終末を待たずに

 これは、埋葬についての物語りである。…………




 そのころ武史は、眠りが浅かった。
 そんなとき、祖母の浅野仮名が心疾患で危篤に陥ったという電報を受け取った。疼痛とともに、澤口七瀬と話さなければならない、と思う。
 七瀬は武史の母方の従姉妹で、仮名から見れば孫に当たっている。なにより、彼ら三人は幼いとき、仮名のもとでどれだけの時間を過ごしたかわからない。夢の流れは残酷な切断を受けて凍結し、今はただ忘れられている。事件以来、澤口家の人々の盆前後に行われていた長崎の浅野の屋敷への訪問は絶え、七瀬と武史もともに上京進学してはいたが一度も顔を合わせていなかった。
 武史がうろ覚えで澤口家の電話番号にかけると、七瀬の母親の双葉さんが出た。かつてと口調も声も変わらない。かれが言葉すくなに久闊を叙してから教えられたのは、七瀬が実家を出て一人暮らしをしているということだった。事情を話して住所を請うとややためらってから教えてくれた。調べれば分かることだし、今更こだわるのが性に合わなかったのだろうと武史は思った。じっさい、こんな際でもなければ武史も旧交を復する勇気がでなかったに違いない。叔母に当たるとはいえ、双葉未亡人にはどこか近寄りがたさがあった。
 ためらいをいったん突破してしまうと、「双葉さん」は懐かしそうに武史の現況などをたずねた。
 「姉さんはどうなさってる?」
 「母は、相変わらず市民運動かなにかやってるらしくて」
 祖母の危篤については、自分の母のことだからすでに連絡がいっていたのだろうが、改めて、あなたたちはよくしてもらったからなおさら心配でしょうねといってくれた。礼を云って受話器を置いてから、かれはメモした住所と電話番号を裏の意味を読もうとでもするように眺め、それから呟いた。「……なんだ。案外、近いんじゃないか」
 七瀬は乗り換えも含めて五駅ぶんだけ、武史から離れたところに住んでいた。これが、七年間の義絶を意味する空間距離か、と思うと遠いようでもあり、近いようでもあった。その日はすぐに七瀬に電話を掛ける勇気が出ず、武史は外出して、二本立てのロードショーを三回も観てしまった。
 同じ日の昼間、黒いコードレスホンの受話器をもって、風通しのよい明るい部屋のベッドに空色のトレーナー姿の若い女性がだらしなく寝転んで、天井を見ながら話していた。外では蝉時雨がやかましい。
 久しぶりに娘のもとに電話をしてきた双葉は、惑乱を誘うようなしらせをもたらしたのだ。
 「一緒に行ってほしいんじゃない」
 「……ええ? だって」
 「平気よう」
 七瀬はため息をついた。
 「お母さま、切っていいかしら」
 「どうぞ、用件はそれだけよ」
 買い直したばかりのパイプ・ベッドのうえに起き直り、片膝を立てて向かいのボスターの張ってある壁を睨みながら七瀬は何事か考えている様子だった。しかし何事も考えていなかったのかもしれない。アパートの外の道路を消防車のサイレンが通ると、突然立ち上がって彼女は猛烈な勢いで着替え始め、ばたばたと化粧、留守電をセットするときにさっきの話を思い出したような表情を浮かべたものの、すぐにすまして外出して行ったからだ。
 出て行く直前に、鏡に向かって、いってきます。カーテンが引かれ明かりの消えた薄暗い部屋のなかでは、熱帯魚の水槽だけがとり残されて時折泡がごぼごぼと立つ音がしている。
 青が主な色調のはかなげに華奢な熱帯魚たちの名はアケメネス、アーサー、マリア・テレジア等と、王と女王に因んでいる。
 この熱帯魚のことを、彼女の恋人はいやがっていた。魚が嫌いなのだ。
 「反対だね」と男は云った。
 「きみはぼくのものなんだから、何処にも行くなよ」
 こういう台詞はたいてい相手が喜ぶと思って発音されるものらしい。七瀬はほおづえをつき、わずかに上目使いの目で男の唇の動きを見ている。大学の生協食堂の窓際のテーブルで、二人は昼食を取っているところだ。
 「第一、いとこだって云ったって若い男だろ」
 男は不安そうな神経のこまかさを見せながらハンバーグを細片に完全に切り分けてしまった。
 「でも、別に一緒にお見舞いに行くとは限らないのよ」
