煙の彼方に 


 彼らは日々を浪費し、ただ待つことしかしていない。

 伝説に依ると、世界は、地と海の果てに建つ優美な塔で三人の魔女たちが織り続けている、一枚の豪奢なつづれ織りなのだそうだ。そうしてその魔女たちの名は渇望、叡智、誘惑というのだという。そんなことを唐突に云いだしたかと思うと、完全な書物をいつか書いてみたいよ、読まれる度にすり減り失われていく不完全なにせものなんかではなくさ、と冗談混じりで伊丹が云ったのを聞いて由子は白けもしてくすぐったい気分にもなった。そのまえに何かの賞にでも送ってみればいいのよ。いっつも口ばっかりで呆れるわ。
 伊丹はいま必死になって昨日、友人の兄から渡された翻訳の原稿をワープロに打っている。ここ数日貧窮していたかれはつてを頼ってアルバイトを回して貰ったのだ。なんでも外国のまだ無名の作家の原稿らしい。都内の大学で英米文学の講師をしているその友人の兄は、ただ訳してくれといいすてただけで何も細かい事情を置いていかずにいってしまった。いったい何よ、世界そのものを織り込んだつづれ織りみたいな書物って、大菩薩峠みたいな大作でも書きたいわけ、と由子が反問すると伊丹は振り返りもせずに手を動かしながら違う、とだけこたえた。それをベッドからながめて由子はホテルの天井を見つめる。それからルームサービスで頼んだチーズをつまむ。勿論これも依頼者のお金だが、しかし考えてみればこれだけお金が潤沢な英語教師というのも不気味な存在ではあるよな、と由子はあらぬ方向に思考をはしらせる。
 窓際によって夜景を見ると、街の全景が海底の珊瑚のように浮かび上がる。このホテルの建っている市はすこしかわったところで、市の半分以上が米軍の基地になっていて、本州にありながらまるで植民地のような異国的な雰囲気をもっている。まわりは山に囲まれた台地で、空港はないから一本のJR線だけが外部との通路だ。ねえ、昨日云ってた法事って、実家にはいつ帰るの? わたしの予定もあるじゃない。振り返って聞くと伊丹は天使が踊るような軽快なキータッチでうち続けながら、ああ、来月だよ、まだまだ先。気にしなくていいよ。かあさんの二十周忌なんだけどさ、今年はなんでか親戚がいっぱいくるらしいんだよな。ふうん、それで挨拶とかするんだ? しばらく質問から答えのあいだに間が空いてキーの音だけが響き、それから漸く返辞があった。するよ。なんで? 由子はどう答えたらいいかと考える。ベッドに再び戻って、少女のように足をぶらぶらさせてみる。なんか、折り合い悪いみたいなこといってたから……ごめんね変なこと云って。ベッドの上に起き直ると彼女は今度は俯せになって、バッグをごそごそあさっていたかと思うと、そのまま横になった姿勢でマニキュアを塗り始めた。
 相変わらず伊丹はワープロを打っている。その音はうっとりと身を任してきいていると水の流れる音にも似ている。ときどき音がやむときには辞書を引いているのだ。ほら、こうして目をつぶっても何をしているか分かる、まるで音が暗闇のなかで彫刻みたいにモノクロームの映像になって再生されるみたい。近いのか遠いのか分からない。由子は目を閉じたまま、部屋のひろがりを直接感じとろうとした。音の広がりが、さざなみのように拡がって、壁にぶつかって跳ね返ってもういちど微妙なさざなみを立てる。ふっと目を開けて由子は水の匂いをかいだ気がした。
 なんで親戚がいっぱい来るのかしら? いってしまってからしまったかなと思ったが面倒くさかったので放置した。それを聞くと伊丹はぱたと手を休めて椅子をくるりとまわして向き直った。結局ききたいんじゃん。変な気を使わなくていいよ。それからポットからアイスコーヒーをついで飲み、ベッドまでチーズを取りに来て摘むとまた椅子にもどった。何でかなあ。やっぱ、葬式の時のこれなかった罪滅ぼしじゃないのかな。まあ、かあさん、あんまり体裁のいい死に方じゃなかったからねえ。ほら、田舍だから気にするんだよ。
