすることとですが、あなたも先日医院におゆきになったおりお気づきになったはずですが、あなたの秘密はわたしたちの罪に由来するのです。われわれがあなたを作り上げたのです。あなたの夢、記憶も含めて、あなたという存在をわたしたちがまったくのエゴイズムから作り出したのです。わたしたちはあなたを日常に適応できるかどうか、実験体として監視して来たのでした。
 お詫びしてどうにかなるものだとは思っていません。ですが、お知らせしなければならないことがあります。あなたのからだは、一カ月以内に機能停止に陥ります。つまり、先ず昏睡に陥り、そのまま放っておけば死んでしまうのです。われわれが予期していなかった変化があなたの脳神経系に生じつつあります。機関は放置する構えです。せめてもの償いに、わたしはあなたに冷凍睡眠装置を差し上げます。いつか、時が来ればあなたをお救いできるかも知れません。いまは、ただこれだけです。同封の地図に従って、そのときが来たら部屋を借りてください。その部屋の地下にあります。操作方法はそこにおいてあります。
 個人として、何というべきか知りません。申し訳ない、と云う言葉は偽善にうつります。どうか、わたしの贈り物をお受け取りください。どうか、お許しください。

 繭子は泣いた。
 かぐやひめは月に帰らなくてはならないのだ。
 すべてを忘れ去って。愛したことも、憎んだことも忘れて。

 「あたしのこと好き?」
 靖行は戸惑っていた。しばらく会わなかったかと思うと、灯台のある岬にピクニックに行きましょう、と云い出してきかなかったのだ。いま、風は疾く吹き去り、緑は手招きするように揺れさざめき、あくまで遠く高い海は視界の彼方にまで広がっていた。
 どれほど、やがて時がすぎすべてを知ったときに彼は悔いることだろうか。どれほど、かけがえのない一瞬が過ぎ去ろうとしていたことだろうか。取り返しのつかない出来事が、そのさりげない瞬間に濃密な存在の重みをもたらしていたことか。どれほど彼は、自己の観察力の不足を歎くことか。だが、まだすべては未来のことだ。
 「ねえ、あたしのこと好き?」
 彼は知らなかった。この問いが存在のすべてを賭けた問いだったことを。ただしい答えは、好きだよという言葉、ではなく、愛を意味する行為ではなく、死そのもの、愛そのものであるような何か根本的に新しい、暗闇への賭けだったことを。それは、ありえざる奇跡に向けられた問いだったことを知らなかった。
 白亜の灯台は明治から残る数少ない霧笛の鳴る灯台だった。

 リポートより抜粋。報告者、レオン・グリーントマト。
 ……結論からいえば、実験体に見られる神経細胞の欠損部分の急速な再生、および意識の昏睡は、脳の神経細胞の一部が、ウィルス化したことに原因が求められる。決定的なことはまだ現時点ではいえないが、補正情報プログラムのなかのコンピュータ・ウィルスが、脳への特殊な遺伝的、化学的加工によって、自己複製能力を獲得したことが可能性として考えられる。(中略)最も注意すべき点は、このウイルスはいったん増殖を開始し、脳を食い荒らした後は、またたくまに他者にも感染可能だという点である。………おそらく一般人に感染する場合、経路は皮膚感染で、色素の剥落、意識の断続的混濁、昏睡による死という過程を取り、平均余命は七年程度になるものと思われ……

 当然のようにレオンは彼女を救うことはできない。

 繭子はゆめのなかで自分の中に声があることを知っていた。その声はひたすらな歎きの声だった。それはすべてを破壊して止まないほどの歎きの声だった。けれどそれは、なにか特定のものを歎いているのではなく、純粋な叫びとでも云うべきものだった。彼女はその声が自分をつれ去るのだと感じていた。自分の中に夜がある。ひかりのささない深いふかい闇があると感じていた。そしてその闇は彼女から漏れ出そうとしていたのだった。
 ウィルスは彼女の欠落が呼んだ魔だったのだろうか。いいえ、わたしはそうは思わない。とはいえ、すべてが時が明らかにするだろう。そして歴史が生を証しだてるだろう。