 「そういうに決まってるよ、バカだな」
 七瀬は自分が独善的な愛し方で保護されているということのあかしに、あるいは、不安を日常によって隠匿してもらうために、男に所有欲をあらわにしてとめてほしいと思っているのかもしれなかった。
 しかし多くの場合、そういうたぐいのことは、一度考えてしまったら終わりだ。システムは、意識されてしまえば変わるか壊れるかしかない。けれど、ほんとうは、どちらが主人でどちらが奴隷だろう。どちらが束縛しているのかなんて、知れたものではない。七瀬は切り分けられたハンバーグの細片を穴の空くほど見つめてから、もう一度抗議した。
 「いいお祖母さんなのよ」
 「え?」
 男はびっくりしたように聞き返して、そのはずみでフォークが床に落ちた。
 「はい」と拾ってあげる。それから七瀬は、急に愛想がよくなって、会話がはずみはじめた。いささか度が過ぎているくらいだったかもしれない。
 澤口七瀬の横顔は色白で、ときおり鋭すぎるというひともいる。しかしたいていの場合は、彼女はつきあいやすい相手である。めったに怒らない。そのことをさしてなのか、彼女を傲慢だといった詩人の卵がいる。
 悲劇が始まり、翼を埋葬した天使がいる。
 出来事はたいていの場合、いつまでも瞬間が引き伸ばされてついに終焉にたどり着かないか、過剰に終焉をつくりだしすぎて一つの決定的な終焉を見つけることができないかのどちらかだ。武史は自分の出来事がどちらのケースになるのか、それとも、奇跡的に終わることが、ということは始めることができるのかどうか、ずっと疑問に思っていた。
 ともあれ、始めることを、「振り」だけでもすることが第一歩だった。ならず者の道徳律によれば何か取り返しのつかないことをすることは、取り返しのつくことをするよりも常に正しい。それは必ずしも非道なことをせよということではなくて、自らの為すことを取り返しのつかないこととして体験できるように行為せよということなのだとかれは思う。ひとがそもそも何かをまったく新たに始めることなどできるのかどうかは分からなかったが、取り返しようもなく、何かを手放してしまわなければ、物事は終わりにはたどり着かないのは確かだった。物事は手の届かない他者たちの手のなかでのみ生成し、異様な恩寵のように……回帰する。
 かれは電話を掛けた。
 プッシュホンを押しながら、武史の脳裏には三人だったころのことがよみがえってくる。お仮名さまは奥座敷から殆ど出て来ようとはしなかった。すでに老齢に達していたにもかかわらず異様な婀娜めいたうつくしさがあって、大奥様というよりもお仮名さまと呼ばれることが普通だった。彼女の唯一の二人の娘、双葉(彼女は家を出て澤口氏という実業家と結婚した)と令子(彼女は養子に武史の父を取って資産と人脈をついだ)は七瀬姉妹と武史しか子供がなかったので、お仮名さまは加減のよいときはかならず帰省している孫たちの相手をした。
 「六花、七瀬、ここにおすわり、坊もそこにな」
 奥座敷は幾重にも障子で外から隔てられた場所にあり、唯一縁側に面した障子だけが直接庭に面していたが、きつい光りをいやがるお仮名さまへの配慮からか、そこにはいつもふすまがしめられてあった。
 明かり障子のせいでクリーム色に和らげられたひかりのなかで、お仮名さまはいつも子供たちに自分の若いころの話や草そうしの話をした。どちらが虚構でどちらが現にあったはなしなのか、お仮名さまは人名をいつも適当に変えてしまうので分からなくなるのだった。江戸や明治は戦後初期の闇市と連絡し、浅草の凌雲閣で探偵が女怪盗をおいつめたかとおもうと、お仮名さま本人が遠眼鏡で震災前の風景をながめたという話になったりするのだった。
 しかし、お仮名さまがいかに古風だといっても震災まえの生まれなどと考えるのは無理があるので、さかしらだつようになった子供たちはしまいには本気に聞かなくなったが、それでも真昼でも障子のせいで西日さす黄昏のように見える奥座敷でお仮名さまの本当らしい語り口をきいていると、偶然そのまえに雨月を読んでしっていた話でも、本当にお仮名さまが見聞きしたことのように思えてならないのが不思議だった。