 そう云うとまた伊丹は翻訳を再開した。カップをテーブルのうえ、ワープロの左に置く。その後ろ姿をすこうし伸びをして見遣ると由子はベッドから降りてスリッパを履いた。そしてホテル内だからといってやっぱりスリッパの方がいいかそれとも靴を履いたほうがいいかと迷ってやっぱり靴に履き替えることにした。彼女はこういう大きなホテルに来た経験があまりない。ヒールは面倒なんだけどなあ、と思って奇妙にほとんど絶望してから彼女はがんばって一瞬の抑鬱からはい上がり、財布をとって出てくるね、何か買ってこようか? と一言掛けたが、伊丹はとくに返辞もせずに右手を中途半端に挙げただけだ。
 オートロックの部屋を出ると、鍵があたりまえだがぱたんとかかる。変なはなし、由子はちょっと腹が立った。勿論伊丹にというよりもドアに対してである。ひとを締めだそうとでも云う底意があるとしか思えない。何か赤系の絨毯がしかれた廊下に出ると、ちょうどかなり遠い別の部屋からひとりの背の高い老人が出てくるのが見えた。この並んだドアの一つ一つに対応して人間がはいっていると思うと不思議なことだったが、その廊下は異様に静寂な空間で、この世の時間の支配の下にあるとは見えなかった。老人は正装と云うほどでもないがきちんとした恰好をしており、帽子をかぶっているのでサラリーマン風には見えない。遠いので表情などは見えないのだが、なぜかその顔には年月の刻んだものとは異質な陽気な絶望のようなものが浮かんでいる気がしてならなかった。ちょうど、老人の出てきた部屋に近い方に、エレベーターはある。由子は老人が近づいてくるのを感じながらそのすこし広くなった部分へと歩いていった。
 伊丹は訳している作家の文章のことをどう理解したものかさっきから実はとまどっていた。訳す以上、大意は分かっているつもりなのだが、いったい、こんな出来事をこの無名の作家はどんなつもりで書いたのか、そもそも現実に起きたことなのかフィクションなのか、エッセイなのか物語なのか、いわくいいがたい形でそれは見分けがたいものだったのだった。いや、書かれていることがわかりにくいというのではなかった。そうではなく、それを書くことによって意図された場所、その場所の映像がひどくかすれていて、しっかりと見定めることがひどく難しいのだという印象をかれに与えるのだった。……もしかすると時間というものは螺旋に似ているのかも知れない。もしそうだとすれば、かつてわたしが体験した出来事もまたいつか姿を変えて回帰する、そういう日のあることをわたしは予期してはならないだろうか。ニューヨークでわたしが経験した慌ただしい生活のなかで出会った不思議のことをアラビアンナイトの物語たちのように、わたしを(あるいは彼女の記憶を)延命させる手だてとして理解するのは間違った試みなのだろうか。ジーンとわたしとは南部のある商店主の夫婦のあいだでうまれたなかのよい双子だった。見た目だけでなく、仕草にまでもわたしたちは完璧なシンメトリーを要求された。いつも両親が寝てからジーンとわたしは鏡ごっこや入れ替わりを楽しんだものだ。やがてそれでもわたしたちは性別によって進路を分断され、彼女は州都のビジネススクールにすすみ、わたしはニューヨークの大学へと進んだ。しばらくしてわたしはジーンからとつぜん電話を受けたのだが、それはとにかくそっちに行くとだけの連絡で肝心なことはなにひとつ報せないままに切ってしまったのだった。そういえばジーンにはたしかにわたしと同様に、急に何かをはじめてしまい、自分でもその変化の急激さにしばらくたってから気がつくと云った性癖があった。しばらくしてボストン・バッグ一個でやってきたジーンはすぐにわたしを部屋の向かいにある本屋へと連れだし、そこでとりつかれたように書物を買い始めるとそれをどんどんわたしの手に積んでいった。