 いざなみはいざなきに云った
 いとしいひとよ、それならわたしは千の民を縊り殺しましょう
 いざなきは答えた
 いとしいひとよ、それならわたしは千と五百の民を生み出そう
 そうして生と死は分かたれた。
 限りない愛を込めて分かたれた。

 やがて時が経ち、繭子にとって日常は突然頓挫した。なぜ、そのときだ、と自分で分かったのか、彼女にも分からなかった。指定された部屋は、都心近くの古ぼけたアパートの一階の一室だった。
 入ると、かび臭い部屋にはテーブルだけが置かれ、そのテーブルの上には花瓶が置かれ、花瓶の中にはしおれた花が生けてあった。
 畳の下にあった冷凍冬眠装置は、恐ろしく場違いに真新しく、圧倒的に傲然とした氷の柩だった。
 「この世に、石ころひとつだって、在るからには意味があるって、映画の台詞にあるの。お星様ひとつ、石ころひとつ、むだなものはないって」
 呟くと、繭子はついに目を閉じ、闇よりも深い昏睡へと陥る。全身を蝕んだウィルスは見えないままに彼女のうつくしい体を染める。やがて一人の恋に狂った気違いが彼女にキスをするだろう。その男は愚かさと無分別で悔いを償うどころか台なしにし、瞬く間に病は拡大し、政府は封鎖するしかすべをしらないだろう。都心はスラムあるいは廃墟と化し、こうして、生ける屍たち、疾走する愚者たちの街、ウィルス・シティが一人の女性のこんこんと眠り続ける体をその中心に隠したまま、この世界に現れる。
 だが、これもまた必然だったのだろうか?

 そして、妙なるラスト・シーン。
 蛍光灯がそもそも取り付けられていない所為で部屋は暗闇だった。カーテンは閉じられ、そのくせ床からまばゆいばかりに白いひかりが漏れあふれていた。下から顔を照らされて、責め苛まれやつれた男の輪郭が浮かび上がる。男、靖行はなかば恋と悔いに盲いた頭で恐る恐る氷の柩に歩み寄る。彼の耳に聞こえるのはどこかで聞いたオルゴールの調べ。
 繭子は何年経ても彫像のようにうつくしく、スフィンクスのように悲しげに靖行を見つめ、それは拒むのか誘うのか宇宙の深淵よりもはるけき歎きをたたえて致命的な静寂をもたらす。時間はまたたくまに収斂したがいに異なった充実したこまかな粒子の連続と化し、連続性は失われ、こまおくりの永遠が現れる。瞬間は永遠と等価になり、きらめく白光は白銀の月明かり、いや、繭子は夜に浮かぶ鏡、処女神ディアナの月そのものだった。男の意識は混濁し、すさまじい渦巻きの奔流に飲み込まれる。なにをしたかったのか、何をしにきたかは忘れられ、天女の羽衣の忘却だけが支配する。
 追憶も感傷もそこにはなくただあるのは名付けられない強烈な情動のみが、そして愛はそこではなにものでもなくただ破壊的な強度の叫びとなって起きたこと、起こること、起きようとすることをうべなうために脈動するきらめきとなる。風は火と化し、部屋は存在せず男は女だけを見つめている。細胞のすべてが灼熱に燃え、もう一対の遺伝子を焦げるように恋う。かなわない融合への仮想の衝動が暴走し、もはやありとあらゆる安全弁は吹き飛ぶ。溶融限界ははるかに過ぎ、もはや狂気だけが存在を許され、男はなにを見てすらもいない。ただ引き寄せる衝動だけが閃光のように。

 Ich liebe Dich so wie du mich,
am Abent und am Morgen!
Drum Gottes segen.....

 歌声は人間の限界を超えて高みの音域へと切り裂くごとく官能を疾駆させながら高まり、ひかりは世界を覆うほどまばゆく白くはげしく襲いかかり、そして、長き約束のように、
 キス。

                          coda