 しまいにはだから子供たちの観念の中ではお仮名さまは時代をこえてあらゆる場所に出没する物語のヒロインのように映ることになったのだった。
 一方では、お仮名さまはその日の子供たちの冒険譚を詳しく聞くのが好きだった。夏休みに学校から解放されて毎日自然の中に解き放たれている子供のこととて、あきもせず細かな、どうでもいいようなことに感動して、隅から隅まで地方都市を探検しつくそうなどと過剰な想像力とともに決め込んでいるのだから、普通の大人であれば耐えられようもないほどな細部が羅列されるのだが、お仮名さまは何度も質問を挟んで、聞いていて飽きないようだった。
 鎮守の杜の裏手の林の奥に三人で行ってみたら古い石の卒塔婆がいくつも倒れていたのでこれは何かむかしのまだ知られていない遺跡にちがいないと思って文字を読もうとしたけれど分からなかったから鉛筆で拓本を取って来た、どう読むのかなどと武史がいえば字引をひいて調べてくれるし(ちなみにこれは何代目かの旧藩主の弟の墓で、不行跡だったので隠居させられ、こんなへんぴなところに人目を避けるように葬られているのだった。たいして資料価値もないので、教育委員会も目録には載せていたがとくにどうしようという意志もなかったものらしい)裏の古川の方の山に昆虫採集にいったら自転車を見つけてその下にはきれいにそろえて靴がならべてあった、自殺ではないかと云われれば一緒に考え込む。
 お仮名さまはとくに双子の物静かな方の六花を愛していた。顔立ちも癖もよく似ていた仲のよいこの双子の姉妹のうち、親しいひとでないとわからないのだが、六花の方がわずかに控えめな気質だった。七瀬がいつも六花のいうことを代弁してしまうのでいきおいしゃべることが少なくなるのだった。幼いうちから片時も離れる事なく一緒だった双子のことだから考えることも殆どかわりなく、そのため七瀬に代弁されてしまったからといって違うということもできず、たしかにそれは彼女もいおうとしたことだったのだからと口をつぐんでしまうのだが、お仮名さまはそういう六花の本人も気づかないような微細な引け目と憤懣に気づいていたのか、とくに六花を可愛がっていたのだった。武史はいまも、そのときの六花のはにかんだ笑顔を思い出すことがある。
 「お仮名さん、危ないってさ」
 「知ってる」
 「……付き添いに、いかないか」
 「行っても善くなるわけじゃないから」
 「……」
 「……沈黙で強いるのって、ひどくない?」
 「悪い。でも、行かないと」
 「……どうして?」
 七瀬はためらいに動揺をあらわした。
 「お仮名さん、許してくれてるよ」
 「……勝手なこと云わないで」
 「でも、これが最後の機会になるかもしれない」
 時計がまた何時かを打つ。
 「……何で、そんなに押しが強いの?」
 「焦ってるからだろ」
 二人は事務的に列車を打ち合わせて電話を切った。何処かで湿った生暖かい闇が流動する音がしているようだった。

 昼間、夏休みの東京駅のホームは雑踏であふれんばかりで慣れない人間にとっては大掛かりな祝祭がいとなまれていて、そのうちパレードでも通るのではないかと疑わせるに足りる。全くキオスクやあれやこれやの売店は露店に似ているし東京駅はつくりからしてそんな連想を正当化するのだ。武史は肩掛けのスポーツ・バッグ一つの姿で酩酊したように構内を歩いていた。せっかちの気のあるかれは三十分ほどまえから到着していて、まだあと一時間程も出発まであるので何をしていればいいのか分からないのだ。そのくせ待ち合わせの場所でもしも早めに来ていた七瀬とでくわすのも気が進まないのだ。
 話すべきことなどなかったし、しらじらしい世間話をするには疎遠でなさすぎた。とはいえ祖母の容体への焦りもあってひとところで座って待つこともできず、つまらなさそうにかれは構内のさまざまな業種の店舗を巡っていた。そのうち、土産を買うべきだろうかと心付いた。不謹慎かもしれない。よく分からなかった。それ以前に、七瀬に再会のあいさつ代わりに何かご機嫌伺いの貢ぎ物が要らないだろうか。武史は切羽詰まったとき以外はそれほど落ち着いた人間ではないのかもしれない。慌てて走りだす。