つまり彼女は再会するやいなやわたしを荷物持ちとして採用したというわけなのだった。しかもそれらの書物はすべてよく見れば一つ残らず頭文字Dで始まるタイトルをもつという共通点があった。いったいどんな意味があるのか説明をもとめようとしている間も与えず、その夜から彼女はわたしの部屋に居座ってしまったのだった。次の日から彼女は朝から出かけ、どこかで一日中過ごしていたかと思うと、夜になって必ず泥だらけになって帰ってくるのだった。尋ねると、決まって彼女はこう答えた。宝探しよ、ジャック、わたしは考古学者になったの。だがニューヨークにそんな考古学的遺跡の発掘場所があるとは到底思えなかった。そして……そしてという文字を打ってから。やはりDという文字が気になって伊丹は傍らに置いておいた辞書をひどくせっかちにひきはじめた。Double(双子)、Dig(掘る)、Don Qixote(ドン・キホーテ)、Desert(砂漠)、Down、Disclaim(放棄)、Dawn(夜明け)、Daughter(娘)、どれもひどく意味ありげだったが、いかにもどれかを注に書くには作為が逆に内容を損なうのではないかと思われて伊丹はなぜかすこし不機嫌になって辞書を閉じた。だいいち考えてみればこれらの単語は内容を知っているかれが辞書から選び出したものだ、作為めいているのは当然だという気もした。残っていたコーヒーを飲み干して、伊丹は残りを打ち始めた。このあとジーンは奇妙な「儲け話」と黒人の女性の友人をジャックに紹介することになるのだが、かれにはどうしてもこの書物の挿話の意味が分からないのだった。結局、これら大量の書物は二度と言及すらされないのだ。いや、たしかに全く言及されないというのではない。かれらの部屋がジャックの痛ましい、しかしほとんど避けられなかった不注意によって燃えるシーンで、「舞い散るページたちが枯れ葉のようにうつくしくざわめき、しるされた文字たちは炎によってきざまれた烙印であるかのようだった」という一文でだけ触れられて始末をつけられるのだ。仕方ない、かれは考えるのをやめて、語句の意味にだけ集中することにした。川のようなキーの音はあいかわらず絶え間なく続いている。
 エレベータのなかで一緒になった老人の表情は予期したような陽気な絶望と、そしてこれは予期しなかった肉体のしめす失望へのはかない抵抗のあとがきざまれていた。時間とともに堆積していく失望たちはたしかに肉体の衰えに反映していくのだったが、それに生きようとする肉体の意志はまるでさらに物わかりの悪い頑固さのしるしのように、その衰えに抵抗をしめしているのだった。しかしそうした躰のうえにおこる失望と抵抗のしるしのうえに、あるいはあいだには、もっと決定的な、陽気な絶望と云うしかない何か軽快で、しかもつきはなし見るものがふっと我に返らずにはいられないような奇妙な静かさが走っているのだった。
 実は由子は部屋を出たとき、別段、行く宛てというか特に目的があったわけではなかった。なんとなくドラッグストアにでも行って、かるいおやつと雑誌でも冷やかしたあとに気が乗れば買ってもいいかというくらいの気持ちだったのである。しかしいま由子はこの老人のことがなぜか気になってならなかった。背はやはり高い。ヒールを履いた由子よりまだ頭一つ分高いのだ。一階につく前に彼女はおもわず事故のようにして声をかけた。声を聴いてみたいと思ったのだ。おひとりですか? 老人は、老樹がはなしたとしたらそうであろうというような、うつろな、しかし深い反響をふくみもった声で答えた。はい。じつは、もう五年もこのホテルにわたしは住んでいるんですよ。そういうと、老人は帽子をかるくあげて、古風なお辞儀をおどけてした。由子は老人の顔をまじまじと見てしまったが、ちょうどその時、エレベータがとまった。老人が、お降りにならないんですか? というまで彼女はそのことに気がつかなかったほどだった。
