この空に幸いを

 
 脱走して三日経った。漸く荒れ野が途切れて、ぼくは人里を目にした。それはいかにも古い町で、入り口には腐り掛けた白い柵があった。しばらく人影もまばらな碁盤目状の迷路のような町並みを歩いていると、不意に大きな車道が開けた。道の向こう岸には延々と広大な畑が広がっていた。道は一方は駅に続いていた。駅は小さくすでに視界に入っていた。それは小高い処に立てられた鹿鳴館時代の洋館で、真っ白なおもちゃに似た建物に枯れた蔦が決して離れようとしないで絡み付いているのだった。道のもう一方の端は、地平線の彼方で海に続いていた。海は空と同様にノイズの走った灰色で、ぼくに覆いかかってくるように思えた。ぼくはもう一度駅を見、そしてそこを横断する線路の赤茶けた影を見た。ぼくは疲労していた。いますぐにも列車に乗ってさらに遠くへ逃走したかったが、金銭を少しも持っていないのだった。なま暖かいアスファルトがまるで内臓器官ででもあるかのような薄気味悪い生臭さを感じて、ぼくは足許の柔らかさを嫌悪した。まわりに人の姿はなかった。ともかく、誰かの助けを求めようと考え、ぼくは再び迷路の中に戻って行った。町並みはどれもひどく似ていた。表札と屋根の色だけが唯一区別になっていた。誰もが庭に同じような木を植え、同じような車をガレージに入れていた。ぼくはしばらくあてもなく歩き回って、この町に何の縁もゆかりもないぼくであれば、選ぶ理由などないのだからどれを選んでも同じだということに気づいた。しかし、そのことはぼくを更に混乱させた。ぼくの脱走を成功させるのに、手助けになってくれるような人物を家並みだけから判断するのは不可能だ。しかも、それは間違ってはならない選択なのだった。名前を知られてはならない。とはいえこのまま何時迄も路上の人であることがより危険なのは云うまでもなかった。これは一つの賭けであり、それもやり直しはないのだった。ぼくは自分自身の全存在とこれまでのすべての脱走の苦難をただ無根拠の選択に委ねなければならなかった。できればぼくは選択を拒否したかったが、それは運命の空虚さに屈服することに等しかった。無根拠−とぼくは云ったが、それはじつは究極においての話で、もしそれが不安ならば根拠を見つけられないではない。例えば、あの家の屋根は青い。青い屋根の持ち主は恐らく赤い屋根の持ち主よりは興奮しにくいだろうと云う風に。あるいは、郵便受けを根拠にしてもいい。しかし、何千何百という説明が存在し得る中で、どれが真実だとこの小さなぼくに知り得よう。それでもせめて間違ったときに納得しうる為にも、それは何よりも必要な儀式に思えた。
 ぼくは緑の屋根と新聞の入っていない郵便受けを持ち、壁には蔦が絡まり、ガレージに入っている車は青いツードアで、十字路に直接面している家の一軒の前に立った。家は静まり返っていた。中に人がいるかどうかも定かではなかった。ドアは一段高く、コンクリートの階段が三段門の処にあった。その門には黒いインタホンがつけてあり、白いボタンを押して話すようになっていた。ぼくは息を吸い、口づけでもするかのようにボタンを押した。世界中に響き渡るかと思われた音がした後、
 「はい」
 とだけ返辞があった。ぼくはその声からすべての人格を想像しようとしたがそれは無駄な行為ではあった。ともかく若い女性の声であるのは確からしかった。その外は依然として霧の向こうにあった。 「あの、匿っていただきたいんですが」
 そこまで云ってぼくは絶望した。あれほどの膨大な無為の時間を所有しながら、語りかける言葉すら考えることもしなかった自分が取るに足らないものに思われた。攻撃的なまでに直截な自分の云いように、取り返しのつかないものに思われた。それはおかしなことにまだ本式に口を利いたとすら云えない相手への同情めいたものでもあった。すぐにぼくはその滑稽さに気づいた。ぼくはぼく自身に同情しているようなものではないか。それは殺人者の被害者への同情より悪い。ぼくはまだ殺人者が行うほどのコミュニケーションさえ行っていないのだ。
 しばらく沈黙があった。下方から蝉の声がした。ぼくは少しもあせっていなかった。いま世界はこの会話のために時間を停止しているとぼくは過信していたようなものだった。その沈黙の意味を計りかねながら、ぼくは自分が汗をかいていることを感じていた。
 「あの、」
 堪りかねてぼくは再び話し出そうとした。しかしその動作は微かに聞こえた音に中断された。ドアの向こう側で、靴を履いているような音がした。