 やがて、七瀬は時間ちょうどに駅にやって来た。地下から地上にあがると人いきれが襲ってくるのがよくわかる。空調のきいた地下街から外へ開け放された階上にうつると却って空気がわるいという喜劇的な事実だった。七瀬はため息をついて短く口のなかで東京と東京都民に就いて不穏当な見解を表明すると頭を一回振って気を取り直し、八重洲口に向けて歩き始めた。
 新幹線入り口の近くの日本橋方面の待ち合わせの広場に七瀬が急ぐでもなく姿を現したとき最初に気が付いたのは武史の方だった。
 「おはよう、暑くない?」
 立ち上がって挨拶しようとする武史に七瀬は先手を打った。彼女は麦藁帽子にワンピース、バッグという恰好だった。下手をしたら日傘でも持って居かねない。
 「博多はどしゃぶりだってさ」
 先に立って武史は歩きだした。
 「何それ?」
 「天気予報」
 「……喧嘩売ってる? ねえ、買うわよ、喧嘩、ねえ」
 「売ってないよ」
 「あっそ。……傘でも買うの?」
 「新幹線には屋根があるから」
 「皮肉よ」
 「……そうだ」
 武史はバッグから一輪挿しの薔薇を取り出した。そういうひどい扱いをしたためにカバンのなかは花びらが散乱している。
 「お近づきのしるし」
 「ひとの話を聞かない……」
 呆れ顔で七瀬は薔薇をすばやく奪い取るとバッグに挿した。
 「こういうので懐柔しようなんて思わないで」
 「……思ってないよ」
 発想が類型的だわ。薔薇なんて。
 庭の薔薇を取って、と告げたのが七瀬だったのか六花だったのか武史には今でも分からない。中学の二年生になったばかりのころで、そのとき何故か三人とも制服すがただった。何か……きちんとした式にでも出た後だったのだろうか。武史は浅野の屋敷の庭で、部屋のなかから姉妹に声をかけられたのだ。庭には花壇があって薔薇も植えられていた。武史は庭でたしか飼い猫と遊んでいたはずである。この猫は白い和猫で雑種だったが少し脳が弱いせいか猫らしいふてぶてしさがなくて可愛がられていたが、二年前に武史の実家からいなくなった。猫のことだからきっと死んだのだろう。
 「お部屋に飾るから薔薇を一輪截って来て」
 不器用な武史が手をいばらで散々に傷つけてから截った薔薇の花を、窓越しに受け取ったのはどちらだったろう。ふだん、自然に二人を見分けていた武史がそのときだけ記憶が不分明だった。ただ、ずっとながいあいだ武史はそれが六花だったろうと信じていた。薔薇を部屋に飾るというのは、いかにも六花のおもいつきそうなことだった。
 列車で隣同士の席に座ってしばらくは二人とも口を利かなかった。窓際に座った七瀬はプラットホームの景色を飽かず眺めていた。微睡んでいるようでもあった。武史はふと口を滑らせた。
 「……七瀬さ、そんなに気、強かったっけ……」
 「……悪い?」
 出発直前のブザーが鳴った。
 七年の時の流れに隔てられた二人はふさわしい様式を見いだすことができない。かつては、六花がいて、一人と一人がこれほどあからさまに対面することはなくすべてが曖昧なまま擦り抜けて行くダンスだった。
 新幹線のなかは飛行機にも似て快適で、静かだ。耳をすませばエア・コンディショニングの倦むことのない作動が聴こえる。武史は心臓の音に耳をすます。そして隣に座る女性の精神が分からないということに不意を打たれる。こんなにも近いのに、こんなにも遠いのだ。七瀬は困惑した猫のように目を閉じている。本当に眠っているのかどうかも分からない。
 武史は意識の闇の底をながれてく夢の時を思う。
 そして、お仮名さんの見ている夢に思いを馳せる。
 買って来た文庫本を読み終えたころ、隣が身じろぎした。
 「起きた?」
 「どの辺?」
 「浜松あたりかな」
 「お仮名さん…まだ大丈夫よね」
 「何かあったら電話あるはずだから」
 武史は立ち上がって、バッグから携帯を出した。七瀬は興味なさそうにうなずくと、沈黙した。
 武史はトイレに立った。手洗いには先客がいて、待っている間、洗面所の鏡とにらめっこをする。眠りに似た憂鬱がすこし、晴れたようだ。
 戻ってくると、七瀬は手帳を広げていた。
 「京都、修学旅行で行った?」
 「祇園、嵐山、太秦、東寺……まだあるけど」