 老人は、妻を捜しているのだと云った。かれの妻は、いまから十八年前に、このホテルから失踪した。もし彼女が戻ってくるなら、このホテルだろう、かれはそういうのだった。たしかになかばとざされたこの市から、出ていないと云うこともあるかもしれない。しかし十八年という歳月、しかもホテルに住み続けるというのは、理解しやすいことではなかった。ほとんど黙って聞きながら、由子はこのひとは本当に奥さんがあらわれるということを期待しているのだろうかと疑わずにはいられなかった。もしかすると、逆に、もっともこのホテルこそが、かれが失った夫人に出逢わずに住む場所だったからこそ、かれは自己をここへ幽閉しているのではないかと、疑えば疑えたからである。二人でドリンクバーで座ったまま、その沈黙を吸い込んで、それから由子は別のことを尋ねた。
 それ、何ですか? 老人はポケットからふるびた手帳というには大きな、 A5ほどの大きさのノートを取りだしたからだった。その問いには答えずに、老人はべつのポケットから鉛筆も取り出すと、何ごとか描き始めた。それであなたは観光に来られたんですか? 由子はどう答えたものかと考えた。恋人につきあって缶詰になって、そのついでに観光もしてしまおうというのは、この老人に話すにはすこし軽薄で体裁が悪いような気がしたのだ。ええ、まあ、そんなところです。そうこたえると老人は、奇妙なことをかたりはじめた。
 ホテルにこうして何年も住んでいますとね、何となく世界とホテルというもののあいだに、ひとつひとつと似たところを見つけてしまうようになるものらしいのです。本当の世界とそれはサイクルは違いますが、何処からかやってきたひとたちが、やがてすこしづつこのホテルに馴染んでいって、もう充分とおもうすこしまえに、決まってみなどこか別の場所へと旅立ってしまいます。不思議な、使われていないような部屋に迷い込むこともありますし、間違えてわたされたキーがひどく気に入る部屋に引き合わせてくれたりもします。それに(そういうと老人はすこし微笑んだ)すべてを統括なさっているかたには滅多にお目にかかれないと云うのも、どこか似ていませんか。そんなことを年を取ったせいか考えるようになって、わたしは、出会った方々のことを記録に付けておぼえていようと考えるようになったのです。とはいっても調査みたいなことをしてもしようがないことですし、名前や素性が記憶にあたいすることだとはわたしには思えなかったのです。それで、わたしは宿泊された方々の衣服を記録していくことにいたしました。幸い、絵心はあるほうでしたし、うまさや美しさが目的ではありません。特徴が精確に分かればいいのですから。それで、よろしかったら、覚えに加えさせていただきたいのですが、よろしいですか? 最後はすこし心配そうに老人は聞いた。
 由子は正直いうとすこし気持ち悪いと感じたことを否定できなかった。衣服というものにはなにか独特のなまなましさというようなものがあった。目の前の老人が漂わせている雰囲気と、かれの言葉の内容のあいだの奇妙な隔たりは、瞬間、彼女をすこしだけ混乱させた。それから、彼女は面倒になって理性にたすけを求め、なにも問題などないという結論に飛びついてすこし居心地が悪そうにではあったが、ええ、いいですよ、といった。しばらく話してから、由子は老人に別れをつげ、当初の目的だったドラッグストアへと向かった。夜中なのでほとんど客はいなかったが、感心なことにというかさすがにというべきなのか、きちんとまだ営業していて、退屈そうに店員がなにか伝票にカウンターで記入していた。そこでやっと由子は伊丹のことを思い出した。そうだ、何か買っていくといいのかもしれない。じつは彼女はずっとかれの母親の死因がなんだったのか気になっていたのだが、そのこともふと意識にのぼった。