 何が起きているのか悟ると、ぼくは咄嗟に逃走の衝動に襲われた。何がドアから現れるかはまだ不確定だった。そのときぼくをそこに踏みとどまらせたのは、多分自分自身の無根拠の決断にすら信頼することができなくなったら、ぼくは存在することができなくなるという、事実だった。ぼくは何が起きても受け入れる覚悟でとどまっていた。車が通り過ぎる音がした。その音に一瞬注意を逸らされた直後、いつのまにかドアは開いていた。開いたドアのあった空間は沓脱ぎを経由して薄暗い廊下に続いていた。足拭きのおいてあるその廊下の入り口のところに立っていたのは、ごく平凡な二十代前半の女性だった。ぼくはそのとき初めて自分にも姿があるのだということを思い出した。ぼくはその女性の目を通して自分を把握しようと努力したが、すぐそれも無駄なことだと感じた。それでもそれはしなくてはならないことだった。すでに見られてしまった以上、後の祭り的なものであるが、これから起こることもまた不確定性の闇のうちにあるはずだった。ぼくは、薄汚れたポロシャツにスラックスをはいていて、顔は髭が伸び放題でやせ細っているはずだった。ぼくがだから一人暮らしの若い女性だったら驚くに違いないのに、その女性はみじろぎもせずにぼくを見つめて、平然と、ちょうど招待していた客が時間には遅れたけれどやって来たのを見るように、ぼくに何かを問いかけるように見ていた。ぼくがまた何か云おうとしたとき、その女性はつっかけをはいて出て来て、ドアを閉めた。ぼくは階段を上がるべきかどうか考えたが、結論が出なかったので動けなかった。
 「どうしたんですか」
 いやに尋常な挨拶にぼくは意外の感に打たれた。勢い込んで用意の台詞を云った。
 「訳は云えないのです。ただ、その少しの間、匿っていただけないでしょうか。それから、よろしかったらあの、電車代を貸していただきたいのですが」
 「靴を、履いてないんですね」
 ぼくは表に出さずに激昂しかけた。履いてないからどうだって云うんだ。履いていないような蛮人には金は貸せないと云うのか。それともかわいそうだと云うのか。余計なお世話だ。この野郎。そこまで考えて、僕は自分がまた影に対して怒っていることに気づいて嫌になった。そこで、ぼくはただおとなしく頷くことにした。
 「待ってくださいね」
 その女性は再び家に入った。庭の緑が目に入った。まるで深いジャングルの中にいるように思われて来た。時間が経つにつれ、いままさに彼女は通報の電話をしているのではないかとの疑念が兆しては消えた。だがまた、そんなに手の込んだまねをする必要もないようにも思えた。
 ぼくは仕方なく階段を一段だけ昇った。それでもドアに近づいたとは到底云えなかった。やがてまたドアが開いた。その女性は手に真新しい靴を持っていた。革製のもので、安物には見えなかった。
 「どうぞ」
 ぼくは何とも云うことのできない感情を宿しながら、その靴を受け取り、履こうとした。しかし、サイズが合わなかった。その様子を神殿の巫女のようにじっと見ていたその女性はひどく悄気たような顔をした。すいませんと云うのも変だったが、何も云わないのも変だった。何処かまだこの世界に一度も現れたことのない言葉だけがこのとき適切な橋渡しとなり得たのかも知れなかった。しかしぼくはそれを見つけることができなかった。この世界にいま満ち満ちているどんな言葉もぼくには何処かずれた違う不適切なものに感じられた。
 ぼくは靴を返した。
 それから階段を一段降りた。その様子をその女性は見守っていた。その顔には特別な表情は浮かんでいなかった。ただ、ぼくの依頼はいまここでは場違いだということだけが確かに思われた。そしてもうぼく自身にそんな気はなくなってしまっていた。
 一つ、礼をして、去ろうとしてぼくは不意に、今となっては本当にどうしてそんな突飛なことを思いついたのかまったく分からないのだが、性急にその女性の下に戻ると、その手を額に押しいただいた。その女性は少し驚いたようだったが、それだけだった。
 それがぼくの生涯でただ一度の道化た仕草である。
 迷路を出ようとしたとき、四方から追っ手のサイレンが鳴り始めた。ぼくは残された時を計りながら靴の結び目を確かめて駅へと向かった。駅は何処からか現れたのか雑踏に溢れていた。
 列車が来たらぼくは無銭で飛び込んで運試しをするつもりだった。つまり、再び楽しくもなければ恰好よくもない、僕自身の活劇が始まるのだった。
 それからは述べるには及ぶまい。