 「私は行かなかったわ」
 そういって立ち上がる。武史は通れるように道を空けた。後ろ姿が叔母の双葉に重なる。華奢で壊れそうに見えるが、そう見えるだけだ。
 武史は伸びをして、窓の外を見た。田圃が広がっていて、農道には木製の水車が回っているのが見えた。遠くには青く山並みが見えた。
 「あのさ、気、強いって云って、ごめん」
 戻ってきた七瀬に武史が何げなくを装っていうと、びっくりしたような顔をした。はにかんだ表情で頬を赤くして、煩わしそうな口調で打ち消す。
 「いいよ。そのとおりだから」
 ああ。あのころも、七瀬はこんなふうに笑った。……六花はもっと素直で、こんなにややこしい反応はしなかった。
 「土産にかった洋菓子食べるかい?」
 武史は膝に包装紙を破ってもう広げている。
 「変わらないわね。食べ物で取り入ろうとするところ」
 「何だ、要らないのか」
 「お寄越し」
 解凍された想いはしかし、直面すべからざるものからの逃走ではなかっただろうか。ただひとときだけは忘却のうちで、かれらは言葉なき激情によって不安と敵意を紛らわせようとしたのではなかっただろうか。愛がはじまりはいつも不純なものだとしても、馴れ合いの出来レースの様相を見せるとしても、星々よりも孤独な激情だけは真実なのではないだろうか。
 二人は無理におどけることで親しもうとしていた。
 七瀬の饒舌は限りなく沈黙に近く武史には思えた。
 「ピエロ」
 「何だいそれは」
 「映画も見ないの? あなたはマリアンヌ、ていうのよ」
 「でも、おれは、多分爆死しないよ」
 「セ・ラ・ヴィ」
 「へ?」
 イメージのなかの、キス・キス・キス。
 武史が七瀬のなかに六花の面影をかさねているのか、それとも七瀬の面影を六花に投影しているのか、そんな問いはおよそ泥沼で回答不可能だ。誰にだって分かるはずはないし、罪が何で罰が何かなんてなおさら分かるはずもない。もしなにかがあるとすれば、すべての過去が現在のままに閉じ込められているあの場所で、あれから流された無駄な時の値をはかるほかにすべがあろうはずがない。もう六花は、海にとけゆく永遠を見つけてしまったのだ。永遠が見えない二人にどんな言葉があるだろう。武史もしばらく眠っていた。夢は見ず、ただ沈黙を聴いているだけだった。目が覚めると、七瀬が武史の顔を眺めていた。「……わたしね」
 「何?」
 七瀬は用心深い武史の顔を見て、気を変えて言葉を戻した。
 「……いま、どの辺り?」
 「岡山と広島のあいだ」
 「あれ、瀬戸内海なんだ」
 海は波もなくひろがっていた。陽光が燦爛と砕け、空に飛び上がっては落ちていた。死者たちが風に乗って舞っているように見えた。
 それから二人はお互いの大学の話をした。あることとないことを話した。うつくしい、善い生活と、間が抜けていて滑稽な生活をしているように話した。武史は七瀬がどこか上の空なのを感じていた。何をさっき言いさしたのかが気になった。お仮名さんのことが二人の念頭には間違いなくあった。けれどそのイメージは武史にとっては具体的な、病床にまわりを取り巻く親族たち、痩せこけた老婆というものではなくて、次第次第に色素が抜けていって、ついに透明になっていくあやしい娘の裸体だった。かれがお仮名さんの若いころの姿を知っているというわけではない。だが、そのイメージはあまりにも鮮烈でかれを捉えてはなさなかった。
 車内で携帯の音が鳴り響いた。二人は急に会話をやめた。誰かが取り、会話を始めた。二人は会話を再開した。

 博多駅で新幹線から急行に乗り換えるまでにしばらく間があった。時間まで武史は駅の広場のベンチで座っていたが、七瀬は地下街を冷やかしに行った。広場の真ん中当たりではなにかイベントをしているようで、ウサギとトラの縫いぐるみがコンパニオン風のお姉さんの両側に立っている。後ろには大きく看板が立っていて、久留米で何かお祭りをやっているのの宣伝らしい。マイクをもった声優みたいな声のお姉さんが人だかりに向かって何かいっている。なにか参加を呼びかけているようで、多分ジャンケンかクイズのゲームだ。ざっと一瞥して武史はそれを無視することにした。それにしても音がうるさい。腕時計を眺めて、まだ時間があることを確認する。かれの座っているベンチは木製で、アンティークを象ってある。