 店を出て、エレベータを探していると、携帯が鳴った。財布を入れていたポーチに一緒にはいっていたのだ。掛けてきたのは由子の妹だった。彼女は東京では彼女と同居していた。二歳下で、いま短大に通っている。なに? いま廊下なんだけど。妹の理子はしばらく躊躇ってからこんなことを話し始めた。
 おねえちゃん、また、おとうさん徘徊して遠藤さんとこにいっちゃったんだけど、明日、帰れない? ほら、おとうさん、いつも、連れ戻されるとき暴れるせいで、戻ってからしばらく寝込むじゃない。あたしも、明日、学校やすむけど、手足りるかどうかわかんないし。ね、お願い。
 彼女たち姉妹の父親はリストラ対象になる寸前に定年で退職したので生活には比較的こまっていなかったのだが、どういうわけかこの数年来痴呆が進行していた。それも、誰かと見間違うのか、近所の遠藤という家の老婆の寝室に真夜中に潜り込むことがあるのだ。最初は笑い話であったが、やがて度重なるとともにこれは苦労の多いしかもいっこうに心楽しいところのないルーチンワークの相貌を見せてきた。母のいない姉妹の家庭ではこの世話はかなり困難なものだった。
 真夜中、最近は街灯が夜を徹してともっていると云ってもひと気もなく気味の悪い住宅街の迷路のような道を、はだしで、浴衣一枚の老人が機敏とも言い難い動作でのろのろとすこし右足をひきずりながら(若いときにわるくしたのだ)歩いている。縦縞の浴衣の模様は見ようによってはテレビの囚人服めいてもいる。ひきずるような音がたえまなくつづく。やがて老人はある街角で自動的な動作で顔を上げる。そこには遠藤家の表札が出ている。その明かりの消えた建物を、老人は十五分ほど動こうともせず見上げている。そして、いつものことということもあってあけてある塀の裏口には見向きもせず、老人はひどい苦労して、塀にへばりつきはじめる。
 様子はどう? すぐは帰れないけどいい? 用事があるの。明日の午後にはそっちにつくようにする。でも本当につらいようなら朝出るけど。そういうと理子はしばらく考えて、分かった。午後ね。二時くらいまでには来て。もうさわいだり無理いったりはしないと思うんだけど、買い物とかひとりにして出られないから。
 電話をきって、由子はしばらく集中した真面目な顔つきで廊下の天井を見た。彼女の父はどちらかというと厳格なひとではなかった。若い頃からものわかりがよすぎるくらいで、そのくせ、テレビで政治が話題になったりすると、妙に怖じ気づいたような口調ながら、ひとこと云わずにはいられないようなところもあった。彼女たち姉妹はお話のなかの姉妹のようにとくに屈折もなく父親を愛していた。それは他愛ない姉妹の競い合いをひきおこすようなたぐいのものだったが、彼女たちの父親は奇妙なことに、そういう二人の様子をみるとむしろ複雑で嫌悪に近いような様子を見せた。不思議なくらい、恋人が娘たちにできると喜ぶというところもあった。いまやかれは若い頃の(とはいっても本当に父親の若い頃は、うまれたのがかなり遅い娘である二人は知らないのだったが)精悍な面影はなく、まるで空き家のような衰えを肉体と精神のあちこちに見せていた。姉妹は父親を世話しながらいつも、まるで自分たちはレズビアンの夫婦のようだと思うのだった。そういう空想のなかで、息子になった父親を世話しているときには、ものごとがはじめからそうであったかのような気がしてくるのだったが、それでもけっして父の見当違いな夜這いはやもうとしなかった。そもそも遠藤家の老婆はかれと一面識もないのであったし、おそらくは遠藤家に老婆が存命であったということは、確率の高い偶然にすぎなかったのだった。
 由子はきびすをかえして、伊丹の待っている部屋へとむけて歩き出した。

 伊丹は由子のことを手を休めて考えていた。彼女に出会ったのは去年のことだ。だから本当はたいしたことを知っているわけではない。ほうっておかれると淋しいくせに、必要以上に構われることにはつよい嫌悪を見せ、そのくせあまり実質的な意味のないところでなら、伊丹がいかにもいわゆる男らしいところを見せるのを喜ぶ。そんなことを知っていても、彼女のことを何か知っていることにはならないだろう。結局、今度の仕事をまわしてもらったのも彼女のほうからたぐっていった伝てだったのだし、貧窮してばかりのかれのことをどう見ているのか、いったい何をしたら彼女のなかで何が壊れるのか、そういった大事なことはなにひとつわからずにいた。かれはふたたびワープロを叩きはじめながら、翻訳をしているこの瞬間、彼女のことを考えずにいるというよりも、なんだか意識にのぼらせずに彼女のことばかり考えているから考えないのだという気がするな、と思っていた。どうしてだか、恋人のことをあれこれ考えるときの気持ちのざわめきと書くときのざわめきとは、似ていると云うよりは同じもののような気がするのだった。
 ノックの音がした。
 ドアをあけると、いたのは由子ではなかった。背の高い老人が、すこしびっくりしたように帽子をぬいで挨拶すると、お連れの方に、これを。じつは下で知り合ったのです。といって、一枚のカードをわたした。はあ。分かりました、と間抜けな返答をして、伊丹がなにか考えているうちに、もう老人はドアをしめて立ち去ってしまった。
 老人がもってきたカードはごく普通の翠色のつたの縁取りのあるグリーティングカードで、表には、かすれゆく記憶のために、と日付が達筆のペン字で書いてあり、ひっくりかえすと、何かの番号らしいものが書き付けてあった。伊丹はしばらく意図が分からずに困惑してしまった。
 どうにも気になって仕方がなく、かれはそのまま老人を追いかけようとして部屋を出ようとしたのだが、由子のことを考えて躊躇った。しかしとにかく、すぐに戻ってくることにして廊下へ出たのだった。どうにも気になってしようがなかったのだ。廊下ではもうかなり遠くに老人の姿は去っていた。老人はエレベータ・ホールで階段のほうへ歩いていくらしかった。ドアを閉めると、鍵のかかる音がした。カードを右手に握ったまま、伊丹はせっかちに歩き出した。
 残された誰もいない部屋のワープロの画面にはさっきまでかれが書いていた翻訳のストーリーが映し出されている。ドアが閉じられると灯りは消え、まっ暗ななかに映画のように液晶のひかりがぼうっと深海魚の水槽のようにかがやく。空調の音が耳を澄ませば聞こえただろう。物語はもはや後半にはいっており、すでにジーンは死んでいる。ひとつひとつの文字が壁に投射されてすこしゆがみ、影絵のようにうつくしい。物語のなかではジーンは不在でもその存在の痕跡はのこされたひとびとのあいだに、はっきりと刻印を残している。人々はちょっとした綴りや、状況、小物などに触発されて、彼女の、言葉や、些細なしぐさを思い出す。まるでそうしたささいな仕草だけが彼女の残したすべてでもあるように。ジャックは彼女の痕跡をたどり始め、なぜ彼女がかれのもとにやってきたのか、幻想の考古学者として実際にはいったい何をしていたのかを探し始める。
 かれはジーンの通っていたビジネス・スクールの近くにある、もう使われなくなったプールの廃墟にたどり着き、その形がDだということに気が付くが、それを解読することはできない。エリナーは彼女についてはひたすらに沈黙を守り、去ってしまう。ジャックは彼女のことを書き残そうとしていた原稿をいったん破棄して、ヨーロッパに旅立とうとするが、そのとき、エリナーから手紙がとどく。・・・・・・そして夢のうちにあってなお夢よりも幻のような繊細な手つきで、エリナーはジーンが少女のころに愛した男のことを探していたのだとわたしに告げたのだった。わたしは双子の鏡の夢を破られて、なすこともなくおののいていた。奪われた時間のたえがたい柔らかさが、踊った。
  