 目の前を何人も旅客が通る。ひとりが座敷犬を抱き抱えてつれているのを見て、お仮名さんがかれの父のお客が連れてきたコリーを見ておいしそうだといったときの騒ぎを思い出す。本気だったのか分からないが、そのときも結局お仮名さんがにっこりすることで有耶無耶にかたがついたのだ。
 六花と七瀬という名前はお仮名さんがつけたものだ。六花とは雪の結晶を意味する雅語で、七瀬とともに、二つのはかない煌めきについてのお仮名さんの思いを推し量らせる。初孫に、たちまち消えるものの名をつけたのは不祥かもしれなかったが、この一人の長いときを生きた女性の祈りはむしろ、娘たちに風花や泡沫に対するように向けられていた。
 やがて時刻が来て、二人がひとけのないホームで特急列車を待っていたときに、武史の携帯が鳴り、訃報が届く。武史の父の、誠からだ。義母の逝去を、申し訳なさそうに告げる。ちょうど日は陰り、天候が悪化しようとしているときだった。もう夕暮れが近い。武史と七瀬はその夜は、博多で過ごすことに決めた。あちらは取り込んでいるらしかったから。
 間に合わなかった。

 ホテルの部屋には生活の痕跡はなく、誰も住んでいなかったというよりもむしろ幽霊が住んでいたという感じを与える。不在の主人の留守に勝手に使用しているという罪悪感が滞在者には付きまとうのだ。武史はテーブルの横のいすにすわり、ドアの脇の壁の前に据え付けてあるテレビを興味も無さそうに眺めている。黒い滑らかな材質のテレビで、同じ色の台の上に乗っている。硝子の両開きの引き出しがついていて、なかには説明書や案内が入っているようだ。
 ツインのベッドの間にテーブルがおいてあり、そこに案内書や、お茶がおいてある。二つあるベッドにはそれぞれの荷物がだらしなく広げてある。そしてベッドの足の方角の壁にテレビとクロゼットがあって、そこに上着を掛けるようになっている。この壁伝いに左手に行けばユニット・バスとドアであり、右手に行けばヴェランダになっている。
 全体的に部屋はワンルームで、沓脱ぎと寝室兼居間との間にしきりはない。ドアがあく音がして、七瀬が部屋に戻って来た。手にビニール袋を持っている。売店で何か買って来たらしい。武史は振り返ろうともしない。
 「おつまみとワイン、買ってきた」
 「…陳腐だなあ」
 「要らない?」
 「寝られそうにもないから、貰う。サンキュ」
 「割り勘よ」
 画面で誰かが何か言い、人々がどっと笑うのが聞こえた。武史は立ち上がり、中身をテーブルのうえに出して、つまみを広げ、ビンを開けた。七瀬はベッドに仰向けに倒れ込んで、天井を見つめた。
 ……七瀬の父親の装一郎は、そのころ物柔らかな陰のような人として人々に記憶されていた。自嘲ぎみに顔を歪ませて笑う癖があり、物静かだが、どこか対する人に気を使わせる人だった。黒い無骨なメガネを、線の細い色白の顔に掛けていた。
 おとうさん、どうしてあなたは、六花を選んだのですか?
 紡がれる秘密のなかで、双葉がどんな役を演じていたのかはいまだに分からない。しかし、そのころ父に浮気相手がいて、会社には負債がたまっていたことが後で分かった。妻と恋人との軋轢が最初だったのか、会社の経営不振が始まりだったのか、それともそれらすべてが或るひとつの、結局父にしか分からないなにものかの、どうしても何時かあらわれねばならなかった破綻であったのか、それも七瀬にはついに分からないことだったし、分からなくてもよいことだった。ただ、七瀬には、どうしても知らねばならないことがあった。どうして父は、六花を彼岸に伴おうとしたのだろう。もうひとりの私はそのとき、そのことをどのように考えたのだろう。それとも、抗ったのだろうか。
 そのとき彼女は初めて、姉妹が別の人間だということを思い知らされたのだ。あなたはわたしじゃない。わたしはあなたじゃない。鏡合わせの悪循環は断ち切られてしまった。エコーの恋を拒絶したナルシスは、自分に恋して歎きのあまり溺れてしまう。六花、あなたは私のことをどんなふうに見ていたの?
 十五歳のあの年、彼女は二人が浜辺に死骸で打ち上げられたと聞いたときのことを覚えていない。ただ、それから何日かしたとき、武史が泣いているのを無感動にながめたときのことを覚えているに過ぎない。双葉が事実にどんなふうに対処したのかも彼女は知らない。ただ、以来、浅野家への訪問は打ち切られた。そのとき、武史が彼女に薔薇を贈ったのではなかったろうか。記憶は果てしなく曖昧なまま、変容を続けていくのかもしれない。
 「罰が当たるかもしれないけど、七瀬」
 「慰め合うなんて……ばかよ」
 「そうかもしれないけど、きみは、そんなに」
 「きっと、取り返しがつかない」
 「いいよ、一緒に堕ちよう」
 「やめて」
 眸を閉じて、魂に夜が降りる。
 欲望だけは紛れも無い。
 そのほかはすべて不分明な嵐のように。
 おかしいな、罪など何処にもない。それなのに、どうしてこの愛撫は、こんなにもかなしい。

 同じ夜、ひとつの死骸が黙々と暗渠をながれる淀みのような「時」から、少しづつ離脱しようとしている。解体の過程はしかし、遅々として進まない。ただやがて、甘い腐臭が沈黙の部屋に漂い始めるだろう……

 闇のなかに、歎きに似た叫びだけがひそかに聞こえている。武史は七瀬の白い裸体を抱き締めながら、皮膚と皮膚の呼び合う激情を感じている。どれほど抱き締めていても不在のおんな、逃れ去るものをたしかめたいばかりに武史はくるおしくキスをあびせながらきつく抱く。抱擁はいつも不在を確認させるにすぎない。
 皮膚は触れると同時に逃れ去り、キスは内臓に直接触れるように熱い。命を吸い取られ、消え去るなまめかしさのなかで武史は七瀬の魂に触れ、決してかなえられない願いに打たれた。いやいやをするように彼女は首を振る。彼女はもう一度、えらばれねばならなかった。拒否の意味を理解できないまま、七瀬はずっと、六花の代わりであろうとしてきた。
 そのとおいところにあるなにものかに比べれば、武史の愛撫もキスもただ悲惨な無力の告白でしかない。快楽ははかないアクセサリーのようにまつわりながら、本当にほしいものを隠す。優しい阿片のように。だから、欲情だけが確かだった。六花が雪のように溶けて消えてから、わたしはわたしの外にわたしを見いださなければならなかった。肩甲骨の華奢なラインに見えない翼のためにキス、不可能な互いの欠如の充填のためにつまらないことをして、それでも一瞬なにものかが奇跡のように近づく。
 鳥肌立つ肌と肌の接触のうちに、苦痛に似た、あまりにもはりつめた孤独がやってきて、パラドックスのように男と女を、わかちがたく綯い合わせる。有限回しかキスが不可能なこと、有限回しか抱き締められないこと、無限につよく抱き締めることができないこと、抱き締めても彼女の肉体が彼女そのものをだきしめる邪魔をすること、有限が無限を表現できないことのせつなさが、その仮想の一瞬にだけ、あやうく、取り返されるようにして、すれちがう。
 夢が、煌めきのように漂っていた。

 わたし、あなたのこと嫌いよ。
 七瀬は六花が夢のなかでささやいたような気がした。
 そうよ、わたしもあなたのこと嫌いよ。
 七瀬は、安心したように、そう呟いた。
 だって、あなたは死んでしまったのだもの。
 もう決して、会うことができないんだもの。
 六花の声はかつてと変わらない口調で抗議する。
 ずるいわ。
 だって、しょうがないじゃない。
 それから、七瀬は付け加えた。
 ……ごめんね。六花。
 六花の返辞は、聞こえなかった。
 闇のなかで、仕方なげにほほ笑んでいたのかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、ただ柔らかな沈黙だけがあった。

 葬儀の準備に忙しい浅野家にたどり着くと、二人は武史の母親の令子にかつて澤口家の姉妹が使っていた部屋に通された。後から、双葉も別便でやってくるのだという。その子供部屋は、夏に七瀬と六花がやってきたときに泊まっていた部屋で、武史が上京するまで使っていた部屋はまた別にあった。
 お屋敷と呼ばれていた浅野家の古い建物の母屋の二階の隅にあって、ちょうど窓から下には池が見える。勉強机がひとつとスプリングの外してある二段ベッドが、ほこりをかぶって置いてあるだけで、後はなにもない、六畳の和室だ。横に明ける木の戸をひいて入ると、かび臭い匂いがふいに襲ってくる。