 戻ってきた由子は、カギのかかったドアを前にして、はじめ当惑し、それから理不尽な怒りの発作にとらわれた。しかし、ドアを蹴ったところでどうしようもないことはわかっていた。しかしドアの前で待っているということがいかに馬鹿げて見えるかは考えてみるまでもなかった。静かな、異様な沈黙に支配された廊下の古風な雰囲気の中で、彼女はビニール袋のなかの買ってきたアイスクリームを片手に、途方にくれ、馬鹿げていて大げさだとは思いながら、悲痛な感情が湧いてくるのを抑えられなかった。ドアがあかないということはきっかけにすぎなかったし、伊丹の悪意を感じているわけでもなかった。ただ、こんなふうな些細な、しかしどうしようもない行き違いを繰り返して日々が過ぎるということに、つよい痛みを覚えたのだった。悲痛な出来事がひとつとしてそれに見合うだけの壮麗な見た目をもたず、卑近な行き違いでしかない姿をまとって、関節に入る砂のように痛みを招く。彼女はドアの前に座り込んでしまった。彼女は、何かを自分が待ち望んでいるのだということに気がついていない。

 老人を見失って、伊丹は階段の踊場でもう一度、カードを見た。裏側に書いてある数字は、なにかの番号だろう。そう考えて、かれはとっさに駅のロッカーのことを考えた。しかし、いまは確かめることはできない。かれは自分がなぜ老人のことでこんなに胸騒ぎがするのかかんがえたが、それはおそらく、老人にはどこか死の影が見えたからだった。それは自身の死であるかもしれなかったし、他者の死であるかもしれなかった。はっきりとは分からなかったが、伊丹は老人を見たときに奇妙な気分におそわれずにはいられなかったのだった。それはたしかに、由子のことが不安であったということもあるのだが、それだけではなく、この突然の訪問者の意図を知ることで何かが解決するとかれは一瞬にして盲目的に信じたのだとでもいうようだった。だがそれらすべてはひとつの観念的な恣意のひらめき、いなびかりのように輝く妄想の旋律、伊丹は考えることをドラマのように経験した。
 そうだ、かれはなぜこんなにも老人の存在にほとんど会話さえしていないのに異様さを感じたのかといえばそれはただ、無意識のうちにではあったが、かれが老人の手に何か白いものが握られているのを見たからではなかったか。それはひものようでもあったが、そうだ、映像はほとんどあとおいで、そのときには見ていなかったが見えていたものが再生される、あたかも苦痛に染められて抑圧した記憶のように、しかもそのひものようなものは濡れていたのだった。そして身体の記憶はほとんどまざまざと生き直されるかのようであり、そのようにして、ふっとかぐわしく漂ったのは、かすかな、めまいを呼ぶ、ガソリンの香り。……由子はいま、ぼんやりと考えている。老人の妻はどこにいるのかと。もしも老人がこれだけの時間、本気で探してきたというのなら、手がかりくらいは見つかっているのではないだろうか。もしかしたら、老人はもっとべつなことのためにこのホテルにいるのではないだろうか。それはひとつのイメージだった。部屋の中の、小さな、時を経て、腐食すら洗い流された、うつくしくも、異様な、死骸。そのイメージは奇妙なことに、花で覆われていた。彼女はそれが期待であるのか予感であるのか、欲望なのか恐れなのか判別することができなかった。……伊丹は階段をのぼってひとつ上の階にたどりついた。廊下はあいかわらず静かだった。かれはしばらくあたりを見回して、すでに当てがないにもかかわらず探索を止められないのは不安のためだと悟った。もちろん、そんなさなかにも自分の行為がどこかで大げさで、お遊びで、ただ不審な無意味なことだと考えてもいる。老人にかれがかかわる理由などほとんどないし、心配に合理的な根拠がさしてあるわけでもない。そして、かれの記憶は、あせりの中でゆるやかに少年期へと遡行していく。
 母の名は少年の記憶の中では検閲を受けたかのように消されている。普段、その記憶とかかわりのないところではごく普通に思い出すことのできるその名がなぜか思い出せない。母は少年のまえに中腰になって何か話している。夕食の匂いがあたりに漂い、いかにも日常めいた情景をかたちづくる。すべては一連の流れの中の通常の過程のひとつのように見える。しかし中腰になった母はそのまま話しつづけ、決してつぎのシーンへと進むことを許さない。母の視線はかれを見ているようでいながら、まるでかれの未来をみつめているかのようだ。年老いたかれ、青年のかれ、それらすべての顔という顔を見つめ、そのかなたのまなざしへと母は視線をあわせているかのようだ。
 母は語りつづける。少年はその言葉をききながら、やがてその言葉がかれに裏切りという言葉への執着を生み出すということを知らない。裏切りそのものへの愛憎が、かれの漂うような現在を構成し始める。かれは裏切りを愛し憎むあまり、親しさを恐れるようになっていた。破られる契約よりも、契約などないほうがいい。それは裏切りへの自分のなかの傾向を恐れたからでもあった。伊丹の母は、わずかな金銭にひきかえに、彼女の姉のもとに逃げ込んでいた当時のいわゆる活動家の学生を売ったのだった。それは言葉にすれば驚くほど通俗的な行為だったが、なぜか伊丹の記憶の中の母はそのようなものとして彼に語ってはいない。だがかれの母がひとつの禁忌のようなものとして認識されたのは、裏切りよりもむしろ、それから数日後に自殺したという事実によっていた。
 奇妙なことにかれがおぼえている母の言葉は弁解や正当化や理由についての言葉ではない。彼女はひたすら、その土地の自然について語ったのだった。いかに彼女がその自然を愛し、その自然の中でひとを愛し、別れたかを倦むことなく彼女は語った。しかしもしかするとそこには彼女の脱出の願望が込められていたのかもしれない。
 廊下の突き当たりの広くなった場所には応接セットがおいてあり、そこには大きな窓が取り付けてあった。かれはそこから再び街を見下ろした。夜はまだ通り過ぎてはいない。点滅するサーチライトのような明かりがどこかで回転して、街にながいかげを投げかけている。まるで海底や水槽のような街は何かに耐えているかのようだ。伊丹は急にばからしくなって部屋に戻ることにした。いづれにせよ、日々はこうして続いていくのだ。
 「あの、怒ってるんだけど」
 伊丹が振り向くと、突然あらわれた由子が、にっこりと笑ってそういった。

 朝になって、二人は老人の姿がやはり見えないことを知った。
 昼間、駅について、ロッカーをさがすとそのロッカーはかぎがかかっておらず、中には何枚かのふるいノートのきれっぱしがつめこまれていた。それはまた確かに老人の印象と異なってあまりにも乱雑であり、二人はぎくりとした顔を見合わせた。駅にくるまでに、由子は知り合いにあうのだといって、どこかにいっていた。伊丹は行く先を聞かなかった。
 由子が電車に乗るのを見届けると、伊丹はその文書を持って街の中心部にある公園をめざした。公園には何人も親子がいた。それらを横目にして、伊丹は文書の束を地面におき、ライターを取り出して、ひどく退屈そうな顔で火を放った。舞い散るページたちが枯れ葉のようにうつくしくざわめき、しるされた文字たちは炎によってきざまれた烙印であるかのようだった。若い母親たちはとっさに彼のほうをながめ、不気味なものをみたかのように、無意識に子供たちを抱き寄せた。煙は空にあがっていった。かれは、もうひとつの原稿、自分の原稿のことを考えた。朝一番で郵送した翻訳はいま、どのあたりを運ばれているのだろう。かれはあの原稿のことをなぜか考えるのが苦痛だということに気がつき、できることならいまここで燃やしてしまえたらと思った。