 「伯母さん、掃除くらいしといてくれればいいのに」
 「動転してるんだろ」
 武史は荷物を放ると窓を開放した。風が入ってくる。
 「ふうん」
 なつかしそうに、七瀬はふるい勉強机の引き出しをあけてみる。
 「あれ?」
 あけた拍子に、一枚の古い黄ばんだ写真がおちてきたのだ。
 澤口家の一家、神経質そうにレンズから少し外れたところを見つめているスーツ姿の装一郎が左に、その横に二人の娘を見つめて、気遣わしげな、それでいてなにより自分が便りなげな表情をしている当時はショート・カットの双葉夫人、そして手前に、二人でピース・サインをしている小学生くらいの七瀬と六花、七瀬がロングでスカート、六花はズボンだ。背景は何処かの公園で、七瀬は猫を抱いていて、よく見れば六花のピースをしていない方の手はその頭を撫でている。
 七瀬が裏返すと、そこには女の子の文字で、
 またみんなで散歩に行こうね、六花。
 と、書いてあった。
 窓からは、あたたかい日差しが部屋に射し込んでいる。蝉の声はかすかに聞こえていた。武史と七瀬は顔を見合わせる。七瀬がくすぐったいような驚いた顔をしたのを見て、武史はいった。
 「双葉さんが来るまで、お散歩でもしてようか」
 「そうね……」
 「あ!」
 「なに?」
 「喪服、忘れた」
 「それじゃ、それも買いに行きましょ」
 空は澄み、晴れ渡り、青さで空虚は満ちている。
 蝉の声が日の光とともに降り注ぐ。

 後で聞いたところによると、澤口仮名の臨終の言葉は、逝去を看取った娘の令子に向けられたもので、双葉を許してやれというものだったそうだ。仮名がそう杞憂を感じていたのか、それとも実際に、装一郎を死なせたことに、令子がわりきれない思いを抱いていたのかは定かではないだろう。この姉妹が互いにどんな心情でいるのかは、家族にも分からないことだった。もしかすると仮名は孫の七瀬と六花の双子に親の世代を重ね合わせて、ひとつの不憫と悔いを感じていたのかもしれない。ただ、その言葉は、たしかにそれまで浅野家の人々に、そしてその使用人たちの間に、双葉に対して存在していたわずかな隔意を、お仮名さまへの追悼の意に伴って溶かすには足るものだった。その隔意は敵意というよりは寧ろ、双葉に対しての、理屈に合わない引け目のようなものではあったのだけれど。

 やがてやってきた澤口双葉は、葬儀の準備のために娘と甥を呼びに町へ探しに行った。家のひとたちにわたしたちが行きますからと云われたのだが、自分が呼んで来るといいはったのだ。武史と七瀬は、市内の或る有名なデパートに行くといって出て行った。双葉はタクシーで休日の商店街に降り立った。実を云えば、彼女も、ここにやってくるのは七年ぶりのことだった。感傷を漂わせつつ、デパートに乗り込み、アナウンスをしてもらう。故郷の方言を全員が話しているのが、奇異な感じさえした。双葉にとって、事件以来、この町は、存在していないはずの場所だった。
 しかし、そこには二人はいなくて、双葉は、いい齢をした娘と甥を、そのデパートから程近いところにある図書館まえの公園に見いだした。
 噴水が空に水を吹き上げ、その折れ砕けた流れが重力にひかれて落ちる瞬間に、無数のきらめきを生む。いくつもの煌めきは陽光を乱反射させ速成のプリズムとなって虹の色彩をふりまく。そのまわりに、いくつかベンチがならべてあり、さらにその外側に、花壇があって、その外側を囲むのが芝生の層だった。犬の散歩にやってきたひとがベンチに座っているのが見えるが、あとはほかに人影もない。それはまだ子犬でさっきから初老の飼い主のまわりでさかんにはねまわっている。まだ、遊び足りないらしい。
 その芝生のうえにじかに、喪服の少年と少女は、昼間から、ただひたすらに眠りこけている。まるで、すべての知己をうしなった孤独の二人が、ただ互いだけを所有しながら、この、どこでもないくにの浜辺に打ち上げられたかのように。規則正しい息遣いが、まるでそこが当然のように天然のベッドとしてそもそも作られたかのような錯覚を双葉に与えてしまう。
 枕がわりにされたカバンの横には、そこらで買い求めたのだろう花束が打ち捨ててある。それは、おそらくは死者たちへの手向けの花束なのだろう。彼らは死者たちよりも深く、初夏の溢れる陽光の湖の底で溺れているようにも見えた。……